バブル崩壊後の「失われた20年」にM&Aを軸とする先駆的中国進出と欧米市場開拓で奇跡的成長を遂げ「田舎企業ダイキン」をエアコン世界一に押上げたサラリーマン社長随一の偉材
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
井上 礼之
1935年 〜 年
70点※
井上礼之と関連人物のエピソード
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 冷戦終結が確実になると、米国・軍産複合体は、ゴルバチョフが語ったように「新しい敵を探さなければならない」事態となった。そしてこの1991年、シカゴ外交評議会が行った「米国にとっての死活的脅威はなにか」という世論調査で「日本の経済力」が「ソ連の軍事力」を大きく上回って断トツ1位という結果となった(一般人:日本の経済力60%・中国の大国化40%・ソ連の軍事力33%・欧州の経済力30%、指導者層:63%・16%・20%・42%)。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
- 「年次改革要望書」「金融ビッグバン」「小泉構造改革」と続いた規制緩和ブームの実態は米国の強引な内政干渉であったが、非効率な官営事業・規制産業の合理化というメリットも大きく、金融・不動産の分野で大蔵規制の牙城を崩した宮内義彦・オリックスの功績は大きい。新聞再販・球界再編で宮内義彦と衝突した渡邊恒雄は「宮内ごときと大巨人が日本シリーズで対決?穢れる。不愉快。オリックスはまともな正業ではない」と放言したが、規制利権の権化の怒りは「規制改革の旗手」の面目躍如だろう。とはいえ、宮内義彦は公職の「規制改革審議会」議長を10余年も務めた「歴代内閣の指南役」でありながら「改革利権」を貪りオリックスは最大受益者となった。しかし小泉内閣退陣の2006年から宮内義彦は因果応報に襲われ、子分の村上世彰がライブドア事件に絡むインサイダー取引で逮捕され盟友の福井俊彦日銀総裁への利益供与も発覚した。「村上ファンド」はオリックス傘下に発足し私募投信解禁後M&Aの尖兵となったが、宮内義彦はニッポン放送買収劇で有頂天の村上世彰を見限り資金と人材を引上げた。巨額のニッポン放送株式を抱え進退極まった村上世彰は、ライブドアの堀江貴文をカモに売抜け150億円の売却益を獲得したが、やり過ぎてお縄となった。宮内義彦は公職辞任で説明責任を逃れたが、2009年鳩山邦夫総務相が「かんぽの宿」70施設のオリックス不動産への不正入札(2400億円→109億円)を暴露、盟友の西川善文日本郵政社長が糾弾され久々の改革利権は画餅に帰した。鳩山邦夫は「『かんぽの宿』疑惑は、単なる入札疑惑ではない。『小泉・竹中構造改革』が日本を米国金融資本に売り渡した疑惑だ」と喝破し、中立の野中広務まで「郵政民営化の利権に群がるハゲタカがらみの疑惑は西川(善文)から遡って、生田(正治)氏時代からの神戸人脈を解明しなければならない」と宮内義彦追及の烽火をあげた。翌年日経新聞が「ゆうちょ銀行が米国債を大量購入していた事実」をスクープ、「売国奴」疑惑は図星となり小泉構造改革は地に落ちたが、巨悪の小泉純一郎・竹中平蔵・宮内義彦に司直の手は及ばない。
- 宮内義彦は、貿易商の父に英語を仕込まれ、関西学院大学を出てワシントン大学でMBAを取得したが大手商社には入れなかった。ニチメンに入社した宮内義彦は、英語堪能ゆえに米国USリーシングへ研修に出され1964年「オリエント・リース」設立に伴い出向、創業者乾恒雄の腹心としてニチメン・三和銀行からの「独立戦争」に勝利し、1980年45歳で3代目社長を譲られ1989年「オリックス」への改称を機に独裁権を握った。乾恒雄のオリエント・リースは、自力営業でOA機器リース市場を開拓し、銀行が敬遠するパチンコとラブホテルを上得意にノンバンク最大手へ成長、リース・融資・生命保険を組合せた「クロス販売」で高収益を確立した。跡を継いだ宮内義彦はバブルに踊らず不動産融資の担保掛目7割を堅持し深手を免れたが、地価反転期を見誤って不動産買叩きに乗出し大損害を蒙った。1995年オリックスは3期連続減益に陥り宮内義彦は不動産部門を縮小したが、米国の構造改革圧力に触れ「規制緩和は戦後最大のビジネスチャンス」と矛先転換、1996年橋本内閣が「年次改革要望書」で「金融ビッグバン」を受入れると「規制改革審議会」議長に就任し2006年の小泉内閣退陣まで「規制改革の旗手」を務めた。宮内義彦は外圧を背景に大蔵規制破壊を主導し、適債基準撤廃で直接金融へシフトし資金力を高めたオリックスは銀行・生保・証券業の垣根を破りM&Aに邁進、不良債権バルクセールや日債銀買収で暴利を貪り「日本版リート」も創設し急成長を遂げた。小泉純一郎の従米政権で宮内義彦は竹中平蔵と両輪を為し「聖域なき構造改革」を牽引、金融・不動産で「改革利権」を満喫したオリックスは最大受益者となり、子分の村上世彰を尖兵にM&Aに狂奔、農業・病院の株式会社化を試行しエネルギー事業へも手を拡げた(盟友エンロンの破綻で頓挫)。しかし小泉劇場と共に新自由主義ブームも終焉、「日本のリーマンブラザーズ」オリックスはリーマンショックに直撃され、「村上ファンド」「かんぽの宿」でメッキが剥れた宮内義彦は逮捕を噂されるなか2014年「功労金」44億円をもらい取締役とCEOを退任した。
- 「Japan as Number One」と持て囃された日本式経営はバブル崩壊で失墜し、高度経済成長を象徴するソニーや松下電器産業も長引く円高不況で没落、「グローバリズム」「新自由主義」の美名のもと世界は米国覇権主義に染められた。政治経済の米国化と規制緩和の大波は日本にも押寄せ、小泉純一郎の従米政権のもと「改革利権」で肥大化した宮内義彦のオリックスや、堀江貴文のライブドアら怪しいベンチャー成金が台頭する事態となった。孫正義の「ソフトバンク」もM&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」で膨張し、規制緩和に乗じ巨大通信企業にのし上がったが、徒手空拳の創業から30余年でトヨタ自動車に次ぐ株式時価総額10兆円に到達した偉業は「日本史上最高の経営者」の名に値する。さらに孫正義は、米国企業家の模倣者でも単なる友人でもなく数少ないリーダーの一人であり、ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)、ジェリー・ヤンおよびビッド・ファイロ(ヤフー創業者)、エリック・シュミット(グーグルCEO)、ルパート・マードック(豪メディア王)、マーク・アンドリーセン(ネットスケープ創業者)、ラリー・エリソン(オラクル創業者)、ジャック・マー(アリババ創業者)らと対等の交友関係を築いており、時価総額10兆円が安く思えるほどの人脈を誇る。松下幸之助や本田宗一郎など「ものづくり」で世界の賞賛を浴びた日本人経営者はいたが、「アメリカ人社会」やサービス分野では明らかに孫正義が先駆者であり現時点では日本人唯一の国際的企業家であろう。
- 孫正義は、佐賀県鳥栖市で密造酒・家内養豚を営む貧しい在日朝鮮人家庭に生れ過酷な幼少期を送ったが、父の安本(孫)三憲がサラ金とパチンコ経営で財を成し高等教育を施された。孫正義は名門久留米大附設高校へ進んだが在日差別に生存を脅かされ単身渡米、名門カリフォルニア大学バークレー校で猛勉強に励みつつ、自動翻訳機の製作や中古インベーダーゲーム機の輸入販売など起業活動に励んだ。卒業した孫正義は翌1981年東京に「日本ソフトバンク」を設立、パチンコ店の全国展開に挫折し重度の慢性肝炎で死線を彷徨ったが闘病3年で奇跡的に蘇生し、ハドソンとの契約やラオックスの売場確保でPCソフト市場を独占、「一太郎」の取扱いや自作のLCR「NCC-BOX」で業績を伸ばし、「ソフトバンク」への改称を機に日本に帰化した。1994年ソフトバンクの株式上場で資金力を得た孫正義は、神業的目利きと米国IT人脈を武器に、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」を始動した。1995年友人ジェリー・ヤンの「Yahoo!」起業に際し孫正義は社運を賭けて主要株主となり合弁で「Yahoo! JAPAN」(ヤフー株式会社)設立、両社とも僅か1年で株式上場を果し株価急騰で「ITバブル」の寵児となった。膨大な軍資金を掴んだ孫正義はソフトバンクを持株会社化し、小泉純一郎の米国化政策に乗りM&Aと子会社上場(北尾吉孝の「SBI」・弟孫泰蔵の「ガンホー」など)に邁進、テレビ朝日買収未遂で名を馳せ、自ら証券取引所「ナスダック・ジャパン」創設、日債銀買収で得た巨利を「ソフトバンクBB」に投じ、ダイエー球団を買収し「福岡ソフトバンクホークス」のオーナーとなった。規制緩和に乗じ「日本テレコム」「ボーダフォン」を買収した孫正義は情報通信を本業に定め「光の道」構想に邁進、2013年米国「スプリント」の買収で携帯キャリア世界3位へ躍進した。2014年中国「アリババ」の超大型上場で筆頭株主のソフトバンクはトヨタ自動車に次ぐ時価総額10億円を達成、日本一の大富豪となった孫正義は「メディア支配」を睨みつつ、東日本大震災を機に反原発・自然再生エネルギー事業の商機を窺う。
- 稲葉清右衛門は、東大工学部から富士通に入社し東工大で工学博士号を取得、MITが開発したNC(数値制御装置)の商品化に成功し、1972年計算制御部を分社化し「富士通ファナック」を設立した。FA化の流れに乗ったファナックは忽ち業績を伸ばし、専務から2代目社長へ昇格した稲葉清右衛門はシーメンスやGEと提携して全世界へ販路を拡げ産業用ロボットにも進出、1976年株式上場を果した。工作機械制御の基幹であるサーボモーターとCNCを一体販売し、NCプログラミングでGコードのデファクトを押えたことが強みとなった。稲葉清右衛門は1972年から1997年まで富士通の非常勤役員を兼任しつつ「ファナック」へ社名を改め富士通の持株比率を徐々に減らし独裁権を確立、バブル期の財テクに手を出さず、逆に東京から富士山麓へ本拠を移し技術開発に専念した。工作機械用NCで世界シェア5割・多関節ロボットで2割を押えたファナックは海外売上高8割の国際企業となったが、技術流出と組織力分散を懸念する稲葉清右衛門は国内生産にこだわり、生産体制の集約とFA化で圧倒的な競争力と利益率を達成、主要輸出先の中韓取引では円建て決済を呑ませ為替リスクも排除した。円高不況で日本の製造業が低迷するなか、FA産業は不況知らずでファナックも右肩上りの成長を継続、さらに稲葉清右衛門の国内生産主義は日本の財政と雇用に多大な貢献を果した。稲葉清右衛門は合理的な辣腕経営者だが奇人の一面もあり、商品・建物・社有車から作業着・箸袋まで全ファナックを「会社カラー」の黄色で染め、また極度のIR嫌いで日本語版HPを半年間閉鎖する騒動も起している。功成った稲葉清右衛門は権勢欲と名誉欲の権化となりファナックを私物化、HPの社史を皇室や海外VIPの来訪と叙勲歴で埋尽し、社長経験者の野澤量一郎・小山成昭を追払い長男の稲葉善治を社長に擁立した。相談役名誉会長を名乗りつつ絶対君主を続ける稲葉清右衛門は、2013年長男以外の重役を降格させる「懲罰人事」を断行し35歳の稲葉清典(善治の長男)を取締役に就け世襲路線を顕示したが、重役陣の謀反が起りファナック全役職を電撃解任された。
- 滝崎武光は「世界初連発」の企画開発力と値引禁止の猛烈ノルマ営業で超優良企業「キーエンス」を築いた究極の営業マンである。滝崎武光の前半生は謎で家族も来歴も不詳、尼崎工業高校を卒業し2度の起業と倒産を経て1974年29歳で「リード電機」を創業した。売れる商材を求める滝崎武光はFA化の潮流に商機を見出し、高給で技術者を集め各種FAセンサーを軸に計測機器・情報機器・顕微鏡など高付加価値製品群の自社開発に成功、1986年キーエンスへ改称し翌年株式上場を果した。円高不況・バブル崩壊下もFA産業が活況を呈すなか、キーエンスは周辺機器ながらNC制御装置のファナックと双璧を為す中核企業へ躍進、原動力は「世界初」に拘る新製品開発とそれをフックにした顧客開拓、粗利益率ノルマと分単位の行動監視で研ぎ澄まされた営業部隊にあった。また滝崎武光は「ファブレス経営」を掲げ生産外注で研究開発に特化、設備負担の軽いキーエンスは真の「無借金経営」を実現し、値引禁止の徹底で50%に迫る驚異的な営業利益率を確保した。キーエンスは巨大な株式時価総額と平均年収1400万円超の高給で名を馳せ、滝崎武光は大富豪の上位にランクされたが、リスク要因も内包し証券市場は動向を注視している。まず超高給だが過酷な従業員管理には「ブラック企業」批判が付き纏い「疲弊と崩壊の兆しがみてとれる」との指摘もあり、また製造子会社があるのに「ファブレス」を誇張し極端に情報開示を嫌う滝崎武光の企業倫理も難点とされる。キーエンスは44ヵ国に200拠点を展開する国際企業となり海外販売比率は5割に達したが、滝崎武光は国内中心の生産体制を堅持、主要顧客の自動車産業が更なる海外移転を進めるなか今後も高い利益率を確保できる保証はない。2000年滝崎武光は会長へ退き後継社長の佐々木道夫・山本晃則は円高不況に喘いだが、円安転換と自動車産業の好調でキーエンスは復活を遂げ2015年株価は上場来高値を更新、70歳の滝崎武光は代表権の無い名誉会長へ退いた。世襲を嫌う滝崎武光は親族を一切表に出さず、キーエンスでは「役員・社員と三親等以内」の入社を拒む徹底ぶりである。
- 永守重信は、HDD用モーターで75%の世界シェアを握る「日本電産」の創業者にして、不振工場の買収と再建で急成長を遂げた「M&Aの達人」、日産の鮎川義介を彷彿させる。マスコミの露出は多い永守重信だが、マネーゲームに手を出さない真当な実業家であり、同類の孫正義・柳井正に敬われ「ほら吹き3兄弟」を自称する。京都の貧家に生れた永守重信は苦学して洛陽工業高校・職業訓練大学校を卒業し、音響機器のティアックに6年勤めた後、1973年京都市に「日本電産」を設立し精密小型モーターの製造を開始した。積極経営の永守重信は海外進出と工場増設に邁進し、一時経営危機に陥るもHDDやOA機器の旺盛な需要に支えられ事業拡大、1984年米国トリン社の買収でM&Aを始動し1988年株式上場を果した。日本電産躍進の原動力は「時間を金で買う」M&Aによる生産体制拡大・新分野開拓であったが、肝腎な買収後の経営で永守重信は鬼才を発揮した。永守重信は「優秀な技術を持つが経営不振の企業」に買収対象を絞り、筆頭株主兼経営者として現場に乗込む方式で多くを経営再建へ導き優秀な系列企業群と連結業績を膨らませた。永守重信の経営再建術は欧米流の単純なリストラとは異なり「倍働け」「一番以外はビリ」「すぐやる・必ずやる・出来るまでやる」という母親仕込みの精神注入が核心だが、思想文化の異なる世界各地で現に成功を収めており精神論では片付けられない凄みを帯びる。リーマンショックと超円高で日本電産は破綻に瀕したが永守重信は解雇以外で乗切り、円安転換で業績は急回復し2015年株価は上場来高値を更新した。2015年末現在、日本電産はHDDやOA機器の小型モーターで世界一の座を磐石にし海外販売比率は8割に到達、M&A実績は日本24社・海外15社を数えるが、71歳の永守重信は社長に健在で「休みたいなら辞めれば良い」との至言が労働組合の反発を招きつつ、売上高2兆円を目指し自動車や家電製品向け中大型モーターの拡充や中国展開に奔走している。世襲制を否定する永守重信は元シャープ社長の片山幹雄を後継候補に迎えたが、息子が2人あり動向が注目される。
- 中村修二は、青色LED・青色半導体レーザーの工業製品化でノーベル物理学賞を獲得した叩上げ研究者の星である。青色LEDの発明は共同受賞者の赤崎勇・天野浩(名古屋大学の師弟)の手柄だが、中村修二は製品化に必要な高品質の窒素ガリウム結晶を作る「ツーフロー法」と制御条件を物にして逸早く量産技術を確立、手柄を競った赤崎とは犬猿の仲となった。中村修二は、愛媛県大洲市から徳島大学へ進み修士課程を修了して1979年徳島県阿南市の「日亜化学工業」に入社、1987年創業社長の小川信雄を説伏せ青色LEDの研究を開始した。1年間のフロリダ大学留学から戻った中村修二は博士号未取得で「あほ扱い」された屈辱から「研究の鬼」と化し、青色LED用MOCVD装置開発と英語論文作成に邁進し『怒りのブレイクスルー』(自著名)を炸裂させた。中村修二は1991年「ツーフローMOCVD装置」・1993年「窒化ガリウム製膜法」の発明により世界で初めて青色LED量産技術を樹立、徳島大学で念願の博士号を取得し「エジソンの電球に匹敵する発明」で世界の脚光を浴びた。しかし日亜化学工業は2万円の報奨金しか出さず特許権を独占、「スレイブ・ナカムラ」の嘲笑に燃えた中村修二は辞表を叩き付け1999年カリフォルニア大学サンタバーバラ校 (UCSB) 教授へ転身(のち米国に帰化)、非常勤研究員に就いたクリー・ライティング社と共に日亜化学工業に「青色LED訴訟」を仕掛け、「404特許」の帰属確認および譲渡対価約200億円を求め東京地裁に提訴した。中村修二は一審に勝訴したが日本工業界の虎の尾を踏み、2005年「日本の司法は腐っている」と罵りつつ東京高裁の和解勧告に涙を呑んだ(対価は8億4千万円へ激減)。しかし中村修二の研究意欲と権威は衰えず、UCSB教授に励む傍ら信州・愛媛・東京農工大学の客員教授を務め、世界初の「無極性青紫半導体レーザー」や「緑色半導体レーザー」でディスプレイ工業界を牽引、2014年ノーベル物理学賞に輝いた。なお青色LEDでは、2004年東北大学の川崎雅司チームが酸化亜鉛法に成功しており、高価な窒化ガリウムは駆逐される可能性がある。
井上礼之と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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