会津蘆名氏を滅ぼして南奥羽150万石を領し佐竹義重・上杉景勝を脅かした「独眼流」、豊臣秀吉・徳川家康の隙を窺い減封されるも外交と演出で仙台藩62万石・伊予宇和島藩10万石を保ち野望を秘めて慶長遣欧使節を派した天下御免の横着者
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伊達 政宗
1567年 〜 1636年
90点※
伊達政宗と関連人物のエピソード
- 最上義光は、伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)。羽州探題最上氏は国人割拠で衰退し最上義定は陸奥守護伊達稙宗に臣従、養嗣子の最上義守は天文の乱に乗じて自立を図り将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るが寒河江兼広に敗れ挫折、長男義光の廃嫡を企て一旦隠居に追込まれるも同族の有力国人衆「最上八楯」及び娘婿の伊達輝宗に担がれ義光討伐軍を挙兵、1574年四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果した(天正最上の乱)。足元を固めた最上義光は鮮やかな個別撃破戦術を展開、里見民部の寝返りを誘って上山城主上山満兼を討たせ、馬揃え参陣を拒否した小国城主細川直元を包囲殲滅、東禅寺義長を寝返らせて大宝寺義氏を討ち庄内を平定、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延に娘を縁付けて自陣に引込み最上八楯を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし盟主天童頼澄を天童城から追放して1584年出羽最上郡平定を達成、横手城主小野寺義道の南進を撃退し、大宝寺義興を滅ぼして庄内支配を固めた。1588年大崎合戦で伊達政宗を撃退するが隙を衝いた上杉景勝が本庄繁長・大宝寺義勝(繁長の実子)を派して庄内を奪還(十五里ヶ原の戦い)、豊臣秀吉に帰順し羽州探題に補された最上義光は景勝の惣無事令違反を訴えるが黙殺され奥州仕置で出羽山形城24万石が確定、石田三成と昵懇の景勝・直江兼続に対抗するため徳川家康に接近し、秀次事件で愛娘駒姫が殺されると完全な家康党となった。1600年会津征伐軍が上方へ転戦し最前線で孤立した最上領に直江兼続率いる上杉軍・小野寺軍が殺到、最上諸将は寡兵で猛攻を凌ぎ東軍勝利の報を得た最上義光は兜に被弾しながら上杉軍を追撃し庄内を奪還、関ヶ原合戦後に領有を認められ出羽山形藩57万石を立藩した。義光の死から3年後に後嗣最上家親が急逝し、1622年最上騒動が起り最上家は自滅した。
- 最上氏は、室町幕府管領斯波氏の庶流で、出羽国按察使に任じられ寒河江氏等南朝勢力を平らげた斯波兼頼が山形城に留まり「最上屋形」号から名字を採った。最上氏は羽州探題職を世襲したが(奥州探題は同じ斯波一門の大崎氏)同族の「最上八楯」(天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生)・寒河江氏などが割拠し、伊達稙宗に敗れ軍門に降った最上義定は出羽国人に見放された。家督を継いだ養子の最上義守は、伊達稙宗・晴宗父子の抗争(天文の乱)に乗じ長谷堂城を奪回して独立を果し、将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るも寒河江兼広に敗れ挫折、娘の義姫を伊達輝宗に縁付けて帰参した(政宗・政道を産む)。長男義光の廃嫡を企てた義守が最上八楯ら国人衆と伊達輝宗に担がれ天正最上の乱が勃発、対抗馬の次弟義時を葬り義守派を確固撃破し伊達氏を退けた最上義光は、大崎義直・清水義氏・天童頼貞の娘を娶って六児を生し、次男家親を徳川家康・三男義親を豊臣秀吉の人質に差出し美貌の駒姫を関白秀次の側室に献上して家の安泰を図った。が、秀次事件に連座した15歳の駒姫が斬刑に処され秀吉を憎んだ義光は家康に臣従、関ヶ原の戦いで上杉景勝の侵攻を防ぎ出羽山形城24万石から57万石へ加増され、家康の覚えが目出度い家親に後を継がせるため長男義康を廃嫡(暗殺)した。最上家親は、不仲の弟義親を攻め殺し、徳川氏への忠勤に励んだが37歳で急逝した(毒殺説あり)。嫡子の最上義俊は酒色に溺れ暴政を敷いたため楯岡光直(義光弟)・鮭延秀綱ら重臣が山野辺義忠(同四男)擁立を画策、孤立した義俊は佞臣松根光広(同甥)を通じて幕府に泣付くも6万石への減封を命じられ、家臣団が頑なに義俊更迭を主張したため最上家は取潰された(最上騒動)。上野山義直(義光五男)と大山光隆(同六男)は配流先で切腹したが、張本人の義俊は近江大森1万石を供され子孫は5千石の交代寄合として存続した。山野辺・楯岡・松根は10余年後に赦免され水戸藩・熊本藩・宇和島藩に仕え子孫は家老職を世襲した。なお鮭延は赦免後に家臣を伴って流転し「乞食大名」と揶揄されたが晩年に5千石で土井利勝に仕官した。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 真田信繁(真田幸村)は謀将真田昌幸の次男、15歳で織田方の沼田城へ人質に出され「第一次上田合戦」で武将デビュー、上杉景勝の人質を脱して豊臣秀吉に近侍し大谷吉継の娘婿となった。真田昌幸に従う真田信繁は小田原征伐を闘い上野沼田領を奪回、1600年「第二次上田合戦」で徳川秀忠の中山道軍を関ヶ原合戦に遅参させたが西軍惨敗で破滅、東軍に付いた長兄真田信之(妻は本多忠勝の娘)の嘆願で辛くも助命され父と共に高野山九度山村へ幽閉された。真田信之は昌幸領を安堵・加増され子孫は幕末まで松代藩13万石を保った。真田昌幸は没したが1614年「大坂冬の陣」が起ると、真田信繁は兄の勧誘を断って高野山を脱出し大阪城に見参(条件は50万石とも)、手勢130人ながら長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と並ぶ浪人軍「五人衆」に迎えられ5千の兵を託された。真田の通字は「幸」、兄の信幸は徳川を憚り「真田信之」へ改めたが、弟の信繁は「真田幸村」を名乗り意気地を示している。さて、大野治長(淀殿の乳母の子)らに兄への通謀を疑われた真田信繁は、大阪城の弱点である南方に孤立無援の「真田丸」を築いて信義を立て、真田昌幸の遺策を披露し「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」と説いたが、「貫禄不足の信繁が説いても誰も従うまい」との父の予言通りとなった。真田信繁は無念を抑えて真田丸に籠り20万の徳川軍を奇計で翻弄、信濃一国の恩賞で投降を勧められたが謝絶し大坂城を護り切った。が、愚将大野治長の差配で豊臣方は勝機を逃し大砲に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は破壊され大阪城は内堀まで埋められた。翌1615年、徳川家康は15万余の大軍で「大坂夏の陣」を起し裸城を再攻撃、真田信繁は伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊を撃退し、茶臼山に布陣し起死回生の陽動作戦を献じたが肝心の豊臣秀頼が出馬せず挫折、「十文字槍」を振い家康本陣に斬込んだが包囲殲滅された。真田信繁の猛撃に徳川家康は二度も自害を覚悟したという。豊臣家は滅亡し戦国時代は徳川の一人勝ちで終結したが、真田信繁は己の死花で掉尾を飾った。
伊達政宗と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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