田中角栄の支持と従米外交で1806日の長期政権を築いた「政界の風見鶏」、「防衛協力」でレーガン米大統領に寵愛されたが対日経済制裁とプラザ合意を呑まされた「バブル経済」「失われた10年」の元凶
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
中曽根 康弘
1918年 〜 年
0点※
家系・子孫
- 中曽根家は群馬県高崎市末広町の材木商で県下でも有数の素封家で、中曽根康弘は4人兄弟の次男である。弟の中曽根良介は第二次大戦で戦死したが、1985年中曽根康弘首相は靖国神社公式参拝の名分に使っている。高崎市を含む旧群馬3区は日本屈指の激戦区で、首相経験者の福田赳夫・中曽根康弘・小渕恵三に社会党書記長の山口鶴男も交え熾烈な「上州戦争」を繰広げた。中曽根康弘は首相在任中の1983年と1986年の衆院選で、当選はしたが元首相の福田赳夫にトップ当選をさらわれている(現職首相では戦後初めて)。中曽根康弘は妻蔦子との間に一男二女を生した。長男の中曽根弘文は、父の秘書を経て参議院議員(商工族)となり小渕恵三内閣に文相兼科学技術庁長官で初入閣、麻生太郎内閣で蔵相を務めた。中曽根康弘は長男の中曽根康隆を秘書としており、後を継がせるものとみられる。
中曽根康弘と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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