富山の農民から商才一つで安田財閥を築き上げ「銀行王」と称されたが、吝嗇を世間に妬まれ経営近代化と後継者育成に難を残したまま暴漢の凶刃に斃れた一代の天才実業家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照安田 善次郎
1838年 〜 1921年
80点※
安田善次郎の寸評
安田善次郎の史実
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1838年
富山城近郊富山町鍋屋小路の農民安田善悦の三男に安田善次郎が出生
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1848年
安田善次郎の父安田善悦が権利株を買い富山藩の足軽身分となる
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1853年
ペリー来航
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1854年
16歳の安田善次郎が大商人を志し江戸を目指すが挫折
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1858年
安田善次郎が江戸に出て日本橋の玩具問屋の奉公人となる、大倉喜八郎と知合う
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1860年
安田善次郎が日本橋の銭両替商兼鰹節商・広田屋林之助商店に奉公に入る
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1862年
安田善次郎が日本橋の鰹節商・玉長を営む岡安長右衛門の娘チカと結婚
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1863年
安田善次郎が文久銭投機に失敗し岡安家を離縁され広田屋も退職、スルメ商兼闇両替商で凌ぐ
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1864年
安田善次郎が日本橋人形町に両替商兼乾物商・安田屋を開店
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1864年
安田善次郎が刷毛製造業者の藤田弥兵衛の四女房子と結婚
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1866年
安田善次郎が日本橋小舟町に店舗を購入、安田商店に改称し両替専業となり、幕府の古金銀回収取扱方を務める
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1867年
大倉喜八郎が大倉銃砲店開業、官軍御用達となり巨利を得る
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
王政復古の大号令
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
徳川慶喜が松平容保・松平定敬を伴って大阪城を脱出し軍艦で江戸へ逃げ帰る
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置
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1868年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
安田善次郎の安田商店が太政官札引受に参加し相場回復で巨利を得る
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
版籍奉還
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1871年
大倉喜八郎が建設業に進出(大成建設の前身)、新橋駅建設工事の一部を請け負う
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1871年
新貨条例布告、円が通貨単位となる
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1871年
廃藩置県
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1872年
安田善次郎の安田商店が本両替商に昇格
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1872年
安田善次郎の安田商店が東京都心部の不動産投資を開始
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1872年
井上馨・渋沢栄一の主導で銀座煉瓦街の建設が始まる
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1872年
渋沢栄一の主導で官営工場富岡製糸場操業開始
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1872年
渋沢栄一の主導で三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)が設立され国立銀行条例制定
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1873年
岩崎弥太郎が三菱商会を設立
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1873年
大倉喜八郎が欧米旅行から帰国、銀座に大倉組商会設立
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1873年
明治六年政変
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1873年
渋沢栄一が井上馨に殉じて退官し第一国立銀行総監役に就任
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1874年
安田善次郎の安田商店が政府公債保有を拡大し公金取扱いの為替方指定を獲得
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1874年
三井組・井上馨の謀略により小野組・島田組が倒産、渋沢栄一の第一国立銀行は先手を打って優良担保を確保し連鎖倒産を免れる
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1874年
小野組・島田組倒産により金融恐慌発生、井上馨が三井組救済に奔走
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1874年
第一国立銀行が三井組の吸収工作をシャンド裁定で撃退、指揮した渋沢栄一が三井八郎右衛門に代わり第一国立銀行頭取就任
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1876年
秩禄処分、安田商店が秩禄公債を大量買付け
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1876年
国立銀行条例改正、国立銀行の隆盛が始まる
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1876年
三井銀行および三井物産設立
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1876年
安田善次郎が第三国立銀行を設立し「銀行王」への道を踏出す
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1877年
三井組総帥の三野村利左衛門が井上馨に後事を託し死去
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1877年
西南戦争、政府軍輸送を担った岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が絶頂を迎える
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878年
福地源一郎・渋沢栄一ら有力財界人の出願により東京株式取引所設立
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1878年
会頭渋沢栄一と大倉喜八郎が発起人となり東京商法会議所(商工会議所)発足、安田善次郎も議員就任
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1878年
第一国立銀行の渋沢栄一を会頭に銀行の親睦組織「択善会」発足、安田善次郎も参加
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1878年
第一回東京府府会議員選挙、安田善次郎・大倉喜八郎らを選出
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1879年
安田善次郎の提唱により大阪に日本初の手形交換所開設
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1880年
安田善次郎の安田商店が銀行業務を分離し合本安田銀行設立
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1880年
安田善次郎の主導で共済五百名社発足(安田生命保険の前身)
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1880年
大隈重信・三菱の切崩しで渋沢栄一ら銀行家の親睦組織「択善会」解散
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1881年
福澤諭吉の肝煎りで明治生命保険会社設立
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
松方正義が参議兼大蔵卿に就任し松方財政が始まる
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1881年
日本鉄道会社設立
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1882年
西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立
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1882年
安田善次郎が釧路硫黄鉱山経営に乗出す
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1882年
松方正義主導で日本銀行開業、安田善次郎・三野村利助が創立事務御用掛を務める
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1882年
渋沢栄一主導で大阪紡績(現東洋紡)株式会社設立、紡績業の発展を牽引
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1884年
松方デフレによる不況深刻化
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1885年
銀本位制に移行
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告を岩崎弥之助が受入れ共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し日本郵船会社が発足
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1886年
藤岡市助・大倉喜八郎らが東京電燈(現東京電力)設立、5年後には契約者数1万4千を突破
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1886年
企業勃興~起業ブームが始まる
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1887年
安田善次郎が安田家の資産管理会社「安田保善社」設立
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1887年
井上馨の提唱により大倉喜八郎・渋沢栄一が帝国ホテル設立
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1887年
大倉喜八郎・渋沢栄一・浅野総一郎らが札幌麦酒株式会社(現サッポロビール)設立
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1888年
安田善次郎が東京火災保険(損保ジャパンの前身)の経営を承継
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
東海道本線が全通(新橋-神戸間)
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1893年
政府が官営富岡製糸場を三井へ払下げ
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1893年
三菱社が三菱合資会社に改組、岩崎弥之助が岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲
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1894年
安田善次郎が矢野恒太を支配人に迎え共済五百名社を共済生命保険合資会社へ改組
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
日清戦争勃発
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1894年
日本郵船が三菱の傘下に入る
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1896年
豊田佐吉が動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を発明し繊維業界を席巻(2年後特許取得)
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1896年
安田善次郎の妹婿で安田銀行頭取の安田忠兵衛が死去
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1896年
安田善次郎が東京建物株式会社設立
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1896年
国立銀行条例に基づく営業満了に伴い安田善次郎の第三国立銀行が第三銀行へ改称
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1897年
松方正義首相・岩崎弥之助日銀総裁が貨幣法を制定し金本位制移行を断行
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1899年
台湾銀行設立
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1899年
安田善次郎が経営破綻した浪花紡績を承継
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1900年
台湾製糖会社設立
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1900年
安田財閥の月例懇親会「八社会」が始まる
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1901年
官営八幡製鉄所操業
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1902年
安田を去った矢野恒太が第一生命保険創業
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1903年
安田善次郎・大倉喜八郎が日本製麻株式会社(現在の帝国繊維)設立
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米、「銀行王」安田善次郎は公債引受を拒否
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1904年
安田善次郎が政府の要請により百三銀行を経営再建
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
大倉喜八郎が陸軍長州閥に追随し大陸進出を本格化させ本渓湖煤鉄公司を設立
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1905年
三井の越後屋が三越呉服店へ改称しデパートメントストア宣言
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1905年
久原房之助が井上馨の援助で赤沢銅山(茨城県)を買収、日立鉱山へ改称し久原鉱業所開業
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
北浜銀行主導で箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)設立、岩下清周は浪人の小林一三を実質上の経営者に招聘
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1908年
岩崎弥之助死去
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1908年
東洋拓殖会社設立
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
三井合名会社設立
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1909年
日本の製糸業輸出が世界一となる
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1910年
鮎川義介が大叔父井上馨の援助により戸畑鋳物株式会社(日立金属の前身)設立
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1910年
小平浪平が久原房之助の出資を得て日立鉱山傘下に日立製作所創業
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1911年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
浅野総一郎が安田善次郎・渋沢栄一の支援を得て東京湾沿岸部埋立事業に着手
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1913年
安田善次郎が隠居し娘婿の安田善三郎が家督と安田財閥総帥を承継
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1913年
小林一三の箕面有馬電気軌道(阪急)が宝塚新温泉内に「宝塚唱歌隊」結成(「宝塚歌劇団」へ改称)
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1915年
井上馨死去
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1915年
日本が漢冶萍公司の支配権を掌握
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1915年
大戦景気により東京株式市場暴騰
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1917年
渋沢栄一の主導により財団法人理化学研究所設立
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1917年
大倉喜八郎が持株会社大倉組を設立し大倉土木(現大成建設)・大倉商事(1998年自己破産)・大倉鉱業の直系3社をコンツェルン化
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1918年
豊田佐吉の豊田自働織布工場が豊田紡織株式会社へ改組(現トヨタ紡織)
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
シベリア出兵
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
安田善次郎が家督を譲った娘婿の安田善三郎を追放し長男の安田善之助を安田財閥総帥に据え集団指導体制を敷く
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
安田善次郎の保有株一斉売却で株式相場が暴落、安田は安値買戻しと満鉄株引受で巨利を得る
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
後藤新平が東京市長就任(~1923)、安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1920年
小平浪平の日立製作所が鮎川義介の日産傘下で再編され株式会社へ改組
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1920年
日本が初めて債権国となる
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1921年
安田善次郎・浅野総一郎が上海旅行
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1921年
安田善次郎が大磯の別荘で右翼生年に刺殺される(享年82)
安田善次郎の交遊録
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安田忠兵衛
妹婿・初代大番頭
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安田善三郎
総帥後継に失敗した娘婿
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安田善之助
力量不足の実子
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安田善五郎
力量不足の実子
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安田善雄
力量不足の実子
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安田善四郎
安田幹部
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渋沢栄一
好敵手の親友
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大倉喜八郎
幕末以来の友人
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渋谷嘉助
幕末以来の友人
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石黒忠悳
軍医総監の親友
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川崎八右衛門
第三銀行仲間
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松下一郎右衛門
第三銀行仲間
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成島柳北
朝野新聞社長の親友
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山岡鉄舟
保険会員第一号
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矢野恒太
保険の権威
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浅野総一郎
惚れ込んだ同郷の財界人
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大谷米太郎
支援した同郷の財界人
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黒田善太郎
支援した同郷の財界人
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福地源一郎
晩年の困窮を救った友人
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矢野龍渓
『安田善次郎伝』著者
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福澤諭吉
「日本初生保」のライバル
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三野村利左衛門
三井の大番頭
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三野村利助
利左衛門の後継者
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中上川彦次郎
三井幹部
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益田孝
三井幹部
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團琢磨
三井幹部
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岩崎弥之助
喧嘩した三菱2代目
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川田小一郎
日銀仲間の三菱幹部
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雨宮敬次郎
支援した鉄道界の雄
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松本重太郎
救済した百三銀行創業者
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大木喬任
趣味仲間
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松方正義
財政仲間
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井上馨
財政仲間
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鮎川義介
井上親族の政商
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久原房之助
鮎川の義弟
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小平浪平
鮎川・久原の部下
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高橋是清
財政仲間
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井上準之助
財政仲間
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桂太郎
百三銀行救済仲間
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後藤新平
財政仲間
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小林一三
阪急の奇才
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結城豊太郎
死後の助っ人外人
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豊田佐吉
力織機発明家
安田善次郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 90点
安田善次郎は、富山の農民から一代で安田財閥を築いた天才商人である。安田善次郎は渋沢栄一と並ぶ「金融界の大立者」だが官僚経験も留学経験も無い叩き上げで、死ぬまで個人商店スタイルを貫き、三井・三菱のような政商ではないが奇跡的に四大財閥の一角に成上がった。矢野龍渓は『安田善次郎伝』で「御一新後の新日本に於て、一度も洋行せずして、大事業を成遂げた人物が唯二人ある」として大隈重信と安田善次郎の名を挙げている。家業を捨て上京した安田善次郎は丁稚奉公を経て28歳で両替商「安田商店」を創業、幕府の古金銀取扱方・新政府の太政官札引受・東京都心部の不動産買収など、維新の混乱を追風に着々と業績を伸ばし、公金取扱いの為替方指定で有力両替商に台頭した。担保に供する公債保有高と公金預り額がスパイラル的に増大するシステムを編出した安田善次郎は、官公庁や自治体の為替方指名を次々と獲得し「公金の富士」の礎を築いた。政府の動きを読んだ安田善次郎は条例改正を待って国立銀行業務に参入し第三国立銀行を設立、多くの国立銀行や政策銀行の設立に携わり、創立事務御用掛・監事として草創期の日本銀行の実務も差配した。銀行の勃興期が終わると、安田善次郎は百三銀行など経営不振行の経営再建に乗出し、金融界の救世主と感謝されつつ事業吸収を重ね「銀行王」となった。安田善次郎は浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら新興企業家の金主となって銀行業を拡大し生命保険業にも進出、安田財閥は鉱工業主導の三井・三菱・住友と異なり純粋な金融財閥として独自の発展を遂げ、1923年から1971年まで最大資金量を誇った安田銀行(富士→みずほ)を中核に安田生命・東京建物などが連なる芙蓉グループを形成した。安田善次郎は国家予算の8分の1に相当する膨大な個人資産を築いたが、経営の近代化や多角化を嫌い「大卒者不要」と断じて「安田十家族」の同族経営に固執、「相場操縦」で第一次大戦後のバブル崩壊を仕組み巨富を積み増したが、世間に憎まれチンピラの襲撃で落命した。安田善次郎の死で安田財閥は大混乱に陥ったが、大番頭が招聘した結城豊太郎が経営近代化を断行し窮地を救った。
減点 -10点
三井・三菱・住友などが持株会社・コンツェルン方式を採用し財閥経営の近代化を進めるなか、安田財閥は個人商店スタイルに固執する安田善次郎のもと「関係するところの事業は、他の英雄豪傑を加えるを欲せず。権力を一身に集め、重役に任ずるものは子弟・安田善某、安田善某・・・」という有様で、一度は後継者に就いた婿養子の安田善三郎も一族不和を理由に追放され、前時代的な「のれん・前垂れ主義」の旧態を保ち続けた。独裁者の安田善次郎が暴漢の凶刃に斃れると「安田王国にはただ狼狽だけがあった」と評される大混乱に陥り、実子の安田善之助・善五郎・善雄が安田保善社・安田銀行・第三銀行のトップに就き集団指導体制を敷いたが、安田一族を含め社内には安田財閥を担うべき人材が皆無だった。古参幹部の原田虎太郎は蔵相の高橋是清に人材周旋を依頼し、人選を任された日銀総裁の井上準之助は日銀理事・大阪支店長の結城豊太郎に白羽の矢を立てた。大物財界人を期待した安田側は冷淡だったが、結城豊太郎は経営独裁を条件に安田入りし、保善社専務理事・安田銀行副頭取の要職に就いて実権を掌握すると敢然と経営近代化に乗出した。結城豊太郎は、安田善次郎の「大卒者不要」論を捨てて大学・高等専門学校卒業生の定期採用に踏切り、即戦力確保のため海外視察派遣制度や外部招聘にも注力した。事業面では傘下銀行の大合併など事業統廃合による合理化を推進、結城豊太郎の孤軍奮闘により安田財閥は関東大震災から金融恐慌へ至る波乱局面を何とか乗切った。が、「喉もと過ぎると」結城専制に不満を抱く安田一族と古参幹部が蝟集し、浅野財閥の経営危機に乗じ内部クーデターが発生、結城豊太郎は功成って追放される憂き目に遭った。安田財閥を去った結城豊太郎は、高橋是清・井上準之助ラインで官界に復帰し日本興業銀行総裁・蔵相・日銀総裁を歴任、第二次大戦後は悠々自適の余生を送り1951年に永眠した。最後の総帥として財閥解体に対処し芙蓉グループの礎を築いた安田一(安田善次郎の嫡孫)は、安田財閥を救った結城豊太郎の業績を讃え感謝の辞を贈っている。