本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った本願寺の守護者、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官として繁栄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
下間 頼廉
1537年 〜 1626年
80点※
家系・子孫
- 下間氏は、浄土真宗草創期から本願寺に仕えた最古参で僧侶ながら係累を拡げ一族で坊官(執政)職を独占した。以仁王の令旨を携え平清盛打倒を呼掛けた源三位頼政の子孫を称し(清和源氏)、源頼茂(頼政の孫)が鎌倉幕府に反逆し滅ぼされたとき親鸞の取成しで処刑を免れた源宗重(同玄孫)が出家して弟子となり、親鸞に従い常陸下妻に仮寓した際「下妻」を名乗ったのが「下間」へ転じたのだという。戦国時代には軍権を担って各地の一向一揆を指揮し、下間頼廉は石山合戦で武名を馳せたが顕如の石山本願寺退去後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った。徳川家康・本多正信の謀略で本願寺が東西に分裂すると頼廉は後継三男の下間仲玄と共に一貫して准如(顕如三男)の西本願寺を支持したが(刑部卿家)、孫(長男頼亮の後嗣)の下間頼良は教如(顕如長男)の東本願寺に仕えた。下間頼総は加賀一向一揆を率いたが失脚、弟の下間頼芸が西本願寺に仕えたが(宮内卿家)一門で顕如側近の下間頼龍は教如に属した。政治や文化に通じた頼龍は池田恒興の養女(実父は織田信長の弟信時)を娶り、娘を大久保長安らに縁付けた。嫡子の下間頼広(池田重利)は教如と折合いが悪く頼龍没後出奔して叔父の池田輝政(徳川家康の次女督姫を継室に迎え備前岡山藩28万石・因幡鳥取藩32万石を開く)に仕え摂津尼崎藩1万石の大名となった(のち播磨新宮藩1万石へ転封)。下間頼照は、越前一向一揆の指揮官に抜擢されたが与力の七里頼周と共に暴政を敷いたため国人衆の反発を招き織田信長に攻められ一揆は瓦解、嫡子の下間頼俊は戦死し、後を継いだ下間仲孝は西本願寺に仕えた(少進家)。なお下間氏以外の本願寺重臣には、蓮淳(蓮如の六男)の孫で長島一向一揆を指揮した願証寺証恵と後嗣の証意・顕忍、蓮如の孫で三河一向一揆を率いた本證寺空誓、越中一向一揆の勝興寺顕章・瑞泉寺顕秀、青侍から顕如に抜擢された七里頼周などがいるが、並の大名家を凌ぐ繁殖力は驚異的で今日に至る教団発展の原動力というべきか。頼廉の刑部卿家・頼芸の宮内卿家・仲孝の少進家は西本願寺坊官を世襲し門首の大谷家と共に栄華を誇った。
下間頼廉と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照