日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照大内 義興
1477年 〜 1529年
60点※
大内義興の年表
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1477年
周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配する大内政弘の嫡子に大内義興が出生
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1477年
大内政弘ら西軍諸大名の撤収により応仁の乱終息、足利義視は美濃に退去するが、畠山義就・政長は戦闘を継続
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1478年
応仁の乱の活躍で周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵された大内政弘が山口に帰国後間もなく九州へ転戦、反乱挙兵した少弐教頼を攻め殺し豊前・筑前を制圧(後継の少弐政資は大内氏への抵抗を続ける)
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1479年
越前一向一揆発生を嫌い吉崎御坊を退去した本願寺蓮如が京都山科に坊舎を築き居を定める(山科本願寺落成は5年後)
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1481年
越前国守護朝倉孝景が分国法『朝倉孝景条々』を遺し死去、嫡子朝倉氏景が家督相続
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1482年
[大内山口事件]周防・長門・豊前・筑前守護の大内政弘が応仁の乱の留守中に領国で勢力を伸ばした陶弘護を謀殺し家中を掌握(三男の陶興房が家督相続)、実行犯の吉見信頼はその場で内藤弘矩に討たれる
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1483年
[都鄙合体・享徳の乱終息]太田道灌の活躍により古河公方足利成氏・長尾景春が降伏し30年に及んだ関東大乱が終息するが、道灌率いる扇谷上杉氏の権勢が関東管領山内上杉顕定を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、主君の扇谷上杉定正にも警戒された道灌は『太田道灌状』で「山内家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」と憤慨
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1484年
京極政経が税収を横領した家臣・出雲守護代尼子清定(経久の父)を攻め破り追放、塩冶掃部介を月山冨田城に送り守護代とする
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1485年
細川政元の後援により山城の国人が結束し山城国一揆が勃発、畠山義就・政長の両派を国外に追放
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1486年
扇谷上杉定正が権臣太田道灌を相模糟屋館に招き騙し討ちで殺害(享年55)(北条早雲の謀略説あり)、柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に分れ再び争乱に突入(長享の乱)(共倒れの途を辿った両上杉家は道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年後に北条氏康に滅ぼされる)
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1487年
今川氏親が成人し正式に駿河守護を承継(家督を争った小鹿範満は暗殺された疑いが濃厚)、叔父の伊勢新九郎長氏(北条早雲)は富士郡下方庄十二郷の所領と伊豆国境の興国寺城を与えられ60歳にして一城の主となる
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1487年
太田道灌暗殺に端を発した長享の乱、将軍足利義尚の命により越前の朝倉宗滴が南近江の六角高頼攻めに参戦、越前守護職奪還を企図する旧主斯波義寛と対立するが、幕府裁定により朝倉氏当主貞景が越前支配を追認される
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1488年
[加賀一向一揆]蓮綱(蓮如の三男)・蓮誓(同四男)・蓮悟(同七男)率いる一向一揆が戦費負担に不満を募らせる国人衆を味方に付け高尾城の加賀守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧(京都山科本願寺の蓮如は一揆を諌めるが収まらず)、これより加賀は本願寺顕如が織田信長に降伏し一揆が解体されるまで90余年に及び「百姓の持ちたる国」となる
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1489年
将軍足利義尚が六角高頼征伐に乗り込んだ近江で陣没、翌年足利義視の子足利義材(義稙)が10代室町将軍に就任、高頼は赦免され近江守護に復帰するが六角氏と足利幕府の争乱は続く
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1491年
[延徳の乱]将軍足利義材(義稙)が再び南近江の六角高頼討伐を号令し周防山口の大内政弘・義興父子らが参陣、旧主斯波義寛の差配に不服の朝倉宗滴は参軍を拒否するが朝倉氏の武力を恐れる室町幕府は処分に踏み込めず
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1493年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子とともに殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
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1494年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
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1494年
大内義興が弟高弘の当主擁立を企てた嫌疑で内藤弘矩・弘和父子を誅殺するが冤罪が判明、義興は弘矩の娘を正室に迎え弘矩の弟弘春に内藤家を継がせ讒言者の陶武護を誅して末弟の陶興房(晴賢)を家督とする(両権臣の力を削いだ義興の地位は安定、家督相続前の大掃除だった疑いが濃厚)
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1495年
扇谷上杉家の重臣で小田原城主の大森氏頼が死去、北条早雲は後継の大森藤頼に取り入って安心させ、武蔵の合戦で扇谷上杉定正が落馬死した機を衝き、巻き狩りと偽って小田原城を急襲し奪取、扇谷上杉家に取り入って報復を防ぎつつ関東制覇を睨む
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1495年
周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸・石見も支配圏に収め日明貿易・朝鮮貿易で巨富を積んだ大内政弘が分国法『大内家壁書』を遺して死去、嫡子大内義興が家督相続
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1496年
大友政親と対立した嫡子義右が急逝(毒殺説が濃厚)、同盟者の妹婿を殺された大内義興は政親討伐を宣言、政親は迎撃のため海路立花山城へ向かうが赤間関に漂着し捕えられて自害、義興は大友親実の擁立を図るが大内派を粛清した大友親治(政親の弟で宗麟の祖父)が大友氏を相続
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1496年
蓮如が摂津大坂に石山御坊を築き転居(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)、以後大坂は寺内町として発展
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1497年
周防の大内義興が宿敵少弐政資・高経父子を攻め滅ぼし九州北部は大内氏・大友氏の二強争覇に突入、次男の少弐資元は追手を逃れるが肥前の一勢力に没落
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1497年
関東管領上杉氏と敵対し30年に及ぶ享徳の乱を戦い抜いた古河公方足利成氏が鎌倉に戻れぬまま死去、嫡子足利政氏が2代古河公方を襲名
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1499年
家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた蓮如が死去(享年85)、五男実如が承継した一向教団は孫の顕如の代に摂津・加賀を支配する「戦国大名」へ発展し各地に一向一揆を起して諸大名を苦しめるが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し皇族に準ずる権勢を保持する
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1499年
越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ大内義興を頼り周防山口へ亡命、政元・将軍足利義澄は綸旨も得て西国28大名に義興討伐を号令し大友親治(宗麟の祖父)・大内高弘(義興の弟で大友氏に亡命中)・少弐資元らの反大内勢力が勢い付くが、義興は大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握して勢力均衡を保つ
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1499年
大友親治と通謀した杉武明が反乱を起すが大内義興が討伐、担がれた大内高弘(義興の弟)は豊後大友氏へ亡命
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1500年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1500年
毛利弘元が嫡子毛利興元に家督を譲り次男毛利元就を伴い多治比猿掛城に隠居
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1504年
[立河原の戦い・長享の乱終結]関東管領山内上杉顕定が古河公方足利政氏(成氏の嫡子)を味方に付け扇谷上杉朝良(定正の後嗣)を圧迫、今川氏親・北条早雲と同盟した朝良は武蔵立河原(立川)の決戦で圧勝し顕定を北武蔵の鉢形城に追詰めるが、来援した越後守護代長尾能景(為景の父)が椚田城(八王子)・実田城(平塚)を攻落として扇谷上杉領と今川・北条領を遮断し河越城に孤立した朝良を降伏させて18年続いた長享の乱は山内方の勝利で終結、関東公方足利諸家に続いて疲弊した両上杉氏も没落し北条・今川・長尾・長野ら国人勢力に関東争覇の主導権が移る(西上野の領袖長野房兼は戦死するが後継の長野業尚・憲業・業正が台頭)
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1505年
実父の卜部覚賢・養父の塚原安幹から天真正伝香取神道流を学んだ16歳の塚原卜伝(高幹)が常陸から京都へ武者修行に出立、落合虎左衛門ら京八流の兵法者との立ち合いで名を挙げ11代将軍足利義澄に出仕、義澄の下で大内義興・細川高国、12代将軍足利義晴(義澄の嫡子)の下で細川晴元・三好元長と戦った卜伝は生涯37度の合戦・19度の真剣勝負で無敗を通し大将首12と端武者首16・合計212人の首級を挙げながら一度も刀傷を負わず
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1506年
[九頭竜川の戦い・般若野の戦い]室町幕府管領細川政元の要請を受けた本願寺実如(蓮如の後嗣)が加賀・越中一向一揆を圧迫する越前朝倉氏と越中・能登畠山氏の討伐を号令、越前では朝倉宗滴が圧倒的寡勢で九頭竜川の決戦に勝利し吉崎御坊を破却(1万対30万とも)、能登守護畠山慶致も防衛に成功すると一向一揆勢は内紛に揺れる越中に殺到、越中守護畠山尚順の要請に応じた越後の長尾能景が来援するが砺波郡般若野の合戦で神保慶宗の裏切に遭い罠に嵌って討死(越後守護上杉房能は傍観)、長尾勢は越後へ敗走し嫡子長尾為景は復讐を誓う
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1506年
中国作品の模写を脱して日本風水墨画を確立し『四季山水図』『秋冬山水図』『破墨山水図』『慧可断臂図』『天橋立図』など国宝6点と数多の重文作品を遺した雪舟が石見益田にて死去(享年86。雪舟が庇護者の益田兼堯を描いた『兼堯像』が現存)、雪舟は江戸時代に日本画壇を支配した狩野派に崇敬され芸術神となる
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1507年
[永正の錯乱~両細川の乱]室町幕府の実権を握る細川宗家(京兆家)で政元の養子3人(澄之・澄元・高国)の家督争奪戦が勃発、「半将軍」管領細川政元が重用する細川澄元が三好之長ら阿波勢を率いて入京し優位に立つと、細川澄之・香西元長が政元を暗殺して京兆家を簒奪(変人政元は愛宕の勝軍地蔵を信仰して飛行自在の妖術修行に凝り一切女色を断ったため子が無かった)、澄元・之長は近江へ逃れるが、高国・政賢ら細川一族と丹後守護一色義有が澄之・元長を征伐、帰京した澄元が京兆家当主に納まる
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1508年
周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前を支配する大内義興の軍勢が京都を制圧、義興は将軍足利義澄を追放して足利義尹(義稙)を将軍に復位させ管領代・山城守護に就いて幕政を掌握、義興へ寝返った細川高国が細川宗家の家督を奪い細川澄元・三好之長は足利義澄を伴って近江へ逃亡するが京都奪還を窺い、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力を伸張
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1508年
京極騒乱に敗れ出雲に隠遁した京極政経が死去、孫の吉童子丸に家督を譲り尼子経久に後見を託すが、間もなく吉童子丸は行方不明となる(謀殺説あり)
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1509年
[如意ヶ嶽の戦い・岡山城の戦い]近江甲賀で体制を立直した細川澄元・三好之長が京都奪還を目指して粟田口に侵入するが大内義興・細川高国の大軍に迎撃され本拠の阿波へ逃亡、義興・高国軍は近江岡山城に逃れた前将軍を追撃するが六角高頼に敗れ京都へ撤退
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1511年
[船岡山合戦]前将軍足利義澄を擁する細川澄元・政賢と三好之長ら阿波勢が京都を奪還するが、近江の六角高頼が寝返り義澄が病死、洛北船岡山に陣取って大内義興・細川高国に決戦を挑むが総大将政賢まで討取られ壊滅、澄元・之長は本拠地の阿波へ逃れ抵抗を続ける
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1511年
井上元盛死去、毛利元就が元服して分家を立て多治比の所領を取り戻す
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1512年
尼子経久が山名氏領に侵攻し備後を支配圏に収める
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1515年
尼子経久が大内氏領に侵攻し石見西半を支配権に収め安芸にも勢力拡大
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1516年
北条早雲が反旗を掲げた三浦義同征伐、扇谷上杉朝興の救援軍を撃退し、新井城の兵糧攻めで勝利、義同以下の相模三浦一族を滅ぼし相模全域を平定
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1516年
[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
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1516年
大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得、横槍を入れた細川高国と不仲になり寧波の乱へ発展
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1518年
尼子経久に領国を荒らされた大内義興軍が10年に及んだ京都滞在を終えて山口へ帰国、後ろ楯を失った将軍足利義稙・細川高国の政権基盤が揺らぎ、阿波で抵抗を続ける細川澄元・三好之長の陣営が盛り返す
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1518年
桜井宗的が出雲磨石城にて反旗、尼子経久は武勇の嫡子尼子政久を征討に送るが一矢に射抜かれ戦死(経久は政久の死を悼み嫡子晴久を家督とする)、新宮党を率いる次男尼子国久が猛攻で出雲磨石城を落とし城兵悉くを斬殺
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1519年
戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受け継がれる
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1520年
中央政局を掻き回した南近江守護の六角高頼が死去、次男定頼が家督相続
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1520年
播磨・備前・美作守護の赤松義村が実権を奪った守護代浦上村宗(宗景の父)の備前三石城を攻撃するが宇喜多能家(直家の祖父)らの奮戦で撃退、幽閉された義村は翌年暗殺され赤松氏は没落し(村宗と敵対する浦上村国が8歳の嫡子赤松晴政を赤松氏当主に擁立)浦上氏の勢威が高まる
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1521年
[等持院の戦い]大内義興軍が去った京都を細川澄元・三好之長が奪回、細川高国は近江へ逃れるが六角定頼の加勢を得て反撃、追い詰められた之長は京都百万遍で自害し(嫡子元長が後継)、阿波へ敗走した澄元も病没(嫡子晴元が後継)、高国は寝返った将軍足利義稙を追放し前将軍義澄の子足利義晴を12代将軍に擁立
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1521年
毛利元就が横田村尾城を急襲、城主で毛利幸松丸の外祖父高橋興光を討取り所領400貫を奪取
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1521年
尼子経久が浦上氏領に侵攻し備中と備前西半まで支配圏に収める
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1522年
尼子経久軍が安芸高田郡に侵攻、先鋒の毛利元就が同族の坂氏を討滅
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1523年
[鏡山城の戦い]尼子経久方の毛利元就率いる安芸国人衆が大内義興方の安芸西条鏡山城を攻略、尼子は安芸を支配圏に収め毛利は武名を上げるが、恩賞を巡り両者の関係が悪化
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1523年
毛利家当主幸松丸が急死(謀殺説あり)、叔父の毛利元就が尼子経久の介入を退け弟の就勝(元綱説あり)一派を殺害して毛利家の家督と吉田郡山城を承継、嫡子毛利隆元誕生
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1523年
[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
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1523年
備前三石城の浦上村宗が播磨へ出兵し赤松晴政(村宗が暗殺した義村の遺児)を播磨・備前・美作守護に擁立した浦上村国・御着城主小寺則職を攻撃、浦上軍指揮官の宇喜多能家は次男四郎の戦死に逆上し敵陣に突撃奮戦して決定的勝利を挙げ、晴政を確保し播磨・備前・美作を掌握した浦上氏は戦国大名へ発展
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1524年
大内義興軍が安芸に侵攻、尼子経久方の武田光和(元繁の嫡子)が籠る銀山城を攻囲するが毛利元就が夜襲で撃退
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1524年
[大永の五月崩れ]尼子経久が南条宗勝ら反抗勢力と守護山名澄之を追放し尼子晴久を守護に就けて伯耆を支配権に収める
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1525年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
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1525年
独立を期す毛利元就が束縛の強い尼子経久を離反して統制の緩い大内義興に鞍替え(正式な手切れ通告は1534年の安芸守護武田氏滅亡後)
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1526年
薩摩・大隅守護の島津勝久が薩州家島津実久の専横に圧迫され伊作家島津忠良(日新斎)の嫡子島津貴久に15代当主を譲って救助を求めるが、実久の反抗と勝久の寝返り遭って貴久は鹿児島清水城と守護職を奪われ、13年に及ぶ長期内戦に発展、日新斎・貴久は長期戦の構えをとり自領の防備を固めて土豪勢力の取込みを進める
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1527年
将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛将軍足利義晴・管領細川高国の要請により朝倉宗滴率いる越前軍が上洛し波多野・三好連合軍を掃討して京都を制圧するが、宗滴は高国との対立により翌年撤兵し細川晴元・三好元長が再び京都を奪回
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1527年
[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢の父)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める
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1529年
日明・朝鮮貿易を牛耳り周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前に君臨した大内氏絶頂期の当主大内義興が死去(享年52)、嫡子の大内義隆が家督を継ぐが京都を凌ぐ文化都市となった周防山口で遊芸に溺れ家運は傾く
年
大内義興と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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