山本権兵衛の申送りで軍令部総長となり満州事変から終戦まで海軍に君臨、軍拡反米英の「艦隊派」首領として海軍を日独伊三国同盟・対米開戦へ導き特攻作戦も発動した皇族元帥
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伏見宮 博恭王
1875年 〜 1946年
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伏見宮博恭王と関連人物のエピソード
- フィリピン奪回を目指すアメリカ軍に対して、総力を結集して決戦を挑んだ日本海軍は、初めて神風特別攻撃隊も投入(海軍重鎮の伏見宮博恭王が軍事上の禁じ手である特攻の封印を解いた)して善戦したが、「栗田健男艦隊の謎の反転」によりレイテ島奪回作戦は失敗、ほとんどの艦船を失って日本海軍は事実上壊滅した。両軍合わせて艦艇約200隻・飛行機約2,000機がぶつかり合う史上空前の大海戦であった。レイテ沖海戦敗戦により制海権を奪われて石油などの供給源である南方と日本本土を結ぶシーレーンが断絶、燃料の点でも海軍は戦争続行が不可能となった。なお、この後アメリカ軍はフィリピンに上陸し順次要衝を奪回するが、日本軍の抵抗は1945年の終戦まで続いた。フィリピン全域での戦闘における日本人の戦死者は47万人以上、生存者は僅か13万人であった。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- 斎藤実は仙台藩水沢の出身、元藩士の父は没落し「賊軍」故に前途は暗かったが、胆沢県大参事の安場保和の書生に選ばれ運を掴んだ。旧東北諸藩では、中央から派遣された役人が優秀な師弟を選別し中央へ進学させる救済ルートがあった。一歳年長で近所のガキ大将だった後藤新平も一緒に書生となり、後に安場保和の女婿となっている。官費で勉強できる軍人を志した斎藤実は水沢県東京出張所に給仕の職を得て上京、陸軍幼年学校に21番で合格するも官費生20人枠に入れず、半年後に海軍兵学寮予科を受験し官費生合格を果したが、直後に陸幼から官費生欠員に伴う繰上げ合格の通知が到来、後の山本権兵衛の改革まで海軍は陸軍の一部であり陸軍が断然有望だったが斎藤少年は海軍を選択した。斎藤実は海軍兵学校を3番で卒業するも出世コースに乗れず、7年間の艦隊勤務を経て公使館付武官兼務でアメリカ留学へ出された。が、通訳兼ガイドの精勤ぶりが西郷従道・山本権兵衛らの目に留まり参謀に栄転、「高千穂」勤務で山本艦長の子分となり、仁礼景範海相の娘婿の座を射止めて薩摩海軍閥に連なり異例の昇進が始まった、山本権兵衛の海相就任に伴い斎藤実は海軍次官に抜擢され7年在勤、山本から海相を譲られ8年以上も座を占めた。「山本権兵衛の副官」に徹した斎藤実には軍政面でも日清・日露戦争でも目立つ業績が無く、何度もポストを後任に譲ろうとしたが山本は忠実で野心の無い斎藤を使い続けた。海軍の大疑獄「シーメンス事件」で斎藤実海相は山本権兵衛首相と共に予備役編入へ追込まれたが、5年後に海軍大将に返咲き朝鮮総督に就任、12年後に辞任し隠居生活に入った。が翌年、海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため74歳の斎藤実が犬養毅の後継首相に選ばれた。満州事変以後の中国問題解決を期待されたが、海軍良識派ながら政治経験に乏しい斎藤実首相は為す術無く陸軍の満州国建国と松岡洋右の国際連盟脱退を承認、陸軍と右翼の僚平沼騏一郎が仕掛けた「帝人事件」スキャンダルで退陣に追込まれた。斎藤実は自派の岡田啓介に首相を譲り内大臣に就任したが、間もなく二・二六事件が起り自邸で虐殺された。
- 東郷平八郎は、西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌・山本権兵衛らと同じ鹿児島城下加治屋町に生れ15歳で薩英戦争に従軍、「春日丸」乗員として函館戦争まで転戦し、7年間のイギリス留学を経て海軍に入った。薩摩閥に連なる東郷平八郎は無難に昇進したが、陸軍の軍制改革や日清戦争の軍令を担った川上操六(同年)や「海軍の父」山本権兵衛(4歳年少)には遠く及ばず、山本の海軍改革(薩長藩閥を問わず96人もの将佐官を大リストラ)で整理リストに入るも山本の一存で救われた。海軍に残された東郷平八郎は、巡洋艦「浪速」艦長として日清戦争を戦い、海軍中央入りを望むも佐世保・舞鶴鎮守府(初代)の司令長官に回され予備役入りも噂されたが、日露開戦が迫ると海相の山本権兵衛は日高壮之丞(薩摩)を更迭し東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。軍政に加え軍令(作戦遂行)の統率も図る山本権兵衛は、日清戦争で軍令違反があった日高壮之丞を嫌い命令に忠実な東郷平八郎を採用、訝る明治天皇に「東郷は運の良い男ですから」と説明したという。己を知る東郷平八郎は優秀な秋山真之(松山)参謀に作戦を託し秋山は「T字戦法(東郷ターン)」を案出、連合艦隊は帝政ロシアが世界に誇る太平洋艦隊・バルチック艦隊を殲滅し世界海戦史に輝く大勝利を収めた。熱狂で迎えられた東郷平八郎は国民的英雄となり、伯爵(のち侯爵)に叙され「生ける軍神」と崇められた(没後に東郷神社建立)。日露戦争後「海軍の神様」となった東郷平八郎は、軍令部総長を経て元帥に栄達したが、ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると伏見宮博恭王と共に反米軍拡派(艦隊派)に担がれ82歳にして海軍人事に介入、亡国路線の幇助者として晩節を汚した。東郷平八郎元帥は、五・一五事件を起した海軍将校の処刑に異を唱え軍部の規律崩壊にも一役買っている。
- 秋山真之は、日露戦争における海軍参謀陣のエースとして連合艦隊の作戦立案を担った『坂の上の雲』の主人公、司馬遼太郎史観の潤色で胡散臭さが漂うが正真正銘の奇才であった。松山の貧乏藩士の五男に生れた秋山真之は、9歳年長の兄秋山好古の援助で東京へ進学、共立学校・大学予備門から東大を目指したが志を転じて海軍兵学校(17期)へ進んだ。陸大1期生だった秋山好古は「日本騎兵の父」と称され陸軍大将となり、松山中学校・大学予備門で共に学んだ親友の正岡子規は東大(哲学科→国文科)へ進み「明治の文豪」となった。さて、「試験の神様」秋山真之は海兵を主席で卒業し米英へ留学、最新の海軍学と古今の戦史を渉猟して独自の戦術眼を養い、帰国後は顕職の常備艦隊参謀を経て34歳の若さで海軍大学校戦術教官に抜擢された。間もなく日露開戦が迫り、連合艦隊に呼ばれた秋山真之は山屋他人(海兵12期で前任戦術教官)ら並居る先輩を押退け先任参謀に昇格、東郷平八郎司令官・島村速雄(7期)参謀長から作戦立案を託された。秋山真之は旗艦「三笠」の寝床に籠って作戦に没頭し、島村から参謀長を継いだ加藤友三郎(7期)の頭越しに東郷平八郎司令官は秋山案を採用、連合艦隊は陸軍の支援を得て(203高地占領)旅順港に逼塞する太平洋艦隊を殲滅し、ウラジオストク港へ向かうバルチック艦隊を対馬沖で捉え「T字戦法(東郷ターン)」で撃破し海戦史上に輝く劇的勝利、世界最強と謳われたロシア海軍を壊滅させ皇帝ニコライ二世をポーツマス講和へ追込んだ。日露戦争後、秋山真之は海軍で神聖視され海軍省枢要の軍務局長に栄進したが、心身の不調で目立った活躍は出来ず、大本教に没入して盲腸炎の手術を拒み49歳の若さで世を去った。秋山真之が編出した「秋山兵術」は聖典となり、ほとんど修正されることなく太平洋戦争終結まで海軍大学校で継承されたという。
- 次期海相候補の松本和中将をはじめ海軍ぐるみの大疑獄「シーメンス事件」が発覚した。山本権兵衛首相は無関与だったが薩長藩閥打倒を求める世論は沸騰し内閣は総辞職に追込まれ、井上馨ら薩長元老は民権派を宥めるため大隈重信を後継首相に担ぎ出した。「山本の副官」といわれた海相の斎藤実は事件への関与を疑われ、検事として取調べにあたった平沼騏一郎は斎藤没後に刊行した著書の中で「斎藤が首犯の松本和から10万円を受取った旨の調書が存在した」と明かしている。山本権兵衛は斎藤実と共に予備役に退き、9年後に第二次内閣を組閣するもシーメンス事件のために終生元帥になれなかった。
- 第一次世界大戦に伴う西欧諸国の財政難と軍縮機運の高まりを受け(日米は特需を享受)、1921年米英日仏伊の五大国が「ワシントン海軍軍縮条約」を締結、建艦競争抑止のため主力艦(戦艦・空母)の比率を米英5:日本3に定めたほか、日本の山東半島権益の返還などが決められた。台頭著しい日本海軍に警戒を強めるアメリカは、イギリスを抱込んで日英同盟を廃棄させ軍縮条約で軍拡抑制を図った。高橋是清内閣は日本全権として加藤友三郎海相・幣原喜重郎(国際協調派外交官)・徳川家達(公爵徳川宗家当主)を派遣した。露骨な日本封じに海軍内部の反発は強かったが、加藤友三郎は「八八艦隊」軍拡計画の主導者ながらアメリカと競う愚を悟って軍縮へ舵を切り「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・日本と戦争の起る可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」と喝破し条約調印を断行した。
- 加藤友三郎は頭脳明晰で海軍兵学校を2番・海軍大学校を主席で卒業、広島藩出身ながら山本権兵衛の引立てで累進し山本・東郷平八郎と共に「日本海軍の三祖」に数えられた。加藤友三郎はスマートな海軍エリートの典型だが、少年期は「ひいかち(癇癪持ち)の友公」と渾名され、赤鞘の長刀を腰に差し腹が立つと「打った切るぞ」と子供達を追い回したという。また、兵学校同期の島村速雄(主席卒業)と共に「酒豪の双璧」と称された(加藤の死因は大腸ガンだが酒が命を縮めたといわれ、島村も同年に病没)。さて艦隊勤務に就いた加藤友三郎は、日清戦争で巡洋艦「吉野」の砲術長を務め、日露戦争には第2艦隊参謀長で出征し旅順口閉塞作戦失敗で引責辞任した島村速雄に代わり連合艦隊参謀長となった。ただ、実際の軍令(作戦)は東郷平八郎司令官と秋山真之参謀の間で決められ、蚊帳の外に置かれた加藤友三郎は秋山を嫌ったという。とはいえ優秀な加藤友三郎は軍令部軍務局長・海軍次官に進み山本権兵衛の「八八艦隊」軍拡計画を推進、シーメンス事件で先輩層が失脚すると海相に特進して8年間在任し、第一次世界大戦後の軍縮機運のなかアメリカと国力を競う愚を悟り首席全権としてワシントン海軍軍縮条約を成立させた。原敬・高橋是清の政友会内閣が倒壊すると加藤友三郎内閣が発足、表向き貴族院を基盤としながら憲政会・加藤高明の組閣を恐れる政友会が実質与党となったため「変態内閣」、またヒョロナガイ加藤の風貌から「蝋燭内閣」とも揶揄された。加藤友三郎首相はワシントンで各国に約束したシベリア撤兵を断行し陸軍の「山梨軍縮」を導出したが僅か2年で急逝、大御所の山本権兵衛が政界復帰し第二次内閣を組閣した。加藤友三郎の死の7年後、ロンドン海軍軍縮条約に際し統帥権干犯問題が起り東郷平八郎・伏見宮博恭王を担ぐ艦隊派(反米軍拡派)が主導権を掌握し日本を対米開戦へと導いた。山本権兵衛は沈黙を貫いたが、9歳年下の加藤友三郎が存命ならと惜しまずにいられない。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 金融恐慌により一層の軍縮要請が高まった列強各国は、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。ワシントン海軍軍縮条約で決定した主力艦(戦艦・空母)の保有制限に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)や潜水艦の縮小均衡が決議された。日本の軍縮外交をリードしたのは濱口雄幸内閣で国際協調(幣原外交)を推進する幣原喜重郎外相で、首席全権の若槻禮次郞と主席海軍代表の財部彪海相が表に立った。日本は、補助艦は対米英7割・潜水艦は現状7万8千トンの確保を方針に交渉に臨んだが、やや妥協して重巡洋艦は対米英6割・但し補助艦全体の総トン数は対米英69.75%で合意に漕ぎ着け調印した。なお、海軍きっての知米派で後に条約派(良識派)の中心となる山本五十六は次席随員を務めたが、このときは対米妥協に猛反対し若槻禮次郞をてこずらせた。このため山本五十六は海軍内で艦隊派と目され、この後に起る粛清人事を免れた。さて国内では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に際し、東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ出した軍令部の加藤寛治総長・末次信正次長ら海軍強硬派(艦隊派)と、民政党内閣打倒を目指す政友会の犬養毅・鳩山一郎らが結託し、海軍軍令部の意に反する条約は天皇の統帥権を侵すとして、濱口雄幸首相・幣原喜重郎外相と海軍省の良識派幕僚(条約派)を攻撃した(統帥権干犯問題)。うやむやのうちに条約は批准され、喧嘩両成敗で財部彪・加藤寛治はじめ両派の首脳が辞任に追込まれたが、東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握り、国際情勢に明るい良識派の多くが要職を追われ海軍が対米強硬へ傾く転換点となった。この後「統帥権」は軍部大臣現役武官制と並ぶ軍部専横の切札となったが、もともと右翼の北一輝(二・二六事件の黒幕)が唱えた理屈を鳩山一郎らが政争の具に持出したもので、政党が軍部に「魔法の杖」を与える皮肉な結果を招いた。米内光政・井上成美・山本五十六ら良識派は頑強に抵抗したが艦隊派の優勢は揺るがず、6年後に広田弘毅内閣はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄を断行した。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- ロンドン海軍軍縮条約や第一次上海事変の不拡大に不満を抱く三上卓中尉・古賀清志中尉ら海軍青年将校の一団が、天皇をミスリードする「君側の奸を排除する」として武装蜂起し犬養毅首相を殺害した(五・一五事件)。新聞記者あがりの犬養毅は政界に転じても毒舌の皮肉屋で鳴らし、大の負けず嫌いだった。三上卓らが首相官邸に来襲すると犬養毅は「早くお逃げください」と促す村田警備官を制し「きみらは何者だ?」と応酬、落着いた態度で「待て、話せばわかる。撃つのはいつでも撃てる。話をしてからにしろ。靴くらい、ぬいだらどうだ」と諭すも三上は「問答無用!」と叫んで銃弾を浴びせ逃走、犬養はタバコに火をつけ「いまの若いものたちを、もう一度呼んでこい。わしがよく話してやる」と話した。頭部に命中した2発の銃弾は急所を外れていたが、銃傷を軽く看た医師団のミスもあり数時間後に犬養毅は死亡した。軍部が「君側の奸」と憎む西園寺公望元老・牧野伸顕内大臣・鈴木貫太郎侍従長も狙われたが難を逃れた。現役の軍人が首相を殺すという大犯罪であったが、海軍内部では艦隊派(軍拡派)の東郷平八郎元帥・加藤寛治大将を筆頭に同情論が支配的で、国民からも助命嘆願運動が起り、首謀者の三上卓と古賀清志が禁固15年・実行犯2人が無期懲役と禁固13年に処されたものの残りは全部無罪という到底考えられない判決が下され、受刑者も6年後の特赦で放免となった。三上卓は、血盟団事件を起すも特赦放免の井上日召・菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党に合流し「ひもろぎ塾」を結成、右翼シンパの近衛文麿はテロ犯をまとめて内閣顧問に招聘する。五・一五事件後、テロに怯える西園寺公望と牧野伸顕は東京を離れたが、鈴木貫太郎は暴挙を容認した軍部を決然と非難し、高橋是清蔵相も財政の観点から軍事費抑制の主張を曲げなかった。政権争いに終始し機能不全に陥った政党政治は五・一五事件で命脈を絶たれ、続く斎藤実内閣(海軍)から第二次大戦終結まで「挙国一致内閣」が続くこととなった。五・一五事件の容認に味をしめた軍部や右翼は怖いもの知らずとなり、逆に政治家はテロに屈して抵抗を放棄、暴力が支配する恐怖時代への幕開けとなった。
- 軍部の暴走抑止に努める西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎・斎藤実・高橋是清・木戸幸一・一木喜徳郎ら天皇側近の重臣グループは「君側の奸」と敵視された。陸軍統制派と平沼騏一郎ら右翼は一木喜徳郎・美濃部達吉の「天皇機関説」を槍玉にあげ重臣の排撃を図り、真崎甚三郎・荒木貞夫ら陸軍皇道派は「国体明徴運動」を推進し「日本は万世一系の天皇が統治し給う神国である」という国家観を喧伝、マスコミも便乗したため全体主義・軍国主義が支配的となり言論封殺やテロを容認する空気が醸成された。国体問題が政局化するに至り統制派首領の永田鉄山などは慎重論へ転じたが、岡田啓介内閣の「国体明徴声明」で決着がついた。五・一五事件に怯えた西園寺公望・牧野伸顕は既に別荘に引籠り、一木喜徳郎は右翼の襲撃を受け隠退、過激派の敵意は猶も軍部に抵抗を続ける鈴木貫太郎や高橋是清へ向けられた。なお陸軍では、統制派に締出された皇統派の永田鉄山攻撃が加熱し相沢三郎中佐が永田斬殺事件を起した。皇統派は勢いを増し隊附青年将校グループによる二・二六事件が勃発、斎藤実内大臣・高橋是清蔵相・渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、テロを恐れる重臣は完全に腰砕けとなり抑え役を放棄した。リーダーの西園寺公望は首相指名権を重臣会議に譲り隠退、後継者と頼む近衛文麿の内閣が日独伊三国同盟を締結した直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。東京裁判で終身禁固に処された右翼の平沼騏一郎は巣鴨拘置所で重光葵に「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったという。終戦まで内大臣に留まった木戸幸一(木戸孝允の継孫)は主戦派の東條英機を首相指名する愚を犯したが、二・二六事件で一命を取り留めた海軍人の岡田啓介・鈴木貫太郎は重臣会議に加わった米内光政と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣で昭和天皇の「聖断」を引出し第二次大戦の幕引き役を果した。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
- 生母と信じる継母に疎まれて育った近衛文麿は、右翼と左翼、反米英と中国蔑視、強硬と放任、迎合と無関心が混在する複雑な人格に成長した。マルクス主義にかぶれた近衛文麿は東大から京大へ転じて河上肇や西田幾多郎に学び、哲学者を志し公爵位返上も考えたというが、弱冠25歳で貴族院議員となり政界へ進出した。後に近衛文麿内閣が実施する企画院・国家総動員法・配給制・大政翼賛会などは、軍国主義と同時にマルクス主義の実践とも考えられる。さて近衛文麿は、雑誌『日本及び日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を寄稿し「英米のご都合主義による民主主義や国際平和の枠組みは排すべきであり、各国平等の生存権を確立するためには、大国が植民地を解放して、天然資源の供給地として平等に利用できるようにすべきである」と説いた。家柄日本一で帝大卒の秀才・スマート(身長1.8m・体重70㎏)な近衛文麿の反米英・現状打破論は国民的人気を博し、木戸幸一・徳川家達らと「火曜会」を結成し貴族院内革新勢力の領袖へ台頭、42歳で貴族院議長に栄達し、西園寺公望の後継者として首相候補に擬せられた。満州事変が起ると、近衛文麿は陸軍と世論に迎合し「発展力のある民族が狭い領土に閉じ込められている一方、広大な領土と資源に恵まれたところがあって人口も少ないという状態は、合理的ではない。かつて恣に植民地を収奪した先進大国のいう平和は、その現状維持を図るための平和に過ぎない」と満州事変を正当化したが、反米英はともかく中国を国家として尊重する視点が欠落していた。二・二六事件後、西園寺公望元老は近衛文麿を首相に推し「陸海軍にも政財界にも受けが良いので、首相を引受けて時局を収集して欲しい」と頼んだが、近衛は「四方八方に受けが良いということは、実はどこにも真の支持者がいないとうことです。こういう時代に強力な支持者がいない限り自信が持てません」と断り、代わりに同志の広田弘毅を首相に担いだ。近衛文麿はテロを起した青年将校や陸軍皇道派のシンパで、血盟団事件の井上日召を別荘「荻外荘」に庇護し、菱沼五郎・四元義隆ら血盟団残党や三上卓(五・一五事件主犯)共々近衛内閣の顧問に迎えている。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 「昭和維新」「尊皇討奸」を掲げる陸軍の隊付青年将校グループが独断専行で帝都駐在部隊1483人を動かし未曾有の武装蜂起事件を起した(二・二六事件)。反乱将校らは皇道派の真崎甚三郎大将を首班とする軍事政権樹立を目指し、帝都要衝の総理大臣官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部・東京朝日新聞を武装占拠し「国家改造」を要求、最終目標の皇居占拠・天皇確保は近衛師団に阻まれ断念したが、岡田啓介首相・高橋是清蔵相・斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長・渡辺錠太郎陸軍教育総監・牧野伸顕前内大臣を次々と襲撃し高橋・斎藤・渡辺を殺害、岡田首相は側近の身代わりで虎口を逃れ、鈴木は重傷を負うも一命を取留めた。岡田・斎藤・鈴木は海軍条約派・高橋は財政家として軍拡要求に反対し「君側の奸」と憎まれていた。陸軍は大混乱に陥り反乱部隊と気脈を通じる真崎甚三郎・荒木貞夫・本庄繁ら皇道派重鎮と、荒木を「バカ大将」と面罵し断固鎮圧を主張する石原莞爾らの対立があったが、信頼する重臣を殺害された昭和天皇は「反乱」鎮圧を厳命した。3日後の2月29日、敬慕する昭和天皇に朝敵の烙印を押された反乱将校は部隊を解散して兵卒を原隊に復帰させ2人が拳銃自殺し他は全員投降、最終的に反乱将校16人および黒幕とされた民間右翼の北一輝と西田税が死刑に処され、数十人に禁固刑判決が下された。二・二六事件後、茫然自失の岡田啓介首相が退陣し広田弘毅内閣が発足、中立派の寺内寿一を陸相に担いだ石原莞爾が陸軍の綱紀粛正を断行し、皇統派は処罰を免れるも真崎甚三郎・荒木貞夫ら7大将と小畑敏四郎・山下奉文を含む将佐官の悉くが陸軍中央から追放された。日中戦争が始まると武藤章・田中新一ら統制派が不拡大を説く石原莞爾から陸軍の主導権を奪い強硬外交と軍国主義化を牽引、皇統派に憎まれ予備役間近といわれた東條英機も一躍陸軍中枢へ台頭し、テロの脅威が蔓延するなか軍部は再発をちらつかせて強迫姿勢を強め、結果的に二・二六事件は反乱将校が目指した軍事国家樹立への重大な伏線となった。
- 二・二六事件で首相の岡田啓介は主標的にされたが九死に一生を得た。首相官邸で就寝中に反乱軍来襲を知った岡田啓介は、物置になっていた大浴場と女中部屋の押入れに身を隠した。妹婿で首相秘書官の松尾伝蔵は、岡田啓介に扮して自ら身を晒し「きさまらはもうすぐ満州へ渡り、戦闘をしなければならんのだ。それなのにここで撃てんようでは役に立たんぞ。撃て!」と挑発し、撃たれると「天皇陛下万歳!」と叫び絶命、血の繋がりは無いが松尾の容貌は岡田に似ており兵士らは命懸けの芝居に引っ掛かった。松尾伝蔵を殺した後も反乱軍は首相官邸の占拠を続け岡田啓介は押入れに逼塞したが、娘婿で首相秘書官の迫水久常の機転と憲兵隊の協力により弔問客に紛れ脱出した。間一髪で虎口を逃れ腹心の松尾伝蔵と親分の斎藤実を殺された岡田啓介のショックは大きく、翌日憲兵司令官の護衛で参内し昭和天皇に首相辞任を奏上、疲れ果てた岡田の様子を見た天皇は自殺を心配し承諾せざるを得なかった。
- 岡田啓介は海軍兵学校15期へ進んだが素行不良で成績も中位、山本権兵衛に目を掛けられた同期主席の財部彪(山本の女婿)や17期の秋山真之に大きく水を空けられた。艦隊勤務から横須賀海兵団の軍楽隊に左遷された岡田啓介は腐って昼寝ばかりしていたが、欠員補充で東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」の砲術士官に回され「高陞号撃沈事件」に遭遇し日清戦争に出征、日露戦争では重巡洋艦「春日」の副長として日本海海戦を戦い、第一次大戦では第二水雷戦隊司令官として青島攻略戦に参加した。岡田啓介は叩き上げの「水雷屋」で政治とは無縁だったが、シーメンス事件で海軍上層部が失脚したため海軍省に呼ばれ人事局長に就任、艦政本部長から財部彪海軍大臣の次官へ上り司令長官ポストを経て田中義一内閣で海相に栄達した。ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると、無派閥の岡田啓介は条約派(国際協調)と艦隊派(反英米軍拡)の調整に奔走したが、海相に復した条約派のエース財部彪は予備役に追込まれ東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握った。海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため条約派の斎藤実が組閣すると岡田啓介は調整役を期待され海相に復帰、陸軍と右翼の攻撃(帝人事件)で斎藤内閣が倒れると岡田に組閣の大命が下された。満州事変後の軍拡景気で日本は逸早く世界恐慌を脱し、天皇機関説問題や国体明徴運動の扇動で国民が軍国主義に染まるなか、岡田啓介首相は母体である海軍の艦隊派にも突上げられ防戦一方、二・二六事件で一命を拾うも思考停止に陥り政権を投出した。広田弘毅・近衛文麿内閣が軍部に追従し傷口を拡げるなか、岡田啓介は重臣会議に列し米内光政・鈴木貫太郎ら海軍良識派を後援したが伏見宮博恭王ら艦隊派の優位は動かせなかった。対米開戦の大詰めで東郷茂徳外相からの海軍内強硬派の説得要請を黙殺した岡田啓介であったが、敗戦必至の状況に陥ると米内光政・鈴木貫太郎と共に東條英機内閣を倒し、鈴木内閣の終戦工作をサポート、サンフランシスコ平和条約の発効・GHQ解散を見届け世を去った。
- 二・二六事件で、侍従長の鈴木貫太郎は麹町の官邸を反乱部隊に襲撃され重傷を負ったが、本当に奇跡的に一命を取り留めた。海軍の叩き上げで「鬼貫」といわれた鈴木貫太郎はさすがに剛毅で、武士らしく「一つ返り太刀を」と日本刀を探したが見つからず、反乱部隊が乱入すると「何か理由があるはずだ。それを説明しなさい」と毅然と対応した。下士官が問答無用と銃撃を命じると、鈴木貫太郎は直立不動の姿勢で「やむを得ない。撃ちたまえ」と言い、左胸・左頭部・左足大腿部に3発の銃弾を浴びた。たか夫人は「留めが必要だとおっしゃるなら、妻の私がいたしましょう」と夫を庇い、軍刀に手を掛けた指揮官の安藤輝三陸軍大尉を制した。実は二・二六事件の2年前、鈴木貫太郎は安藤輝三の申入れに応じて引見し、急進的な国家改造論を諄々諌め、鈴木に敬服した安藤が一旦暴挙を思い留まった経緯があった。反乱部隊が去ったところへ湯浅倉平宮内大臣らが駆けつけ瀕死の鈴木貫太郎をタクシーで日本医大へ護送、左頭部に入った弾丸は耳の後ろを貫通し、胸部の弾丸は心臓を回り込んで背中に留まっており、経過もよく鈴木は奇跡的に蘇生した。公職に復帰した鈴木貫太郎は8年間務めた侍従長を辞し兼任の枢密顧問官のみに留まったが、昭和天皇の懇請により77歳にして「終戦内閣」の首班に担出された。陸軍省幕僚らが「玉音放送」を阻止すべく起したクーデター未遂事件で(宮城事件)、鈴木貫太郎首相は又も襲撃されたが今度も難を逃れ任務を全うした。3年後に鈴木貫太郎は80歳で没したが、遺灰には二・二六事件の銃弾が混ざっていたという。
- 海兵(14期)・海大へ進むもエリートから外れた鈴木貫太郎は、日露戦争で「水雷屋」として頭角を現し、海軍重鎮から天皇側近となり首相へ上り詰めた。同年生れの岡田啓介(海兵15期)とよく似たキャリアで、共に草創期の帝国海軍に身を投じ幕引き役を果した。「海軍の父」山本権兵衛は陸軍の長州閥ほど派閥に拘らず海兵卒の秀才を多く登用したが枢要は自派閥(薩摩閥)で固めた。特に徳川譜代藩出身者は希で海兵同期では鈴木貫太郎(関宿藩)のみ、成績凡庸で山本権兵衛の引きもなく艦隊勤務や教育畑を歩み、一期下の財部彪(山本の娘婿)に中佐進級で先を越されたとき退官を決意したが父の手紙で思い留まった。とはいえ反骨心旺盛な鈴木貫太郎は水雷の技量を磨き日清戦争に従軍、日露戦争では主力戦艦「春日」の副長として旅順閉塞作戦や黄海海戦に活躍し、戦中に第五駆逐隊司令に抜擢され旗艦「不知火」から4隻を指揮し日本海海戦で奮闘、猛烈な指揮ぶりは「鬼貫」と畏怖された。日露戦争の前、速力半減に代えて航続距離を伸ばした「マカロフ式魚雷」が開発され、海軍軍令部は総入替えを検討したが、一軍事課員ながら実戦感覚に優れた鈴木貫太郎は猛反対して山本権兵衛海相に談じ込み、半分は従来型を残すこととなった。果して日本海海戦、マカロフ式魚雷の遠隔攻撃はほとんど役に立たなかったが、鈴木貫太郎の第五駆逐隊は敵艦に肉薄して高速魚雷を打込み3隻撃沈の大戦果、鈴木の評価は一気に高まり「実戦の雄」と讃えられた。この他にも鈴木貫太郎は実戦の見地からしばしば秋山真之(海兵17期)参謀らに意見し、多くは的確だった。日露戦争で武名を馳せた鈴木貫太郎は海軍水雷学校長に就き、第二艦隊・舞鶴水雷司令官を経て山本権兵衛首相・斎藤実海相のもと海軍中央へ栄進(海軍省人事局長)、シーメンス事件で海軍上層部が失脚すると海軍次官に昇進し、海相と並ぶ海軍最高位の連合艦隊司令長官・軍令部長に栄達した。60歳を過ぎた鈴木貫太郎は満州事変を前に予備役へ退き侍従長兼枢密顧問官へ転出、天皇側近に加わり岡田啓介・米内光政(29期)と共に専横を強める陸海軍に対抗した。
- 徳川譜代の関宿藩出身で海兵(14期)・海大の成績も凡庸な鈴木貫太郎は海軍のエリート・コースから外れ、山本権兵衛の目に留まることもなかったが、日露戦争の活躍など叩き上げの「水雷屋」として頭角を表し、シーメンス事件も追い風となり海軍最高位の軍令部長・連合艦隊司令長官に栄達した。予備役編入後、侍従長へ転じた鈴木貫太郎は天皇側近の一員に加わるが、軍拡に反対する重臣グループは過激派から「君側の奸」と敵視され、鈴木は二・二六事件で反乱部隊に襲撃され3発の銃弾を受け瀕死の重傷を負った。テロに怯えた西園寺公望や木戸幸一が抑止役を放棄するなか、奇跡的に蘇生した鈴木貫太郎は枢密院の重鎮として軍部専横への反抗姿勢を貫き、太平洋戦争末期、昭和天皇の懇請により「終戦内閣」を引受けた。77歳の老骨に鞭打ち首相に就任した鈴木貫太郎は、米内光政(海兵29期)海相・東郷茂徳外相や重臣の岡田啓介(15期)らと連携し、強硬に「本土決戦」を主張する陸軍の干渉を巧みにかわし、昭和天皇の「聖断」によりポツダム宣言受諾を決定、クーデター未遂事件(宮城事件)の危難も乗越え、大日本帝国の幕引き役を演じ切った。艦隊勤務時代に「鬼貫」と渾名された鈴木貫太郎の硬骨は老いてなお健在で、命の危険を顧みず文民統治の役割を全うした。なお鈴木貫太郎内閣の失策として、望みの薄いソ連を仲介とする対米講和交渉に徒に時間を費し、ポツダム宣言発表当初の「黙殺」発言が終戦を長引かせ原爆投下やソ連軍侵攻の悲劇を招いたとする批判がある。確かに事実ではあるが、兵力を内地に集結させ「本土決戦」を叫ぶ陸軍は狂信者集団と化しており、首相といえどもダマシダマシ進めるしかない情勢であった。また、原爆使用はトルーマン米政権の規定路線であり(スターリンの満州侵攻も)、悪魔の所業を正当化するため鈴木貫太郎内閣の「黙殺」に責任を転嫁したとみるべきだろう。むしろ、内も外も敵だらけで物騒極まる状況にあって、天皇の「聖断」を演出し、内乱やクーデターを起させることなく終戦にこぎつけた鈴木貫太郎首相の手腕は鮮やかであった。戦後3年目、米内光政の死の3日後に鈴木貫太郎は80年の生涯を閉じた。
- 盛岡出身の米内光政は、苦学して海兵(29期)・海大へ進んだが成績は中程でエリートコースには乗れず、艦隊勤務から叩き上げた。海軍人の首相では岡田啓介・鈴木貫太郎と同型で、山本権兵衛・加藤友三郎・斎藤実の本流とは異なる。米内光政は、ロシア(ソ連)・ドイツ・ポーランド駐在を通じて国際協調派(条約派・良識派)の論客に台頭し、統帥権干犯問題で艦隊派が優勢になると鎮海司令官に「島流し」されたが読書三昧で学識を高め、斎藤実内閣・岡田啓介海相の派閥調整人事で第三艦隊司令長官に栄転、佐世保・第二艦隊・横須賀・連合艦隊の司令長官を経て林銑十郎内閣で海相に栄達した。この間、米内光政は後輩の山本五十六(海兵32期)・井上成美(第37期)と良識派トリオを組み対米英協調を説いたが、伏見宮博恭王元帥を担ぐ艦隊派は一層勢力を増し海軍軍縮条約を撤廃し建艦競争を再開した。ただ、中国には強硬な米内光政海相は近衛文麿首相・広田弘毅外相と共に「断固膺懲」を唱え日中戦争泥沼化に加担している。さて、ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の誘いが来ると、海軍艦隊派の岡敬純(海兵39期)ら反米英派は陸軍に同調し強硬に同盟締結を主張、対する米内光政海相は「五相会議」で討議を尽くし「日独伊の海軍力では米英に勝ち目は無い」と断言したが、モノグサの性分が出たか吉田善吾に海相を譲り予備役へ退いてしまった。が、第二次大戦が勃発し、複雑な三国同盟を棚上げした阿部信行内閣は米価高騰に躓き退陣、海外通の米内光政に組閣の大命が降った。米内光政首相は同盟阻止を貫いたが、海軍内でも突上げられ四面楚歌、陸軍は畑俊六陸相の辞任と後継指名拒否で米内内閣を倒した。次の第二次近衛文麿内閣で三国同盟は成立したが米内光政は山本五十六と共に対米妥協に奔走、開戦後は早期講和を唱え続け岡田啓介・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣と結束して東條英機内閣を打倒、次の小磯國昭から海軍消滅まで海相を担い終戦工作に尽力し、戦後3年で世を去った。ただ、「海軍善玉論」の立役者となった米内光政だが、鈴木貫太郎首相にポツダム宣言の「黙殺」を進言し原爆投下・ソ連侵攻の口実を与える失策を犯している。
- 山本五十六は、越後長岡から上京して海兵(32期)・海大へ進み、「アメリカ通」および「航空主兵論」で頭角を現した。海大を優等で卒業した山本五十六は、2年間米国ハーバード大学に学び、霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭を経て駐米大使館付武官に2年間在任、ロンドン海軍軍縮会議で次席随員を務め対米妥協に猛反対した。反米軍拡派(艦隊派)と目された山本五十六は統帥権干犯問題後の粛清を免れ、条約で押付けられた艦隊の劣勢比率を挽回すべく航空兵力の増強を提唱、志願して海軍航空本部に入り、海軍が石川信吾らの大鑑巨砲主義に染まるなか粛々と航空母艦・航空機の整備を進めた。米国の圧倒的な生産力を知る山本五十六は対米協調へ転じ米内光政(海兵29期)・井上成美(37期)と良識派トリオを組み艦隊派に対抗、米国を正面敵化する日独伊三国同盟に猛反対したが、米内内閣は陸軍の陸相拒否で倒され、伏見宮博恭王元帥を担ぎ海軍を掌握した岡敬純・石川信吾ら艦隊派は陸軍・松岡洋右に同調し第二次近衛文麿内閣で三国同盟を成立させた。芝居気が強くズケズケものを言う山本五十六は新聞記者の人気を博し度々マスコミに登場、米内光政は「茶目」と評したが、過激派には憎まれ暗殺予告文書を送りつけられた。テロの標的にされた山本五十六は艦隊勤務に出され、米内光政から海相を継いだ吉田善吾(32期)は艦隊派の突上げで退任、ナアナアの及川古志郎(31期)・嶋田繁太郎(32期)・永野修身(28期)らは南部仏印進駐・対米開戦へと引きずられた。連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は「勝っても負けても早期講和」の決意のもと自ら育てた航空兵力で真珠湾攻撃を敢行し「大博打」に勝利したが、快勝に浮かれた山本の連合艦隊司令部は「痛撃後の早期講和」を忘却し杜撰な作戦計画でミッドウェー海戦を強行、予想外の大敗で主要空母を失い緒戦の勝利は帳消しとなった。真珠湾攻撃に瞠目した米軍は航空兵力の大増産に乗出し続々と前線に投入、守勢に転じた日本軍が太平洋の制海権を削られるなか、茫然自失の山本五十六は為す術無く日を送り、前線視察に出た搭乗機を狙い撃ちされ非業の死を遂げた。
- ロンドン海軍軍縮会議から帰国した山本五十六は、末次信正軍令部次長に対し「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである。」と進言して航空兵力の重要性を説き、自ら海軍航空本部技術部長に就任、以後一貫して海軍における空軍力拡充を主導し、5年後には海軍航空本部長に昇った。山本五十六は、このときから10年前の海軍大学校教官在任中、教頭の職にあった山本英輔の影響で航空主兵論に目覚め、長期のアメリカ滞在を通じてその確信を深めていた。当時の海軍はパナマ運河開通を受けて石川信吾らが主導した大鑑巨砲主義に偏り、傍流の航空本部は巨大戦艦製造の予算を奪う形で苦労しながら航空母艦と航空機の整備を進めた。航空本部では、大西瀧治郎・源田実ら幕僚が山本五十六をよくサポートした。果して太平洋戦争が勃発し、連合艦隊司令長官に就いた山本五十六は、手塩に掛けた航空兵力と画期的な航空機爆撃によって真珠湾攻撃で快勝を収め航空主兵論の正しさを実証した。一方、大鑑巨砲主義の象徴である戦艦大和は、大戦直前に就役したものの使い道が無く、「大和ホテル」と嘲笑された挙句、大戦末期にようやく沖縄戦の特攻作戦に投入されたが、移動中に敵爆撃機の的にされあえなく撃沈した。真珠湾攻撃やシンガポール攻略戦で日本軍の航空兵力の威力を目の当たりにしたアメリカ軍は、すぐさま航空機と航空母艦の大増産に乗出して続々と戦線に投入した。アメリカの物量作戦により瞬く間に彼我の航空兵力は逆転し、太平洋戦争の勝敗を分ける決め手となった。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 広田弘毅内閣がワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を廃棄し、日英米の建艦競争が復活した。ロンドン海軍軍縮条約を巡る統帥権干犯問題の後、海軍良識派(国際協調軍縮)の多くが失脚し、加藤寛治軍令部総長・末次信正軍令部次長・大角岑生陸相・南雲忠一・岡敬純・石川信吾と続く艦隊派(反英米軍拡)が東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ主導権を掌握、米内光政・山本五十六・井上成美の良識派トリオが抵抗するも挽回ならず、建艦派は軟弱な広田弘毅首相を揺さぶり軍縮条約撤廃に漕ぎ着けた。海軍は再び建艦競争へ乗出すにあたり、石川信吾中佐の「大鑑巨砲主義」を採用し予算の大半を戦艦「大和」「武蔵」の建造に注込んだ。アメリカ太平洋艦隊の船幅が狭いパナマ運河の幅員に縛られることに付込み、超大型戦艦で主砲の射程距離を伸ばし安全圏から敵艦を砲撃するという戦略であった。一方、山本五十六らは航空兵力優位を主張したが海軍航空本部は十分な予算をもらえなかった。太平洋戦争が始まると、山本五十六の航空機爆撃は真珠湾攻撃・シンガポール攻略戦で華々しい戦果を挙げ、驚いたアメリカ海軍は航空機・空母の大増産を開始したが、大和・武蔵は使い道の無いまま戦争最末期の特攻に駆出され撃沈した。良識派が海軍の主導権を握っていれば予算の多くが航空兵力へ割振られた可能性があり、この点においても艦隊派の勝利は日本の不幸であった。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 二・二六事件後、陸軍中央では反乱将校および皇統派の断罪を主導した石原莞爾作戦部長が指導的地位に就き、日中戦争泥沼化を予期し停戦工作に奔走したが、石原に従う河辺虎四郎・多田駿らは少数派であり、蒋介石政府を侮り戦線拡大(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、武藤などは作戦部の部下ながら「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」などと愚弄する始末であった。石原莞爾は政府にも直接不拡大を説いたが、統制派以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相に拒絶され米内光政海相も断固膺懲を主張したため進退窮まり、石原は関東軍参謀副長に左遷され(関東軍参謀長の東條英機と衝突し予備役編入)河辺虎四郎・多田駿ら不拡大派も一掃された。この間の陸軍中央における政治空白は東條英機ら出先指揮官の独断専行を許し関東軍が自律的に戦線を拡大させる無秩序状態をもたらした。陸軍の指揮権を奪った武藤章ら統制派は、永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し、強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服するとの予測のもと大量兵力を投入し戦線を拡大させたが、上海・南京を落としても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の読み通り日中戦争は泥沼化し日本軍は不毛な消耗戦を強いられ、英米の中国権益を侵し蒋介石支援に奔らせる結果を招いた。
- 泥沼化の様相を深める日中戦争に対し、世論には厭戦ムードが広がり、張本人である陸軍の武藤章さえも停戦論に傾いた。そこで、オスカー・トラウトマン駐中国ドイツ大使を介して日中和解工作が進められ、停戦への期待が高まった。ところが、近衛文麿首相・広田弘毅外相は賠償金要求など非現実的な強硬論を主張し「軍部がかくの如く拙策をとって講和を急ぐ真意は理解できない」として折角の和解案を蹴ってしまった。国際良識派とされ後に日独同盟・対米開戦に反対する米内光政海相は、このとき断固膺懲を唱え、陸軍参謀本部の停戦要求に反対した。トラウトマン工作を一蹴した翌日、悪乗りした近衛文麿首相・広田弘毅外相は「蒋介石の国民政府を対手とせず、汪兆銘政府(日本の傀儡)を樹立してそちらと交渉する」との「第一次近衛声明」を発表した。蒋介石政府との和解への道を自ら塞ぐ軽挙妄動で日本は泥沼の日中戦争から抜けようにも抜けられない状態に陥り、蒋介石を援助する英米との妥協も著しく困難となった。対外硬パフォーマンスで国民大衆のウケをとった近衛文麿・広田弘毅は、更に「日本・満州・中国(汪兆銘政権)が提携して東亜新秩序を樹立する」というスローガンを帝国議会で開陳し「第二次近衛声明」として国内外に公表した。例に拠って近衛文麿に深い考えは無く、当時ナチス・ドイツが唱えていた「ヨーロッパ新秩序」に倣い日中戦争を正当化する目的で発したものとみられる。が、欧米列強にすれば現行の国際秩序に対する露骨な挑発行為であり、愚かな近衛声明により態度を硬化させたアメリカは天津事件を機に日米通商航海条約を破棄し日独伊三国同盟への敵対姿勢を鮮明にした。
- 一撃を加えれば蒋介石政権は屈服し日中戦争は早期に片付くという武藤章の「中国一激論」は挫折し日中戦争は泥沼化、武藤は自ら起草した「華北分離工作」を捨てて日中講和へ転じトラウトマン工作などに加担したが、陸軍以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相は和解案を一蹴し悪乗りの「近衛声明」で自ら日中講和への方途を塞ぎ、陸軍では田中新一・東條英機らの強硬論が優勢となった。田中新一は自他共に認める永田鉄山の後継者で、軍需資源を求めて日中戦争拡大を図ると同時に、対ソ連開戦を目論み事実上の開戦準備(関東軍特種演習)を断行した最強硬派であった。日中戦争で中国権益を侵された英米は蒋介石支援を強化(援蒋ルート)、反米英の田中新一は資源調達の代替手段を準備すべく東南アジア進出を強行し(南進政策)、武藤章は中ソ二正面作戦を回避すべく南進には同意したが国力が懸絶するアメリカとの戦争には反対で妥協は可能との考えであった。対する田中新一は、南進政策を採る以上イギリス権益との衝突は自明で大英帝国の国力低下は対ドイツ戦に不利に働く、となればイギリスを欧州安全保障の要に置くアメリカの軍事介入は避けられないと考え、援蒋ルートの遮断と対米開戦準備、さらに欧州でソ連・イギリスと対峙するナチス・ドイツとの同盟を強硬に主張した。結局、第二次近衛文麿内閣は田中新一・松岡洋右らの強硬策を採用し日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行するがアメリカの石油輸出全面禁止を招き、進退窮まった近衛が政権を投出すと統制派最年長の東條英機が首相に就き石油禁輸が致命的な海軍の同意を得て対米開戦を決定した。
- 近衛文麿内閣は、永田鉄山以来の陸軍統制派の悲願である国家総動員法を成立させた。徴用、賃金、物資の生産・消費など、国民が有するあらゆる権利を国防の名のもとに政府が統制できるという無茶苦茶な法律であり、軍部が総力戦を遂行するためには是非とも必要なものであった。国家総動員法案には、さすがに政友会や民政党も猛反対したが、なんと左翼の社会大衆党が党利党略から賛成にまわり、西尾末広代議士などは議会で勇ましい応援演説を打ち、政友会の重鎮尾崎行雄まで西尾を支持する有様であった。堕落した政党勢力に押し留める力はなく、近衛首相と軍部に押し切られる形で国家総動員法案が成立してしまった。
- 天津のイギリス租界内で、日本人に便宜を図った関税委員が反日中国人に殺害される事件が起った(天津事件)。日本は犯人の引渡しを求めたが、イギリス領事館が拒否したため、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章参謀副長らの強硬派が乗出し、国際紛争に発展した。日本国内では反英的な論調が盛んとなり、東京朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)をはじめとする大新聞各社がイギリスに対して強硬な共同声明を出すに至った。イギリスは日本との決定的対立を避けるために抵抗を止め、クレーギー駐日英大使が東京で有田八郎外相と会談、日本の要求を全面的に受入れて和解協定を結んだ。これで一件落着と思われた矢先に、突如としてアメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきた。ルーズベルト政権のハル国務長官は、近衛文麿首相の「東亜新秩序声明」や「イギリスは日本に降参した」とか「徹底的外交の勝利」といった日本の論調に露骨な不快感を示し、中国、イギリスその他を支援して日独伊に敵対行動をとることを表明した。日本は主要な軍需物資である鉄・石油・機械類を輸入に依存しており、特にアメリカからの輸入が各品目とも輸入額の約4分の3を占めていた。第一次近衛文麿内閣の悪乗りが招いた対米関係の悪化は日本にとって致命傷であり、万難を排してでも妥協点を探るべきであったが、逆に陸海軍は資源の代替供給源を求め南進政策を推進し第三次近衛内閣のもと南部仏印進駐を断行する。
- 組閣当初にナチス・ドイツから三国同盟提案を受け、平沼騏一郎内閣は翻弄された。陸軍は、アメリカとの関係悪化に配慮しつつも、ソ連を牽制するため三国同盟の締結を強硬に主張した。一方、海軍では、伏見宮博恭王を戴く反英米の艦隊派が優勢であり、岡敬純軍務局第一課長を筆頭に三国同盟を推す意見が強かった。こうした三国同盟派に待ったをかけたのが、米内光政・山本五十六・井上成美の海軍良識派トリオであり、海軍内の下克上を抑えつつ、平沼騏一郎内閣に働きかけて「五相会議」を繰返し、三国同盟阻止に奔走した。特に山本五十六は、新聞などにも登場してズケズケと物を言ったためにテロリストの標的となり、相次ぐ脅迫状に死を決意したほどであったが、屈しなかった。
- 阿部信行は、金沢から上京して陸士・陸大へ進み、長州閥「宇垣一成の寵児」として軍務局長・陸軍次官・陸相(宇垣陸相の臨時代理)と累進したが、実戦経験も金鵄勲章も無い唯一の大将は「戦わぬ将軍」「処世の将軍」と揶揄された。長州閥打倒で結束した永田鉄山ら一夕会・統制派が実権を掌握すると、阿部信行は「上りポスト」の軍事参議官に回され、二・二六事件に伴い予備役編入、頼みの宇垣一成内閣も石原莞爾らの妨害で流産した。が、平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約で倒れると、統制派にも皇道派にも属さない阿部信行に組閣の大命が降った。阿部信行は、陸軍穏健派の宇垣一成の後継者であると同時に、西園寺公望に代わり天皇側近の中心になりつつあった木戸幸一の縁戚で、海軍良識派の井上成美の義兄でもあった。阿部信行内閣の組閣に際し、強硬派の板垣征四郎が陸相を降ろされ昭和天皇の意を受けた穏健派の畑俊六が就任、三国同盟反対を譲らない米内光政海相も降板した。後任海相は同じ良識派の山本五十六が有力だったが、テロに遭う恐れがあるので海に出そうということで連合艦隊司令長官に転出、良識派に連なる吉田善吾が海相に就いた。さて、発足直後に第二次世界大戦の勃発に遭遇した阿部信行内閣は、複雑怪奇な日独伊三国同盟を棚上げし日中戦争処理に全力を挙げるも和平工作に失敗、流通促進のための米価引上げが物価高騰を招き、あまりの不人気に陸軍も倒閣に動き僅か4ヶ月余で総辞職に追込まれた。阿部信行は終戦直後、原田熊雄に「今日のように、まるで二つの国、陸軍という国とそれ以外の国とがあるようなことでは、到底政治がうまくいくわけはない。自分も陸軍出身で前々から気になってはいたがこれほど深刻とは思っていなかった。認識不足を恥じざるをえない」と弁明している。退陣後の阿部信行は、宇垣一成から東條英機に乗換え組閣を支援、翼賛政治会会長や貴族院議員の名誉職を与えられ、米内光政・宇垣らの東條内閣打倒の動きには加担しなかった。最後の朝鮮総督として終戦を迎えた阿部信行は、早々に米軍の護送で内地に戻り、A級戦犯容疑で逮捕されたが開廷直前に釈放された。経緯は今も謎である。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸幸一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
- 1941年、日独伊三国同盟にソ連を加え米英に対抗しようと夢想する松岡洋右外相は、ベルリンからの帰路モスクワへ立寄りソ連のスターリンを訪問した。独ソ関係が不穏で会談拒否も考えられたが、スターリンは快く松岡洋右を引見し席上電撃的に日ソ中立条約を受諾、当日中に調印まで済ませしてしまった。スターリンは諜報によりナチス・ドイツのソ連侵攻を掴んでいたとみられ、日独との両面戦争を何としても回避したい状況で松岡洋右の提案は渡りに船だった。モスクワ滞在中の松岡洋右に対しチャーチル英首相は英米の生産力の強大さを示しドイツのソ連侵攻を警告したうえで「イギリスの敗北が決していないのにドイツと組むのは時期尚早ではないか」と諭す書簡を送ったが、なんと松岡は「八紘一宇の大目的実現のためにやっているのだから構うな」と近代国家の外相とは思えない暴論で反駁した。「大手柄」を挙げた松岡洋右は万歳三唱をもって日本国民に迎えられ、マスコミが「北の脅威が薄れた。さあ南進だ!」と煽立てたため日本は南進論一色に染まった。が、チャーチルの警告どおり時を置かず独ソ戦が勃発、1945年日本の敗戦が決定的になるとソ連は有効期間5年の日ソ中立条約を一方的に破棄し関東軍が去った満州を蹂躙、松岡洋右はスターリンやヒトラーに愚弄されただけとなり「トリックスター」の面目躍如たる顛末を迎えた。
- 1940年11月末頃来日した二人のアメリカ人神父が近衛文麿首相と会談し、近衛首相・ルーズベルト米大統領会談を実現させ日米和解の一挙解決を図るという「日中国交打開策」を提案、対米開戦だけは避けたい政府も陸海軍も揃って賛同し当時欠員だった駐米大使に野村吉三郎(元海軍大将)を復職させ日米交渉を再開した。が、当時の外務省では近衛文麿内閣の強硬路線を受け松岡洋右外相(松岡の洋行中は近衛首相が外相兼任)を筆頭に大島浩・白鳥敏夫ら対米英強硬派が優勢で「バスに乗遅れるな」とばかりに「積極外交」を競演中、さらに不幸なことに野村吉三郎は門外漢のうえ阿部信行内閣で外相の任にあったとき大島・白鳥らを追払おうとしたため外務省エリートから総スカンを喰っていた。野村吉三郎大使は外務官僚のサポタージュに苦しめられつつも米国赴任2週間ほどでハル米国務長官との間で「日米諒解案」の最終案を作成、近衛文麿内閣は歓喜し陸海軍も賛成したが、日ソ中立条約の「大手柄」を携えモスクワから帰国した松岡洋右外相が猛反対し、近衛内閣が決定を渋る間に独ソ戦勃発で世界情勢は一変し雲散霧消となった。ただし「日米諒解案」なるものは野村吉三郎大使の一人よがりでハル国務長官の同意に基づくものではなく、松岡洋右ら「外交のプロ」が相手にすべきものではなかった、或いはアメリカは既に対日開戦を決意しており和解交渉は戦争準備のための時間稼ぎに過ぎなかったといった説もあり確かに肯ける状況ではあったが、とはいえアメリカにだけは勝ち目が無い日本としては交渉継続の努力をすべきであり自ら放棄する理由は全く無かった。
- 岡敬純軍務局長・石川信吾第二課長が及川古志郎海相の承認を得て、軍政(予算獲りと政権コントロール)に長けた陸軍に対抗すべく「海軍国防政策委員会」を設置、4委員を高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二の対米強硬派の大佐が占め次席の幹事役にも対米強硬派の三中佐が就任した。「不規弾」(暴走男)といわれた石川信吾の重用には反発が多く、山本五十六は南部仏印進駐を図る石川を「早く首にしろ」と迫るも及川古志郎海相に黙殺され乾坤一擲の真珠湾攻撃の構想に着手したとされる。海軍の国防政策や戦争指導は海軍国防政策委員会の独壇場となり、伏見宮博恭王元帥を後ろ盾に岡敬純・石川信吾が中心となって南部仏印進駐を強行、予期せぬ対日石油禁輸制裁に岡は弱気に傾いたが石川は動揺を隠すように先鋭化し対米開戦へ邁進した。帝国海軍痛恨の「大鑑巨砲主義」の主導者もまた石川信吾で、山本五十六らの航空兵力優先論を退け海軍の全精力を戦艦「大和」「武蔵」の建造に集中、膨大な燃料を食うだけの「大和ホテル」は役立たずのまま「特攻作戦」に投入され沖縄に辿り着くこともできず撃沈された。海軍の元凶というべき岡敬純と石川信吾は共に山口県出身で中学も同じ(東京目黒の攻玉社)、同郷の松岡洋右や末次信正(海軍艦隊派の首領)とは昵懇の間柄で、吉田善吾海相を突上げ三国同盟締結に貢献した。対米開戦後は東條英機ら陸軍が完全に主導権を握り、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相や永野修身軍令部総長は引きずられるだけ、海軍国防政策委員会の陰も薄くなった。終戦後、開戦時の軍務局長岡敬純は東京裁判で終身禁固刑に処されたが、「この戦争は俺が始めたんだ」と自慢した石川信吾は戦犯指定を免れた。
- 第一回御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定したのを受けて、近衛文麿首相は、強硬派で日本の外交を掻き乱してきた松岡洋右外相を外すため内閣を総辞職、すぐに松岡抜きの第三次近衛内閣を組閣した。「大東亜共栄圏」を掲げて対中強硬路線と南進政策を主張する松岡洋右は、第二次近衛内閣の外相に抜擢され、近衛首相と軍部の期待に応えて日独伊三国同盟締結と北部仏印進駐を主導した。しかし、松岡の外交思想は単に「漁夫の利」を求める場当たり的な機会主義的強権政治であり、国際政治情勢の変化によって右往左往し、政局を引っ掻き回した挙句に外相の地位を追われることとなった。ドイツ軍が欧州を席巻するなか、松岡外相の当初のシナリオは、「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を睨み、ドイツと同盟を結んで欧州戦争参戦の口実を整え、「南進政策」を推し進めてアジアの英仏蘭植民地を奪取する、ただし米ソとは不戦体制を構築するというものであった。しかし、ソ連とは日ソ中立条約を締結したものの、安全保障戦略上イギリスを失えないと判断したアメリカは大掛かりな経済・軍事支援に乗出し、大英帝国崩壊の可能性は消滅した。これで日独伊三国同盟は完全に裏目に出て、軍需物資の大半をアメリカからの輸入に頼る日本は窮地に陥り、南進政策は可能性の問題ではなく死活問題へと転化した。慌てた松岡外相は、南進政策反対と対米妥協に転じ、軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争の沈静化に動いたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打ち切らせた。アジアに対する強攻策も穏健策も否定する一方で、対米妥協をも否定するという意味不明の迷走を続けるなか、独ソ戦が勃発すると、今度はなんと対ソ開戦を主張した。「漁夫の利」を求める松岡には合理的であっても、対米妥協を図る近衛首相、南進政策に集中したい軍部から完全に見放され、閣外へ放逐されることとなった。松岡外相の「積極外交」は幕を閉じたが、その爪痕は甚大な禍根となり、関東軍特種演習(対ソ開戦に備えた関東軍増強)、南部仏印進駐、対米開戦へと続く亡国路線を決定付ける役割を果した。
- 独ソ戦緒戦でドイツ軍が優位に立つと、統制派の田中新一参謀本部第1部長が主導する陸軍中央と松岡洋右外相らのソ連挟撃論が台頭、これに引きずられた近衛文麿首相は、朝鮮や台湾に駐留する軍隊に動員令を発し、対ソ開戦に備えた関東軍の軍備増強を断行した(関東軍特種演習)。国際社会からの批判をかわすため「演習」と称したが、事実上の開戦準備であった。この結果、関東軍は74万人を超える大兵力となったが、北進政策(ソ連)から南進政策(仏領インドシナ)への転換により兵力は南方へと向けられることとなった。陸軍中枢では、南北(ソ連と英米)両面戦争を推進する田中新一ら強硬派と、戦争不拡大を図る武藤章の凌ぎ合いがあったが、武藤章は無謀な対ソ連開戦を阻止するため南進政策に同意したとされる。対米英強硬派が牛耳る陸海軍に引きずられた近衛文麿政府は、マスコミの扇動により南進論一色となった世論にも押され、北部仏印の駐留軍を南部仏印に移動させた。近衛首相も陸海軍首脳も、平和的進駐であればアメリカは強硬策に出ないと希望的に楽観していたが、アメリカは許さず、直ちに極東アメリカ軍を創設、在米日本資産凍結に踏切り、遂に石油禁輸の最終カードを切ってきた。近衛政府も陸海軍も激しく動揺したが、海軍幕僚の強硬論にズルズルと引きずられた。
- 日米の資源格差は著しく、そのまま国力の違いとなって戦争の勝敗を決定付けた。1944年における主要な軍需物資の産出量を比較すると、アメリカは、石油956倍、鉄鉱石26倍、石炭13倍、銅11倍、亜鉛9倍、アルミニウム6倍と、圧倒的に日本を凌駕していた。鉄鉱石は満州や朝鮮で産出したが、日本の領土と衛星国に産油地は無く、石油輸入の76%以上を依存する米国による禁輸措置は致命的であった。日本全体の石油消費量の3分の2を占める海軍にとっては特に深刻で、乏しい石油備蓄を考慮すると一日も座視できない状況に追込まれた。そこで、日本は、早々に対米協調路線を放棄し、蘭領東インド(インドネシア)など産油地の領有を求めて南進政策を採るが、これにより日米関係は破局を迎え対米開戦へと追込まれる。戦局の拡大につれて資源格差は一層深刻化し、日本敗戦の決定的要因となった。
- 日本軍の南部仏印進駐を受け、アメリカは近衛文麿政府と陸海軍の甘い期待に反し対日石油輸出全面禁止を断行、石油禁輸は軍関係だけでなく日本全体の死活問題であった。対日開戦を決意したアメリカは仏印撤退では矛を収めず満州事変以前への原状回復(満州・中国からの全面撤退)を要求、日本が呑めるはずもなく近衛文麿政府は9月6日の第二回御前会議において「10月上旬頃までに日米交渉が妥結できなければ対米開戦に踏切る」と決定した。御前会議開催にあたり、昭和天皇は統帥部トップの杉山元陸軍参謀総長と永野修身海軍軍令部総長を宮中に呼び日米戦争の帰趨について諮問した。陸軍の杉山元は「南方方面作戦を3ヶ月で片付ける」と豪語したが昭和天皇は「杉山は満州事変勃発当時の陸相で、その時は1ヶ月くらいで片付くと言ったが、事変は4年後の今になっても未だ片付いていないではないか」と痛烈に不信感を表明した。杉山元は沈黙したが、海軍の永野修身が「日米関係は手術するしかない瀬戸際にあり、手術には非常な危険があるが、助かる望みがないでもない」と何とも無責任な助け舟を出し場を収めてしまった。東條英機に敗れ陸軍を追われた石原莞爾は「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と猛反対し、海軍でも山本五十六が最後まで反対したが、強硬派が中枢を占める陸海軍は振上げた拳を下ろせず、自ら最悪の事態を招いた近衛文麿首相に今さら押戻す力は無かった。
- 第二回御前会議の結果を受けて、近衛文麿首相は野村吉三郎(海軍出身)駐米大使を通じて日米交渉を再開しようとしたが、時既に遅く、アメリカから相手にされなかった。近衛首相は閣議で対米妥協策を諮ったが、東條英機陸相から中国からの陸軍撤兵は「心臓停止」に等しく絶対に承認できない「人間、清水の舞台から飛び降りる覚悟が必要だ」と突上げられ、「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相は東條陸相に与し永野修身軍令部総長は「よくわからないので首相に一任」と責任を回避する情けない有様で、近衛首相は陸海軍の不一致を理由に土壇場で政権を放り出してしまった。後任首相は昭和天皇と木戸幸一内大臣の協議により決められたが、対米協調派の皇族軍人で軍部にも抑えが効く東久邇宮稔彦王が有力視されるなか、よりによって最大の主戦論者である東條英機を選んでしまった。愚かな決断をした木戸幸一の真意は不明だが、強硬派ながら天皇への忠節が厚い東條に任せれば天皇の意を汲んで開戦回避に尽力するだろうとの思惑があったとみられ、天皇は木戸の奏上に「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。首相となった東條英機は、陸相と参謀総長を兼務し、対米開戦を諌めた網本浅吉陸軍少将を追放するなどして反対勢力を一掃した。組閣直後は天皇の意に適うべく対米開戦回避に努めたが、戦争の決意を固めたアメリカを相手に中国・仏印からの完全撤退の他に打開策は無く、強硬な陸軍統制派を基盤とする東條首相には開戦以外の選択肢は残されていなかった。
- 「日米諒解案」が挫折した後も野村吉三郎駐米大使はワシントンに留まりハル米国務長官と妥協点を探る交渉を続けたが時既に遅し、開戦準備を終えたアメリカは突如交渉を打切り「日本軍が仏印と中国から撤退しない限り経済封鎖を解除しない」とする最後通牒(ハル・ノート)を東條英機政府に突きつけた。要するに満州事変以前への原状回復を迫る、当時の外交常識に反する超強硬姿勢であり、アメリカも日本が呑むとは考えておらず日本を挑発して開戦に踏切らせようとの意図があった。完全に手詰まりとなった東條英機内閣は、若槻禮次郞や米内光政ら良識派重臣の最後の諫止を黙殺し、第四回御前会議において対米開戦を決定した。なお、当時アメリカは日本の外交暗号「パープル」の解読に成功しており、日本サイドの情報は筒抜けであった。近衛文麿・東條英機内閣が対米開戦に踏切った背景にはナチス・ドイツ軍への過剰な期待があったが、確かにソ連の敗北は必至と思える戦況があった。東部戦線を片付けたドイツは西部戦線に兵力を集中しイギリスを撃破するはずであり、欧州に足場を失えばアメリカも戦意喪失し早期講和に応じるだろう・・・こうした希望的観測を陸海軍を含む日本全体が共有していた。が、東條英機内閣が第四回御前会議で対米開戦を決定した数日後、ドイツ軍はスターリンが陣取るモスクワまで30kmに迫りながら悪天候とソ連軍の猛反撃により後退を開始、ドイツ優位で進んできた独ソ戦の趨勢は一変し、甘い他力本願戦略には対米開戦を前に狂いが生じた。
- 日本軍がマレー侵攻と真珠湾攻撃を敢行、英米蘭中が日本に宣戦布告、これを受けて独伊が米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1941年において、アメリカのGNPと鉄鋼生産量はいずれも日本の12倍、持久戦・総力戦になれば全く勝つ見込みのない戦争であった。山本五十六連合艦隊司令長官が自ら立案した日本海軍による真珠湾攻撃は、結果的には鮮やかな戦果を挙げたが、非常にリスクの高い冒険的作戦であった。持久戦では勝ち目がないと確信する山本五十六は、日本近海で敵艦隊を待ち伏せし大鑑巨砲で決戦に挑むという軍令部の作戦の非を悟り、「桶狭間とひよどり越と川中島とをあわせ行うの已むを得ざる羽目に、追込まれる次第に御座候」と覚悟を定め乾坤一擲の大博打に挑んだのである。真珠湾攻撃が成功すれば早期講和に持ち込み、もし惨敗しても戦争は続行不能、いずれにせよ戦争を早期に終わらせるための攻撃作戦であった。山本五十六の悲壮な決意を知らない海軍中枢の幕僚らは、自分らの作戦に固執して真珠湾攻撃の阻止を図ったが、山本らが良い加減な永野修身海相を押し切って実現させた。なお、宣戦布告文書の手交が真珠湾攻撃開始に1時間遅れたため、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンで現在に至るまでアメリカの反日政策に利用されることとなったが、これは日本大使館員の怠慢が原因であり、日頃の野村吉三郎大使への反抗的態度が思いもよらぬ大問題に発展したというお粗末極まりない話であった。
- 山本五十六の連合艦隊司令部が推進するミッドウェー海戦計画を、陸軍が支援し、海軍軍令部が承認して実行に移された。ハワイ占領に向かう前哨戦として、真珠湾攻撃後残り少ないアメリカ軍の空母を叩いておこうという作戦であったが、戦勝に浮かれた山本五十六の連合艦隊司令部は、痛打を与えた後に早期講和に持ち込むという初志を忘れ、杜撰な計画のもとに作戦を強行した。アメリカの空母3隻に対して日本は4隻と優位な戦いであったが、南雲忠一機動部隊指揮官の大失策などにより、日本の4隻が全滅、敵の撃沈は1隻のみという想像もしない大敗を喫してしまった。連合艦隊は主力空母4隻を失ったことで真珠湾攻撃の戦果が帳消しとなり、一戦で攻守の立場が逆転してしまった。ミッドウェー海戦の敗報は秘匿され国民も陸軍も知らなかったが、日本軍の快進撃はこの敗戦で早くも終焉し、以後はアメリカ軍の圧倒的な物量作戦の前にジリ貧となる。
- 山本五十六の真珠湾攻撃勝利で有頂天となった日本海軍は、ラバウル島のさらに先、オーストラリアの手前ガダルカナル島まで野放図に戦線を拡大していた。アメリカ軍にとってダルカナル島は反抗の拠点オーストラリアと米本国を扼する重要地点であり、即座に奪回を決意した。アメリカ軍は、日本軍の工兵部隊が飛行場建設工事を行っていたガダルカナル島を襲撃して陸戦部隊を上陸させ、飛行場を完成させて一大基地としてしまった。日本軍はガダルカナル島奪回を期して猛攻を仕掛け、大激戦となったが完敗、5ヵ月後に撤退を決定した。日本軍のダメージは甚大で、陸軍が投入した兵力33,600人のうち、57%にあたる19,200人が戦死、その半数以上が病死や餓死という悲惨な戦いだった。戦略的には航空兵力の損失が重大で、約900機の飛行機が撃墜され、搭乗員2,362人が死亡、特に日本軍が育成してきたベテランパイロットの大半を失ったことが大きかった。ガダルカナル島陥落後、マッカーサーを指揮官とするアメリカ軍の怒涛の北上進撃が始まる。なお、ガダルカナル島を撤退した兵力はニューギニアに向けられ、1945年の終戦まで無益な戦闘を続けて15万人以上の死者を出すこととなる。
- アメリカの優秀な諜報機関は開戦後間もなく日本の外交暗号解読に成功し、ミッドウェー海戦後には海軍最高の暗号も筒抜けとなった。連合艦隊司令長官の山本五十六は、無傷のラバウル基地を視察機で発ちブイン飛行場へ向かったが、暗号を解読した米軍戦闘機にブーゲンビル上空で狙い撃ちされ墜落死した。山本五十六元帥は異例の国葬で送られ、盟友の米内光政が葬儀委員長を務めた。
- ナチス・ドイツから中東を奪還したルーズベルト米大統領・チャーチル英首相がカイロで会談(蒋介石中華民国主席も出席)、日本を無条件降伏に追込むまで共同で戦うこと・日本打倒後の支配地の剥奪などで合意し「カイロ宣言」を公表した。停戦条件を無条件降伏に限定された東條英機政府は一切の妥協手段を絶たれ、かといって軍部が受入れるはずなく、国土が壊滅するまで戦うほか選択肢が無くなった。が、間もなく米軍機動部隊のトラック島空襲で海軍拠点が壊滅、首相に陸相を兼ねる東條英機は杉山元から参謀総長職を奪って陸軍を完全掌握し、「大本営発表」で戦局悪化を偽りつつ本土決戦へ向け戦意発揚に努めた。海軍でも「東條の男めかけ」といわれた嶋田繁太郎海相が永野修身を更迭し軍令部総長を兼務、東條内閣への協力体制をとった。
- マッカーサー率いる米陸軍とニミッツ提督の米海軍は、ガダルカナル制圧後怒涛の北上進撃を開始し、マリアナ諸島・フィリピンに迫った。サイパン島陥落は日本本土がB29爆撃機の射程圏内に晒されることを意味し、絶対にここを落とせない日本軍はサイパン・テニアン・グアムに大規模陸軍部隊を投入し最大限の防御体制を構築、東條英機首相(兼陸相)は「サイパンの防衛は安泰、水際で敵を完璧に追い落とす」と豪語していた。が、アメリカ軍の圧倒的な物量作戦によりサイパンの防衛線はあっけなく壊滅、連合艦隊が総力を挙げて決戦を挑むが空母3隻が撃沈・航空機400機がほぼ全滅という完敗を喫し、補給路を絶たれ孤立したサイパン守備隊は玉砕し殲滅された。サイパンを制圧したアメリカ軍はテニアン・グアムを落としてマリアナ諸島全域を掌握、航空基地を建設し日本本土爆撃の準備を進めた。なお、一連の激戦により日本軍はサイパンで約3万人(民間人1万人)・グアムで約1万8千人もの戦死者を出した。この期に及んでもなお東條英機首相は勇ましい強硬論を振りかざしたが、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が結束し東條内閣を退陣に追込んだ。
- 戦局が悪化しても強硬論を曲げない東條英機首相(陸相と参謀総長を兼務)に対し、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣は結束して倒閣工作に動いた。東條独裁下の陸軍は頑強に抵抗したが、東條英機首相が自ら「防衛は安泰」と豪語したサイパン島が呆気なく陥落し敗戦が決定的になると、重臣会議は意を決して粘る東條を引きずり降ろした。「戦争遂行内閣」の後継首相は陸軍から出すこととなったが「陸軍大将を任官年次の古い順に見ていって適当な人物を捜す」という投遣りな選考の結果、宇垣一成の穏健派に連なる小磯國昭に組閣の大命が降された。陸相には強硬派の杉山元が就任したが、小磯國昭の能力不足を補うため元首相で海軍良識派の米内光政が海相に復帰し「小磯・米内連立内閣」といわれた。小磯國昭は、陸士(12期)を出て日露戦争に従軍、陸大の席次は55人中33番と凡庸だったが、長州閥の系譜を引く宇垣一成に属し派閥争いが盛んな陸軍にあって人柄と人付合いの良さで台頭、要職の軍務局長・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官を歴任した。小磯國昭大将は予備役に退いたが、調整能力を買われて平沼騏一郎・米内光政内閣に拓務相で入閣し、朝鮮総督を経て首相へ上り詰めた。小磯國昭に特筆すべき業績は無いが、朝鮮総督として同化政策(皇民化政策)を推進したことや、陸軍航空本部員として欧州視察を経験し空軍力の充実を持論としたことなどが知られている。さて、実は戦争終結を期待された小磯國昭内閣は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍を懐柔すべく「一撃を加えた上で有利に対米講和を進める」建前を示し徴兵年齢拡大(根こそぎ動員)を断行したが相手にされず、本土爆撃が本格化するなか愚にも付かない「本土決戦完遂基本要綱」を容認した。米内光政海相・重光葵外相や近衛文麿・木戸幸一ら重臣にも見放された小磯國昭首相が何も出来ないまま、レイテ沖海戦で海軍が壊滅し東京大空襲・硫黄島陥落・沖縄侵攻・日ソ中立条約廃棄通告と戦局は見る間に悪化し、戦艦大和撃沈の日に小磯内閣は退陣した。終戦後、小磯國昭は東京裁判で終身刑判決を受け1950年に巣鴨プリズンで獄死した。
- フィリピン奪回を目指すアメリカ軍に対して、総力を結集して決戦を挑んだ日本海軍は、初めて神風特別攻撃隊も投入(海軍重鎮の伏見宮博恭王が軍事上の禁じ手である特攻の封印を解いた)して善戦したが、「栗田健男艦隊の謎の反転」によりレイテ島奪回作戦は失敗、ほとんどの艦船を失って日本海軍は事実上壊滅した。両軍合わせて艦艇約200隻・飛行機約2,000機がぶつかり合う史上空前の大海戦であった。レイテ沖海戦敗戦により制海権を奪われて石油などの供給源である南方と日本本土を結ぶシーレーンが断絶、燃料の点でも海軍は戦争続行が不可能となった。なお、この後アメリカ軍はフィリピンに上陸し順次要衝を奪回するが、日本軍の抵抗は1945年の終戦まで続いた。フィリピン全域での戦闘における日本人の戦死者は47万人以上、生存者は僅か13万人であった。
- 小磯國昭内閣が徒に時間を費消するなか、相次ぐ戦勝に勢いあがるアメリカ軍は軍艦1300隻超・飛行機1700機以上・上陸部隊18万人の大軍勢を投じて沖縄に侵攻した。圧倒的な物量作戦を前に日本軍は牛島満中将・大田実少将が率いる10万人弱であり、ともかく人数だけは確保しようと沖縄の民間人2万5千人を動員、無残にも女学校の上級生600人まで徴用して「ひめゆり部隊」などに編成した。沖縄が落ちると「本土決戦」は自明であり、陸海軍は虚しい時間稼ぎのために残された総力を沖縄戦に投入、航空部隊は特攻作戦を繰返し、戦艦大和は沖縄に辿り着く遥か手前の豊後水道で撃沈した。日本軍の死闘にも関わらず、アメリカ軍は続々と上陸部隊を送込み、非戦闘員をも巻込んだ総力戦となった。沖縄戦の戦没者は20万人以上とされるが、その半分以上が沖縄の民間人であったといわれ、沖縄県人口約57万人の20%以上が亡くなった計算となる。
- 戦艦大和撃沈の日に、無策の小磯國昭内閣に代わって鈴木貫太郎内閣が発足した。鈴木は歴代首相中最高齢の77歳だった。鈴木は海軍出身だが、侍従長として長く天皇に近侍し、軍部に「君側の奸」と憎まれて二・二六事件で襲撃されて瀕死の重傷を負ったが、腰砕けの重臣グループにあってなおも軍部への抵抗姿勢を崩さなかった硬骨漢であった。鈴木は高齢を理由に首相就任を固辞したが、信任厚い昭和天皇から懇請され、貞明皇后からは「どうか陛下の親代わりになって」とまで言われ、「最後のご奉公」に乗出した。陸相には強硬派の杉山元に代わって無派閥の阿南惟幾が就き、海相は良識派の米内光政が留任した。鈴木貫太郎首相は、当初は軍部が固執する「本土決戦」に調子を合わせたが、最後には決然と「終戦内閣」の役割を演じ切った。
- ベルリン郊外ポツダムにおいて、トルーマン米大統領(ルーズベルト死去により後継)、チャーチル英首相、スターリン・ソ連共産党書記長が会談し、日本への無条件降伏勧告と植民地・占領地の剥奪、戦争犯罪人の処罰、民主主義体制の確立など太平洋戦争終結の条件を決定し、「ポツダム宣言」が発表された。鈴木貫太郎政府が回答を逡巡しているうちに、毎日新聞や読売報知が「笑止!」と煽り世論も傾いたため、「本土決戦」に固執する軍部は「完全無視」の声明を出すよう政府を突上げた。このため鈴木貫太郎首相は、米内光政海相の助言を受けて、「ポツダム宣言はカイロ会談の焼き直しであって、政府としてはなんら重要な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである。」と発表、外国の新聞は「黙殺」を「拒絶」と報じ、米ソに日本攻撃の口実を与えてしまった。
- 敗戦必至の戦局が徒に長引くなか、岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣が東條英機内閣を打倒し、無能な小磯國昭内閣に代わり昭和天皇の信任篤い鈴木貫太郎の「終戦内閣」が成立、ナチス・ドイツの降伏、ソ連の日ソ中立条約廃棄、沖縄戦敗北、空襲で国中が焼け野原と化すに及び漸く陸軍は「本土決戦」を断念した。鈴木貫太郎内閣と陸軍は中立条約締結国のソ連を仲介とする日米和平交渉に最後の望みを繋いだが、ヤルタ会談で米英に8月9日の対日参戦を約束済みのスターリンが仲介などするはずはなかった。かくして鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾を決めたが降伏条件で紛糾、「天皇制護持」のみで妥結を図る東郷茂徳外相らに対し、阿南惟幾陸相・梅津美治郎参謀総長・豊田副武軍令部総長は「占領は小兵力且つ短期間」「武装解除および戦犯の処置は日本人の手で行う」との条件追加を声高に主張した。議事が膠着するなか、鈴木貫太郎首相は強引に御前会議を開いて昭和天皇の「聖断」を仰ぎ、天皇は慣例を破って自らの意見を述べ天皇制護持だけを条件とする東郷外相案に賛意を示した。その8月10日のうちに外務省は中立国を介し天皇制護持のみを条件にポツダム宣言を受諾する旨を通知、連合国から承認の回答を得た。陸軍幕僚らは連合国の回答をあげつらって悪あがきしクーデターを企てたが(宮城事件)、辛くもテロを逃れた鈴木首相は全閣僚・重臣を召集、席上昭和天皇が連合国回答に基づく降伏を明言し、正式の手続きを踏んで8月14日に日本の敗戦が決定した。いわゆる「無条件降伏」ではなかったが、日本が固執した天皇制護持さえアメリカ(GHQ)の恣意へ委ねられ、あれだけ血気盛んだった軍人らも忽ち意気阻喪した。最悪なのは「無敵関東軍」で、日本人居留民の安全を確保する前に早々に武装解除に応じ我先に内地へ帰還、「降伏文書調印(9月2日)までは交戦状態」というスターリンの屁理屈でソ連軍が満州に殺到し無防備の日本人に襲い掛かった。暴虐なソ連軍は日本の民間人18万人を虐殺し、国際法を無視して57万人以上の「戦争捕虜」を強制労働で酷使し10万人以上を死なせた(シベリア抑留)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 東條英機逮捕でGHQの戦犯狩りが始まると、軍部・政財界・新聞各社はもとより日本国中が動揺の渦に包まれ、東久邇宮稔彦王首相・近衛文麿国務大臣を先頭に卑屈なGHQ詣でと浅ましい阿諛追従が横行した。対するアメリカは公然と「アメリカをよく理解し、進んでアメリカの対日政策に従っていこうという熱意ある人」以外を排除する方針を示し、従米派筆頭の吉田茂がGHQ参謀第2部長ウィロビーの手先となって戦犯指定や政府の人選に躍動した。一方、GHQに公平な統治を求める硬骨漢は極めて希で、その筆頭の重光葵外相は「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」といった無茶な要求の撤回には成功したものの、早くも9月17日に吉田茂への外相交代を強いられ、翌年A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄され東京裁判で禁固7年の有罪判決を受ける羽目となった。
- 終戦後、近衛文麿は新憲法準備に生残りを賭けた。幣原喜重郎内閣の副総理格の地位にあった近衛文麿は、GHQに赴いてマッカーサーと会談した際、「憲法改正を要する」との示唆を受けて自らこれにあたることを決意し、木戸幸一から昭和天皇に働きかけて宮内省御用掛に任じてもらい、京大の佐々木惣一元教授に頼んで憲法改正案の作成に着手した。こうした近衛文麿のスタンドプレーに幣原喜重郎首相と松本烝治国務大臣は反発し、近衛に中止を求めると共に、松本烝治を委員長として「憲法問題調査会(通称松本委員会)」を立上げた。近衛文麿は尚も独自の新憲法準備工作を継続しようとしたが、中国・オランダ・ソ連などから近衛を戦犯指定するよう迫られたGHQに梯子を外されてお払い箱となった。これで新憲法準備は松本委員会に一本化されたが、東大系法学権威を集めた老人組織は瑣末な文言修正に終始する有様で抜本的な改革案を出せず、結局GHQからの「押付け憲法」を受入れざるを得ない事態に追込まれた。さて、マッカーサーにすがるも見捨てられ東京裁判の審理に際しGHQから巣鴨刑務所への出頭命令を受けた近衛文麿は、出頭予定日の前日に荻窪の別荘「荻外荘」で青酸カリによる服毒自殺を遂げた。山下奉文らの死刑判決をみて極刑を免れないと覚悟した近衛文麿は、「勝者の裁判」で裁かれる屈辱に耐えられず自決に及んだとされる。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず」と国民に強要した東條英機は軍人のくせにピストル自殺に失敗、近衛文麿との対象もあり完全に面目を失った。なお、近衛文麿の死後しばらくの間、友人の吉田茂が「荻外荘」を借用し自邸として使った。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
伏見宮博恭王と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照