「血清療法の発明」で世界的細菌学者となるが東大閥に締出され福澤諭吉の援助で「伝染病研究所」「北里研究所」を創設、慶應義塾大学医学部と日本医師会の創立も主導した医学会の巨星
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北里 柴三郎
1853年 〜 1931年
80点※
北里柴三郎と関連人物のエピソード
- 東京大学医学部から内務省衛生局に入った北里柴三郎は、1885年上司の緒方正規の計いで医学先進国ドイツへの留学を許された。緒方正規は北里柴三郎と同じ熊本県出身で1953年の同年生れ、東大医学部へも同期入学したが、留年した北里より3年先に卒業しドイツ留学を経て東大医学部教授兼内務省衛生局試験所所長の要職に就いていた。なお医系技官トップの内務省衛生局長は、長崎出身で北里柴三郎と同じマンスフェルト門下の長與專齋から、北里の同僚で生涯の親友となる後藤新平へ引継がれている。さて独ベルリン大学に入った北里柴三郎は、緒方正規が紹介状を書いてくれたレフラーに学び、予防こそ医学の王道と考えロベルト・コッホの細菌学研究室へ進んだ。「近代細菌学の開祖」コッホに期待を掛けられた北里柴三郎は、同僚のエミール・ベーリングと共に研究生活に没頭し、1889年「破傷風菌純粋培養法」を成功させ翌年「破傷風菌抗毒素」を発見、これらの研究成果をもとに菌体の少量注射により血清中に抗体を生出す画期的な「血清療法」を発明し、ジフテリアへの応用を成功させたベーリングと連名で学術論文「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」を発表した。北里柴三郎博士は東洋人ながら一躍細菌学のトップランナーとなり、欧米諸国の大学や研究施設から招聘オファーが寄せられたが、日本の医療体制構築と伝染病救済という国費留学の目的を果たすべく1892年に帰国した。1901年、第1回ノーベル医学生理学賞の候補に北里柴三郎の名が挙がったが不公平なことに共同研究者のベーリングのみが単独受賞、人種的偏見によるものと考えられている。さらに1894年、北里柴三郎は日本政府の命でペストが蔓延する香港へ派遣され「ペスト菌」発見の偉業を果したが、惜しくも第一発見者の栄誉は同時期に香港に居たアレクサンドル・イェルサンにさらわれた。
- 「血清療法」の発明で世界的細菌学者となった北里柴三郎は1892年ドイツから帰国したが、留学中に緒方正規教授の「脚気病原菌説」を否定したことから東大医学部閥が牛耳る日本医学会で「恩知らず」扱いされ、愚かなことに凱旋した母国で締出しを喰った。脚気病原菌説は後に誤りと判明するが、当時は医学先進国ドイツで優勢であり、ドイツ医学を信奉する東大医学部閥の石黒忠悳・森鴎外・緒方正規らが強硬に擁護しており、「象牙の塔」の日本医学会で北里柴三郎の行為は反逆と見做された。日本が誇るべき北里柴三郎の苦境を知った慶應義塾の福澤諭吉は、森村財閥(ノリタケカンパニーおよびTOTOの前身)創業者の森村市左衛門らの出資を得て1892年「伝染病研究所」を開設し浪人の北里を所長に迎えた。が、骨抜きを図る東大閥は1899年内務省管轄「国立伝染病研究所」へ改組させ、1914年北里柴三郎に無断で文部省へ移管し東大医学部に吸収、北里所長以下全職員が一斉辞任する騒ぎとなった(伝研騒動)。伝染病研究所を乗取られた北里柴三郎は私費を投じて「北里研究所」を設立、北島多一(第2代慶應義塾大学医学部長・第2代日本医師会会長)・志賀潔(「赤痢菌」発見者)・秦佐八郎(梅毒特効薬「サルバルサン」発明者)ら錚々たる研究員を擁し狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発と伝染病研究を継続した。東大閥と対立しつつ実力通り日本医学界の重鎮となった北里柴三郎は、日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(北里研究所病院の前身)・日本結核予防協会・貧民救済のための「恩賜財団済生会芝病院」(現東京都済生会中央病院)を創設し、1916年には全国府県医師会の統合により「大日本医師会」を発足させ初代会長に就任した(1923年法定化され「日本医師会」へ改称)。また北里柴三郎は亡き福澤諭吉の恩義に報いるため、慶應義塾大学医学科(医学部)の創設を主導し初代学部長兼付属病院長に就任、慶應教授陣には北里研究所から北島多一・志賀潔・高野六郎ら有名研究者を続々派遣し、生涯無給で発展に尽くした。
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 外圧を跳ね返すために明治維新を達成した日本においては、アジア諸国が連帯して西欧列強の侵略に対抗すべしとする「興亜論」が支配的であった。福澤諭吉もその論客の一人であり、朝鮮独立党支援にも動いたが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の方針を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
- 緒方洪庵は、種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者である。政治への影響では討幕の原動力となった吉田松陰の「松下村塾」に及ばないが、純粋な学問的成果において緒方洪庵の適塾は際立っており、日本庶民に学問による立身出世の夢を与えた。備中足守藩の下級藩士の三男に生れた緒方洪庵は、虚弱体質のため武士を諦め16歳で大坂の中天游に入門、江戸で坪井信道や宇田川玄真(玄随の養子)に学び長崎でオランダ人医師ニーマンに師事して西洋医学を修めた後、大阪で町医者を開業し蘭学塾「適々斎塾(適塾)」で後進の指導にあたった。緒方洪庵のオランダ語の読解・翻訳力は抜群で、多数の秀才が適塾に入門したが誰も敵わなかったといわれる。が、思考が柔軟で偏見に捕われない緒方洪庵は、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書を購入して英語学習に取組み、本業では漢方医学も積極的に取入れた。適塾はスパルタ教育で知られ、門人は寝食を惜しみ「血尿が出るほど」猛勉強に励んだが、緒方洪庵はしばしば花見や舟遊びに連れ出し、歌会を開いて得意の和歌を披露、学習態度には厳格でしばしば叱責したが笑顔で諭すのが常で決して声を荒げたことは無かったという。緒方洪庵は医師としても活躍した。幼少期に天然痘に罹患した緒方洪庵は、「人痘法」で患者を死なせたことを悔やみ、佐賀藩を通じてイギリスのジェンナーが発明した「牛痘接種法」を導入、「牛痘を打つと牛になる」といった無知と戦いながら大阪と備中足守に「除痘館」を設置し幕府の理解を促しつつ普及に努めた。コレラが流行すると治療の手引書『虎狼痢治準』を出版し医師に配布している。江戸幕府は「名医」緒方洪庵を招聘、健康不安を抱える緒方は逡巡するも断り切れず奥医師兼西洋医学所頭取を引受け将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられた。医師の極冠に栄達した緒方洪庵だったが、堅苦しい宮仕えに馴染めず、攘夷派志士の襲撃を心配する不安な日々を送り、僅か1年後に54歳で病没した。
- 適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。
- 後藤新平は、胆沢県大参事で後に岳父となる安場保和に進学の機会を与えられ、親戚の高野長英の影響で医者となり、弱冠24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長に就任、岐阜で遭難した板垣退助の診察にもあたった。が、欧米留学の経験が無いことに劣等感を募らせ、石黒忠悳を頼り内務省の医系技官へ転身、同僚の北里柴三郎とは生涯の親友となった。念願のドイツ留学を果した後藤新平は医学博士号を取得し、内務省衛生局長に昇進したが、相馬誠胤子爵の御家騒動(相馬事件)に巻込まれ突如官職を失った。しかし人間万事塞翁が馬、石黒忠悳軍医総監の推薦で後藤新平は官途に復帰し、日清戦争帰還兵の検疫業務を通じて陸軍長州閥のエース児玉源太郎に認められ飛躍の転機を掴んだ。日本政府は日清戦争で獲得した台湾に軍政を敷いたがマラリアとゲリラ暴動で難渋、台湾総督府の開設に奔走した児玉源太郎が自ら第4代総督に就任し、民政局長に抜擢された後藤新平は民政充実策と警察力強化のアメムチ政策で初めて植民地経営を成功させた。鈴木商店との癒着やアヘン専売の悪行も取沙汰されたが、土地制度改革、インフラ整備、台湾銀行・台湾製糖会社の設立、台湾縦貫鉄道の敷設など後藤新平が敷いた民政政策により、清朝が野蛮視した台湾は日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。政界へ転じた後藤新平は、児玉源太郎の死後も桂太郎・寺内正毅・田中義一ら長州閥に属し、初代満鉄総裁を経て第二次桂太郎内閣に逓信大臣兼初代鉄道院総裁で初入閣、寺内正毅内閣では内相から外相へ転任してシベリア出兵を断行し、拓殖大学学長を経て東京市長に就くと安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案した。関東大震災の復興を使命とする第二次山本権兵衛内閣は後藤新平を内相兼帝都復興院総裁に任命、後藤は短期間で首都機能を回復させ「大風呂敷」と揶揄されつつ今日の東京都心部の原型となる気宇壮大な近代都市建設を敢行した。植民地経営と関東大震災復興に確たる業績を残した後藤新平は、資格も野心も満々ながら何故か首相になれず、「政界の惑星」(恒星になれない)のまま71歳で永眠した。
- 湯川秀樹は敗戦国日本に勇気を与えた初のノーベル賞受賞者、先に受賞したインドのラマンはアーリア人種であり非白人初の受賞といえる(文学賞は除く)。湯川秀樹は父と兄弟4人が京大・東大教授という学術一家の出身、父の蔵書から物理学に嵌り「物質はどこまで小さいか」答えを求め高校生にしてドイツ人著『量子論』などを読み耽った。面倒なことは「言わん」で片付ける無口な湯川秀樹は父に劣等視されたが、京都一中・三高・京大理学部物理学科と順調に進学した。湯川秀樹は玉城嘉十郎教授の研究室へ進んだが欧米との差に焦るばかりで芽が出ず、八木秀次教授に拾われ阪大講師の職を得たが三高・京大の同期で活躍著しい朝永振一郎(1965年ノーベル賞受賞)と比較・叱責された。しかし湯川秀樹の「天才の時間」も一見無聊な不遇期に訪れた。プランクが創始した量子力学は、1920年代ハイゼンベルクやシュレーディンガーの業績で躍進し、アインシュタインの相対性理論と並ぶ現代物理学の基礎理論へ発展しつつあった。湯川秀樹は、原子核内部で電気的に纏まれないはずの陽子と中性子を結ぶ「強い力」の「中間子」の存在を予測し1934年日本数学物理学会で仮説発表、翌年論文『素粒子の相互作用について』で未観測素粒子を理論的に予言した。28歳の湯川秀樹の大胆学説に日本学界の反応は鈍かったが、英訳論文が欧米で脚光を浴び1937年ソルベー会議参加の栄誉に浴しアインシュタインやオッペンハイマーと交流した。世界に認められた湯川秀樹は京大・東大で教授を務め、1947年パウエルらの「π中間子」発見で湯川理論が証明されコロンビア大学教授に栄進、1949年ノーベル物理学賞を受賞した。1953年湯川秀樹は帰国し京大基礎物理学研究所の初代所長に就任、「因果律の破れ」くらいしか業績は無かったが、日本物理学会会長として後進の指導に努め、1970年京大退官後も名誉教授に留まり1981年74歳で永眠した。帰国後の湯川秀樹はアインシュタインの反核運動に傾注し日本学界を指導、原子力委員会の委員に就いたが「俗物」正力松太郎委員長に抗議の辞表を叩き付け学者の矜持を示している。
北里柴三郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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