前田利家の義甥で武勇絶倫の教養人ながら高禄を捨てて出奔し京都で一流文化人と交流、前田家が徳川家康に屈服するなか老骨に鞭打って上杉景勝に従軍し意気地を示した「天下一の傾奇者」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
前田 慶次郎(利益)
1533年 〜 1605年
50点※
家系・子孫
- 前田氏は、尾張海東郡荒子(2千貫≒4千石)を所領した土豪で、菅原道真が筑紫流罪後に生した男児の末裔を自称するが根拠の「梅鉢紋」は天満宮や別当寺の安楽寺領に広く分布する家紋で現実味は薄い。荒子城主の前田利昌は林秀貞の与力として織田信秀に仕え、嫡子の前田利久は無嗣のため後妻が産んだ子(胤は前夫の滝川儀太夫か)を跡取りにしたが、織田信長の介入で強引に隠居させられ弟の利家に家督を奪われた。この利久の養嗣子が後に前田家を出奔し天下に武名を馳せる前田慶次郎利益である(嫡子の正虎は前田家に留まり2千石を供されるが無嗣没)。前田利家は、信長の寵童(男色相手)から近衛将校、大名となり信長から「この男は少年の頃は俺の側に寝させた秘蔵子だ」と言葉をかけられ積年の武功を賞されたが、男色盛行の当時において主君の寵愛は栄誉であり前田家では「鶴の汁の話」として代々語り伝えた。前田利家は、寄親の柴田勝家を見限って旧友の豊臣秀吉に属し徳川家康の対抗馬に担がれて加賀・能登・越中の太守となった。ドラマでお馴染みのまつ(芳春院)を正室とし、他にも妻妾を抱えて六男八女をもうけ、家督は嫡子の利長(無嗣没)から四男の利常(秀吉の落胤説あり)へ受け継がれた。利家の死後徳川家康と謀臣の本多正信は加賀征伐を画策、前田利長は豊臣秀頼に救援を求めるが因循な淀殿一党に断られ、芳春院の人質送致と世子利常への珠姫(徳川秀忠の娘)入輿という屈辱的条件を呑んで恭順したが、関ヶ原合戦後に加増を受け諸藩中最大版図の122万5千石を獲得し戦国争覇の準優勝者となった。利家の次男利政は西軍に属すも後嗣の直之は重臣「加賀八家」の一祖となり、五男利孝は芳春院の奔走で七日市藩を立藩、三女の摩阿姫は秀吉側室の加賀殿である。幕府恐怖症が宿痾となった前田家は、10万石で招聘した流浪の立花宗茂から「腰抜けの分際で生意気申すな」と侮辱されつつ、監視役の本多政重(正信の次男)を家中最大の3万石で受入れ(加賀八家筆頭として存続)茶道等文芸活動や兼六園造営などに勤しんで戦意無きを示し代々恭順姿勢を貫徹、加賀藩前田本家と4支藩は幕末まで封土を保ち凍ったまま明治維新を迎えた。
前田慶次郎(利益)と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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