陸軍長州閥に属し山縣有朋の子分というだけで首相に上り詰め、シベリア出兵と米騒動を巻き起し、藩閥専横と超然主義の限界を身を持って示したビリケン宰相
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
寺内 正毅
1852年 〜 1919年
30点※
家系・子孫
- 寺内正毅は、長州藩の下級藩士宇多田正輔の三男で、外祖父の寺内家が無嗣のため家督を継いだ。山縣有朋の陸軍長州閥に属した寺内正毅は伯爵・首相・元帥に上り詰めた。伯爵を継いだ嫡子の寺内寿一も陸軍へ進み陸相・南方軍総司令官・元帥陸軍大将に大出世、親子二代の元帥は皇族を除くと寺内父子のみの偉業である。広田弘毅内閣で陸相を務めた寺内寿一は、強硬な「腹切り問答」で政党勢力と衝突し内閣総辞職の原因をつくった。寺内正毅は、娘を同郷同年生の児玉源太郎の嫡子児玉秀雄に嫁がせた。
- 児玉家は徳山藩士(長州藩の支藩)で家禄100石の中級クラスの家柄であった。児玉家は毛利家中の名門で、毛利元就に近侍した児玉就忠およびその弟で毛利水軍を率いた児玉就方が有名である。児玉就忠の孫娘は毛利輝元の側室となり初代長州藩主の毛利秀就と初代徳山藩主の毛利就隆を産んでいる。さて、児玉源太郎は嫡子だが幼少期に父の児玉半九郎が死に、家督を継いだ姉婿の児玉次郎彦が「俗論党」に殺害され一時家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが、高杉晋作の政権奪回で家名再興を赦され16歳で戊辰戦争に従軍、不平士族反乱で戦功を重ね陸軍長州閥のホープとなった。児玉源太郎は子福者で七男五女があったとされる。児玉源太郎子爵が急死し伯爵に昇叙された嫡子の児玉秀雄は、東大法学部を出て大蔵官僚となり朝鮮総督府で活躍、貴族院議員に転じ岡田啓介内閣の拓務大臣・林銑十郎内閣の逓信大臣・米内光政内閣の内務大臣・小磯國昭内閣の国務大臣を歴任し終戦を迎えた。児玉秀雄の妻は陸軍長州閥で児玉源太郎と同年生れの寺内正毅の娘で、無嗣のため娘婿の児玉忠康に家督を継がせている。児玉源太郎の三男児玉友雄は陸軍中将、四男の児玉常雄は陸軍大佐(妻は木戸孝允の甥木戸孝正の娘)となり、七男の児玉九一は内務官僚へ進み厚生次官まで務め、末子のツルは侯爵木戸幸一(木戸孝正の子)に嫁いだ。『太陽にほえろ!』の映画監督児玉進は、児玉源太郎の曾孫にあたる。
寺内正毅と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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