北条早雲・氏綱の遺志を継いで関東管領上杉氏を滅ぼし、関東制覇は上杉謙信と武田信玄に阻まれたが伊豆・相模から関東全域に勢力を伸ばし善政を敷いた文武両道の智将(息子の代に豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡)
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照北条 氏康
1515年 〜 1571年
80点※
北条氏康の年表
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1515年
伊豆・相模国主で関東に勢力を伸ばした北条氏綱(北条早雲の嫡子)の嫡子に北条氏康が出生
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1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
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1516年
尾張守護斯波義達と結んだ浜松引馬城主大河内貞綱が寝返り、今川氏親は貞綱を討取る完勝を収め義達も出家降伏させ遠江の反抗勢力を一掃
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1517年
遠江を征服した今川氏親が国人領主大井信達と提携し甲斐西部へ侵攻、甲斐守護武田信虎と戦い勝山城を一時占拠するが停戦和睦
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1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
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1519年
美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる
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1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
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1520年
播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
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1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
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1523年
備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
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1524年
北条氏綱が扇谷上杉朝興軍を高輪原で破り江戸城を奪取、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばす
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1525年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
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1526年
駿河・遠江を征し三河・甲斐へも勢力を伸ばした今川氏親が死去(享年53)、幼い嫡子今川氏輝のために分国法『今川仮名目録』を遺す
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1527年
[桂川原の戦い]管領細川高国に弟の香西元盛を殺された波多野稙通・柳本賢治兄弟が丹波で反旗を掲げ征伐軍を撃退して京都へ進軍、阿波の細川晴元・三好元長は三好勝長・政長軍を派遣し京都桂川原で両軍激突、波多野・三好連合軍が勝利し細川高国と将軍足利義晴は近江へ敗走
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1527年
将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
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1527年
山内上杉氏の領国上野で惣社長尾顕景・白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通するが箕輪城主長野業正に攻められ降伏、西上野を掌握した業正は顕景を隠居させて嫡子景孝に惣社長尾氏を継がせ翌年景誠を暗殺し顕景次男の憲景を白井長尾氏当主に擁立
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1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
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1530年
北条氏康が扇谷上杉朝興との小沢原合戦で初陣を飾る
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1530年
将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する
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1531年
[大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行
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1532年
本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦
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1532年
[飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避
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1533年
伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始
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1534年
尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生
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1536年
[花倉の乱]駿河・遠江守護今川氏輝(氏親嫡子)が後嗣無く死去、氏親次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す福島越前守ら国人衆が遠江各地で挙兵するが、北条氏綱の援軍で優勢となった義元方が花倉城を落とし恵探を自害させる
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1536年
[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
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1537年
[甲駿同盟・駿相同盟破綻)駿河・遠江守護今川義元が抗争状態にあった甲斐守護武田信虎の娘定恵院を正室に迎え甲駿同盟成立、怒った北条氏綱は今川氏親・北条早雲以来の駿相同盟を解消して東駿河に攻め込み河東地域を奪取
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1537年
豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
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1538年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
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1540年
尾張の領袖織田信秀が三河侵攻を開始、松平氏など三河国人衆を挟んで今川義元と対峙
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1541年
武田晴信(信玄)が重臣の板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌及び姉婿今川義元と共謀して父武田信虎を駿河へ追放し家督と甲斐守護職を承継、領民は暴虐な信虎の追放を歓迎
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1541年
美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す
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1541年
父北条早雲が征した伊豆・相模を固め武蔵・駿河に勢力を伸ばした北条氏綱が死去、嫡子北条氏康が打倒上杉氏・関東制覇の遺志を継ぐ
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1541年
流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)
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1542年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実ともに美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
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1542年
武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする
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1542年
徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
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1543年
越後守護上杉房能・関東管領上杉顕定(房能の実兄)の二君を討ち越後を掌握した長尾為景が死去(享年54)、嫡子の長尾晴景が越後守護代を継ぐが弱腰を侮られ国人衆が傀儡守護上杉定実を担いで蜂起、13歳で元服した為景四男の長尾景虎(上杉謙信)は栃尾城の戦いで初陣を飾り連戦連勝で反乱軍を撃破
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1543年
[鉄砲伝来]倭寇の頭目王直(五峯)の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子は火縄銃2挺を購入し刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製に成功、貿易商人を通じて忽ち畿内へ伝播し早くも同年中に和泉堺・紀州根来寺・近江国友などで鉄砲製造がスタート、鉄砲と硝石の調達・鉄砲鍛冶の獲得・鉄砲隊の調練は戦国大名の軍事戦略の要諦となる
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1544年
土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意
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1545年
[河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう
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1546年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(氏康の妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され氏康が立てた傀儡の次男義氏(氏康娘婿)に古河公方職を奪われ、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
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1546年
河越夜戦で関東管領山内上杉憲政に従った上野箕輪城主長野業正が北条氏康に敗れ嫡子吉業を喪うが「箕輪衆」を結束させ西上野の支配圏を堅持(上杉家臣の大胡氏・上泉伊勢守信綱らも長野氏に臣従)、業正は憲政を保護した越後の長尾景虎(上杉謙信)に臣従し北条氏康・武田晴信(信玄)と対峙
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1546年
[舎利寺の戦い]細川晴元に反逆した将軍足利義晴・細川氏綱・細川政国・遊佐長教の反乱を三好長慶の阿波勢と六角定頼の近江勢が制圧、義晴は逃亡先の近江坂本で隠居し10歳の嫡子足利義輝に13代室町将軍を継がせる(2年後に義晴は晴元と和解して京都に戻り晴元は義輝の将軍就任を承諾する)
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1547年
三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)
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1547年
[加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡
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1548年
[上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻め寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る
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1548年
連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成
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1548年
[第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる
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1548年
[天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭
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1549年
斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる
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1549年
[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)
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1549年
今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる
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1549年
[江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)
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1550年
[二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる
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1550年
[公事赦免令]関東の大地震で困窮した領民の逃散が深刻化、北条氏康は伊豆・相模・武蔵の領国全域に諸税軽減化と債務免除を骨子とする徳政令を施行
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1550年
ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断
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1550年
毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす
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1550年
筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)
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1551年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
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1551年
信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
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1551年
[大寧寺の変]周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前守護の大内義隆が権臣(元寵童)陶隆房(晴賢)の謀反により自害(嫡子義尊も討たれ戦国大名大内氏は事実上滅亡)、陶は大友義長(宗麟の弟で大内義隆の甥)を義隆の養子に迎えて名目上の当主に担ぎ大内家を簒奪、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦、陶と同盟した大友義鎮(宗麟)は貿易都市博多を確保し戸次鑑連(立花道雪)が土豪を切従えて大内領の筑前・豊前の実権を掌握し龍造寺隆信ら肥前の大内勢力も一掃
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1551年
大友義鎮(宗麟)がフランシスコ=ザビエルを豊後府内に招聘、ザビエルは数千の信者を獲得し2か月滞在後にインドへ去るが(義鎮自身のキリスト教入信は30年後)、キリスト教は大友領内で繁栄し南蛮船・中国船の来航が数倍となって府内は殷賑を極め大友氏は貿易の利を占める
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1552年
南近江守護六角定頼が死去(子の義賢が後継)し庇護者を失った細川晴元派は弱体化、近江朽木に籠る将軍足利義輝は三好長慶に帰順し京都へ帰還するが翌年晴元と共に反乱を起し再び近江朽木へ逃亡
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1552年
北条氏康に追い詰められた関東管領上杉憲政が上野平井城を棄て長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に亡命、箕輪城主長野業正は「箕輪衆」を率いて北条軍の西上野侵攻を食止め、業正の援軍要請に応じた景虎は関東に派兵して平井城を奪還するが北条氏を敵に回したうえ北信濃・上野の両戦線で武田晴信(信玄)と対峙する苦境に陥る
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1553年
織田信長の傅役平手政秀が諌死、斎藤道三と娘婿の織田信長が尾張・美濃国境の富田正徳寺で会見・「うつけ者」の悪評が高い信長の異能を感じ取った道三は子孫の臣従を予言
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1553年
[第1次川中島の戦い]長尾景虎(上杉謙信)が村上義清・小笠原長時・高梨政頼らの領地返還を求め北信濃に進軍、武田晴信(信玄)軍と対峙し戦闘5回・11年に渡る川中島の戦いが勃発
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1554年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念
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1555年
織田信長に内通した尾張守護斯波義統を清洲城主織田信友が殺害、嫡子斯波義銀を保護した信長は叔父の守山城主織田信光と協力して主筋の信友を討ち(織田大和守家滅亡)清洲城と守護所を奪取
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1555年
第2次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1555年
朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
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1555年
[厳島の戦い(日本三大奇襲)]乾坤一擲の劣勢挽回を図る毛利元就が反間の計で大内軍を狭い厳島に誘い込み、小早川隆景の調略で村上武吉・村上通康の村上水軍を味方に付け海上封鎖したうえで闇夜に渡海上陸し山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、一気に視界が開けた元就は直ちに大内家乗取りに奔走
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1555年
能島村上水軍の村上武吉・来島村上水軍の村上通康が小早川隆景からの「1日だけの味方」要請に勝利を予見し毛利元就の厳島合戦に参戦、村上水軍の手引きで闇夜に紛れて厳島へ渡り退路を封じた毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅、村上水軍は毛利による大内家乗取り(防長経略)に協力して勢力を伸ばし塩飽諸島や備後小早川氏の水軍衆と提携して瀬戸内海を掌握
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1555年
天文の乱を制し家督を継いだ伊達晴宗(政宗の祖父)が弟の大崎義宣・葛西晴清を含む稙宗派を粛清し男児を岩城・留守・石川・国分・杉目氏の養子に女児を二階堂・小梁川・蘆名氏・佐竹義重に縁付けて勢力回復に努め、後援する将軍足利義輝をしてより奥州探題に補される
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1555年
北条氏康が上野大胡城を攻略するが箕輪城主長野業正が奪回、主君の大胡氏と共に長野家臣団に編入された上泉伊勢守信綱(上泉城主)は武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦して武名を轟かせ同時に新陰流兵法も発展を遂げる
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1556年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継(道三方の明智城主明智光安・光久兄弟は討死し逃亡した甥の明智光秀は諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官)、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1557年
芳賀高定(宇都宮広綱家臣)が北条氏康・佐竹義昭の協力を得て壬生綱雄を追放し宇都宮城を奪還、義昭は広綱に娘を娶わせ勢力下に置く
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1556年
67歳の塚原卜伝が養子の幹重に家督を譲って剃髪出家し13代将軍足利義輝を援けるため三たび上洛、近江で亡命生活を送る義輝に小太刀を指南し2年後の京都帰還に際して新当流の印可と秘剣「一つの太刀」を授与、卜伝は退いて大徳寺に参禅したあと京都を去って諸国を旅し伊勢国司北畠具教に「一つの太刀」を授け甲斐の山本勘助や近江の蒲生定秀を歴訪、義輝が三好三人衆に襲われ斬死すると京都相国寺の牌所を詣で10年の旅を終えて常陸鹿島へ帰国
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1557年
[防長経略]毛利元就が陶晴賢の勢力を駆逐して大内家を乗取り周防・長州を奪取、陶の傀儡大内義長(義隆の甥)は実兄の大友義鎮(宗麟)に見捨てられ自害(毛利氏は義長の助命を申送ったが身内への猜疑心が強い義鎮はむしろ処刑を要求したとも)、元就は北九州へ食指を伸ばすが義鎮は筑前古処山城主の秋月文種を自害させるなど毛利方勢力を掃討して豊前・筑前を制圧(実行役は立花道雪)
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1557年
第3次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1557年
織田信長に帰順した柴田勝家が織田信行の再謀反を密告、信長は病と称して弟の信行を清洲城に誘い込み殺害、信行の遺児(津田信澄)は助命され勝家に託される
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1557年
武田晴信(信玄)が川中島の戦いで対峙する長尾景虎(上杉謙信)の後方撹乱を図り西上野侵攻を開始、長野業正は配下の「箕輪衆」と上野国人を糾合し抗戦・上野勢は足並みの乱れで緒戦を落とすが殿軍の業正は鮮やかな退却戦を演じて箕輪城に籠城し夜討ち朝駆けの奇襲戦法で武田軍を痛撃し景虎の来援を得て防衛に成功、信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆く
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1558年
[北白川の戦い]将軍足利義輝・細川晴元が挙兵し京都奪回を図るが、三好康長・三好実休・安宅冬康・十河一存ら阿波勢の来援を得た三好長慶が勝利、晴元派の庇護者六角義賢も和睦に動き義輝・晴元は降伏し5年ぶりに京都へ帰還、室町幕府を牛耳った三好政権は摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路を掌握し最後は河内・大和まで10カ国を勢力圏に収めて全盛期を迎える
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1559年
[浮野の戦い]織田信長が犬山城主織田信清と同盟し織田一門の宗家で岩倉城主の織田信賢を撃破、守護斯波義銀も追放し尾張一国を平定~武功を挙げた前田利家は「槍の又左」(利家の字は又左衞門)の異名をとり母衣衆(信長親衛隊)に抜擢されて妻まつ(芳春院)を迎えるが、笄を盗んだ同朋衆(給仕役)拾阿弥(信長の異母弟説あり)を斬殺し信長の勘気を蒙って織田家を追放される
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1559年
三好長慶・松永久秀の傀儡将軍からの脱却を期す足利義輝が抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達晴宗・織田信長・斉藤義龍・武田晴信(信玄)・長尾景虎(上杉謙信)・北条氏政・最上義光・毛利元就・尼子晴久・大友義鎮(宗麟)・島津貴久らと誼を通じ三好政権打倒を画策、信長と景虎は上洛して義輝に拝謁し義鎮は鉄砲を献上
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1559年
北条氏康が永禄飢饉救済のため徳政令を施行、領主層を納得させるため建前上引責隠居し次男北条氏政(長男は夭逝)に家督を譲る
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1559年
和漢融合様式を確立して職業画家集団「狩野派」を興し分業制作体制により大徳寺大仙院方丈・妙心寺霊雲院・石山本願寺など多くの障壁画を描いた狩野元信が死去、孫の狩野永徳(三男松栄の嫡子)が武家好みの豪快な画風で織田信長・豊臣秀吉に寵遇され狩野派400年の繁栄をもたらす
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1560年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560年
桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
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1560年
[野良田の戦い]六角義賢に従属した弱腰の浅井久政に対し嫡子浅井長政と家臣団がクーデター、久政から家督を奪った長政(このとき賢政から改名)は六角氏と手切れして諸豪を調略、愛知郡肥田城主高野備前守の寝返りに激怒し攻め寄せた六角義賢軍を撃退し浅井氏は北近江の支配権を確立、敗れた六角氏は南近江支配も脅かされ衰亡へ向かう
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1560年
眼病で視力が低下し隠居した富田勢源(中条流当主は弟の富田景政・越前朝倉氏家臣)が神道流兵法者(梅津某)の挑戦を断り切れず斎藤義龍の招きに応じて美濃稲葉山城下で立合い、勢源は小太刀の名手だが40cm足らずの薪を手に「眠り猫」の態で対すると瞬時に相手の二の腕と頭を叩き割る神業で圧勝、「無刀」を追求する勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせ更に研鑽を積む
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1561年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561年
斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続
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1561年
[第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死
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1561年
武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る
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1561年
ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる
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1562年
[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
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1562年
[久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張
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1564年
[第二次国府台合戦]北条氏康が江戸川を越えて里見義堯・義弘率いる上杉派房総連合軍を攻撃、緒戦は家臣の勇み足で落としたが北条綱成の奇襲反撃により敵将正木信茂を討取る快勝、上総国を制圧し里見氏を安房に追い詰めるが上杉輝虎(謙信)対策に手間取り戦線膠着
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1564年
[山王堂の戦い]北関東で上杉輝虎(謙信)方の佐竹義昭・宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹と北条氏康方の小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤の抗争が激化、上野平井で出馬要請を受けた輝虎は8千余騎を従え「神速」で常陸真壁郡山王堂に駆け付け小田勢を討滅(余りの速さに関東勢は遅参)、輝虎は征服した常陸小田城を義昭に預け武田信玄に対するため越後へ撤退、義昭は氏治を藤沢城に追込み継室の実家大掾氏も傘下に収めて常陸平定をほぼ達成
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1564年
[三河一向一揆]岡崎上宮寺での米穀徴発に端を発し一向一揆が発生、松平家康(徳川家康)の弾圧策が火に油を注ぎ旧三河守護の吉良氏ら土豪にくわえ松平家臣の多くが武装蜂起、窮地の家康は屈辱的条件で和睦するが約を違えて一向宗寺院を悉く破却(首謀者の一人本多正信は松永久秀に寄寓したのち加賀一向一揆に加わり、流浪の末に帰参を赦され家康の軍師となる)、反撃の好機を座視した今川氏真は逆に東三河の拠点吉田城を奪われ、松平家康が三河一国を制圧
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1564年
陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」三好長慶が死去(享年43)、三好長慶・三好実休・安宅冬康・十河一存の四兄弟を一挙に喪った三好政権は内部分裂で瓦解し京都・堺・奈良の三大都市を握る松永久秀が台頭、織田信長の畿内侵攻に遭って三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)は掃討され、久秀と長慶の養嗣子三好義継は信長に降るが最後は謀反し滅ぼされる
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1564年
第5次川中島の戦い(上杉謙信vs.武田信玄)
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1564年
主君斎藤龍興と側近からの侮辱に怒った竹中半兵衛重治が手勢14人で稲葉山城を急襲し占領、舅の安藤守就も駆けつけて龍興は逃亡、織田信長から美濃半国を条件に城を明渡すよう誘われたが断って龍興に返還し、北近江に移って浅井長政の客将となるが1年で禄を辞して美濃岩手に戻り隠棲
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1565年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が三好長慶の死を機に自立を図る二条御所の将軍足利義輝を襲撃(松永久秀は消極的あるいは不関与説もあり)、塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪将軍義輝は刀を換えつつ奮戦するが斬死(享年30)、義輝の生母慶寿院は殉死し弟の鹿苑寺周暠は殺されるが一乗院覚慶(足利義昭)は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、三好長慶の養嗣子義継を擁する三好三人衆が専横を強める松永久秀と断交し争乱に発展
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1565年
興福寺に幽閉された将軍足利義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)が三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は近江甲賀の和田惟政邸で足利将軍家の家督を宣言し南近江守護六角義賢が献上した野洲郡の矢島御所に移り還俗して足利義秋(義昭へ改名)を名乗り、関東管領上杉輝虎(謙信)・河内守護畠山高政・能登守護畠山義綱らに三好三人衆・松永久秀打倒を要請するが三好長逸に矢島御所を襲撃され六角義治(義賢の嫡子)に内通疑惑が生じたため若狭守護武田義統を頼り亡命、力不足の武田家を去り越前朝倉氏を頼るが朝倉義景は重い腰を上げず
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1566年
織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、猛反撃に遭って力攻めを断念するが、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の客将となって抗戦を続けるが1573年に戦死)
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1566年
[箕輪城落城]局地戦では無敵ながら関東に安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に落とされ長野業盛(業正の後嗣)は自刃し上野長野氏は滅亡、輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦するが挽回できず関東制覇を断念、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩し勢力を回復
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1566年
箕輪城裏手の守備にあった上泉伊勢守信綱(上泉城主)が突撃玉砕を企てるが武威を惜しむ武田信玄が軍師穴山信君を遣わし救済、信綱は信玄に仕えるが新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄(槍術)・肥後相良氏の家臣丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露(天覧の際に信綱の相手役を任された丸目は門人筆頭と目される)
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1566年
[第二次月山富田城の戦い]毛利元就・吉川元春が5年に及んだ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家臣として存続、後に尼子再興軍を旗揚げする山中鹿介は上京へ逃れ諸国巡歴)、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇
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1567年
織田信長が美濃国を制圧、中国周王朝の発祥地に因んで稲葉山城を岐阜城へと改名し本拠を移動、国境を接した武田信玄を贈物攻勢と婚姻政策で宥めつつ「天下布武」を掲げて京都を窺う
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1567年
丸目蔵人長恵が愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ世人に真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず、師の上泉伊勢守信綱は長恵に新陰流の印可を授与(「殺人刀」教授は認めるが「活人剣」は秘匿すべしとの制限付)、長恵は肥後人吉へ戻り相良晴広の命により薩摩大口城守将の東伊勢守の旗下に入る
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1567年
北近江小谷城主の浅井長政が越前朝倉氏に背かないことを条件に上洛を望む織田信長と同盟し南近江の六角義賢攻めを加速、信長の妹で「近国無双の美人」市は浅井長政に入輿し茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母淀殿)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)を出産する
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1567年
[三船山合戦]北条氏政(氏康嫡子)が安房に攻め入り里見義堯・義弘に決戦を挑むが水陸両戦でまさかの大敗、房総情勢は里見氏優位に転換(その後一時降伏(房相一和)するも反北条を貫く)
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1567年
駿河侵攻を企図する武田信玄が嫡子武田義信を今川氏の妻と離縁させ廃嫡のうえ幽閉し(2年後自害に追込む)傅役の飯富虎昌らも謀反の疑いで殺害、信玄の四男武田勝頼が信濃高遠城から甲府躑躅ヶ崎館に召還され跡継ぎ的立場となる
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1567年
武田信玄を恐れる織田信長が養女(姪)を世子武田勝頼に嫁がせ(遠山夫人)武田信勝が出生、上機嫌の信玄は信勝を跡継ぎに定め娘松姫と信長嫡子信忠の婚約を認める(後に武田と織田は手切れとなり婚姻は成立せず)
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1568年
将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死
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1568年
足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃
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1568年
[観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する
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1568年
織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る
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1568年
[甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)
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1568年
[毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する
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1569年
[本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)
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1569年
織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)~信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す
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1569年
[青山・土器山の戦い]播磨に野心を抱く備前国主浦上宗景が播磨守護赤松義祐に加担して赤松政秀領へ侵攻するが、政秀は足利義昭を介して織田信長の援軍を招来し宇喜多直家も離反の色を立てたため浦上勢は備前へ撤退、一転優位となった政秀は手薄な姫路城を攻めるが小寺孝高(黒田官兵衛)の伏兵戦術に敗れ撤退、翌月再攻するも播磨英賀城主三木通秋の加勢を得た官兵衛に本陣を奇襲されて潰走、機に乗じた浦上宗景に龍野城を攻められ降伏した政秀は間もなく毒殺され龍野赤松氏は衰亡(家督は嫡子広秀が相続)、浦上宗景に帰順した宇喜多直家は辛くも助命される
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1569年
[掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
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1569年
戦国大名屈指の名門で駿河・遠江・三河を領有した今川氏が滅亡、今川氏真は流転の末に徳川幕府に庇護され77歳の長寿を全うし子孫は高家旗本として存続
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1569年
織田信長の木下藤吉郎(豊臣秀吉)軍団が但馬に侵攻、山名祐豊を降し生野銀山(秀吉の強力な経済基盤となる)などを制圧
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1569年
[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
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1570年
上杉輝虎(謙信)が同盟相手北条氏康の七男を養子に迎え上杉景虎の名を与える
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1570年
織田信長が朝倉義景討伐で越前に攻め込むが浅井長政離反により撤退、殿軍の木下藤吉郎(豊臣秀吉)の決死の奮戦で挟撃の窮地を脱出(金ヶ崎の退き口)、逃避行に随従した松永久秀は近江朽木谷城主の朽木元綱の協力を取り付ける活躍
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1570年
出羽米沢城主伊達輝宗(政宗の父)が権臣中野宗時・牧野久仲父子を追放し父伊達晴宗を隠居に追込んで家中を掌握、鬼庭左月斎・遠藤基信を側近に登用して外交活動を展開、蘆名氏との同盟を保ちつつ南奥羽諸豪の紛争を調停し織田信長・柴田勝家・北条氏政らと友好関係を構築
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1570年
[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝(本多忠勝は単騎駆けで戦端を開き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍)、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
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1570年
美濃岩手城主竹中半兵衛重治が舅の安藤守就の勧めで朋輩の牧村利貞・丸毛兼利と共に織田信長に帰服、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力に加えられた軍師半兵衛は旧知の堀家家老を口説いて長亭軒城を寝返らせ浅井長政が固めた美濃・近江の陸上封鎖を打破、姉川の戦いにも従軍し弟の竹中重矩が浅井家の豪傑遠藤直経を討取る活躍、合戦後最前線の近江横山城に留め置かれた藤吉郎は小谷城の浅井長政と対峙し半兵衛の軍略により均衡を保つ
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1570年
[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し石山合戦が勃発(下間頼廉・鈴木重秀の指揮のもと11年も織田軍団の猛攻を凌ぎ切る)、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を脱出、和睦を成功に導いた明智光秀(このときは義昭・信長への両属)は近江坂本城10万石を与えられ44歳で一城の主となり、春日井堤の合戦で単騎踏み留まり味方の潰走を食止めた前田利家は信長から「日本無双の槍」と激賞され1万石余の加増を受けて織田家大名衆に加わる
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1570年
本願寺顕如の要請を受けた雑賀衆の鈴木重意が根来衆と協力し鉄砲隊600余を率いて三好三人衆に加勢し織田信長軍団と交戦(佐々成政を負傷させる)、石山合戦が起ると鈴木重秀(重意の次男)が石山本願寺に入り下間頼廉と共に一向一揆軍団の軍事指揮を担う(大坂左右大将)
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1571年
[越中大乱]上杉謙信が関東から越中に主戦場を移し椎名康胤を猛攻するが、本願寺顕如と結ぶ武田信玄に扇動された越中一向一揆の猛反撃に遭い富山城を巡り6年に及ぶ争乱に発展
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1571年
傀儡将軍足利義昭が恩人の織田信長を裏切り信長包囲網に加担し「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・延暦寺・六角義賢に内通し仇敵の松永久秀・三好三人衆へも決起を呼掛け上杉謙信・毛利輝元には上洛を要請、遠江・三河の徳川家康領に侵攻した武田信玄に期待を掛け使者を遣わして信長討伐を懇請
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1571年
一土豪の次男から旧主の大内氏・尼子氏を滅ぼして安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を征服した毛利元就が吉田郡山城にて死去(享年72)、山中鹿介の尼子再興・大内輝弘の乱を鎮圧した吉川元春・小早川隆景(元就の次男・三男で「毛利両川」と称される)が家督の毛利輝元(元就の嫡孫)を担いで毛利家を宰領し迫り来る織田信長に対峙
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1571年
上泉伊勢守信綱が京都を退去し上野上泉へ帰国、柳生宗厳に一国一人の印可を授けて新陰流正統を託し併せて「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」を公案として課す
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1571年
[比叡山焼き討ち]織田信長が信長包囲網への反撃開始、平安時代から続く宗教畏怖観を破って延暦寺焼き討ちを敢行し数千の僧兵と居るはずのない女子供の悉くを誅殺
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1571年
松永久秀から大和筒井城を奪還した筒井順慶が明智光秀(妻の義兄)・佐久間信盛の斡旋により織田信長に臣従し久秀と小競り合いを繰返しつつ光秀の与力として信長の天下統一戦に従う、久秀方で活躍し柳生の庄(所領は2千石ほど)を保った柳生家厳は嫡子の柳生宗厳に家督を譲り隠遁
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1571年
関東の雄北条氏康が死去(享年57)、嫡子北条氏政は「上杉謙信との越相同盟を捨て、武田信玄と同盟し直せ」との遺言に従い甲相同盟を再締結し再び上杉謙信と敵対
年
北条氏康と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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