結婚で長州閥に食込み、首相に上り詰めて「初の本格的政党内閣」を実現したが、政党政治の限界を示す役割を演じた虚構の平民宰相
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照原 敬
1856年 〜 1921年
30点※
原敬の寸評
原敬の史実
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1856年
盛岡の上級藩士原直治の次男原敬が岩手郡本宮村にて出生
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1870年
原敬が盛岡藩の藩校作人館・英学塾共慣義塾に学ぶ
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1872年
原敬がフランス人伝道師マリンの神学校の学僕となる
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1873年
徴兵令布告、原敬が徴兵逃れのため別家戸主となり平民に降下
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1876年
原敬が司法省法学校に入学するが3年で退学となる
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1878年
西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される
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1879年
原敬が中井弘の斡旋で郵便報知新聞社に入社
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1879年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結成
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1881年
大隈重信が郵便報知新聞社を買収、原敬は退社
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1881年
原敬が薩長閥の御用新聞『大東日報』の主筆となる
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
原敬が『大東日報』辞職、井上馨の引きで外務省出仕
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1883年
原敬が中井貞子と結婚、井上馨の縁戚となる
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1883年
原敬が天津領事に大抜擢され赴任
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1883年
鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1885年
原敬がパリ公使館付書記官(翌年代理公使に昇進)に任じられ3年余パリ在住
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足、井上馨が外務大臣就任
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1886年
井上馨が内閣臨時建築局を設置し官庁集中計画始動(井上失脚により頓挫)
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1888年
黒田清隆内閣発足
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1888年
榎本武揚に代わって井上馨が農商務大臣就任、外務省を追放された原敬を農商務省参事官に迎える
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得
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1890年
第一回帝国議会開催
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1891年
第一次松方正義内閣発足、陸奥宗光が農商務大臣就任
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1892年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1892年
陸奥宗光が農商務相辞任、原敬も退官
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、陸奥宗光が外務大臣就任
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1892年
陸奥宗光外相の引きで原敬が外務省通商局長就任
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1894年
中井弘(原敬の妻貞子の実父)死去
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
原敬が外務次官に昇進
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1896年
病気の陸奥宗光に代わって西園寺公望文相が外相兼任
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1896年
小村寿太郎に代わって原敬が朝鮮駐在公使赴任
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1896年
第二次松方正義内閣発足、大隈重信が外相就任
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1896年
原敬が新橋芸妓浅の妾宅へ移り妻貞子と別居
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1897年
原敬が外務省を退官し大阪毎日新聞社に入社
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1897年
陸奥宗光死去
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1900年
原敬が大阪毎日新聞社を退社し伊藤博文の立憲政友会結成に参加
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足
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1900年
星亨に代わって原敬が逓信大臣で初入閣
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1901年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足~桂園時代始まる
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1901年
田中正造が足尾鉱毒問題を天皇に直訴
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1903年
西園寺公望が伊藤博文に代わって政友会総裁就任
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
原敬が貞子を離縁
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、原敬が内務大臣就任
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1910年
鮎川義介が大叔父井上馨の援助により戸畑鋳物株式会社(日立金属の前身)設立
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、原敬が内務大臣就任
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、原敬が内務大臣就任
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1914年
原敬が西園寺公望に代わって政友会総裁就任
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
井上馨死去
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1921年
安田善次郎が大磯の別荘で右翼生年に刺殺される
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
原敬の交遊録
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中井弘
義父にして出世の糸口
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原貞子
妻にして出世の糸口
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井上武子
義母にして出世の糸口
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井上馨
最初のボス
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鮎川義介
井上親族の政商
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陸奥宗光
二番目のボス
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伊藤博文
最後のボス
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西園寺公望
お公家さん
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伊東巳代治
政友会の仲間
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金子堅太郎
政友会の仲間
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星亨
政友会の盟友
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尾崎行雄
政友会の仲間
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片岡健吉
政友会の仲間
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山縣有朋
提携した軍部のドン
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桂太郎
山縣の子分
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山本権兵衛
提携した海軍のドン
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阿部浩
郷党の先輩
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福地桜痴
出世の恩人
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大隈重信
宿敵
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矢野文雄
大隈の手下
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藤田茂吉
大隈の手下
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犬養毅
大隈の手下
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岩村通俊
脳病の上司
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マリン
フランス語の先生
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エブラル
フランス語の先生
原敬と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 50点
原敬は、結婚によって長州閥に食込み井上馨や伊藤博文の庇護を受けて長州閥に連なる有力政治家に成長、伊藤から引継いだ政友会を絶対多数党に育て「初の本格的政党内閣」を実現した。ただ、軍部・財界との妥協や巧みな寝技で多数派工作には成功したものの、政党政治が担うべき民主主義においてはむしろ後退、「政党政治=民主政治」の誤解を戒める事実として、また玉虫色の政治的妥協による多数党支配が国民に幸福をもたらさないことを、後世は原敬に学ぶべきであろう。
減点 -20点
「平民宰相」の登場に世論は期待したが、原敬内閣の政策は決して民衆のためのものではなく、資本家と軍閥の側に立つものであり、党勢拡大のために利権を求め、官僚と妥協し、軍閥のドン山縣有朋と提携した。軍部懐柔のため国防の充実を掲げて急激な軍事費予算増大を推進、安易な増税と公債を財源としたため当然ながらインフレが発生し小作争議や労働ストライキが頻発、原敬内閣は治安警察法によって民衆の抵抗を弾圧した。原敬首相は、閣僚3人が政商と結託し株の不正売買を行った「大正のリクルート事件」が発覚すると議会の絶対多数により強引に握り潰した。歴史的に見ると、原敬内閣は政権獲得と党勢拡大の視野狭窄に陥って「政治」を見ない政党政治の限界を示しただけに終わり、原敬は首相在任中に初めて暗殺された人物となった。