富山の農民から商才一つで安田財閥を築き上げ「銀行王」と称されたが、吝嗇を世間に妬まれ経営近代化と後継者育成に難を残したまま暴漢の凶刃に斃れた一代の天才実業家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
安田 善次郎
1838年 〜 1921年
80点※
家系・子孫
- 安田善次郎の生家は富山の農民だが、平安学者の三善清行や鎌倉幕府問注所執事の三善康信を遠祖とする伝承があり、鎌倉から富山市南部の婦中町安田に移住した先祖は地名を冠して屋号「安田屋」を称し、当主は三善姓に因み善次郎を襲名したという。幕末の安田善悦は小長谷家からの婿養子で、質素倹約を旨に「律儀一方」で蓄財に励み富山藩士の権利株を買って念願の武士身分を手に入れた。とはいえ最末端の足軽で俸禄は僅かであり、安田家は半士半農の生活を続けた。安田善悦は四男六女を生したが夭折が続き、三男の五代目安田善次郎と娘3人(常子・文子・清子)が成人した。大商人を志す安田善次郎は20歳で単身江戸へ上り、刷毛製造業者の藤田弥兵衛の四女房子と結婚した。安田商店を興した安田善次郎は、商家で経験を積んだ房太郎を妹清子の婿養子に迎え、安田忠兵衛(善次郎の前名)の名を与え支配人に就けた。大商人となった安田善次郎は糟糠の妻の内助の功を賞した子が出来ず、房子の勧めで旧幕臣山本宗仙の娘筆子を妾とし四男三女をもうけた。長女暉子の婿養子に迎えた伊臣貞太郎改め安田善三郎は東大法学部出の秀才で、安田忠兵衛没後に大番頭を継ぎ、安田宗家の家督と財閥総帥の地位を譲られたが、傾注した鉱工業部門の経営が振るわず安田一族や古参幹部との対立が深刻化、すったもんだの挙句に安田善次郎から勘当を言渡され永久追放された。とはいえ安田善三郎は豊かな生活を保障され、悠々自適の放蕩生活を送り59歳まで生きた。安田善三郎の三男は生後すぐ歌舞伎役者の養子に出され人間国宝・十三代目片岡仁左衛門となり、四女の磯子は小野英二郎(日本興業銀行第4代総裁)の息子小野英輔に嫁ぎオノ・ヨーコ(ジョン・レノンの妻)を産んだ。さて安田善三郎の追放後、安田善次郎は長男の安田善之助を安田財閥・保善社の総帥に据え、次男の安田善五郎を安田銀行頭取・三男の安田善雄を第三銀行頭取に配し安田一族による集団指導体制を敷いた。安田善之助を継いだ嫡子の安田一は、安田財閥最後の総帥として財閥解体に対処し富士銀行・安田生命を核とする芙蓉グループの基礎をつくった。
安田善次郎と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照