秘剣「一つの太刀」を編み出した東国七流・神道流の大成者で室町将軍足利義澄・義晴・義輝に仕え合戦37・真剣勝負19で212人を斃した生涯無敗の剣豪、上泉信綱・北畠具教・細川藤孝にも妙技を伝え創始した鹿島新当流は高弟が承継
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
塚原 卜伝
1489年 〜 1571年
80点※
塚原卜伝と関連人物のエピソード
- 古来武器は槍と長大剣だったが戦国時代に鉄砲が登場、武士の常用は短く細い利剣となり工夫者が現れて兵法(剣術)が成立し、鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流と鹿島神宮・香取神社で興った東国七流から三大源流が現れた。飯篠長威斎家直は東国七流から天真正伝香取神道流を興して道場兵法の開祖となり(竹中半兵衛や真壁氏幹も門人で東郷重位の薩摩示現流も流れを汲む)、室町将軍に仕えた塚原卜伝は合戦37・真剣勝負19に無敗で212人を斃し将軍足利義輝や伊勢国司北畠具教に秘剣「一つの太刀」を授けた。卜伝の新当流は師岡一羽(一羽流)・根岸兎角之助(微塵流)・斎藤伝鬼坊(天道流)に受継がれた。室町幕臣で中条流を興した中条兵庫頭長秀は越前朝倉氏に招かれ富田勢源に奥義を継承、富田重政(名人越後)は前田利家に仕え1万3千石の知行を得た。勢源は佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて「無刀」を追求し、長じた小次郎(巌流)は「物干し竿」で宮本武蔵(二天一流)に挑み敗死した。中条流は伊東一刀斎の一刀流へ受継がれ、小野忠明が徳川秀忠の兵法指南役となり繁栄した。伊勢土豪の愛洲移香斎久忠は、相手の動きを事前に感得する奥義に達し陰流を創始、新陰流へ昇華させた上泉伊勢守信綱(卜伝にも師事)は「剣聖」「剣術諸流の原始」と謳われた。信綱は武将として上野の猛将長野業正を支え、長野氏を滅ぼした武田信玄への仕官を謝絶して兵法専一の生涯を送り、疋田景兼(疋田流)・丸目蔵人長恵(タイ捨流)・柳生石舟斎宗厳(柳生新陰流)・奥山休賀斎公重(神影流)・神後伊豆守宗治・穴沢浄賢・宝蔵院胤栄らを輩出した。柳生宗厳は師信綱の公案「無刀取り」を会得し徳川家康に披露、末子の柳生但馬守宗矩が将軍家兵法指南役に抜擢され徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達(江戸柳生)、宗厳の嫡孫柳生兵庫守利厳は尾張徳川家の兵法指南役となった(尾張柳生)。柳生十兵衞三厳は宗厳の長子である。自ら神影流・新当流・一刀流を修めた家康は小野派一刀流と柳生新陰流を将軍家お家流に定めて奨励、諸大名も倣い剣術は全国武士の必須科目となった。
- 上泉伊勢守信綱は、愛洲移香斎久忠の陰流に東国兵法を加味して新陰流を興し袋竹刀(しない)も導入して「剣術諸流の原始」と謳われた「剣聖」、愛弟子の柳生石舟斎宗厳が徳川家康に見出され将軍家お家流に抜擢された新陰流は隆盛を極めた。上野大胡氏一門で上泉城主の上泉義綱の嫡子で祖父から続く上泉道場の4代目、東国七流・神道流を修め塚原卜伝にも学んだが伊勢より来訪した愛洲移香斎の陰流に惚れ込み「陰流ありてその他は計るに勝へず」と断言、2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げられた上泉信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い1533年新陰流を創始した。1546年主君の関東管領山内上杉憲政が河越夜戦で北条氏康に惨敗し越後の上杉謙信へ亡命、北条軍に大胡城を攻撃され武田信玄も上野侵攻を始めるなか、箕輪城主長野業正に属し武功を重ねた上泉信綱は「上野国一本槍」と賞賛され近隣諸国に新陰流兵法の名を馳せた。が、猛将業正の病死に乗じた信玄の猛攻により1566年箕輪城を落とされ長野氏は滅亡、上泉信綱は玉砕を覚悟するが武威を惜しむ信玄に救済され、一旦仕官するも新陰流普及を発願し他家に仕官しないことを条件に許され疋田景兼・神後伊豆守宗治を伴い武田家を出奔した。諸国の剣豪を巡訪した上泉信綱は、伊勢国司北畠具教(塚原卜伝の秘剣「一つの太刀」継承者)を「これぞ達人」と唸らせ、奈良柳生の庄に滞在し領主で中条流剣士の柳生宗厳に奥義を伝授、奈良興福寺の宝蔵院胤栄・肥後相良家臣の丸目蔵人長恵にも印可を授け上洛して将軍足利義輝(「一つの太刀」継承者)・正親町天皇に妙技を披露した。晩年忽然と足跡を消すが上方で数年を過ごしたのち上野へ戻り69歳で没したといわれ、嫡孫の上泉泰綱は上杉景勝・直江兼続に拾われ子孫は米沢藩士として存続した。柳生但馬守宗矩(宗厳の五男)が江戸柳生・柳生兵庫守利厳(同嫡孫)が尾張柳生を興すと新陰流祖の上泉信綱は「稀世の剣聖」と崇められた。正統を継いだ柳生新陰流のほか門下から疋田流・神後流・タイ捨流(丸目蔵人)・神影流(奥山休賀斎公重。徳川家康の剣術の師)・穴沢流(穴沢浄賢)・宝蔵院流槍術が興っている。
- 柳生石舟斎宗厳は、大和柳生2千石の領主にして上泉伊勢守信綱から新陰流を受継ぎ、太閤検地の隠田摘発で所領を失うが徳川家康に「無刀取り」を披露し江戸柳生・尾張柳生を興した将軍家お家流「柳生新陰流」の開祖である。大和は国侍割拠で統一勢力が育たず興福寺衆徒を束ねた筒井氏が台頭するも中央勢力に脅かされた。柳生家厳は、木沢長政(細川晴元の権臣)に属し筒井順昭に反逆したが長政が三好長慶に滅ぼされ降伏、順昭は大和平定を果たすが幼い順慶を遺し病没した。1559年柳生家厳・宗厳父子は信貴山城へ入った松永久秀(三好権臣)に従い大和攻略の先棒を担ぐが、1564年長慶没後三好政権は瓦解し久秀は総スカンを喰って孤立した。柳生宗厳は、戸田一刀斎から中条流・神取新十郎から新当流を学び上方随一の兵法者と囃されたが、40歳の頃「剣聖」上泉伊勢守信綱と邂逅し弟子の疋田景兼に軽く捻られ入門、疋田が柳生に留まり指南役を務めた。疋田が「もはや教える何物もなし」と評すほど上達した柳生宗厳は、1571年信綱から一国一人の印可(新陰流正嫡)と「無刀にして敗れざる技法と精神の会得」の公案を授かった。この間、三好三人衆・筒井順慶に追詰められた松永久秀は織田信長に転じて三好勢を掃討、1571年順慶・興福寺の巻返しで多聞山城に追詰められるが(辰市城の戦い)順慶は信長の猛威に屈した。家督を継いだ柳生宗厳は、久秀謀叛の連座を免れ勢力を保ったが、1585年大和に入封した豊臣秀長の太閤検地で隠田が発覚、改易された宗厳は石舟斎(浮かばぬ船)と号し子の柳生厳勝・宗章・宗矩は仕官を求め出奔した。1594年67歳の石舟斎は兵法好きの徳川家康に招かれ洛北鷹ヶ峯の居宅で「無刀取り」の奥義を披露、感服した家康は宗厳の代わりに随員の宗矩(末子)を召抱えた。柳生但馬守宗矩は関ヶ原合戦の功績で大和柳生の庄を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に栄進、石舟斎は本貫回復を見届けて世を去った。宗矩は徳川家光の謀臣となり初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万2500石の大名へ栄達し、柳生兵庫守利厳(厳勝の後嗣)は尾張徳川家の兵法指南役に就任、両柳生家は幕末まで兵法界に君臨した。
- 柳生但馬守宗矩は、父柳生石舟斎の「無刀取り」に感服した徳川家康に召抱えられ将軍徳川秀忠・家光の謀臣となり大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した将軍家兵法指南役「江戸柳生」の家祖である。柳生新陰流の極意書『兵法家伝書』で「兵は不祥の器なり、天道これを憎む、やむを得ずしてこれを用う。これ天道なり」と説いて斬新な「活人剣」「治国・平天下」の兵法思想を示し「兵法界の鳳」「日本兵法の総元締」と称された。1594年「無刀取り」を披露した柳生石舟斎宗厳は徳川家康に招聘されるが老齢を理由に謝辞し供の柳生宗矩(五男)を推挙、宗矩は200石で召出された。兄の宗章は不在で利厳(宗厳が最も期待した長子厳勝の次男、後に尾張柳生を興す宗矩のライバル)は未だ16歳だった。剣術好きの家康は優れた兵法者を求めたが、大和豪族としての柳生を重く見た。1600年柳生宗矩は会津征伐に従軍したが家康の命で上方へ戻り島左近(石田三成の重臣で柳生利厳の舅)と会うなど敵情視察に任じ加賀前田家縁者の土方雄久による家康暗殺計画などを報告、関ヶ原合戦でも武功を挙げ旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ2代将軍徳川秀忠の兵法指南役に抜擢された。秀忠は「将の将たる器」を説く柳生宗矩に信頼を寄せ、同役で強弱に固執する小野忠明(小野派一刀流)を退けた。大坂陣で秀忠に近侍した柳生宗矩は秀忠を襲った死兵7人を各々一刀で斬捨て生涯唯一の剣技を現し、懇意の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)を切腹させて千姫事件を収拾(坂崎家は断絶)、子の柳生十兵衞三厳・友矩・宗冬を徳川家光の小姓に就けた。1632年秀忠が没し家光が将軍を継ぐと兵法指南役の柳生宗矩は3千石加増され初代の幕府惣目付(大目付)に就任、4年後には4千石加増で大和柳生藩1万石(のち1万2500石)を立藩し柳生新陰流は将軍家お家流の地位を確立した(江戸柳生)。諸大名・幕閣に張巡らした門人網から情報を吸上げ監視の目を光らせる柳生宗矩は老中からも恐れられ、将軍家光は「天下統治の法は、宗矩に学びて大要を得たり」と語るほどに新任、松平信綱(知恵伊豆)・春日局と共に「鼎の脚」と称された。
- 柳生十兵衞三厳は、祖父「柳生石舟斎の生れ変わり」と称された剣豪ながら父柳生宗矩の政治センスは受継がず将軍徳川家光に嫌われ変死した時代劇のヒーローである。片目に眼帯の隻眼キャラが定番だが史実ではない。柳生宗矩(石舟斎宗厳の五男)は将軍家兵法指南役兼謀臣として諸大名に恐れられ大和柳生藩1万2500石に栄達、嫡子の柳生十兵衞は12歳で徳川家光の小姓となり出世コースに乗るが20歳のとき家光の勘気を蒙り蟄居処分を受け(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、密かに隠密任務を命じられたとも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が家光の小姓となった。柳生に隠棲した柳生十兵衞は、上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿りながら新陰流の研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成、江戸柳生当主として尾張柳生の柳生連也斎厳包と最強の座を競い、12年後に赦免され書院番に補されたが政務に抜きん出ることはなく生涯を兵法に費やした。柳生十兵衞は叔父の柳生利厳に倣い武者修行の旅をしたともいい、山賊退治や剣豪との仕合など数々の伝説を残した。廃嫡を免れた柳生十兵衞は宗矩の死に伴い家督を継ぐが将軍家光から柳生宗冬への4千石分地を命じられ大名の座から転落(柳生友矩は家光に寵遇され山城相楽郡2千石を与えられたが早世)、4年後に十兵衞は鷹狩りに出掛けた山城相楽郡弓淵で変死し死因は闇に葬られた。家光の命で柳生本家8千300石を継いだ宗冬は(4千石は召上げ)18年後に1万石に加増され大名に復帰、柳生藩は幕末まで存続した。なお、柳生十兵衞の生母おりん(宗矩の正室)の父は若き豊臣秀吉を一時召抱えた幸運で遠江久野藩1万6千石に出世した松下之綱である。後嗣の松下重綱は舅の加藤嘉明の会津藩40万石入封に伴い支藩の陸奥二本松藩5万石へ加転封されたが間もなく病没、後嗣の長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移され会津騒動で加藤明成(嘉明の後嗣)が改易された翌年発狂し改易となった。
- 丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。
- 中条兵庫頭長秀は、評定衆も務めた室町幕臣ながら念流開祖の念阿弥慈恩に剣術を学び自ら工夫して「中条流平法」を創始、中条家は曾孫満秀の代で断絶したが中条流は越前朝倉家中へ広がり道統は甲斐豊前守広景・大橋高能から山崎昌巖・景公・景隆へと受継がれ、同族の山崎氏を補佐した冨田長家・景家へ中心が遷り「冨田流」とも称された。景家嫡子の冨田勢源は、小太刀の名手で他国からも門人が参集、朝倉氏から恩顧を受け中条流は殷賑を極めた。勢源は老いて視力を失っても「無刀」を追求し小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎少年に長大剣を持たせて研鑽を積み、しつこく仕合を挑んだ神道流の梅津某を「眠り猫」の態で迎え撃ち薪一本で秒殺した。勢源から家督と中条流を継いだ弟の富田景政は、朝倉義景滅亡後に4千石で前田利家に出仕、剣豪としても鳴らしたが佐々木小次郎の秘剣「燕返し」には敗れた。師と門弟の恨みを買った小次郎は出奔して諸国を巡歴、次々と兵法者を薙倒して中国・九州に剣名を馳せ豊前小倉藩主細川忠興に招かれたが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巌流」は消滅した。景政の一子富田景勝は賤ヶ岳合戦で戦死し婿養子で入嗣した富田重政(実父は山崎景隆)も前田利家に仕え、佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ小田原征伐の武蔵八王子城攻めでも活躍、大名並みの1万3千石を獲得し官名に因んで「名人越後」と称された。後を継いだ次男の富田重康は晩年病んでも剣は冴え「中風越後」といわれたが、没後に富田家と冨田流は衰退した。中条流の中興の祖は師の戸田一刀斎(鐘捲自斎。富田景政の高弟)を凌駕し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て「一刀流」を創始した伊東一刀斎景久である。真剣勝負で33戦全勝を誇り多くの門人を擁した一刀斎は徳川家康に招聘されるも相伝者の小野忠明(神子上典膳)を推挙して消息を絶ち、忠明は将軍徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し明治維新後の剣道界をリードした。
- 伊東一刀斎景久は、14歳で中条流の剣豪を斬殺し戸田一刀斎に入門するが師匠も圧倒、武者修行に出て33戦全勝し「払捨刀」「夢想剣」の極意を得て一刀流を創始するが相伝者の小野忠明を徳川家康に推挙し消息を絶った天才剣士である。忠明は徳川秀忠に嫌われたが一刀流は柳生新陰流と共に将軍家お家流に留まり小野忠常(忠明の後嗣)の小野派・伊藤忠也(同弟)の伊藤派・古藤田俊直の唯心一刀流に分派し発展、幕末には北辰一刀流の千葉周作・定吉兄弟(門人に新選組の山南敬助・藤堂平助・伊東甲子太郎や坂本龍馬)や江戸城無血開城に働いた山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)を輩出し、一刀流は明治維新後の剣道界でも重きを為した。伊東一刀斎の来歴は不詳で出生地には伊豆伊東・近江堅田・越前敦賀・加賀金沢など諸説あり、伊豆大島悪郷の流人の子で泳いで脱出し三島へ辿り着いたという伝説もある。14歳のとき三島神社で富田一放(富田重政の高弟)を斃し江戸へ出て中条流(富田流)の戸田一刀斎(柳生宗厳にも教授)に入門、このとき神主から授かった宝刀「瓶割刀」を生涯愛用した。自ら「体用の間」を掴んだ伊東一刀斎は、師に挑んで3戦全勝し中条流(富田流)の秘太刀「五点」(妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣)を授かり、相模三浦三崎で唐人剣士の十官を扇子一本で倒して剣名を馳せ小野善鬼・古藤田俊直(北条家臣)ら多くの入門者が参集、廻国修行へ出た一刀斎は33度の仕合に全勝を収め「夢想剣」(鶴岡八幡宮に参籠したとき無意識で敵影を斬り開悟)「払捨刀」(情婦に騙され十数人の刺客に寝込みを襲われるが全員を斬倒し忘我の境地を体得)の極意に達し一刀流を創始した。「唯授一人」を掲げる伊東一刀斎は、愛弟子の小野善鬼と神子上典膳(小野忠明)に決闘を命じ善鬼を斃した典膳に一刀流を相伝(小金ヶ原の決闘)、1593年徳川家康の招聘を断って典膳を推挙し忽然と消息を絶った。徳川秀忠の兵法指南役に採用された小野忠明は硬骨を嫌われて生涯600石に留まり将軍秀忠・家光に重用され大和柳生藩1万2500石の大名に栄達した柳生宗矩に水を開けられたが、一刀流は繁栄を続け柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇った。
- 佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
- 宮本武蔵は、我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進し子孫は幕末まで家格を保った。美作宮本の土豪武芸者の子で、13歳のとき新当流の有馬喜兵衛を叩き殺し出奔、生来の膂力と集中力を活かした「窮鼠猫を噛む」流儀で死闘を潜り抜け立身のため高名な兵法者を渉猟した。上洛した宮本武蔵は、吉岡道場当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)を倒し弟の吉岡伝三郎も斬殺、門人100余名に襲われるが吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を殺して遁走し、諸国を巡歴した宮本武蔵は「いかようにも勝つ所を得る心也(手段を選ばず勝つ)」で勝利を重ね、神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試した。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否、売名剣士は敬遠され宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの決闘は史実に無い。さて佐々木小次郎は、中条流の富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれ富田景政も凌いだ強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始、豊前小倉藩主細川忠興から剣術師範に招かれた。小倉藩家老の長岡佐渡を動かして「巖流島の決闘」に引張り出した宮本武蔵は、二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(倒した小次郎を弟子と共に打殺したとも)、13歳から29歳まで60余戦全勝を収めた武蔵は血闘に終止符を打った。仕官を求めた宮本武蔵は、徳川譜代の水野勝成に属して大坂陣を闘い、本多忠刻(忠勝の嫡孫)に仕えて養子の宮本三木之助を近侍させ、尾張藩・高須藩に円明流を指導、忠刻が早世すると(三木之助は殉死)養子の宮本伊織を小笠原忠真へ出仕させ移封に従って豊前小倉藩へ移り島原の乱に従軍した。晩年は肥後熊本藩主細川忠利に寄寓し金峰山「霊巌洞」に籠って『五輪書』や処世訓『十智の書』・自戒の書『独行道』などを著作、水墨画の『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』(国定重文)や武具・彫刻など多数の工芸作品も遺した。
- 佐竹氏は、清和源氏を興した源頼義の三男新羅三郎義光(嫡流八幡太郎義家の弟)の子孫で、義光の孫昌義が住地の常陸久慈郡佐竹郷から名字を採った。甲斐源氏とは同族で佐竹義重は武田信玄と義光嫡流論争をしたという。平安末期の佐竹氏は常陸北部七郡を支配し常陸平氏大掾氏と並ぶ大族であったが、鎌倉時代は執権北条氏や国人衆に所領を奪われ逼塞、室町時代に入ると早々に足利尊氏に帰服し常陸守護職と鎌倉公方の重鎮「関東八屋形」(佐竹・宇都宮・小田・小山・那須・結城・千葉・長沼)の格式を得た。11代佐竹義盛で嫡流が途絶え関東管領上杉氏から婿養子を迎えたことから同族間抗争が起り(山入の乱)国人勢力との鍔迫り合いが続いたが、15代佐竹義舜が山入氏を滅ぼして常陸北部を掌握し、孫の17代佐竹義昭は武力に婚姻政策も駆使して諸豪を圧伏した(次男資家に那須氏を継がせ、娘は宇都宮広綱・岩城親隆に入輿)。義昭の死に伴い小田・結城・白河結城・那須氏が北条氏康の旗下に属して反攻に出たが嫡子の佐竹義重は上杉謙信の力添えで撃退し継室の実家大掾氏も従えて常陸を制圧、南奥羽へ手を伸ばした。佐竹義重は、伊達晴宗の娘を娶って五児を生し、次男義広は会津黒川城主蘆名氏の当主に押込んだが伊達政宗に敗退、三男貞隆は岩城氏・四男宣隆は多賀谷氏の当主に据えた。嫡子の佐竹義宣は、義重の反対に背いて石田三成・上杉景勝に内応し関ヶ原合戦後に常陸水戸藩54万石から秋田久保田藩20万石へ減転封された。義宣は那須・多賀谷・蘆名氏の娘などを娶り二児を生したがいずれも夭逝、末弟の義直を嗣子とするも江戸城饗応で居眠りしたため廃嫡勘当し、亀田藩主岩城吉隆改め佐竹義隆(貞隆の嫡子)を2代藩主に据えた(岩城家は宣隆が承継)。佐竹家は幕末まで封土を保ち明治維新後は佐竹四家(東西南北家)と共に華族に列し今日でも有力者を輩出する東北屈指の名門である。
- 佐竹義重は、上杉謙信の力添えで北条氏康の侵攻を防ぎ豊臣秀吉に帰服して常陸水戸藩54万石(属領を含めると80万石)を保った北関東の盟主、嫡子佐竹義宣が石田三成・上杉景勝に内応し秋田久保田藩20万石に減転封された。佐竹氏は「関東八屋形」の名門だが、北関東は国人が割拠し北条方・上杉方に分かれ鍔迫り合いを繰広げ、奥羽では陸奥守護伊達稙宗が嫡子晴宗との抗争に陥り蘆名・最上・相馬・大崎・葛西らが台頭した(天文の乱)。常陸太田城主佐竹義昭は、宇都宮広綱・多賀谷政経・真壁氏幹らを従え上杉と同盟して小田氏治・結城晴朝・白河義親・那須資胤と対峙、1564年謙信の「神速」の来援で小田城を攻落としたが(山王堂の戦い)常陸統一を目前に病没、北条方が盛返し再び乱麻の情勢となった。後継の佐竹義重は、謙信との連携強化で挽回を図り、1574年抵抗を続ける小田氏治を破って常陸統一をほぼ達成した。1582年本能寺事変後の天正壬午の乱を経て北条氏が上野を制圧、佐竹義重は下野に侵攻するが逆に長沼城を奪われ敗退(沼尻の合戦)、豊臣秀吉に帰服し援軍を懇請した。北方では会津黒川城主蘆名盛氏が没し伊達政宗が台頭、佐竹勢は二本松城を攻めた政宗を撃退するが決定機を逃した(人取橋の戦い)。佐竹義重は、伊達政道(政宗の弟)を退けて次男義広を蘆名氏の家督に据え、1588年大崎合戦の政宗敗北に乗じて伊達領へ攻入るが敗退(郡山合戦)、翌年最上義光と和睦し南転した政宗に黒川城を攻落とされ蘆名領を奪われた(摺上原の戦い)。佐竹義重は伊達・北条の挟撃に晒されたが、秀吉の小田原征伐で窮地を脱し宇都宮仕置で常陸太田城54万石を安堵され、江戸重通・大掾清幹を滅ぼし「南方三十三館」を謀殺して常陸支配を確立、新築の水戸城へ移った嫡子義宣に家政を譲り隠居した。佐竹義宣は、配下の宇都宮国綱・芳賀高武の改易騒動で取成しの恩を受けた石田三成に接近し、1600年関ヶ原の戦いが起ると東軍加盟を説く義重を抑え人質上洛命令を拒否して水戸城へ無断撤収、戦後徳川家康への釈明に奔走したが秋田への国替えを命じられた。佐竹義重は1612年まで生きたが狩猟中の落馬事故で死去した。
- 足利氏は清和源氏の一流で、八幡太郎義家の四男義国の次男義康を家祖とし本貫の下野足利荘から名字を採った。源頼朝は義家の嫡子悪源太義親、新田氏は義国の長男義重の裔である。頼朝の鎌倉将軍家は3代で滅びたが、足利氏は執権北条氏と密接な血縁を結んで源氏筆頭の家勢を保ち、元寇以来不満を募らせる武士団に押された足利尊氏が建武の新政を成功に導き、武士社会の現実を無視した後醍醐天皇を追放して室町幕府を開いた。尊氏が気前良く大封を配ったため支配基盤は脆弱で、南北朝合一を果し相国寺から天皇位を狙った3代将軍足利義満をピークに将軍権力は弱体化、復権を図った6代足利義教は赤松満祐に弑殺され(嘉吉の乱)、無気力な8代足利義政は悪妻日野富子の尻に敷かれ後継争いから応仁の大乱が勃発、9代足利義尚は古河公方足利成氏や南近江守護六角高頼の反逆を掣肘できず、群雄割拠する戦国時代に突入した。「半将軍」と称された管領細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立するが(明応の政変)養子3人の家督争いで暗殺され(永正の錯乱)、周防の大内義興が挙兵上洛し将軍義澄と細川澄元・三好之長の阿波勢を追放して義稙を将軍に復位させた。義興は船岡山合戦に勝利したが領国を尼子経久に侵され帰国、細川高国は六角定頼と同盟して三好之長を討ち寝返った将軍義稙を追放して足利義晴を12代将軍に擁立し(等持院の戦い)播磨の浦上村宗を誘って阿波勢を迎撃するが逆に討取られた(大物崩れ)。細川晴元は反逆した将軍義晴を追放し(嫡子足利義輝が近江で13代将軍を承継)一向一揆を扇動して権臣の三好元長を滅ぼすが、嫡子の三好長慶が報復を果し三好政権を樹立した。隠忍帰順した将軍義輝は諸侯に通じて三好政権打倒を図るが三好三人衆・松永久秀に襲われ斬死(永禄の変)、14代将軍足利義栄は入京叶わず病没し、尾張・美濃を征した織田信長が流浪の足利義昭を15代将軍に奉じ「天下布武」に乗出した。将軍義昭は信長を裏切って包囲網に加担するが武田信玄の急逝で夢破れ室町幕府は235年の幕を閉じた。足利将軍家は断絶したが、鎌倉公方系の足利国朝が下野喜連川藩を立藩し幕末まで存続した。
- 足利義輝は、抗争の末に三好長慶に屈服するも諸侯に通じて三好政権打倒を画策、三好三人衆・松永久秀の謀反に斃れたが塚原卜伝直伝「一つの太刀」で奮闘し最後の意地を示した剣豪将軍、弟の足利義昭が織田信長を裏切り室町幕府は滅亡する。12代室町将軍足利義晴の嫡子で、1546年10歳のとき亡命先の近江坂本で将軍位を譲られたが、敵対する管領細川晴元に追われては近江の六角定頼に匿われる無頼生活が続いた。1549年江口の戦いで主君晴元を破った三好長慶が幕政を握ると、足利義晴・義輝は細川晴元に担がれ長慶に抵抗したが、六角定頼の死で勢力を削がれ近江朽木へ退避、1558年京都奪回を試みるも阿波勢の来援で撃破され降伏して5年ぶりに京都へ戻った(北白川の戦い)。傀儡将軍も確保し幕政を牛耳った三好長慶は摂津・阿波を拠点に畿内・四国10ヵ国を制圧したが、剛毅な将軍足利義輝は抗争仲裁や偏諱・官位授与を通じて六角義賢・朝倉義景・伊達稙宗・最上義光・武田信玄・上杉謙信・織田信長・斉藤義龍・北条氏政・毛利元就・尼子晴久・大友宗麟・島津貴久らと関係を築き三好政権打倒を目論んだ。宿敵三好長慶の運命は弟の十河一存の病死で一気に暗転、1562年河内の畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢を誘って蜂起すると、和睦工作で窮地を凌ぐも弟の三好実休が戦死し三好家中では戦功著しい松永久秀が台頭(久米田の戦い)、翌年嫡子三好義興に続き細川晴元・細川氏綱も死んで大義名分の管領を喪い、謀反の嫌疑で弟の安宅冬康を誅殺した直後に長慶自身も病没した。足利義輝には好機が到来したが、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に先手を打たれ二条御所を急襲されて討死(永禄の変)、三好氏を倒しても誰かに担がれるほか無かったが見事な死様で武門の棟梁の矜持を示した。足利義輝には嗣子が無く、三弟の周暠は殺されたが次弟の足利義昭は探索を逃れ越前朝倉氏へ亡命、幕臣の細川藤孝・明智光秀の斡旋工作が実り3年後に織田信長に担がれ最後の室町将軍となる。信長の上洛軍に三好三人衆も六角義賢も蹴散らされ、松永久秀は帰順するも後に謀反して滅ぼされた。
- 足利義昭は、横死した剣豪将軍足利義輝の弟で、「天下布武」を目指す織田信長に担がれるも裏切って自滅した室町幕府最後の将軍、旧臣明智光秀が信長を討ったが天下は豊臣秀吉が奪いその庇護下で天寿を全うした。12代将軍足利義晴の次男で興福寺一乗院門跡となり28歳まで僧侶覚慶であった。1565年兄義輝を弑殺した三好三人衆・松永久秀に捕えられたが三淵藤英・細川藤孝兄弟ら幕臣の助けで奈良を脱出、覚慶は足利将軍家の家督を宣言し還俗して足利義昭を名乗り、南近江守護六角義賢が献上した矢島御所に拠って上杉謙信ら諸侯に上洛を促すが、三好氏に圧迫されて逃亡し若狭武田氏を経て越前朝倉氏に身を寄せた。1568年朝倉義景に失望した足利義昭が新参の明智光秀の手引きで尾張の織田信長へ鞍替えすると、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ六角・三好を一掃し入洛して義昭を15代室町将軍に擁立した。義昭は帰順した仇敵松永久秀の処刑を望んだが謝辞された。翌年三好勢が本圀寺に仮寓する義昭を襲うが岐阜城から戻った信長が一蹴、信長は豪壮な二条御所を造営し将軍の権威付けに努めるが、「幕府再興」に有頂天の足利義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが逆に『殿中御掟』を突きつけられ傀儡将軍の増長を掣肘された。1571年石山合戦勃発で信長包囲網が結成されると、将軍足利義昭はあっさり恩人を裏切り「御内書」攻勢による謀略を開始、浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・六角・延暦寺に内通し仇敵の松永・三好へも決起を呼掛け武田信玄・上杉謙信・毛利輝元には上洛を懇請した。翌年戦国最強の武田軍が三方ヶ原合戦で徳川家康を撃破し京都に迫ると、松永久秀の呼応に逸る足利義昭は勇み足で挙兵したが信玄急死で目論みが崩れ宇治槇島城を攻囲され降伏、明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣にも見限られ、1573年京都を追放され室町幕府は滅亡した。前将軍足利義昭は、毛利輝元に匿われ備後鞆から打倒信長・幕府再興を訴えたが相手にされず、1588年天下人豊臣秀吉に召出され正式に将軍職辞任を表明、没落大名の文芸サロン御伽衆に加えられ9年後に大坂で病没した。
- 細川氏は、将軍足利氏の庶流で斯波氏・畠山氏と共に将軍に次ぐ管領職を世襲した「三管領」の名門である。応仁の乱の東軍総大将細川勝元の死後、管領を継ぎ「半将軍」と称された嫡子細川政元は10代足利義材(義稙)を追放し11代将軍に足利義澄を擁立したが(明応の政変)愛宕信仰が嵩じて飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子を生さず養子3人の家督争いが勃発、澄元擁立を図った政元は澄之に暗殺され(永正の錯乱)澄之を討った澄元・高国の抗争が戦国乱世に拍車を掛けた。三好元長ら阿波勢を擁する細川晴元(澄元の嫡子)が高国を討ち24年に及んだ「両細川の乱」は決着したが(大物崩れ)勝ち組の権力争いへ移行、晴元は一向一揆を扇動して元長を討ち三好長慶(元長の嫡子)を従えるが、実力を蓄えた長慶は12代将軍足利義晴と晴元を追放し(江口の戦い)反抗を続けた晴元と13代将軍足利義輝(義晴の嫡子)を降して三好政権を樹立した。長慶は傀儡管領に細川氏綱(高国の養子)を立てたが、三好政権瓦解と共に細川一族も没落した。その後の細川一門では和泉上守護家(細川刑部家)から出た細川藤孝の肥後細川家のみが繁栄した。細川澄元・晴元に属した細川元常は、一時阿波へ逃れるも大物崩れで所領を回復、三好長慶の台頭で再び没落し将軍義晴・義輝と逃亡生活を共にした。元常没後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は将軍義晴を後ろ盾に元常の嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に名ばかりの将軍家を支え、義輝弑逆後は新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し足利義昭の将軍擁立に働いた。関ヶ原の戦いで東軍に属し豊前中津39万9千石に大出世した嫡子の細川忠興は、光秀の娘珠(ガラシャ)を娶り四男をもうけた。忠興は徳川家康に忠誠を示すため長男忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため廃嫡、人質生活で徳川秀忠の信任を得た三男忠利を後嗣に就け、忠利は国替えで肥後熊本54万石の太守となった。不満の次男興秋は細川家を出奔し、豊臣秀頼に属し大坂陣で奮闘するが捕らえられ切腹した。忠利の嫡流は7代で断絶、忠興の四男立孝の系統が熊本藩主を継ぎ79代首相細川護熙はこの嫡流である。
- 細川藤孝は、没落した和泉上守護家の当主で常に勝者に属し肥後熊本藩54万石の開祖となった政界浮遊の達人である。将軍足利義晴・細川晴元に従い三好長慶に所領を奪われた細川元常の死後、甥の細川藤孝(義晴落胤説あり)は嫡子晴貞から家督を奪い、三淵晴員・藤英(実父・兄)と共に将軍家を支え、足利義輝弑逆後は弟の足利義昭を救出して若狭武田氏・越前朝倉氏を頼り、1568年新参の明智光秀と共に織田信長に帰服し幕府再興に働いた。が、1571年将軍義昭が恩人を裏切り信長包囲網に加担、1573年武田信玄上洛の尻馬に乗って挙兵に及ぶと細川藤孝は明智光秀・荒木村重と共に義昭を見限って信長に臣従し、京都長岡と勝竜寺城を与えられ岩成友通討伐に参陣した。遅れて降伏した三淵藤英・秋豪父子は信長に誅殺された。細川藤孝は、上司明智光秀の娘ガラシャを嫡子忠興の妻に迎え、光秀の旗下で畿内平定戦から丹波攻略、松永久秀討伐と東奔西走、1579年波多野秀治・赤井直正を滅ぼし丹波平定が成ると光秀は近江坂本に丹波を加増され、若狭計略を担当した藤孝は若狭守護一色義道を討ち丹後南半11万石を与えられ宮津城に入った。1582年本能寺の変が勃発、光秀に出陣を促された細川藤孝は剃髪隠居して家督を忠興に譲り(幽斎玄旨と号す)ガラシャを幽閉して日和見を決込み、まさかの裏切りで気勢を削がれた光秀は豊臣秀吉に敗れ滅亡(山崎の戦い)、藤孝は早速秀吉に帰順し娘婿の一色義定を討って丹後を平定し清洲会議で加増を受けた。耄碌した秀吉が千利休・豊臣秀次を殺すと両人に近い細川忠興は切腹も取沙汰されたが徳川家康に救われ、秀吉没後直ちに家康に帰服し丹後12万石に豊後杵築6万石を加増された。1600年関ヶ原の戦いが起ると、大坂屋敷のガラシャは石田三成に襲われ自害、忠興は弔い合戦で武功を挙げ豊前中津39万9千石へ加転封となった。丹後田辺城の細川藤孝は西軍に囲まれ討死を覚悟したが、歌道「古今伝授」伝承者の死を惜しむ弟子達が奔走し後陽成天皇の勅命により降伏、戦後救出され京都で悠々自適の余生を送った。細川家は忠興の後嗣忠利の代に肥後熊本54万石へ加転封となり現代の細川護熙まで繁栄を続ける。
- 三好氏は、鎌倉時代に阿波守護となった阿波小笠原氏(信濃源氏)の末裔で、鎌倉時代初期に阿波三好郡に土着した小笠原長経より三好を名乗り、室町時代に四国探題格で四国全部の守護に就いた細川家に随従し阿波守護代を世襲した。智勇兼備と謳われた三好之長は、管領細川政元暗殺後のお家騒動(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)で主君細川澄元を擁して畿内に進出したが、大内義興・細川高国・六角定頼に敗れ嫡子長秀と共に自害に追込まれた。長秀の嫡子三好元長は、細川高国を討って復讐を果したが、澄元の嫡子細川晴元と対立、晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ切腹、内臓を天井に投げつける壮絶死を遂げた。之長敗死の翌年に生れた元長の嫡子三好長慶は、仇敵細川晴元に帰参して実力を養い、木沢長政・三好政長を討って晴元と将軍足利義輝を追放し室町幕府の実権を掌握した(三好政権)。三好長慶の覇業を支えたのは、弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らの一門衆であったが、一存の病死に続いて実休が戦死し、嫡子三好義興も22歳で早世、冬康は謀反を疑い誅殺してしまった。長慶が男児無く死ぬと、一存の嫡子三好義継が後を継いだが、一門の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀(長慶の家宰で娘婿)の勢力争いにより三好政権は内部崩壊、織田信長の畿内侵攻で三好三人衆は容易く掃討され、義継と松永久秀は信長に降伏するも後に謀反し滅ぼされた。三好の嫡流は途絶えたが、元長の末弟三好善行の子為三と一門の三好政勝の子孫が徳川幕臣として家名を残した。三好実休の子で十河一存の養子に入った十河存保は、長宗我部元親に敗れるも秀吉に仕え讃岐十河3万石の大名に復活したが、秀吉の九州征伐に従い島津家久に敗れ討死(戸次川の戦い)、遺児十河存英は三好政康ら三好残党と共に大坂夏の陣で戦死した。
- 三好長慶は、陪臣ながら室町幕府の実権を掌握し畿内・四国10カ国に君臨した「最初の戦国天下人」、寛大故に生涯反逆に悩まされ没後三好政権は瓦解し織田信長に滅ぼされた。1507年管領細川政元暗殺で養子三人の後継レースが始まると(永正の錯乱)、阿波の三好之長は11代将軍足利義澄を戴いて主君澄元を細川宗家当主に押し上げるが、大内義興軍の京都制圧で足利義尹(義稙)が将軍に復位すると大内についた細川高国に逆転され、決戦を挑むも大敗して阿波へ逃避(船岡山合戦)、嫡子長秀を合戦で喪い、大内軍撤兵に乗じて巻返しを図るも高国擁する六角定頼に敗れ自害した(等持院の戦い)。之長の嫡孫三好元長は、澄元の嫡子細川晴元を担いで京都を奪取(桂川原の戦い)、朝倉宗滴に奪い返されるも高国の増長により越前軍は撤兵し、1531年播磨の浦上村宗を味方につけて反撃に出た高国を討って両細川の乱に終止符を打った(大物崩れ)。が、間もなく晴元と元長の抗争が勃発、元長は劣勢の晴元が扇動した一向一揆の大軍に襲われ憤死した(飯盛城の戦い)。元長の嫡子三好長慶は、晴元に帰参して実力を養い、1546年12代将軍足利義晴・細川氏綱の反乱を鎮圧(舎利寺の戦い。義晴は逃亡先の近江坂本で嫡子足利義輝に将軍位を譲る)、1549年ライバルの木沢長政と三好政長を討倒し晴元・義輝を追放して室町幕府の実権を掌握(江口の戦い)、反抗を続けた晴元・義輝を1558年に屈服させ(北白川の戦い)、摂津・阿波の両拠点を軸に山城・丹波・和泉・播磨・讃岐・淡路・河内・大和まで勢力圏に収めた。が、詰めの甘い三好長慶の運命は晩年に暗転した。十河一存の病死を機に和泉の畠山高政・近江の六角義賢に挟撃され、三好実休が戦死、屋台骨の実弟二人に続いて嫡子三好義興も病死し、細川晴元・氏綱の死で大義名分の管領も失うなか、長慶は飯盛山城に引篭もり、実弟の安宅冬康まで謀反の疑いで誅殺した。長慶没後、養子義継が後を継いだが、三好三人衆と松永久秀の勢力争いで三好政権は瓦解、織田信長の畿内侵攻に蹂躙された。シビアな信長は敵対勢力を抹殺し、傀儡将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、下克上・天下統一を実現した。
- 六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流の名門である(八幡太郎義家から源頼朝・足利尊氏と続く棟梁家は清和源氏で別系統)。頼朝挙兵時に貧乏ながら旅人を殺して馬を奪い伊豆に馳せ参じた佐々木四郎高綱を祖とし(梶原景季との宇治川先陣争いで有名)、高綱と兄三人の活躍で佐々木氏は近江をはじめ17カ国の守護職を占めるほどに栄えたが、執権北条氏に圧迫されたうえ、家督争いで4家(六角・京極・大原・高島)に分裂し勢力が衰えた。六角の名字は京都の屋敷が六角堂近くにあったことに由来する。鎌倉幕府末期、分家の京極家からバサラ大名佐々木道誉が登場、足利尊氏の室町幕府樹立を支えて幕府要職と6ヶ国守護を兼ね、近江では京極氏と六角氏の覇権争いが続いた。応仁乱の最中に京極家で後継争いが勃発(京極騒乱)、争闘30年の末に六角高頼の加勢を得た京極高清が勝利し、近江は六角氏と京極氏が南北分割統治することとなった。六角高頼は、公家・寺社と争いつつ権益を奪って勢力を拡大、9代将軍足利義尚の親征を退け(近江で陣没)、10代将軍足利義材の反攻上洛を撃退した。後継の次男六角定頼は、観音寺城に拠って戦国大名化し、細川高国を担いで細川澄元・三好之長を討破り京都を制圧して足利義晴を12代将軍に擁立、京極家で台頭した浅井亮政と和睦、飯盛城合戦後に暴徒化した一向一揆を掃討し(山科本願寺焼討ち)、高国を討った細川晴元と結んで足利義輝を13代将軍に擁立した。定頼の嫡子六角義賢は、三好長慶に追放された義輝・晴元を近江に保護して抗戦、京都に攻込むも撃退され、浅井長政に大敗して近江支配まで侵されるなか、河内の畠山高政と通謀挙兵するも何故か途中退場、嫡子六角義治の後藤賢豊暗殺(観音寺騒動)で家臣が離反するなか、三好三人衆に与して織田信長の従軍要請を拒否し、大軍に攻められて観音寺城から逃亡し守護大名六角氏は滅亡、甲賀を拠点にゲリラ戦を続けるが、信長包囲網瓦解と共に家名再興の夢破れた。が、義賢は豊臣秀吉の庇護下で78歳まで生永らえ、嫡子義治は加賀藩士・次男義定は徳川旗本として命脈を保った。
- 大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。
塚原卜伝と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照