西郷隆盛に長州宥和を促し徳川慶喜に絶対恭順を説いて江戸城無血開城を果した開明派幕臣にして坂本龍馬の師匠、明治政府の高官に列すも距離を置き徳川家と旧幕臣の救済に余生を捧ぐ
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勝 海舟
1823年 〜 1899年
60点※
家系・子孫
- 勝海舟の生家男谷家の祖である銀一は、越後長鳥村の貧農出身の盲人で按摩を生業とした。幕府は盲人への福利施策として高利貸しの独占を認めていたが、銀一も高利貸しで巨富を蓄え朝廷より盲官の最高位を買官して「米山検校」を名乗り、子の平蔵(忠之丞)のために御家人男谷家の名跡を買取った。旗本に栄進した男谷平蔵の三男が天衣無縫の「旗本退屈男」勝小吉である。勝小吉は、小身の旗本勝家に入嗣するも生涯まともに働かず、吉原通いで蕩尽し侠客(やくざ)同然の暮らしぶりで数々の逸話を残した。ただ、喧嘩で鍛えた剣技は確かで武士らしいところもあり、『夢酔独言』を著し自分を反面教師に子弟に武士道を諭す痛快な人物であった。一人息子の勝海舟(麟太郎)は、幼少期に阿茶の局(男谷家の親戚)のツテで将軍徳川家慶の五男初之丞の遊び相手に選ばれ江戸城に召され、初之丞は一橋家に入嗣するも14歳で早世し勝は出世のチャンスを逸した。9歳のころ犬に睾丸を噛み潰され(片方)重体に陥ったが、小吉の必死の看病と願掛けの甲斐あって一命を取留めた。何の因果か、小吉も若いときに睾丸を痛打し片方潰れていた。健康に育った勝海舟は、江戸に剣名を馳せた従兄(小吉の長兄彦四郎の婿養子)男谷精一郎の剣術道場(麻布狸穴)に入門、高弟の島田虎之助のもとで荒稽古を積み直心影流の免許皆伝に達したが、時勢を先取りして洋式兵学へ転じ佐久間象山らに師事した(勝海舟の実妹順は佐久間の妻)。幕府要人に出世した勝海舟は、正室民子のほかに5人の妾を囲い四男五女を生した。勝海舟は子煩悩な父親で、民子は子女を分け隔てなく養育したという。嫡子の勝小鹿は、幕府の公費留学生に応募したが父が海軍奉行並ながら落選、私費で米国留学に出されてハイスクールからアナポリス海軍兵学校に学び、1877年帰国して海軍に入ったが英国式の日本海軍で米国式は通用せず少佐で予備役となった。勝小鹿は40歳で突然死し、一人息子を喪った勝海舟は落胆の余り絶家して財産を徳川家へ献上すると言明したが、突如翻して徳川慶喜の十男精を小鹿の娘伊代の婿養子に迎え伯爵勝家を相続させた。
勝海舟と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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