吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で長州藩尊攘派のエース、松蔭の「草莽崛起論」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門の変で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥る
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久坂 玄瑞
1840年 〜 1864年
80点※
家系・子孫
- 久坂良悦は、長州阿武郡徳佐の出身で道三流漢方を修め、長州藩寄組の児玉三郎右衛門のお抱え医師から長州藩の藩医となり久坂の名乗りを許された。養嗣子の久坂良迪は、長州藩主毛利敬親や世子毛利定広の侍医を勤め家禄25石を与えられた。良迪長子の久坂玄機は、27歳のとき大坂へ出て緒方洪庵の適塾に入門し翌年には塾頭となり(後任の塾頭は大村益次郎)、長州藩に召還され医学所好生堂の都講に迎えられた。海外情勢に明るい玄瑞は海防の急務を憂える志士であったが惜しくも34歳で病没し、久坂家は20歳年少の弟玄瑞が継いだ。久坂玄瑞は、吉田松陰の末妹である杉文を娶ったが子を生さず、京都島原桔梗屋の遊女ひろ(同店のタツとも)と馴染みとなり久坂の死から20日後に遺児の修次郎が誕生した。杉文は、安倍晋三首相の選挙区出身故か、新島八重の二番煎じか分らないが、何故かNHK大河ドラマでヒロインに抜擢され一躍脚光を浴びた。文は母と共に松下村塾生の世話を焼いたようだが、ひどい不器量で貰い手が無く、縁談を持掛けられた久坂玄瑞は恐れをなすも先輩志士(佐久間象山だったと思うが失念)に戒められ悔悟して文を娶ったという。久坂玄瑞の没後、未亡人の文は長州藩世子毛利定広の嫡子興丸(毛利元昭)の守役に選ばれ、姉の杉寿の死に伴い後添えとして楫取素彦と結婚、長州閥に連なる楫取は男爵・貴族院議員に出世したが、文は子を生さなかった。久坂修次郎の消息はよく分からないが、生母が他家へ嫁いだため生母の実家である大谷家で養育されたが、長州藩に玄瑞の子と認知され楫取素彦・文の庇護のもと久坂家を継ぎ、長州系財閥の大倉喜八郎に仕えたという説がある。
久坂玄瑞と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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