外務官僚から外相を歴任し対華21カ条要求等の対外硬路線を主導、岩崎弥太郎の女婿故に政界で重宝がられ、桂太郎の同志会を承継し首相となった三菱のシンデレラ
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
加藤 高明
1860年 〜 1926年
20点※
加藤高明と関連人物のエピソード
- 加藤高明は、東大法学部を主席で卒業したが薩長藩閥政府を嫌気して官僚に進まず三菱に入社、すぐにイギリス遊学に出され5年後に帰国すると岩崎春治の婿に迎えられた。舅の「海運王」岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に憤死し、弟の岩崎弥之助が海運業から撤退し三菱社を立上げたばかりであった。薩長藩閥に敗れた岩崎弥之助は政官界への勢力扶植を図り、加藤高明は外遊中に知遇を得た陸奥宗光の勧めで外務省に出仕し大隈重信外相(三菱系)の秘書官となった。第二次伊藤博文内閣が陸奥宗光を外相に抜擢すると、加藤高明も駐英公使に抜擢され不平等条約改正と日清戦争に奔命、陸奥は病没したが第四次伊藤内閣に外相で初入閣した。日清戦争講和で加藤高明は「対外硬」の本領を現し、親分の伊藤博文・陸奥宗光を相手に山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開している。日露開戦が迫ると加藤高明は桂太郎内閣を弱腰と非難し最強硬に開戦を主張、不戦論の伊藤博文とは対極の立場となったが巧みに立回って関係を維持し、講和交渉が始まると無茶な要求で妨害、新聞に煽られた民衆は暴徒化し日比谷焼打事件を起した。既に強大な三菱に加藤高明の助勢など不要だったが、日清・日露戦争は三菱ら財閥を大いに潤した。なお、桂太郎内閣発足に伴い外相を退いた加藤高明は、第7回総選挙は高知県・第8回は横浜市から出馬し1年余だが衆議院議員を務めている。三菱ファミリーの加藤高明は政治資金に飢えた政党連にモテモテだったが、公認を断った政友会には恨まれ大御所の板垣退助から公開絶縁状を叩きつけられた。横浜市で「金権選挙」と攻撃された加藤高明はまさかの落選、次点繰上げで議員ポストは得たものの世論と新聞の威力を痛感し、岩崎弥之助に頼んで東京日日新聞(毎日新聞)を買収し社長に就任した。英紙『タイムズ』を模倣するだけの新聞経営は大赤字で行詰ったが、加藤高明は外交問題の論説を受持ち対外硬政策を喧伝、ポーツマス会議が始まると「償金とサハリン割譲をロシアに認めさせろ、戦闘を再開しても要求を貫徹せよ」と煽り「軟弱外交は失敗だった」と決め付けた。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 三菱商会の第一の成長要因は岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力であり、膨大な設備投資を要する海運業への参入を可能にした。また、多くの土佐藩士を引受けた三菱商会では「士族の商法」が横行したが、岩崎弥太郎は「前垂れ」の着用を義務付け顧客本位のサービス戦略を徹底した。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は、親方日の丸で勤労意欲が乏しいうえ、政府から払下げを受けた老朽船の割合が多く、さらに地租改正によって租税が金納となり年貢米輸送を独占していた郵船は大打撃を蒙った。近代的な会社組織の確立を目指す岩崎弥太郎は、国益奉仕の使命を謳い列強諸国に負けない海運事業を興すことを目的に掲げ、就業規則などの福利厚生施策を導入、社則のほか会計規程「三菱会社簿記法」も整備した。が、一方で岩崎家による社長独裁を宣言し、没後も三菱財閥の伝統となった。三井財閥は早くから三井家の当主のもと「番頭政治」といわれた役員寡頭体制を敷き、渋沢栄一は合本組織を好み自身を含む世襲制を排除した。岩崎弥太郎は人材を重視し、社員養成のため三菱商船学校・三菱商業学校・明治義塾を創設、社員の2割も外国人を雇い当時希少な大学卒業者を多く採用した。「はじめは一般の若者を採用していた。彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれた。しかし教養がないものだから、事の軽重がわからずよく大失敗をしでかすことがあった。これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、客に対して高飛車で愛想もないが、深い知識があるのでいざというときの談判でも堂々と渡り合うことができた。一長一短はあるが、教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しい。反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだ。」・・・岩崎弥太郎は福澤諭吉が唱える事業立国構想に共鳴し大きな影響を受けたという。福澤諭吉も「岩崎氏は噂に聞いたのとは全く違い、山師ではない。今日の様子では成功は疑いない。殊に店の前におかめ面を掲げ、店内に敬愛を重んじさせているのは、近頃の社長にはできぬことだ」と胸襟を開き、岩崎弥太郎は立憲改進党の資金源となり慶應義塾生を大量に雇用した。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と「三井の番頭」井上馨の主導により、政府出資に加え渋沢栄一・益田孝・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・川崎正蔵ら主要財界人から出資を募り資本金600万円で「共同運輸会社」が設立された。社長・副社長はじめ多くの海軍人が送込まれ事実上海軍の一部ともいえる組織であり、国家規模の露骨な三菱潰しに岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社は存亡の淵に立たされた。当時、岩崎弥太郎が後援する大隈重信の立憲改進党と板垣退助の自由党は対立しており、自由党系の新聞が「海坊主退治、偽党撲滅」の論陣を張ったため世論も三菱に冷淡だった。共同運輸との熾烈な顧客争奪戦はタダ同然の廉価競争へ陥り三菱の海運収益は3年で半減、西郷従道はしぶとく抵抗を続ける岩崎弥太郎を国賊呼ばわりしたが岩崎は「俺を国賊と呼ぶのか。ならば俺も所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼払い、残りの財産は全部自由党に寄付してやる。そうなれば、薩長藩閥政府はたちまちにして転覆するだろう」と放言した。が、共同運輸側も業績悪化で無配に陥り、現場で凌ぎを削る両社船舶の衝突事故が発生、政府内でも厭戦ムードが濃くなった。死闘のなか岩崎弥太郎は胃癌の悪化で壮絶死、後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して「日本郵船」が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助は残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、晩年には日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
- 外圧を跳ね返すために明治維新を達成した日本においては、アジア諸国が連帯して西欧列強の侵略に対抗すべしとする「興亜論」が支配的であった。福澤諭吉もその論客の一人であり、朝鮮独立党支援にも動いたが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の方針を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
- 「立志社の獄」で禁固5年に処された陸奥宗光は特赦により4年で刑期を終え、伊藤博文の計いで2年間ヨーロッパ遊学へ出された。陸奥宗光はロンドンでイギリス立憲政体を学び、ウィーンに移ってシュタインからプロシア流政治を学んだが、シュタインが感状を送るほど猛勉強に励んだ。公使としてウィーンにいた西園寺公望は、陸奥宗光の勤勉と成長ぶりを二度も伊藤博文に報告し政府採用を推奨している。なお、三菱社員としてロンドン留学中の加藤高明は、同地で陸奥宗光に薫陶を受け政治家を志したという。なお、陸奥と加藤が乗ったサンフランシスコ行の汽船には、アメリカ駐在に向かう海軍の斎藤実も乗船していた。
- 陸奥宗広は紀州藩の権臣だったが派閥争いに敗れ一家は零落、子の陸奥宗光は14歳で江戸の尊攘運動に身を投じ坂本龍馬と邂逅、勝海舟の神戸海軍塾に寄寓して幕府神戸海軍操練所に学び、亀山社中・土佐海援隊と坂本の最期まで付随った。才気煥発だが傍若無人な陸奥宗光は同僚に憎まれたが、坂本龍馬は「天成の利器」を見抜き擁護し続けた。坂本龍馬が暗殺され「天満屋事件」を起した直後に鳥羽伏見戦が勃発、陸奥宗光は大阪に急行してパークス英公使と会見し、それを踏まえて「新政府は先ず列国に王政復古の事実と開国方針を通知すべし」との意見書を岩倉具視に提出した。岩倉具視は意見書を採用し陸奥宗光を外国事務局御用掛に抜擢、陸奥は同僚の伊藤博文と意気投合し生涯に渡る盟友となった。若くして明治政府に足場を築いた陸奥宗光だが、強烈な自尊心のために薩長専制に不満を抱き、伊藤博文と共に廃藩置県の即時決行を主張するも容れられず、官職を辞して和歌山に帰った。が、明治政府のお墨付により紀州藩政を掌握した陸奥宗光は藩政改革と軍備増強を断行、瞬く間に精兵2万を擁する「陸奥王国」を現出させ政府を震撼させたが、廃藩置県で王国は召上げられた。陸奥宗光の紀州割拠の野望は費えたが、このとき部下にした津田出・浜口梧陵・鳥尾小弥太・林薫・星亨らは後に政府顕官となり陸奥を支えた。陸奥宗光は明治政府に帰参したが薩長への不満は止まず明治六年政変を機に再び下野、西南戦争に呼応した土佐立志社の策動に連座し禁固5年の実刑に処された。獄中で西洋政体の研究に励み出獄した陸奥宗光は、原敬・加藤高明・星亨ら非薩長閥の人士を庇護しつつ、伊藤博文に属して薩長藩閥政府で台頭、英独遊学・駐米公使を経て、自由党土佐派とのパイプ役を期待され第一次山縣有朋内閣に農商務相で初入閣、第二次伊藤博文内閣で外相に抜擢されると華々しい「陸奥外交」を展開し、井上馨・大隈重信・青木周蔵が果たせなかった不平等条約改正を成遂げ、日英同盟を結び陸軍の川上操六と共に日清戦争開戦を主導し完勝、露仏独の三国干渉に遭うと冷静に受諾の決断を下し朝鮮・台湾・賠償金などの権益確保に成功した。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 南満州鉄道会社(満鉄)は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)等の鉄道と付属地の炭坑の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1077倍もの応募を集め、大倉喜八郎(長州閥系武器商人)のように1人で全額を申込む者もあった。満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。満鉄周辺には野心的な官僚や事業家が参集して関連事業を拡げ鉄道・鉱山のほか都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなど多種多様な分野に拡大、満州事変の勃発で軍政へ移行する1931年まで満鉄は満州計略の中核を担った。なお、アメリカは、日露戦争講和で日本を援けたが、中国進出への遅れを挽回するため日本の満州権益に関心を示し、早くも満鉄設立に際してアメリカ人実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営を持ち掛けた。日本政府は、桂・ハリマン協定によりこの提案を受入れようとしたが、小村寿太郎外相の反対により拒否した。アメリカでは反日機運が高まって日本人移民排斥運動が始まり、対外硬派の加藤高明外相が辞任する事態となった。
- 加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を軟弱外交と断じて新聞で世論を煽った「対外硬」の中心人物であり、第二次西園寺公望内閣で加藤が外相に返咲くと、ポーツマス条約仲介者であるアメリカは不信感を募らせ日米関係は悪化した。外相に就いた加藤高明は、満州解放の国際公約を無視する陸軍を批判し、桂太郎ら陸軍長州閥が主導する鉄道国有化法にも猛反対、調整役の原敬内相と西園寺公望首相にも見放され外相辞任に追込まれた。このあと西園寺公望に干された加藤高明は、無節操にも桂太郎へ鞍替えする。
- 西園寺公望に干された加藤高明を抱込むべく桂太郎は第二次内閣発足に際し駐英大使をオファー、露骨な寝返り提案に加藤は逡巡したが駐英大使は外相と同格の重要ポストであり誘惑に勝てなかった。日露戦争講和より桂太郎を攻撃し続けてきた加藤高明の電撃移籍に世論は「ポスト欲しさ」と呆れ返った。加藤高明は桂太郎攻撃に駆使した東京日日新聞の社長を退き、後始末を岩崎久弥に託して渡英した。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 10年間のフランス留学で自由主義に染まった西園寺公望は、親分の岩倉具視に遠ざけられ、放蕩生活を送りつつ自由党機関紙『東洋自由新聞』の社長に就任、岩倉の妨害ですぐに辞任したが、板垣退助歓迎パーティに出席するなど自由党土佐派との交流は続いた。死を目前に後継者不在の岩倉具視は西園寺公望の懐柔策に転じ伊藤博文に政界復帰工作を懇請、伊藤は立憲制視察の外遊に西園寺を加え、民権派から体制派へ転向した西園寺は岩倉の後継資格を獲得、伊藤の腹心となり政友会総裁を継いで首相に上り詰めた。伊藤博文暗殺で山縣有朋・陸軍長州閥の権勢が高まり影響力を失った西園寺公望は政友会総裁を原敬に譲り政界を退いたが、山縣有朋・松方正義が没すると唯一存命の元老西園寺の存在感は高まり、牧野伸顕・木戸幸一(内相)・鈴木貫太郎(侍従長)ら天皇側近の重臣グループを束ね広田弘毅内閣まで10余年も首相指名の重責を担った。伊藤博文の国際協調・平和主義を継ぐ西園寺公望は軍部の抑止に努めたが、初暴走の張作霖爆殺事件から躓いた。昭和天皇の意を受けた西園寺公望は田中義一首相に事件究明を迫り辞任要求を突きつけるも突如撤回、犯罪の追認行為は一夕会幕僚や青年将校の増長を促し満州事変、五・一五事件、二・二六事件、盧溝橋事件と続く軍部暴走の着火点となった。茫然自失の牧野伸顕内相に「自分は臆病なり」と語ったことから陸軍の脅迫に屈したことが窺える。重臣グループが「君側の奸」と標的にされた五・一五事件の後、怯えた西園寺公望元老は静岡興津の「坐漁荘」に籠るも隠然たる影響力を保持し、内閣交代の度に新聞記者は「興津詣で」を繰返した。西園寺公望の興津院政を支えた住友財閥は貴族院議員原田熊雄を坐漁荘に派遣し近衛文麿・木戸幸一らとの連絡係を務めさせた。原田熊雄の『西園寺公と政局-原田熊雄日記』は昭和史の第一級資料である。西園寺公望は、二・二六事件後の首相指名を近衛文麿に断られ政界引退、第二次近衛内閣の日独伊三国同盟締結を座視し直後に「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り死去した。
- 桂太郎は、高まる護憲運動に対抗するため、政党嫌いの山縣有朋の反対を押し切って自派の官僚と議員を糾合し桂新党「同志会」を立上げた。桂太郎総理のもと後藤新平・河野広中・大浦兼武・加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸らが幹部会を形成し党運営にあたった。伊藤博文・陸奥宗光・西園寺公望に属し桂太郎内閣攻撃の急先鋒だった加藤高明は「外相のポスト欲しさ」に寝返りを打ち、桂の急死を受けて同志会総理に納まった。同志会は政友会に匹敵する二大政党へ発展、第二次大隈重信内閣の与党となり加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻禮次郎蔵相が主要ポストを占めた。その後も内閣交代の度に加藤高明内閣が取り沙汰されたが、唯一の元老となり首相指名権を握った西園寺公望に組閣を引延ばされ「苦節十年」寝返りのツケを払わされた。
- 政友会に抵抗すべく桂太郎が同志会を結成すると、福澤諭吉・大隈重信の改進党の系譜を継ぐ国民党(旧憲政本党)では大石正巳・河野広中・片岡直温ら幹部のほとんどが同志会へ奔り野党第一党の座を奪われた。国民党に残り党首に就いた犬養毅は、旧友の尾崎行雄と結び政友会と提携する奇策で「第一次護憲運動」を起し第三次桂太郎内閣を倒したが(大正政変)、政友会が擁立した第一次山本権兵衛内閣に入閣できず、同志会に乗換え第二次大隈重信内閣成立に寄与したが同志会優位に反発し入閣を拒否、二大政党の狭間を浮遊するだけの国民党は存在意義を失った。辛うじて議席を保った国民党改め革新倶楽部の犬養毅は、第二次山本権兵衛内閣に文相兼逓信相で入閣し、加藤高明の憲政会(旧同志会)・高橋是清の政友会の大同団結に相乗りして(護憲三派)清浦奎吾の「超然主義内閣」打倒に一役買い(第二次護憲運動)加藤内閣の逓信相となったが、内紛が起ると革新倶楽部を解党して政友会に合流し逓信相辞任と同時に政界引退を表明した。
- 薩長藩閥と軍部の横暴に反発した政友会の尾崎行雄と国民党の犬養毅らが結束し「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次護憲運動)を展開した。尾崎行雄の内閣不信任案は桂太郎政府に揉み潰されたが、護憲派議員は尾崎と犬養毅を「憲政の神様」と祀り上げ大衆運動を扇動、怒れる群集は各地で暴動を起し、第三次桂太郎内閣は総辞職に追込まれた(大正政変)。桂太郎は政友会に対抗すべく桂新党「同志会」を立上げたが間もなく病没、西園寺公望(政友会総裁)から寝返った加藤高明(岩崎弥太郎の娘婿)が同志会総理を継ぎ政権奪回に乗出した。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 三浦梧楼の斡旋で加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が三浦邸に会し「護憲三派」が大同団結して清浦奎吾の「超然主義内閣」を打倒し政党内閣復活を期すことを盟約、第15回衆議院総選挙の護憲三派圧勝で清浦内閣は総辞職に追込まれ、第一党憲政会の加藤高明に組閣の大命が下された。政友会と並ぶ二大政党に発展した憲政会の加藤高明は桂太郎から同志会を継いで以来首相指名を待ち侘びたが、キングメーカーの西園寺公望に敬遠され、漸く巡って来た高橋是清内閣退陣後のチャンスも政友会に潰されており(加藤友三郎内閣が発足)、「苦節十年」宿敵政友会と結んでまでの悲願達成であった。が、政権目当ての寄集めに過ぎない護憲三派体制は間もなく内部崩壊し憲政会の単独内閣となって不安定化した。組閣2年後、加藤高明首相は帝国議会の壇上で答弁中に倒れ、外相の幣原喜重郎(岩崎弥太郎の相婿)に抱えられ議場から退出、僅か一週間後に病没した。「憲政の常道」に従い与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が組閣、以後も政友会との泥仕合は続き田中義一・濱口雄幸・第二次若槻・犬養毅と政権交代を繰返したが五・一五事件で政党内閣は終焉を迎えた。
- 加藤高明内閣の業績といえば普通選挙法くらいだが、「普選」は政党勢力共通の宿願であり、立役者は加藤首相と与党憲政会ではなく原敬(故人)・犬養毅・尾崎行雄らであった。加藤高明内閣における普通選挙法の審議は、清浦奎吾の「超然主義」枢密院が悪あがきして選挙人の欠格事由の条文に難癖をつけたため若干難航したが、若槻禮次郞内相が欠格事由を「貧困に因り公私の救助を受け、または扶助を受くるもの」(大学生等には選挙権を認める)に改め妥協が成立した。普通選挙法で納税額による制限が撤廃され25歳以上の一般男子すべてに選挙権が与えられることとなり有権者数は4倍増となったが、有権者の増加は必要となる政治資金の膨張に直結し金権政治蔓延の契機となった。自らの首を絞めた政党は資金難に陥り、高橋是清の政友会は持参金(陸軍機密費)欲しさに陸軍長州閥の田中義一に総裁職を禅譲する事態となり、田中の急死後に政友会を継いだ犬養毅・鳩山一郎は民政党内閣打倒に盲進し軍部と結んで「統帥権干犯」を弾劾、犬養は政権を奪回するも五・一五事件で殺害され政党政治は命脈を絶たれた。
- 尾張藩の貧乏足軽に生れた若槻禮次郞は官費進学を模索、陸軍士官学校を身体検査で撥ねられ、司法省法学校に合格するも得点不足で官費生に入れなかったが(上位50名が官費生で25名が私費生)、叔父の若槻敬から婿養子入りを条件に学資援助を得た。法学校は大学予備門に編入され第一高等中学に改組、若槻禮次郞は東大法学部仏学科へ進み98点5分の記録的成績で主席卒業を果した。勉学の傍ら嘉納治五郎の講道館で柔道に打込み二段に上達、日露戦争の「軍神」広瀬武夫と技を競った。成績抜群ながら藩閥にコネの無い若槻禮次郞は、花形官庁の内務省と農商務省に入れず通信省も落選、先輩のツテを頼り何とか大蔵省へ進むと刻苦勉励で大蔵次官に栄達、第二次内閣で蔵相を兼任した桂太郎首相の腹心となり飛躍への転機を掴んだ。日露戦争後の財政健全化を使命とする桂太郎首相が陸軍の二個師団増設要求に腐心するなか、若槻禮次郞は寺内正毅陸相と妥協を成立させ、裏技で外債調達を成功させるなど期待に応えた。次の西園寺公望内閣で若槻禮次郞は留任を求められたが、桂太郎に殉じて退官し同志会結成に奔命、桂が第三次内閣を組閣すると蔵相で初入閣を果した。桂太郎の没後も同志会・憲政会に留まった若槻禮次郞は加藤高明のナンバー2に徹し野心も無かったが、加藤首相の急死で与党憲政会を継ぎ「憲政の常道」に従い首相となった。キングメーカー西園寺公望の下馬評は「妥協で議会を切り抜けることくらいは上手かもしれんが、あとはいわぬが花だろう」と低かったが、実際に「護憲三派体制」の破綻で憲政会単独となった第一次若槻禮次郞内閣の政権運営は難航、濱口雄幸蔵相らの「待合政治」(対立議員への接待攻勢)で議会対策に汲々とし、政友会に「朴烈事件」「松島遊廓事件」をあげつらわれ、憲政会の片岡直温蔵相の失言で金融恐慌を発生させる大失態を犯し総辞職に追込まれた。政友会の田中義一に政権を奪われた憲政会は床次竹二郎ら政友本党と合同し(民政党)濱口雄幸内閣を発足させたが、濱口首相は右翼に銃撃され無念の降板、隠居の若槻禮次郞が民政党を継ぎ第二次内閣を組閣した。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- 東大法学部を3番で卒業した濱口雄幸は、大蔵省へ進み次官候補と目されたが上司に楯突き左遷、4年のドサ回りを経て大蔵本省に戻されたが次官コースからは脱落した。が、後藤新平(初代満鉄総裁)との邂逅で開運、10倍の高給で誘われた満鉄入りは謝辞したが、第三次桂太郎内閣で同期の勝田主計が大蔵次官となり未練を断って後藤逓信相の勧めで逓信次官に転出した。桂内閣退陣後、後藤新平に殉じ退官した濱口雄幸は衆議院議員となり桂太郎の同志会に加盟、後藤は寄合世帯の内輪揉めを嫌気し脱退したが、濱口は残って地味な党務を粛々とこなし加藤高明総理の信任を得て第二次大隈重信内閣(与党同志会)で念願の大蔵次官ポストを与えられた。大隈内閣退陣後、加藤高明と西園寺公望元老の確執により憲政会は二大政党ながら閣僚を出せず雌伏したが、「苦節10年」を経て加藤が組閣を果たすと腹心の濱口雄幸は蔵相に就き東大同期で親友の幣原喜重郎外相と共に緊縮財政と軍縮を牽引、続く第一次若槻禮次郞内閣で次席の内相に上った。政友会の田中義一に政権を奪われた憲政会は政友本党と合同し民政党が発足、民政党は2年余で政権奪還を果し総裁の濱口雄幸が組閣し井上準之助蔵相の金解禁と幣原喜重郎外相の幣原外交(国際協調・軍縮)を目玉に掲げた。濱口雄幸首相は世界恐慌の渦中に金解禁を断行したがデフレ不況が深刻化し財閥が大儲けしただけ、決然とロンドン海軍軍縮条約を成立させ「ライオン宰相」(容貌も似ていた)と呼ばれたが根回し不足が「統帥権干犯問題」を招来、張作霖爆殺事件の究明と陸軍の弾劾を怠った。海軍・政友会の猛攻のなか銃撃事件で重傷を負った濱口雄幸は無念の首相降板、間もなく落命した。政党内閣の例に漏れず濱口雄幸内閣も散々だったが、「対華21カ条要求」の大隈重信と加藤高明、満州事変を不問にした若槻禮次郞、政友会では利権追求と軍閥妥協の原敬、元来財政家で政治に疎い高橋是清、老政治屋に過ぎない犬養毅と比べてみると、政治理想を貫いただけ上等といえるだろう(濱口雄幸と小泉純一郎を重ねる人もあるが)。
- 濱口雄幸は土佐人初の首相だが、板垣退助・自由党の系譜を継ぐ政友会には所属せず、敵対する「二大政党」民政党の総裁として組閣した。濱口雄幸(旧姓は水口)が婿入りした濱口家は岩崎弥太郎と同じ土佐安芸郡の土豪で三菱との関係が深く、帝大入学時の身元引受人は三菱理事の木村久寿弥太に頼んだ。大蔵省を退官した濱口雄幸は親分の後藤新平(長州系)に随って桂太郎の同志会に入党し高知2区から衆議院議員に初当選(死まで議席保持)、同志会(→憲政会→民政党)を継いだ加藤高明の腹心となり勢力を伸ばした。加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸内閣の外相で対中不干渉・対英米協調の「幣原外交」を展開した幣原喜重郎は、加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿、濱口とは東大法学部同期の親友であった。
- 幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。
- 東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
加藤高明と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照