陸軍長州閥に属し山縣有朋の子分というだけで首相に上り詰め、シベリア出兵と米騒動を巻き起し、藩閥専横と超然主義の限界を身を持って示したビリケン宰相
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照寺内 正毅
1852年 〜 1919年
30点※
寺内正毅の寸評
寺内正毅の史実
-
1852年
長州藩の下級藩士宇多田正輔の三男寺内正毅が吉敷郡平川村にて出生
-
1860年
宇多田正毅(寺内正毅)が寺内勘右衛門の養子となる
-
1867年
王政復古の大号令
-
1868年
戊辰戦争、16歳の寺内正毅は函館戦争まで転戦
-
1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
-
1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
-
1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
-
1869年
版籍奉還
-
1869年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
-
1869年
大村益次郎が京都河東操練所開設、児玉源太郎・寺内正毅らが入学
-
1869年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる
-
1871年
明治政府が大村益次郎の徴兵制を退け(兵制論争)薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設
-
1871年
廃藩置県
-
1872年
明治政府が陸軍省・海軍省を創設し御親兵を廃して近衛兵を設置
-
1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
-
1873年
徴兵令布告
-
1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
-
1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
-
1876年
萩の乱
-
1877年
西南戦争、寺内正毅は陸軍士官として出征し右手を負傷
-
1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
-
1878年
参謀本部設置
-
1879年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
-
1882年
朝鮮で壬午事変
-
1884年
朝鮮で甲申事変、自由党の板垣退助・後藤象二郎や福澤諭吉が金玉均の独立党を後援
-
1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
-
1888年
鎮台制を師団制に改編
-
1889年
大日本帝国憲法発布
-
1889年
川上操六がドイツから帰国し参謀本部次長に復職、独軍参謀総長モルトケ直伝のドイツ式軍制改革や参謀本部強化を推進
-
1890年
第一次山縣有朋内閣発足
-
1890年
教育勅語発令
-
1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
-
1894年
日清戦争勃発
-
1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
-
1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
-
1895年
台湾総督府設置
-
1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
-
1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
-
1898年
陸軍教育総監部開庁、寺内正毅が初代教育総監就任
-
1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
-
1898年
第二次山縣有朋内閣発足
-
1899年
地租増徴
-
1899年
文官任用令改定
-
1899年
台湾銀行設立
-
1900年
治安警察法公布
-
1900年
軍部大臣現役武官制制定
-
1900年
寺内正毅に代わり野津道貫が教育総監就任
-
1900年
北清事変
-
1900年
立憲政友会結成
-
1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、児玉源太郎に代わって寺内正毅が陸軍大臣就任
-
1901年
北京議定書調印
-
1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
-
1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
-
1904年
仁川沖海戦
-
1904年
日露戦争開戦
-
1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
-
1904年
野津道貫の出征に伴い陸相の寺内正毅が教育総監を兼務
-
1904年
第一次日韓協約締結
-
1904年
遼陽会戦
-
1905年
旅順攻略
-
1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
-
1905年
奉天会戦
-
1905年
寺内正毅に代わり西寛二郎が教育総監就任
-
1905年
日本海海戦
-
1905年
ポーツマス条約調印
-
1905年
日比谷焼打事件
-
1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
-
1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
-
1906年
南満州に関東都督府設置
-
1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
-
1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
-
1907年
第一次日露協約締結
-
1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
-
1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
-
1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
-
1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
-
1910年
寺内正毅が初代朝鮮総督就任(~1916)
-
1910年
鮎川義介が大叔父井上馨の援助により戸畑鋳物株式会社(日立金属の前身)設立
-
1911年
寺内正毅が伯爵に昇叙
-
1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足、石本新六が陸軍大臣就任
-
1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
-
1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
-
1912年
二個師団増設問題、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に西園寺公望内閣を倒す
-
1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、木越安綱が陸軍大臣就任
-
1913年
桂太郎の立憲同志会発足、西園寺公望から寝返った加藤高明が加盟し外相就任
-
1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足、木越安綱が陸軍大臣就任(楠瀬幸彦に途中交代)
-
1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足、岡市之助が陸軍大臣就任(大島健一に途中交代)
-
1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
-
1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
-
1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
-
1915年
井上馨死去
-
1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、大島健一が陸軍大臣就任、寺内正毅に代わって長谷川好道が朝鮮総督就任
-
1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
-
1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
-
1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
-
1918年
シベリア出兵
-
1918年
原敬内閣(政友会)発足、田中義一が陸軍大臣就任(山梨半造と途中交代)
-
1918年
第一次世界大戦終結
-
1919年
朝鮮で三・一独立運動が起る
-
1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
-
1919年
寺内正毅が死去(享年67)
寺内正毅の交遊録
-
大村益次郎
大先生
-
山田顕義
最初のボス
-
山縣有朋
親分
-
児玉源太郎
ライバル
-
桂太郎
先輩
-
木戸孝允
雲の上の人
-
伊藤博文
親分の政敵
-
井上馨
伊藤の盟友
-
鮎川義介
井上親族の政商
寺内正毅と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 50点
長州出身の寺内正毅は山縣有朋の子分として陸軍で累進し初代教育総監、朝鮮総督、陸軍大臣の要職を歴任、首相まで上り詰めた。
減点 -20点
おそらく山縣有朋の言うがままで、寺内正毅自身は何の政見も持っていなかったと思われる。寺内正毅内閣の業績を敢えてあげると、ロシア革命に乗じて勢力拡大を企図したシベリア出兵は大失敗、民権運動の弾圧が米騒動に拍車を掛け、朝鮮総督としての強硬な軍政が三・一独立運動などの抗日運動に火をつけるなど、プラスの要素は一つもない。寺内正毅は日露戦争時の陸軍大臣だが、同じ陸軍長州閥の山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎と比べ全く陰が薄い。