北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将(息子の代に豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡)
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北条 氏康
1515年 〜 1571年
80点※
北条氏康と関連人物のエピソード
- 北条早雲(伊勢新九郎長氏・伊勢盛時)は、衰亡する室町将軍を見限り40歳過ぎで関東に下向、甥今川氏親の駿河守護擁立で今川家の重臣となり、関東公方足利家・関東管領上杉家の内紛に乗じて伊豆・相模二国と小田原を奪取、関東の覇者後北条氏の礎を築いた戦国下克上の先駆者である。続く北条氏綱・氏康が関東全域を切り従えたが、北条氏政・氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に屈し後北条氏は5代で滅亡した。北条早雲は、室町将軍家の重臣伊勢氏の出自で将軍足利義政や義視・義尚に近侍したとされるが、前半生に目立つ事跡はない。40歳を過ぎた頃、妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川義忠が戦死し家督争いが発生、調停に乗り込んだ早雲は扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退け甥龍王丸(今川氏親)の擁立に成功、戦功により興国寺城を与えられ60歳にして一国一城の主となり、後嗣無く死去した伊豆韮山城主の養子に入って鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継いだ。1491年、室町将軍家・両上杉家と古河公方の和解で宙に浮いた堀越公方の足利政知が亡くなると、北条早雲は戦乱で守衛が手薄となった堀越御所を急襲し後継者足利茶々丸を追放し、寛容な帰服受入れと減税で土豪と領民を靡かせて伊豆支配を確立、東国戦国時代の端緒といわれる快挙を成遂げた。1494年、明応の政変で兄茶々丸を憎悪する足利義澄が将軍に就任すると、北条早雲は三浦氏の内紛に乗じて新井城に籠る茶々丸を攻め滅ぼし、翌年には東方に鞍を返して扇谷上杉方の大森藤頼を騙し討ちして小田原城を奪取、関東制覇の拠点を打ち立てた。その後の北条早雲は、今川家・扇谷上杉家の被官として各地に転戦しつつ、伊豆・相模の戦国大名として独立を果し領国経営に勤しんだ。機略縦横で連戦連勝だったが、今川軍の総大将を務めた三河攻めでは徳川家康の曽祖父松平長親に唯一といえる黒星を喫している。茶々丸征伐の盟友で相模三浦氏の旧領を継いだ三浦義同を族滅して後顧の憂いを絶ち、優秀な嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城で88歳の大往生を遂げた。早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれた。
- 戦国時代の先駆け北条早雲には多くの伝説がある。一説によると、応仁の乱に嫌気がさした足利義視は一時伊勢に隠退したが、随従した北条早雲は義視の帰京後も伊勢に留まり、同地で意気投合した仲間6人(御由緒六家;荒木兵庫・多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・大道寺太郎・在竹兵衛)と盟約し関八州制覇を志して共に駿河今川家に乗り込み、早雲が城持ちになると盟友達は家老として一軍を率い後北条氏の覇業を支えたという。伊豆征服直後の正月二日「一匹の子鼠が杉の大木二本をかじり倒すと、鼠は虎に化した」初夢をみた北条早雲が「子年の早雲が両上杉を倒して関東を征する瑞夢」と喜んだ話も伝わる。所領と兵力を持たない今川家の謀臣が伊豆・相模二国を征するまでに謀略を駆使したのは事実だろう。一説には、伊豆を征服し関東に野心を研ぐ北条早雲は小田原城を望んだが、城主で扇谷上杉家重臣の大森氏頼は一筋縄ではいかない人物で、油断を誘おうと手厚い贈物を遣わして懇親を申し込むも逆に警戒され撥ね付けられた。北条早雲は冒険を避けて堀越公方足利茶々丸追討に専念したが、茶々丸を滅ぼした頃に運よく大森氏頼が病没し子の大森藤頼が立った。それでも早雲はすぐには攻めず、再びせっせと贈物をして若い藤頼を篭絡し攻守同盟まで結ぶに至り、扇谷上杉氏当主定正の落馬死の機に満を持して腰を上げた。使者を小田原に遣って「狩りのため勢子を箱根山に入れたい」と申入れると、油断しきった大森藤頼は機嫌よく了承、勢子に化けた軍勢をまんまと越境させ、日没を待って千頭の牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲、周章狼狽した大森藤頼は命からがら逃げ落ちた。小田原を得た早雲は再び猫被りに戻り、しおらしくも扇谷上杉氏への帰順を願い出て報復をかわし、以後は伊豆・相模の領国経営に専念して上杉氏打倒と関東制覇の夢は子孫に託した。領国からの盲人追放に擬して他国にスパイを送り込んだという話も伝わる。一方、富国強兵の現実的要請からであろうが、占領地の豪族や領民には大いに仁政を施し歓迎をもって迎えられたという。
- 今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組み込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻め寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第2次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻め込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。
- 今川氏は、足利将軍家の連枝で、内部分裂で衰退した本家の三河吉良氏を臣従させて駿河守護となり、足利宗家に次ぐ名門と仰がれた。三河の一土豪に落ちた吉良氏は、桶狭間合戦後に勢力を盛り返し、三河一向一揆の旗頭に担がれて徳川家康を苦しめたが征伐された。江戸時代に入ると、松平清康(家康の祖父)の妹を母とする吉良義定が取り立てられ、吉良荘3000石と高家筆頭の家格を与えられ、儀典の家元として繁栄したが、吉良上野介義央が赤穂浪士に討取られ世論に押された幕府は吉良家を改易に処した。さて、今川氏の繁栄は南北朝争乱で足利尊氏を支えた今川頼国に始まり、頼国の子頼貞は丹後・但馬・因幡の守護に、頼国の末弟範国は駿河・遠江の守護に任じられ、範国の嫡子範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲した。範氏の弟今川了俊は九州探題として南朝勢力の強い全九州を平定し、戦国初期の今川範忠は古河公方足利成氏の軍勢を撃退して鎌倉を制圧するなど(享徳の乱)、室町幕府の用心棒として強勢を誇った。範忠の嫡子義忠は、斯波氏に守護職を奪われた遠江の奪回に奮戦したが土豪一揆に遭い落命、家督争いが起ったが、北条早雲が上杉氏・太田道灌が推す小鹿範満(義忠の従兄弟)を廃して今川氏親(義忠と早雲の妹北川殿の子)を擁立した。氏親は娘を北条氏康に入輿させ関係を深めた。氏親没後は嫡子氏輝が後を継いだが、10年後に次男彦五郎と同時に死去(謀殺説あり)、正室寿桂尼の子で五男の今川義元が異母兄玄広恵探の反乱挙兵を討平して当主となった(花倉の乱)。氏輝・彦五郎の同時死といい、側室腹の玄広恵探の挙兵といい、太原雪斎による一連の陰謀劇であった可能性が高い。今川義元は、同盟した武田信虎の娘を妻に迎え、娘を武田義信に嫁がせた。徳川家康の悪妻築山殿は義元の姪で養女である。嫡子今川氏真は、再同盟した北条氏康の娘を妻に迎え、北条氏直を猶子に戴いて助勢を哀願したが挽回ならなかった。が、家は滅んでも子作りには励み、範以・高久の二男が誕生、氏真は徳川家康の庇護下で77歳の長寿を全うし、範以の今川氏と高久の品川氏は高家旗本に取り立てられ幕末まで存続した。
- 武田信玄(晴信)は、一代で甲斐を平定した父武田信虎を追放して家督を継ぎ信濃・駿河を征服、川中島の戦いで上杉謙信と戦国最強を競い、天下を望んで上洛軍を挙げ三方ヶ原の戦いで徳川家康を一蹴するが織田信長との決戦目前に陣没した残念な英雄である。武田信虎の嫡子に生れ、16歳の初陣で信虎を退けた強豪平賀入道源心を奇襲で討取るも、次男信繁を偏愛する信虎に嫌われ廃嫡を怯える日々を送った。1541年重臣及び姉婿今川義元と共謀して信虎を駿河に追放し家督を承継すると、翌年信虎の懐柔路線を棄てて諏訪攻めを開始、妹婿の諏訪頼重、高遠頼継を攻め滅ぼした。土豪が割拠し統一勢力の無い信濃を狙うも、村上義清は強敵で、上田原の戦いで宿老板垣信方まで討取られる大敗を喫したが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を破り、1551年戸石城・葛尾城を攻略し信濃一国を平定した。武田信玄は越後に野心はなかったが、村上義清に泣き付かれた上杉謙信が秩序回復の義軍を挙げ北信濃に侵入、1553年から11年に渡る川中島の戦いが勃発し痛恨の足止めを喰った。特に第4回戦は啄木鳥戦法を見破った謙信が本陣に斬り込み信玄に一太刀浴びせ弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死という大激戦となったが、結局謙信は兵を引き不毛な争いは和睦へ向かった。上杉謙信の猛攻を凌いだ武田信玄はようやく関東に侵出、箕輪城攻略で上野国西部を領有し、今川義元亡き駿河へ侵攻を開始した。徳川家康と今川領の東西分割を約し、義元の娘を妻とする武田義信を廃嫡して自害させ、駿府城を落として今川氏真を追放、妨害に出た北条軍を三増峠の戦いで撃破して1569年駿河一国を征服した。上杉・北条と和睦して背後を固め、将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携したうえで、1572年織田信長討伐を掲げて京都へ進発、徳川家康を一蹴して三河野田城まで攻め込んだが、突如発病し陣没した。1575年後継の武田勝頼は織田・徳川に再挑戦したが馬防柵と鉄砲の三段撃ちの前にまさかの大敗(長篠の戦い)、1582年甲州征伐・天目山の戦いで甲斐武田氏は滅亡した。
- 「武田二十四将」は今なお有名だ。山本勘助は、諸国巡礼の末に52歳で武田信玄に仕官し足軽大将に抜擢された。容貌醜悪で片足が不自由だが、諸国情勢や兵法・築城術に通じ、信玄に恨みを含む諏訪御料人の側室採用、北信濃攻略などに大功があったが、第4次川中島の戦いで上杉謙信に啄木鳥戦法を見破られ戦死した。江戸時代に甲州流軍学を広めた小幡勘兵衛の『甲陽軍鑑』で一躍有名軍師となったが、その雛形は勘助の子が作ったもので、実際は軽格と見る向きが強い。ただ、二十四将中で門外漢は山本勘助のみであり、浪々の身から破格の昇進を遂げた事実は動かない。同じ謀略系では真田幸隆がいる。信玄に属して合戦で奪われた所領を回復、戸石城攻略で大功を挙げ、巧みなゲリラ戦術は子の真田昌幸・孫の真田信繁(真田幸村)へ受継がれた。猛者揃いの武田軍でも「武田四天王」馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信・山県昌景は別格だが、最強は山県昌景だろう。140センチ足らずの小兵で口蓋裂の醜貌ながら、常に先陣を疾駆し「赤備え」と恐れられた。「赤備え」の元祖は昌景の兄飯富虎昌、信虎追放劇に加担した宿老だが、武田義信の傅役故に謀反疑惑に連座し処刑された。長篠の戦いで山県昌景が戦死した後、「赤備え」は井伊直政と真田幸村が踏襲した。高坂昌信も強いが、少年期は信玄の寵童であったという。板垣信方は、信虎追放以来の腹心で、享楽に耽る武田信玄を諌め、北信濃方面軍司令官の大役を担ったが、上田原の戦いで緒戦の勝利に油断し前線で首実験中に村上義清に襲撃され落命した。長篠の戦い後、武田勝頼の求心力は衰え、最期は譜代重臣にも見捨てられた。小山田信茂は、信玄の従弟で家中屈指の大族だったが、織田信長の甲州征伐で逃亡する武田勝頼の保護を拒み滅亡に追いやった。戦後信長に降伏するが、余りの不忠を咎められ処刑。穴山信君は、武田一族の名門だが、従兄弟の勝頼と対立し長篠の戦いで戦線離脱、甲州征伐では織田方に内通し本領安堵のうえ武田宗家を継承した。が、徳川家康と堺見物中に本能寺の変が勃発、木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命した。
- 長尾為景は、越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の兄)の二君を討ち百戦連勝で越後を掌握した北国下克上の筆頭格にして上杉謙信の父である。1504年山内上杉顕定が扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍に敗れ北武蔵の鉢形城に追詰めらると(立河原の戦い)、越後守護代の長尾為景は武蔵に遠征して主家の顕定を救い逆に朝良を降伏させて18年に及んだ長享の乱を終息させた。1506年室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、朝倉宗滴が九頭竜川合戦に圧勝し越前防衛を果すと一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた長尾能景は親不知・子不知の難所を越えて出陣するが神保慶宗の裏切と主君上杉房能の傍観により討死した(般若野の戦い)。後を継いだ長尾為景は、自身の誅殺を企てた上杉房能を急襲して自害させ、1510年越後に来襲した関東諸豪の大軍を返討ちに破って上杉顕定を討取り(長森原の戦い)、上杉定実を傀儡守護に擁立し妹を娶わせた。1520年越後の国政を握った長尾為景は越中へ攻入って仇敵神保慶宗を討ち、一向衆禁止令を布告して越中征服に乗出したが一向一揆の蜂起に遭って断念(2年後に管領細川高国の調停により和睦成立)、以後は朝廷や室町幕府の権威を利用しつつ越後の反抗勢力討伐に専念した。1536年越後で上条定憲(定実の近親)と同族の上田長尾房長(政景の父)率いる揚北衆が反乱挙兵、劣勢の長尾為景は柿崎景家の寝返りを誘って撃退するも決定的勝利を得られず、国人衆の反抗に手を焼きながら54歳で死去した。後を継いだ嫡子の長尾晴景は宥和策を侮られ反抗を煽る結果を招き、次男景房・三男景康は抗争の渦中に落命した。四男の上杉謙信は父為景を凌駕する軍才に恵まれ13歳の初陣から連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆に推されて晴景から家督を奪い、長尾政景(房長の嫡子)と揚北衆を滅ぼして越後を平定し戦国大名への脱皮を果した。謙信の後を継いだ養子の上杉景勝は、謙信が謀殺した長尾政景と仙桃院(謙信の姉)の子である。
- 上杉謙信は、実兄を廃して越後の領袖となるも生涯反乱に忙殺され、武田信玄・北条氏康の守りを崩せず関東侵出に挫折、越中・能登を征し織田信長との決戦を前に急死した戦国最強の天才武将である。生涯を義戦に捧げ軍神と畏怖されたが、領地拡張の果実は乏しく家臣団は疲弊した。金山開発、青苧栽培、日本海貿易などの産業奨励により膨大な戦費を確保した経済手腕も卓抜であった。越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定を殺し傀儡守護に上杉定実を立てて実権を握った長尾為景が病没すると、弱腰な嫡子晴景を侮り内乱が激化、13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破した末弟の景虎(上杉謙信)が家臣・国人衆に推され兄晴景を廃して春日山城の主となり、1551年同族の長尾政景を降して(後に謀殺)22歳で越後統一を果した。が、神懸り的武略で従わせたものの国人割拠の情勢は変わらず、生涯反乱に悩まされた。1552年北条氏康に追われた関東管領上杉憲政を保護し上野平井城を奪還、翌年には信濃を追われた村上義清らに泣き付かれ宿敵武田信玄と11年に及ぶ川中島合戦の戦端を開いた。信玄の猛調略と甲相駿三国同盟に晒され、北条高広の謀反に失望した上杉謙信は出家騒動を起すが、大熊朝秀の謀反が起って現場に戻された。1561年今川義元討死を機に北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と信玄の後方撹乱により撤退(小田原城の戦い)、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継ぎ以後17回も関東に遠征したが、北条・武田を敵手に諸豪の向背定まらず結局関東制覇の夢は破れ、家臣の叛心に油を注いだ。川中島合戦でも、啄木鳥戦法を見破り信玄を追い詰めたが、信濃奪還の本意は叶わなかった。1571年上杉謙信は越中に主戦場を移動、信玄急死で後ろ楯を失った一向一揆を破り、1577年逆臣椎名康胤を討って越中大乱を平定、北進して織田方に奪われた七尾城を奪還し、越後・越中・能登の三国を征した。本願寺顕如・毛利輝元らと織田信長包囲網を形成し、手取川合戦で柴田勝家軍団を粉砕、信長討伐の大動員令を発したが直後に急死した。
- 武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いで覇を競った最強の戦国大名である。両軍の精強は元来甲斐・越後の兵が「上方兵の10人分」(因みに東海道最強といわれた三河武士は3人分)といわれたほど強かったことが要因だろうが、野武士軍団をまとめ力を発揮させた力量は凄い。ライバルの二人は性格も用兵術も全く異なったようである。武田信玄は、軍事だけでなく智謀・政治にも優れた緻密且つ用意周到な万能タイプで、「武田二十四将」に気を配りつつ軍団編成や戦術を自ら細かく指揮し、謀略・外交も駆使して旺盛な領土欲を満たしていった。「信玄堤」に代表される治水事業は最も有名だが、金山開発などの産業奨励にも注力し、占領地は暴政を敷く危険性のある家臣には与えず直轄領として民政に老練な代官を送り善政をさせて大いに民心を得たという。惜しむらくは行動の遅さだろう。上洛目前の急死は悲運であったが、織田信長さえ全力を尽くして信玄の機嫌を取り結び死後は発狂したように躁状態に入ったというから、もう少し早く動いていたらと思わざるを得ない。諏訪氏討伐後、奥の院に引篭もって昼夜の別なく酒色と作詩に耽溺し、板垣信方に諫止されたというから自堕落で享楽に耽り易い性質であったとも考えられる。誰もが無敵と仰ぐ武田信玄を川中島に釘付けにし野望を阻んだのが9つ年下の上杉謙信であった。こちらは毘沙門天を尊崇する大の戦争好きで、後継問題で揺れる上杉家中を天才的軍才で掌握し、領土的野心が無いのに頼られるごとに関東へ信濃へと義軍を出した。兵法者の信仰篤い飯縄権現に帰依し妻帯禁制の戒を守って生涯童貞で通したといわれ(なお愛宕勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に励んだ管領細川政元も女色を禁断した)、謙信女性説の根拠となっている。戦略や用兵は全て直感で行い、事前の下知や相談はせず、出陣に際して並んだ将兵を乗馬のまま区切るという適当さながら、軍略は鬼神の冴えを現し戦えば勝ったので家臣さえ「軍神」と仰いだという。武田信玄の上洛に際し両雄は和睦するが、信玄は亡くなる前に「謙信と和親して頼れ、あれは頼みになる男じゃ」と遺言したという。「敵に塩を送る」美談も有名である。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 長野業正は、上野守護代長尾氏を滅ぼして西上野を掌握し、山内上杉氏を承継した上杉謙信に属して北条氏康・武田信玄の猛攻を防ぎ切った箕輪城の勇将、自らの死で謙信の関東侵出は頓挫し後嗣の長野憲業は信玄の猛攻に晒され滅亡した。関東公方足利氏と山内・扇谷の両上杉家が長期内紛で衰退するなか、長享の乱・永正の乱を制した越後長尾氏が台頭し長尾為景は越後守護上杉房能を弑殺し攻め寄せた関東管領山内上杉顕定(房能の実兄)も討殺、関東では今川・北条が扇谷上杉領を侵食し群雄割拠する戦国下克上に突入した。山内上杉家に仕える長野業正は、長享の乱で降した扇谷上杉朝良の娘を娶り12人もの女児を次々土豪に縁付ける婚姻政策で勢力を扶植、1527年長尾為景に靡いた惣社長尾顕景・白井長尾景誠を降し両守護代家に傀儡当主を据えて西上野を掌握した。1546年関東管領上杉憲政が上杉朝定・古河公方足利晴氏と同盟し圧倒的大軍で北条氏康を攻めるが「地黄八幡」北条綱成の「日本三大奇襲」に遭い致命的敗北、古河公方は北条の傀儡に堕し朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡、憲政は命からがら上野平井城へ落延びるも山内上杉家は没落した(河越夜戦)。長野業正は、嫡子吉業を河越夜戦で喪いながら国人の結束を固めて西上野を堅持し、憲政を保護し山内上杉氏の家督を譲られた上杉謙信(為景の後嗣)に臣従、1552年「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止めた。1557年川中島の戦いで対峙する謙信の後方撹乱を期す武田信玄が西上野侵攻を開始、長野業正は上野国人を糾合して迎え撃ち、足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍を務めて鮮やかな退却戦を演じ、箕輪城に籠ると夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し謙信の来援を得て防衛に成功、信玄をして「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と慨嘆させた。長野業正は老骨に鞭打って西上野を守り抜いたが寿命には勝てず1561年70歳で病没、信玄は「これで上野を手に入れたも同然」と直ちに猛攻を仕掛け柱石を喪った上杉勢は瓦解、後嗣の長野業盛は謙信の助勢を得て奮闘したが1566年箕輪城陥落と共に上野長野氏は滅亡した。
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
北条氏康と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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