我流の度胸剣法で京流吉岡憲法・巌流佐々木小次郎ら60余の兵法者を倒して円明流(二天一流)を興し晩年『五輪書』を著した血闘者、意外に世渡り上手で本多忠刻・小笠原忠真・細川忠利に仕え養子の宮本伊織は豊前小倉藩の筆頭家老・4千石に栄進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
宮本 武蔵
1584年 〜 1645年
70点※
家系・子孫
- 宮本武蔵の来歴は不詳で、父親は土豪武芸者の平田武仁ともその主君である新免無二ともいわれ、出生地は美作吉野郡讃甘村宮本(美作市今岡)とされ初の人名駅「宮本武蔵駅(智頭急行)」が建てられたが異説もある。新免無二は関ヶ原合戦の前に黒田官兵衛に仕官し九州戦争に参陣、16歳の武蔵も従軍した可能性がある。宮本武蔵は生涯妻帯せず子も生さなかったようで、二人の弟子を養子に取り仕官の道具とした。宮本三木之助は播磨明石藩10万石の世子本多忠刻(忠勝の嫡孫で千姫の婿)に近侍させたが忠刻の病死に伴い殉死、小笠原忠真(播磨明石藩10万石→豊前小倉藩15万石)に出仕させた宮本伊織は島原の乱の軍功などで4千石の筆頭家老に累進し子孫は幕末まで小倉藩士筆頭の地位を保った。伊織が手向山山頂に建立した武蔵の彰徳碑には「小倉碑文」が記され『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記物語の材料となった。
宮本武蔵と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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