上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封
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佐竹 義重
1547年 〜 1612年
50点※
家系・子孫
- 佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。
佐竹義重と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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