外務官僚から外相を歴任し対華21カ条要求等の対外硬路線を主導、岩崎弥太郎の女婿故に政界で重宝がられ、桂太郎の同志会を承継し首相となった三菱のシンデレラ
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
加藤 高明
1860年 〜 1926年
20点※
家系・子孫
- 生家の服部家も養家の加藤家も尾張藩の下級藩士だが、代官所の手代を務める服部家は実収入が多かったため加藤高明は東京帝国大学に進学することが出来た。東大法学部主席卒業の加藤高明は岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春路と結婚し二男一女を生した。子爵を継いだ次男の加藤厚太郎は(長男は早世)三菱社員となり、岩崎ファミリーながら保険子会社の取締役で勤めを終えた。服部時計店(セイコー)2代目の服部玄三は加藤厚太郎の義兄にあたる。
- 岩崎氏の遠祖は甲斐武田氏の縁者とする説があるが、明確なのは戦国時代以降、安芸郡井ノ口村の「一両領足」として長曽我部元親に仕えてからである。山内一豊の土佐入封により岩崎氏は地下浪人に落とされ、やがて郷士株を買い武士身分を取戻すも、岩崎弥次郎右衛門が酒と博打で家産を潰し郷士株を手放した。地下浪人は、「元武士」として苗字帯刀は認められたが、村政では庄屋の下位に置かれ実態は一般農民と同然であった。数代後の岩崎弥次郎は、農業経営が下手なうえに大酒飲みで田畑を失い一家は困窮、しかも攻撃的で偏屈な性格のため庄屋の島田家や岩崎分家との諍いが絶えず集団リンチに遭難した。「三菱海上王国」を築いた岩崎弥太郎は、喜勢との間に嫡子の久弥と娘の春路・磯路を生し、妾腹の子も多くもうけた。福澤諭吉の門人で三菱幹部の荘田平五郎は弥太郎の姉佐喜の娘婿である。弥太郎から三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、薩摩閥の猛攻をかわすため本業の海運業から撤退したが、鉱山・造船を軸に多角的経営を成功させ今日に続く三菱財閥の礎を築き、去り際も鮮やかに岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲、久弥と弥之助の両家が共に男爵に叙された。岩崎弥之助は大富豪には珍しく艶聞が無く、妻の早苗(後藤象二郎の長女)一筋で三男一女をもうけた。長男の岩崎小弥太は三菱4代目として第二次大戦後の財閥解体を受難、次男の岩崎俊弥は旭硝子の創業者、娘の繁子は外交官の松方正作(正義の次男)の妻である。また、官僚政治家の自家養成を図る岩崎弥之助は、岩崎弥太郎の長女春路を加藤高明に・妾腹の末娘雅子を幣原喜重郎に娶わせ、強大な三菱ファミリーに連なった加藤と幣原は総理大臣に栄達した。弥太郎次女の磯路は木内重四郎に嫁がせ、その長女の美艸子は山内豊中(最期の土佐藩主山内豊範の四男)・次女の登喜子は日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三(栄一の嫡孫)の妻となった。兄弟で三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎・弥之助の生家は高知県安芸市に保存され、弥太郎少年が日本列島を模った石群も見ることができる。
加藤高明と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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