謀略と暗殺で備前岡山城57万4千石を分捕った宇喜多直家の嫡子で豊臣秀吉の引立てで朝鮮役総大将・五大老に栄進、父に似ぬ義侠心から関ヶ原合戦で最も奮闘するが改易され八丈島へ流罪、流人のまま83歳で没した関ヶ原最後の武将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
宇喜多 秀家
1572年 〜 1655年
30点※
家系・子孫
- 宇喜多氏は、備前児島半島の屯倉(みやけ。古代の皇室領)の管理を職掌とした三宅氏の一流で備前宇喜多郷に住して名字を採った。三宅氏の先祖は吉備氏とも新羅王子天日槍ともいわれる。赤松氏の守護代として備前を支配する浦上則宗・村宗父子に仕えた宇喜多能家は、松田氏と赤松氏を攻め破り浦上氏を戦国大名へと導いたが、浦上村宗が大物崩れで戦死すると後継の政宗に嫌われ政敵の島村盛実に砥石城を攻められ自害した。嫡子の宇喜多興家は逃亡して生延びたが生来愚鈍なため浮浪して乞食同然に転落、備前邑久郡福岡に漂着して富家の召使となり下女をあてがわれて忠家・春家をもうけたという。嫡子の宇喜多直家は元服後に弟と能家遺臣を従えて天神山城主の浦上宗景(政宗の弟)に仕え(美貌の直家は男色をもって宗景に寵愛されたとも)、祖父の仇島村盛実を含む有力者を次々に謀殺して身代を奪い最後は浦上氏も滅ぼして備前の太守となった。謀略に身内を駆使した直家は婚姻で油断を誘って舅の中山信正と娘婿の松田元賢・浦上宗辰・後藤勝基を次々に殺害し、伊賀久隆には妹を与えて松田氏を寝返らせた。盟友赤松政秀の嫡子政広と重臣の明石全登も娘婿である。娘は多いが成人した男子は秀家のみ、直家は豊臣秀吉に遺児を託して病没したが、歓心を買うため継室の円融院(秀家生母)を秀吉側室に献上したともいわれる。義理堅い秀吉は宇喜多秀家を厚遇し五大老や朝鮮役の総大将に大抜擢したが、秀家は達安・岡利勝ら重臣の反逆で家勢を削がれ(宇喜多騒動)、関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦するも敗退し所領没収のうえ八丈島へ流された。秀家は前婦豪姫の実家前田氏の仕送りで養われ83歳の長寿を保ったが流罪人のまま同地で病没、子孫は徳川時代を八丈島で逼塞した。宇喜多忠家(直家の弟)の後嗣詮家(坂崎直盛)は、宇喜多騒動に加担して徳川家康預りとなったが、関ヶ原・大阪陣の戦功で石見津和野藩4万3千石に封じられた。大阪城落城の際に千姫(徳川秀忠の娘)救出の功を立てたが、家康が「救出者に与える」との約を違えて本多忠刻に嫁がせたことに憤り反逆、切腹に処され戦国大名宇喜多氏は命脈を絶たれた。
宇喜多秀家と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照