「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で横死し尊攘運動・幕府不要論が勃興
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井伊 直弼
1815年 〜 1862年
40点※
家系・子孫
- 井伊氏は、藤原北家良門流を称し古来から遠江井伊谷を領した古豪で、家祖の親氏が遊行僧(賤民とも)出身で山間僻地松平郷の庄屋層から成上がった徳川(松平)の家中では出色の家柄であった。井伊道政は南朝の宗良親王に呼応し北朝勢と戦ったが駿河守護今川氏が遠江守護を兼ねると傘下に納まった。人使いの荒い今川義元に仕えた井伊直宗は三河田原城攻めで戦死し、嫡子井伊直盛は桶狭間の戦いで義元と共に討死、後を継いだ従弟の井伊直親は疑心暗鬼の今川氏真に誅殺され、1歳の嫡子直政は所領を奪われ暫定家督の井伊直虎(直盛の一女)に養育された。武田信玄と分け取り協定を結び今川氏真を滅ぼした徳川家康は1575年14歳の井伊直政を小姓に採立てて遠江井伊谷を与え(男色相手の寵童説あり)養女(実父は松平康親)を娶わせ子飼いの旗本先手役に登用、家臣団を持たない直政に武田遺臣を承継させ大名格に引上げた。井伊直政は、「徳川四天王」最年少ながら家中第一の大身となり娘は松平忠吉(家康の四男)に入輿(末娘は伊達政宗の長男秀宗に嫁がせる)、関ヶ原の戦いで寝返り工作を成功させ近江佐和山藩18万石に封じられたが、「島津の退き口」で受けた鉄砲傷が元で41歳の若さで病没した。幕命で佐和山城を廃し彦根城へ移った嫡子の直勝は病弱(精神薄弱か)で家康の介入を招き大坂陣不出馬を理由に次弟の直孝に交代させられた。井伊直勝には上野安中藩3万石が分知され、嫡子直好は三河西尾藩から遠江掛川藩へ移封(共に3万5千石)、嫡孫の井伊直朝が発狂するも改易を免れ養嗣子直矩が越後与板藩2万石(城無大名)へ移され幕末まで存続した。近江彦根藩15万石を継いだ井伊直孝は、将軍秀忠の臨終に際して家光の後見役(大政参与)に任じられ将軍家光からも絶大な信頼を得て30万石へ累進、井伊家は幕末まで彦根藩と譜代筆頭の家格を保ち直澄・直興・直幸・直亮・直弼の大老を輩出した。幕府最後の大老井伊直弼は将軍継嗣問題で安政の大獄を発動し桜田門外の変で落命、10万石を没収された彦根藩は譜代筆頭にも関わらず官軍の先鋒を買って出た。伯爵井伊家の子孫は現在も彦根随一の名家として存続する。
- 彦根藩祖の井伊直政は、徳川家康の「四天王」に数えられた猛将にして関ヶ原合戦の西軍寝返り工作を担った智将、武田遺臣と山県昌景の「赤備え」を引継いだ井伊軍は徳川家中随一の精強を誇った。2代目の井伊直孝は将軍徳川家光の大政参与(大老)となり、彦根藩30万石は「譜代筆頭」の家格を伝え幕末までに5人の大老を輩出した。「最後の大老」井伊直弼は、13代彦根藩主井伊直中の十四男で、養子の口が見つからず居宅を「埋木舎」と自嘲し不遇を託ったが、14代藩主を継いだ長兄の井伊直亮が無嗣没し世子の次兄直元も早世、破格の幸運に恵まれ15代藩主の座に就いた。江戸中期以降は大名家といえども武家の三男以下の処遇は悲惨で、他藩主や重臣に入嗣できれば幸い、でなければ僅かな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ多くは妻帯も許されなかった(子ができると行末まで藩が面倒をみなければならないため)。井伊直弼が桜田門外で暗殺された後は庶長子の井伊直憲が16代彦根藩主に就任、島津久光の文久の改革で公武合体派が政局を握ると彦根藩は30万石から20万石へ減封され(後3万石加増)、戊辰戦争が起ると譜代筆頭でありながら早々に官軍へ寝返り、廃藩置県後は家格並の伯爵に叙された。
井伊直弼と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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