前田利家の義甥で武勇絶倫の教養人ながら高禄を捨てて出奔し京都で一流文化人と交流、前田家が徳川家康に屈服するなか老骨に鞭打って上杉景勝に従軍し意気地を示した「天下一の傾奇者」
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前田 慶次郎(利益)
1533年 〜 1605年
50点※
前田慶次郎(利益)と関連人物のエピソード
- 前田利家は、織田信長の寵童から「槍の又左」へ成長し、下僕殺害で3年干されるが武功を重ねて能登国主に出世、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切り、親友豊臣秀吉の引立てで加賀・越中・能登三国の太守となり徳川家康の対抗馬に担がれた最も幸運な戦国武将である。武将としての実績は乏しいが、篤実な性格で敵からも信頼され、非情の決断と老獪な政界遊泳で大封の主に上り詰めた。尾張荒子2千貫の土豪の四男に生れ、14歳のとき家督相続間もない織田信長に小姓として出仕し、武芸を練磨して合戦毎に首級を重ねた。幸運の主豊臣秀吉は清洲・安土の侍長屋以来の親友である。1559年浮野の戦いで主君信長は尾張平定を完了し、利家は母衣衆(親衛隊)に抜擢され妻まつ(芳春院)も迎えたが、信長を真似た「かぶきもの」が嵩じて同朋衆拾阿弥を斬殺し放逐された。桶狭間合戦で一番首、森部の戦いで首二つを挙げて勘気赦免されると、信長の命令で兄利久(前田慶次郎の養父)を廃して前田家当主に納まり、石山合戦で単騎敵を防ぎ「日本無双の槍」と激賞され織田家大名衆に連なった。1575年長篠合戦で鉄砲隊を率いて奮戦し、佐々成政・不破光治との相持ちで越前に10万石を与えられて柴田勝家の与力に参陣、1580年本願寺顕如の降伏で90年間加賀を支配した一向一揆も解体すると、柴田軍団は加賀・能登を制圧、前田利家は能登23万石を与えられ小丸山城に拠って上杉謙信勢と対峙した。そして1582年本能寺の変で信長が討死、44歳の前田利家は自ら槍を奮って能登国人の反乱を鎮圧し、翌年賤ヶ岳合戦が勃発すると柴田方で出陣するも突如戦線離脱、秀吉方に転じて北ノ庄攻めの先鋒を務め能登に加賀二郡を加増されて尾山(金沢)城へ移り、1585年佐々成政の反乱を撃退して(末森城の後巻)越中を加封され三国の太守となった。天下統一を急ぐ豊臣秀吉が人質攻勢で徳川家康を懐柔すると、前田利家は家康牽制の対抗馬に担がれ、秀吉の遺言により五大老筆頭・秀頼後見として大阪城に入ったが、家康との一触即発の騒乱を鎮めた直後に死去、翌日石田三成が加藤清正・福島正則らに襲撃され早くも豊臣政権崩壊の兆しが現れた。
- 中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
- 柴田勝家は、織田信長の畿内制圧で台頭し北陸方面軍を託されたが、明智光秀討伐の先を越された豊臣秀吉に主導権を奪われ賤ヶ岳の戦いで滅ぼされた織田家筆頭重臣である。尾張の土豪に生れ、織田信秀に出仕して重鎮となり、嫡子信長の家督相続に次男信行を擁して反抗したが、稲生の戦いに敗れて剃髪謝罪し、信長に帰順して信行暗殺に加担した。上洛戦から重用され、南近江長光寺城の籠城戦では六角義賢を撃退して「瓶割り柴田」の渾名を授かり、各地を転戦して信長包囲網を凌ぎ切った。1573年武田信玄の急死で視界が開けた織田信長は、浅井・朝倉氏を屠り、長篠の戦いで武田氏を殲滅したが、1575年越前で朝倉遺臣の反乱に続き一向一揆が蜂起、総動員で一揆を鎮圧した信長は柴田勝家に越前8郡49万石と北ノ庄城を与えて主将に据えて北陸軍団を編成、加賀一向一揆・越後上杉謙信と対峙する構えをとった。この間、足利義昭の将軍擁立や本願寺顕如との和睦に働いた明智光秀、浅井・朝倉攻めの殊勲者豊臣秀吉、伊勢攻略と長島一向一揆平定の滝川一益ら、素性不詳の門外漢が台頭し、勝家・丹羽長秀ら譜代家臣との軋轢が深まった。甲斐征伐を終えた信長は上杉謙信との対決を決意、1577年柴田勝家の大軍を派遣するも加賀南部手取川で迎撃され惨敗、しかし翌年謙信が急死し後継争いで上杉家は弱体化(御館の乱)、秀吉の中国攻めと光秀の丹波攻略を横目に見つつ柴田勝家は攻勢を強め、1580年本願寺顕如の降服で加賀一向一揆が解体されると一気に加賀・能登を制圧、上杉景勝領の越中に殺到した。そして1582年、魚津城を騙し討ちで落とした直後に本能寺事変が勃発、激怒する上杉勢の抵抗に遭った勝家軍は身動きがとれず、神速の中国大返しで駆け戻った秀吉が信長の仇討を果した。直後の清洲会議で秀吉は織田家当主に三法師を擁立し丹波・山城・河内の光秀旧領を獲得、焦る勝家は滝川一益・織田信孝と結び長宗我部元親・紀伊雑賀衆も動かして反抗したが、頼みの丹羽長秀・前田利家に養子の柴田勝豊まで篭絡され、佐久間盛政の軍令違反で大敗、北ノ庄城まで攻め込まれ討ち滅ぼされた(賤ヶ岳の戦い)。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 豊臣秀吉は、尾張の下層民から滅私奉公と才覚で織田信長の重臣に躍進、弔い合戦で明智光秀を討ち、柴田勝家と信長の息子を滅ぼして天下統一を果たすも愛児秀頼が徳川家康に滅ぼされた戦国下克上の出世頭である。尾張の「あやしき民」から放浪生活を経て20歳前後で織田家の小者(下働き)となり、士分で裕福な浅野家から妻ねね(北政所)を迎え、真冬に信長の草履を懐中で温めた話や墨俣一夜城伝説が象徴する抜群の要領と自己アピールで台頭し30歳過ぎには高級将校に列した。但馬攻略を指揮し、浅井長政離反時の退却戦(金ヶ崎の退き口)で信長の窮地を救い、近江攻略の勲一等で浅井家遺領20数万石と長浜城を与えられ織田家屈指の将領となったが、古参の柴田勝家と丹羽長秀への気配りも忘れず一字ずつもらって羽柴秀吉を名乗った。上杉謙信との対決(手取川の戦い)で主将の柴田勝家と反目し戦線離脱の重罪を犯すが、馬鹿騒ぎ戦術で信長の逆鱗をかわし、1577年逆に中国・毛利攻めを任されると、毛利方に寝返った別所長治を兵糧攻めで討ち(三木の干殺し)、梟雄宇喜多直家を調略して4年で播磨・但馬・備前国を完全制圧、山陰に転戦して因幡鳥取城を兵糧攻めで落とし(鳥取の渇え殺し)、1582年備中高松城を水没させて毛利軍と対峙した。この間、軍師の竹中半兵衛を病気で喪ったが、播磨攻めで得た黒田官兵衛もまた逸材だった。信長の猜疑心を熟知する秀吉は、養子の秀勝(信長の四男)に近江経営を任せて赤心を示し、大量の土産物で機嫌をとり、備中攻めの果実を献上すべく信長に出馬を要請した。が、その途上滞在した京都で織田信長が落命(本能寺の変)、黒田官兵衛の激励で天下獲りに目覚めた豊臣秀吉は、毛利との講和を妥協して片付け、大急ぎで畿内へ進軍(中国大返し)、僅か11日後には明智光秀を討ち果し(天目山の戦い)、その14日後の清洲会議で柴田勝家の推す織田信孝(信長の三男)を退けて三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に擁立、自身も旧明智領28万石を獲得し名実共に織田家の最高実力者に躍進し、織田家簒奪を睨み「人たらし」の才を駆使して人心掌握に励んだ。
- 1582年の本能寺の変の後、信長の仇を討ち三法師(信長の嫡孫)を織田家当主に据えて野心を顕にする豊臣秀吉と、織田家大事の織田信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益が鋭く対立したが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝、柴田・信孝を攻め滅ぼして織田家を掌握した(賤ヶ岳の戦い)。豪壮な大坂城を築いて権威を誇示し、織田信雄・徳川家康の抵抗を退け(小牧・長久手の戦い)、1585年関白に就いて織田家簒奪を完成した。信長の果たせなかった天下統一戦に乗り出した豊臣秀吉は、長宗我部元親を降して四国を押さえ、母と妹を人質に送って強敵徳川家康を懐柔、惣無事令に逆らった島津義久を降して九州まで征すると、1590年矛先を東に転じて後北条氏を滅ぼし(小田原征伐)、伊達政宗ら東北諸大名も従えて全国統一を成遂げた。この間、兵糧・兵員確保と一揆抑制のため、刀狩令、海賊停止令、太閤検地、身分統制令、楽市楽座、関所撤廃といった領民統治政策を推進して中央集権的近代秩序を全国に及ぼし、宣教師を尖兵に植民地化を企むスペインとローマ教会の野望を阻むためキリシタン弾圧に舵を切った。豊臣家の天下成って太平の世が訪れると、仕事=戦争と出世の機会を失った武士階級の欲求不満は野心家の棟梁を外征へと駆り立てた。1591年豊臣秀吉は明侵攻(唐入り)を宣言、前線拠点の肥前に名護屋城を築き、明の属国李氏朝鮮に攻め込むと、世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍は忽ち半島を席巻、首都漢城から平壌まで制圧し明の大軍も撃退するが、補給難のため釜山まで退き明と講和した(文禄の役)。間もなく側室淀殿が待望の男児秀頼を出産したが、豊臣秀吉は耄碌して別人となった。邪魔になった養子の関白秀次を眷属諸共斬殺し、確たる改善策もないままに再び朝鮮出兵を敢行(慶長の役)、石田三成ら文治派(淀殿派)と加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派(北政所派)の対立という豊臣家滅亡の火種を残したまま、秀頼の行く末のみを憂いつつ62年の生涯を閉じた。
- 石田三成は、豊臣秀吉の下で兵站・太閤検地・土木事業を担い、上杉・佐竹・島津・津軽等を圧伏して文治派筆頭官僚に躍進するが、朝鮮出兵と秀次事件で武断派に憎悪され秀吉没後すぐに失脚、己の復権のため関ヶ原合戦を起すが徳川家康の罠に嵌って惨敗した「才あって智ない」豊臣家崩壊の元凶である。近江の土豪の次男に生れ、織田信長の畿内侵攻で長浜城に入った豊臣秀吉に出仕、文吏的才幹と適度な剛直さを買われ弱冠18歳で奏者(取次役の秘書官)に抜擢され、本能寺事変後に秀吉が織田家を簒奪すると、軍師黒田官兵衛や千利休を遠ざけて政権運営の中核へ台頭、天下統一戦の兵站から太閤検地等の統治政策、堺・博多の商業都市管理、聚楽第・方広寺等の土木事業、本願寺の寺内成敗と西本願寺建設とフル回転し、外交面でも直江兼続と連携して上杉景勝を帰順へ導き、九州征伐では島津義弘を懐柔、小田原征伐後の宇都宮仕置・奥州仕置でも辣腕を振るい、諸大名に畏怖されて絶頂期を謳歌した。1592年全国統一成った豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始(文禄の役)、総奉行に任じられ出征した石田三成は小西行長と共に面従腹背で講和を図り(文治派)、目障りな軍監の黒田官兵衛・浅野長政を追払い、秀吉の命令を墨守し勇敢に戦った加藤清正・福島正則・黒田長政らと対立(武断派)、指揮が乱れ兵站の利を失った日本軍は釜山撤退を余儀なくされた。その直後に豊臣秀頼が誕生し、秀吉が甥の関白秀次を一族諸共惨殺する事件が発生、秀次の遺領配分で、武断派が首謀者と信じた石田三成は近江佐和山19万4千石に代官地7万石を獲得し、三成の讒言で謹慎に処された加藤清正らの憎悪に油を注いだ。三成・行長は耄碌した秀吉を誤魔化して講和を図るが術策破れて再出兵(慶長の役)、後方支援を担う三成は秀吉が総大将小早川秀秋から取上げた筑前・筑後30万7千石を代官地に加えたが、1598年大阪城で豊臣秀吉が死去、五大老・五奉行の合議で朝鮮出兵は即時打切られ、虎の威を喪った三成は一転窮地に陥った。
- 朝鮮出兵から帰国した武断派諸将の報復を恐れる石田三成は、大阪城に入った前田利家を頼り、太閤遺命に背いた徳川家康を糾弾して豊臣家の再結束を図るが、三成憎しの豊臣恩顧大名が挙って家康へ奔るという極めて皮肉な結果を招いた。間もなく前田利家が死去すると、その翌日に加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は伏見城の家康のもとへ逃れて窮地を凌ぐが五奉行辞任・佐和山城退去を呑まされた。そして1600年、己の復権を目論む石田三成は、盟友上杉景勝・直江兼続の会津挙兵を皮切りに打倒家康を宣言、大阪城の豊臣秀頼を確保して毛利輝元を西軍総大将に迎え、鳥居元忠の守る伏見城を血祭りにあげ、美濃大垣城に拠って会津征伐から戻る東軍を待構えたが、野戦上手の家康にまんまと関ヶ原へ誘い出され、有利な兵数と布陣ながら本気で戦ったのは三成自身と盟友の大谷吉継・小西行長に外様の宇喜多秀家のみで、吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで西軍は壊滅、捕えられた石田三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に京都六条河原で斬刑に処された。関ヶ原合戦後、偽りの領国安堵に釣られた毛利輝元が大阪城を明渡して勝負あり、一気に豊臣から徳川への政権交代が成り、宇喜多秀家の改易、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣の大減封など国土の3分の1もの大名再編が平穏裏に実施され、豊臣秀頼・淀殿は難攻不落の大阪城に西軍浪人を掻き集めて抵抗するも大名で味方する者は無く1615年大坂陣で滅ぼされた。創業者の耄碌とお家騒動、不徳の後継者と仲間割れ、世間知らずの後家さんと無能な取巻きがもたらした自滅劇であった。
- 上杉景勝は、武田勝頼に臣従して御館の乱を制し叔父の上杉謙信を承継、極端な自派優遇策が新発田重家の反乱を招き織田信長に攻込まれるも本能寺の変で危機一髪、豊臣秀吉に仕え会津120万石・五大老に昇進するが中途半端に石田三成に加担し米沢30万石に没落した。超寡黙・無表情で家政は直江兼続に任せたが合戦には強かった。1564年宇佐美定満が上杉謙信の三条長尾家と対立する上田長尾家の当主政景と共に溺死し、8歳の嫡子景勝は謙信の養子にとられ越後坂戸城から春日山城へ移された。上杉景勝は上田衆を率いて武勇を示し、謙信から弾正少弼の官位を譲られ一門衆筆頭と目されるも世子の明示は無く、1578年謙信が急逝すると相養子の上杉景虎(北条氏政の実弟)との激烈な家督争いが勃発、北条と甲相同盟を結ぶ武田勝頼が信越国境に迫り窮地に陥ったが妹菊姫の入輿を乞い東上野と膨大な献上物を差出して勝頼篭絡に成功、上杉景虎・道満丸父子と上杉憲政(謙信の養父)を滅亡に追込んだ(御館の乱)。が、2年の内乱で上杉家は弱体化し極端な上田衆優遇に怒った新発田重家らが伊達輝宗・蘆名盛隆を後ろ盾に蜂起、1582年武田を滅ぼした織田軍団が越中・信濃・上野の三方面から越後へ殺到し柴田勝家に越中魚津城を落とされたが信長討死で蘇生、天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪い取った。越中の佐々成政を牽制しつつ新発田重家を攻めるも討死寸前の惨敗(放生橋の戦い)、しかし蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った重家を押返し、1586年豊臣秀吉に臣従し越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第を認められると重家を討って越後を回復、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)領地は90万石に膨らんだ。1598年蒲生騒動を機に秀吉から会津120万石と徳川家康の押え役を託されると、1600年家康を会津征伐に誘い出し盟友石田三成が関ヶ原合戦を起すが家康追撃を説く直江兼続を「義に非ず」と退け挟撃策が破綻、最上義光を攻めるも打破れず西軍完敗で撤退し(慶長出羽合戦)、上洛して家康に陳謝し改易は免れたが米沢藩30万石へ落とされた。
- 直江兼続は、豊臣秀吉に取入って上杉景勝を会津120万石へ押上げるも時勢を見誤って石田三成に肩入れし出羽米沢藩30万石へ転落させた「愛」冑の田舎軍師である。上田長尾政景に仕えた樋口兼豊の長男で、御館の乱を制し上杉謙信の家督を継いだ景勝(政景の嫡子)に出仕、1581年刃傷事件で横死した直江信綱の未亡人を娶って直江家と越後与板城を承継したが、極端な上田衆優遇策が謙信遺臣の離反を招き新発田重家の乱を招来した。翌年織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼし、柴田勝家に越中魚津城を落とされ信濃・上野からも織田軍団が越後へ迫るが間一髪で本能寺の変が勃発、蘇生した上杉景勝は天正壬午の乱に乗じて北信濃4郡を奪取し、新発田を攻めるもあわや討死の大敗を喫した(放生橋の戦い)。直江兼続は天下人豊臣秀吉に活路を求め石田三成に接近、蘆名盛隆の急死と伊達政宗の越後放棄で後ろ盾を失った新発田重家から新潟城・新潟港と沼垂城を奪還し、1586年景勝共々上洛して秀吉に臣従を誓い越中・上野の放棄に替えて佐渡・出羽の切取り次第の墨付を獲得、翌年重家を討って越後回復を果し、本間氏を降して佐渡を併せ、大崎合戦に乗じて最上義光から出羽庄内三郡を奪い(十五里ヶ原の戦い)景勝は90万石の大封を獲得、兼続は占領統治と経済政策に辣腕を発揮した。1598年徳川家康を警戒する秀吉・三成は力量不足の蒲生秀行を移封し上杉景勝を会津120万石に抜擢、直江兼続は米沢30万石を分与され陪臣ながら大大名に列した。秀吉に続いて前田利家が没すると加藤清正・福島正則ら武断派は憎悪する三成を襲撃、家康の裁定で失脚に追込まれた三成は景勝・兼続と謀議を巡らし、会津へ戻った景勝は家康の上洛命令を拒絶し兼続は「直江状」で挑発した。1600年おそらく筋書き通りに家康は会津征伐を敢行し三成は隙を衝いて挙兵、直江兼続は関ヶ原合戦へ向かう家康の追撃を説くも景勝は「義に非ず」と退け最上義光攻めを決断し、兼続は圧倒的大軍で攻めるも敗退した(慶長出羽合戦)。結果として小早川秀秋の寝返りと毛利輝元の大阪城放棄で西軍は予期せぬ完敗、追撃策を捨てた景勝は米沢藩30万石へ削られるも改易は免れた。
- 長尾氏は、坂東八平氏の一流を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏に属して繁栄し、上野・武蔵守護代の長尾景仲は主家を宰領したが子の長尾景春が反乱を起し没落した。越後守護代の長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ、扇谷上杉朝良を降し長享の乱を制した三条長尾能景が越後の実権を掌握したが、越中般若野の戦いで一向一揆に討たれた。嫡子の長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討って越後を牛耳り、傀儡守護の上杉定実に妹を嫁がせ、高梨政盛の娘を娶って四児をもうけた。後を継いだ嫡子の長尾晴景は弱腰を侮られ守護上杉定実を担ぐ国人衆が蜂起、弟の景康・景房が反乱の渦中に落命した。側室(青岩院)腹の末弟長尾景虎(上杉謙信)は、13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破し、家臣・国人衆に推されて兄晴景から家督を奪い、上田長尾政景と揚北衆を降して(後に謀殺)越後平定を果し、北条氏康に追われた上杉憲政から関東管領・山内上杉氏の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝した上杉謙信は生涯女犯戒を貫いて子を生さず(童貞説あり)後継を定めず急逝、4人の養子のうち上杉景虎(北条氏康の実子)と上杉景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の壮絶な家督争いが起り(御館の乱)、武田勝頼に臣従し妹菊姫(信玄の娘)を妻に迎えた景勝が勝利したが最強上杉軍は弱体化した。上杉景勝は、謙信遺臣(三条長尾系)を排斥し直江兼続ら上田衆を極端に優遇したため新発田重家の乱を招来、織田信長の猛攻に晒され封前の灯火となったが本能寺の変に救われ、養子の義真を人質に出して豊臣秀吉に臣従し会津120万石・五大老に栄進したが、石田三成と通謀した直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、改易は免れるも出羽米沢藩30万石に大減封された。景勝没後は一子上杉定勝が米沢藩を継いだが、その一子上杉綱勝に後嗣が無く上杉氏は断絶、吉良上野介義央(忠臣蔵の敵役)の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保った。15万石に減封された米沢藩は日本屈指の貧乏藩と揶揄されたが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名を返上した。
- 最上義光は、伊達氏から独立し謀略を駆使して出羽国人を切従え、関ヶ原の戦いで上杉景勝を撃退し山形藩57万石に躍進した羽州探題の名門大名、愚孫最上義俊が家臣団の総スカンを喰い改易に処された(最上騒動)。羽州探題最上氏は国人割拠で衰退し最上義定は陸奥守護伊達稙宗に臣従、養嗣子の最上義守は天文の乱に乗じて自立を図り将軍足利義輝を後ろ盾に勢力拡大を図るが寒河江兼広に敗れ挫折、長男義光の廃嫡を企て一旦隠居に追込まれるも同族の有力国人衆「最上八楯」及び娘婿の伊達輝宗に担がれ義光討伐軍を挙兵、1574年四面楚歌の義光は必死の防戦で和睦に漕ぎ着け伊達氏からの完全独立を果した(天正最上の乱)。足元を固めた最上義光は鮮やかな個別撃破戦術を展開、里見民部の寝返りを誘って上山城主上山満兼を討たせ、馬揃え参陣を拒否した小国城主細川直元を包囲殲滅、東禅寺義長を寝返らせて大宝寺義氏を討ち庄内を平定、羽州探題を僭称する白鳥長久を山形城に誘込んで自ら斬殺し谷地城を奪取、強豪延沢満延に娘を縁付けて自陣に引込み最上八楯を切崩すと寒河江城主寒河江高基・東根城主東根頼景を攻め滅ぼし盟主天童頼澄を天童城から追放して1584年出羽最上郡平定を達成、横手城主小野寺義道の南進を撃退し、大宝寺義興を滅ぼして庄内支配を固めた。1588年大崎合戦で伊達政宗を撃退するが隙を衝いた上杉景勝が本庄繁長・大宝寺義勝(繁長の実子)を派して庄内を奪還(十五里ヶ原の戦い)、豊臣秀吉に帰順し羽州探題に補された最上義光は景勝の惣無事令違反を訴えるが黙殺され奥州仕置で出羽山形城24万石が確定、石田三成と昵懇の景勝・直江兼続に対抗するため徳川家康に接近し、秀次事件で愛娘駒姫が殺されると完全な家康党となった。1600年会津征伐軍が上方へ転戦し最前線で孤立した最上領に直江兼続率いる上杉軍・小野寺軍が殺到、最上諸将は寡兵で猛攻を凌ぎ東軍勝利の報を得た最上義光は兜に被弾しながら上杉軍を追撃し庄内を奪還、関ヶ原合戦後に領有を認められ出羽山形藩57万石を立藩した。義光の死から3年後に後嗣最上家親が急逝し、1622年最上騒動が起り最上家は自滅した。
前田慶次郎(利益)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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