分子生物学を志し京大から渡米してダルベッコ門下に連なり免疫学100年の謎「抗体の多様性」の解明で日本人初のノーベル生理学・医学賞を獲得、次なる未解明分野を求めMIT・理研で世界の脳研究をリード
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
利根川 進
1939年 〜 年
70点※
家系・子孫
- 利根川進の生家は備後福山藩士の家系で、曽祖父の利根川浩は東京高等師範学校(現筑波大学)卒のエリート教員で福山誠之館中学校校長や旧制第五高等学校(熊本大学の前身)教官を勤めた。利根川浩の娘に婿入りした利根川守三郎は東大卒の電気工学者で、逓信省通信技師・米英留学を経て東大と東工大で講師を勤め、電子技術総合研究所2代目所長・電子情報通信学会(会員約3万5千人)初代会長を歴任した。子の利根川勉は京大工学部で機械工学を修め、天満織物(現シキボウ)で各地の工場長を勤めた。利根川勉の岳父(利根川進の外祖父)益子愛太郎も東大卒の機械工学者で、東洋紡績(現東洋紡)の重役に就いている。富山県大沢野町・愛媛県三瓶町など田舎暮らしで一家は苦労したが、秀才に育った次男の利根川進は兄の利根川孝と一緒に東京の叔父に預けられ大田区立雪谷中学校から日比谷高等学校へ進学、一浪して京都大学理学部に入学した。分子生物学を志した利根川進は京大大学院を2ヶ月で辞めて米国へ渡り、レナート・ダルベッコ門下でライバルに揉まれ、「抗体の多様性」の解明でMIT教授となり日本人初のノーベル生理学・医学賞を獲得した。利根川進が妻に選んだ吉成真由美もまたMITとハーバード大学院で脳科学を修めた秀才で、NHKで教育番組等のディレクターを務めサイエンス・ライターへ転じた。利根川進・真由美夫妻は二男一女をもうけた。長男の利根川秀はMITから日系IT企業に就職、長女の利根川英はニューヨークのスキドモア大学からマスコミ業界へ進んだ。次男の利根川知は利根川進も驚く万能の天才児で父と同じサイエンティストを志していたが、入学間もないMITの学生寮で18歳の若さで急逝した(おそらく自殺)。
利根川進と同じ時代の人物
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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