日亜化学工業で「ツーフローMOCVD」「窒化ガリウム製膜法」を発明し青色LED・青色半導体レーザーの工業製品化でノーベル物理学賞を獲得、古巣に特許紛争を仕掛け米国に帰化した「研究の鬼」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
中村 修二
1954年 〜 年
70点※
家系・子孫
- 中村修二は、四国電力のエンジニア中村友吉の三男一女の次男として愛媛県西宇和郡四ツ浜村(現伊方町)に生れた(同地には伊方原発があるが着工は中村修二誕生の20年後)。一家は大洲市へ転居し、中村修二は公立の大洲北中学校・大洲高等学校で6年間バレーボールに打込み、数学が得意で徳島大学工学部電子工学科へ進学した。中村修二の兄弟はみな理系大学へ進み、長兄の中村康則は医療用3Dのエフ・エー・システム・エンジニアリングを起業している(松山市)。さて中村修二は、教養科目を無意味とボイコットし友達と絶交し下宿に閉じ籠る奇行もあったが、多田修教授の薫陶で材料化学に目覚め優秀な成績で徳島大学を卒業、京大大学院に落ちて多田研究室に留まり実験装置を手作りする研究スタイルを身に付け電気溶接や旋盤作業も経験した。中村修二は学園祭のダンスパーティで知合った裕子夫人と大学院1年生で結婚し、翌年長女をもうけている(あわせて三女)。修士課程をトップで修了した中村修二は妻子を養うべく民間企業へ進み、稲盛和夫の面接で京セラの内定を得たが(松下電器産業は落選)徳島県で保母をしていた裕子夫人を優先し地元の日亜化学工業に入社した。「研究の鬼」中村修二は創業社長小川信雄の庇護のもと世界で初めて青色LEDの工業製品化に成功したが、ケチな日亜化学工業に特許訴訟を仕掛けて日本を飛出し、カリフォルニア大学サンタバーバラ校 (UCSB) 教授に招かれアメリカ人としてノーベル物理学賞を受賞した(本人は二重国籍を主張)。中村修二の後年の家族関係は不明だが、裕子夫人と離婚して米国で出会った歳若の日本人妻と再婚し2人の連子と共に暮らしているらしい。中村修二は「日本の司法は腐っている」と捨て台詞を残し、ノーベル賞候補に挙がると共同受賞者の赤崎勇と衝突、受賞挨拶で「研究の原動力は怒り」と述べ「メダルの感触は」との問に「別に。ただの金属です」と名解答、完全にコワモテの印象が定着したが実際は合理的過ぎるだけで温厚で優しい人柄だという。
中村修二と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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