勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
丸目 長恵(蔵人)
1540年 〜 1629年
70点※
家系・子孫
- 相良氏は、遠江相良荘に住した工藤周頼(藤原南家)に始まり、相良頼景は源頼朝に従わず肥後へ追放されるが帰順して肥後多良木荘(球磨)の地頭に任官、相良長続が肥後守護菊池氏に属して球磨・八代・葦北の領有を認められた。相良義滋・晴広の代に同族の上村・犬童・深水・丸目氏らを束ね肥後人吉城に拠って戦国大名化し、菊池義武(大友宗麟の叔父)を隈本城に迎え豊後大友氏からの独立を図るが立花道雪に阻まれた。晴広嫡子の相良義陽は、西原氏から薩摩大口城を奪取し島津貴久に対抗するが、重臣の上村頼孝・菱刈重任を誅殺したため相良家は弱体化、丸目長恵の勇み足で島津家久に大口城を奪回され、日向の伊東義祐(親戚)・大隅肝付氏が島津領へ侵攻すると援軍を出すが奇計に嵌って逃げ帰り友軍は島津義弘に惨敗(九州の桶狭間・木崎原の戦い)、1581年耳川の戦いで大友宗麟を撃破した島津義久に攻められ次男頼房を人質に差出し降伏、阿蘇氏攻伐を命じられた相良義陽は宇城響野原で親友の甲斐宗運と戦い討死した(響野原の戦い)。犬童頼安・深水長智は次男の相良頼房を当主に担ぎ島津氏の九州平定戦に従うが1587年豊臣秀吉の九州征伐に降参、肥後国人一揆で佐々成政に呼応し島津軍と抗戦するが処罰を免れた。相良頼房は、加藤清正旗下で朝鮮役に出征するが国許で抗争が起り犬童頼安・頼兄を帰国させ竹下監物と深水一党73名を誅殺、深水頼蔵は清正を通じて秀吉に惣無事令違反を訴えるが石田三成が犬童を庇いお咎め無し、頼房は蔚山城合戦の武功を賞され豊臣姓を賜った。関ヶ原の戦いで相良頼房は西軍に属し美濃大垣城に詰めるが井伊直政に調略され秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯らを謀殺、徳川家康に本領を安堵され肥後人吉藩2万石を立藩し幕末まで存続した(秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石)。相良氏庶流の丸目蔵人長恵は、大口城敗戦の罪で致仕となったが17年後に赦され兵法指南役(117石)で帰参、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に広がった。長恵には権内・半十郎の二児があったが共に早世し(謀殺説あり)娘婿の八左衛門が丸目家を継いだ。
丸目長恵(蔵人)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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