欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を貫いた反骨の電機技術者にして日立製作所・日立グループ創業者
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小平 浪平
1874年 〜 1951年
80点※
小平浪平と関連人物のエピソード
- 反骨心旺盛な小平浪平は、東京帝国大学工科大学電気工学科で留年が決まると口惜しさも手伝って「(医科・理科に比べて工科にはろくな人間がいない・・・)卒業生に能力なきなり。学識なきなり。彼等は、模倣を以て満足するによるなり、模倣を以て満足する限りは、日本の工業豈論ずるに足らんや」とこき下ろした。1900年「国産技術立国」の志を胸に東大を卒業した小平浪平は官職や大企業へ進まず、合名会社藤田組が経営する小坂鉱山に高給で迎えられ電気主任技術者として辺境の秋田県鹿角郡小坂町へ赴任した。小坂鉱山の責任者(鉱山長)は、藤田伝三郎の甥で長州閥の井上馨に連なる久原房之助であった。小平浪平が入社する直前、小坂鉱山は銀の産出量日本一を達成したものの土鉱の枯渇で生産量が頭打ちとなり、1897年の金本位制移行に伴う銀価格暴落にも見舞われ閉山の危機に直面した。しかし久原房之助らの奮闘で土鉱の下に膨大な埋蔵量の黒鉱脈を発見し、自溶精錬法の導入により黒鉱から採れる銅・亜鉛・鉛等への転換を成功させていた。自溶精錬法など新式精錬法には大量の電力を要するため当時の鉱山経営において電源開発は欠かせない前提条件となっており、発電所建設を進める久原房之助は小平浪平を招じ入れた次第であった。かくして小平浪平は当時日本最大級の止滝発電所の開発に任じたが、電気機械のほとんどが外国製のうえ「お雇い外国人」の差配のもと帝大出の技術者も一般作業員扱いされる小坂鉱山に嫌気がさし、久原房之助の退社を機に就労4年で辞めてしまった。
- 外国依存に反発し藤田組小坂鉱山を去った小平浪平は、広島水力電気を経て東京電燈(東京電力の前身)に入社し「東洋一のプロジェクト」桂川発電所建設に従事、「電気工学を学んだ者の羨望の的」東電送電課長に昇進した。が、「国産技術立国」を志す小平浪平はここでも外国製機械と外国人技師への依存に失望し間もなく退職、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため、1906年久原房之助の招聘に応じ茨城県の久原鉱業所日立鉱山へ転じ工作課長となった。この前年、久原房之助は親分の井上馨の援助で赤沢銅山を買収し日立鉱山へ改称、すぐに鉱山開発を軌道に乗せ、掘削・精錬機械の電力確保のため発電所の建設と買収を進めていた。小平浪平は石岡川発電所の建設などを陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を減らし自信を深めた小平浪平はモーター製造を決意し、1910年渋る久原房之助から出資金を引出し「日立製作所」を創業した(「日立」は企業名より地名が先)。当時の日立は酷い僻地で工場は掘立小屋同然だったが、小平浪平は帝大教授陣も巻込んで熱心に技術者招致に努め倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)・大西定彦ら優秀な人材を獲得、社内に見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も足りない日立製作所では悪戦苦闘が続いたが、国産初の大型電動機製造を成功させ、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透させていった。大物工場の全焼で小平浪平は窮地に陥ったが、翌1920年鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し「日産コンツェルン」に再編、日立製作所は窮地を脱し株式会社へ改組された。日産の資金力を得た小平浪平は成長を加速、電気機関車製造に進出し、主力工場を日立に留めたことが幸いし関東大震災の復興需要を満喫、さらに日産の満州重工業開発と軍需に乗り日立製作所は一流重機メーカーへ躍進した。
- 小平浪平は東大工学部在学中から欧米技術の模倣を嫌悪し、生涯妥協することなく「国産技術立国」の理想を追い続けた。曰く「日本の工業を発展させるためには、それに用いる機械も外国から輸入するのではなく、自主技術、国産技術によって製作するようにしなくてはならない。それこそが日本が発展していく道だ」「財閥系ではなく、これといった資本の背景もない。となれば、そのハンディを補うのは、なんとしても国産技術を確立するのだという初心、これこそが日立精神であり、それなくして日立はありえない」・・・。また、反骨心旺盛な小平浪平は独立独歩を貫き、交通網が未整備で酷い僻地だった茨城県日立にこだわり続けた(なお、「豊田市」と異なり「日立製作所」の社名より地名が先である)。業容を拡大した日立製作所は1918年本社機能を東京へ移し、翌年の大物工場全焼で社内は製造拠点の東京移転へ傾いたが、小平浪平は「この通り工場は全焼した。しかし私はあくまでここに残る。東京に行きたい者は行け、私はここにとどまって工場を再建し、日立精神を守るのだ」と創業の地に留まった。果して4年後に関東大震災が起り、ライバルの東芝をはじめ京浜地区に製造拠点を置く電機メーカーは壊滅的打撃を蒙ったが、ほぼ無傷の日立製作所は震災後の復興需要を満喫し一人勝ち、一躍業績を伸ばすと同時に地方の二流メーカーのイメージを払拭し大発展への地歩を築いた。鮎川義介の日産コンツェルンに属した日立製作所は、日産の満州重工業開発など軍需に乗り一流重機メーカーへ飛躍したが、第二次大戦後の公職追放で小平浪平ら経営陣は退場を余儀なくされた。サンフランシスコ講和条約調印の1951年、公職追放は全面解除され小平浪平は日立製作所の相談役に復帰したが、世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し77年の生涯を閉じた。
- 日立製作所を興した小平浪平は「俺は死ぬならゴルフ場でゴルフをやりながら死にたい」と豪語したほどの愛好家で、1936年茨城県に日立ゴルフコース(大甕ゴルフ場)を開設している。好事家の小平浪平は食通でも鳴らし、『食道楽』がベストセラーとなった小説家の村井弦斎と少年期から親交があった。村井弦斎が平塚駅南面16,400坪の土地を購入し菜園・果樹園を備えた大邸宅を建てると、村井邸は食通のサロンとなり小平浪平・大隈重信・岩崎弥之助・鈴木三郎助(味の素創業者)ら政財界の有力者が常連となった。1927年に村井弦斎が死去し夫人が大邸宅を売りに出すと、小平浪平は建物と土地の大部分を買取り別荘にしている。
- 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。
- 大叔父井上馨の支援のもと戸畑鋳物で成功を収めた鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥の要請に応じ、1920年破綻に瀕した久原財閥の経営再建を引受けた。長州人政商の久原房之助は、鮎川義介の妹婿で、叔父藤田伝三郎の藤田財閥から独立して日立銅山や日立製作所を興し「久原財閥」と称されたが、「大風呂敷」な放漫経営で破綻に瀕し自力再建不能に陥った。この後政界へ転じた久原房之助は田中義一内閣に逓信相で入閣し、大政翼賛会支持で近衛文麿首相の取巻きとなった。さて鮎川義介は、久原鉱業(のち日本産業)を持株会社へ改組し傘下に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の系列企業を連ね「日産コンツェルン」を形成した。鮎川義介が興した企業群も整理統合され、持株会社共立企業は日本産業に、戸畑鋳物は日立製作所に吸収された。短期間で久原系企業の再建を果した鮎川義介は、持株会社の日本産業(日産)を証券取引所に上場させ、当時斬新な「公衆持株」の発想で広く大衆から出資を募った。公衆持株は銀行融資が得られない状況で生れた苦肉の策であったが、1931年の金価格高騰で日本鉱業が花形株となり膨大な資金を獲得、積極投資と事業拡大が株価を押上げ更に資金を呼込む好循環が出来上り、日産は業績不振企業の買収と再建を繰返す「企業再生ファンド」と化した。軍拡に乗り重化学工業主導で膨張を続ける日産コンツェルンは三井・三菱に迫る勢いを示し、鮎川義介は日窒コンツェルンの野口遵・森コンツェルンの森矗昶と共に「財界新人三羽烏」と持て囃された。
- 石原莞爾ら陸軍首脳は満州経営の主導権を満鉄から奪取すべく、鮎川義介の日産コンツェルンを満州へ招致した。石原莞爾の狙い軍用の自動車産業だったが、鉱工業一貫生産を期す鮎川義介は日産重工業部門の全面移転を決意し、1937年受皿の満州重工業開発株式会社(満業)を設立し自ら総裁に就任した。鮎川義介は満州開発資金の3分の1乃至半分を欧米から募り「金質」を戦争抑止力にしようと図ったが、陸軍の反対で実現しなかった。また鮎川義介は陸海軍や外務省(松岡洋右ら)の「大陸派」と連携し、ドイツで迫害を受けるユダヤ人を満州へ誘致し米国の政策を左右するユダヤ移民との連帯により対米開戦回避を図る「河豚計画」にも加担していた。河豚計画も頓挫したが、日産・満業の事業は成功を収め、重工業開発を牽引した鮎川義介は東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)と共に「弐キ参スケ」と称され満州支配の支柱となった。が、石原莞爾の失脚で「五族協和」の夢は破れ日中戦争は泥沼化、専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。なお、大倉喜八郎は鮎川義介と同様に陸軍長州閥に従い中国大陸へ事業を移したが満州事変を前に没し、逃げ遅れた大倉財閥は壊滅した。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変勃発後に戦地で目覚しい活躍を示したトラックの増産を図るため、岡田啓介内閣は石原莞爾ら陸軍の要請に応え1936年国内自動車産業の育成を目的に指定事業者を助成する「自動車製造事業法」を閣議決定した。一連の統制経済立法の一つで、軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。豊田喜一郎の豊田自動織機自動車部(トヨタ自動車工業)は、「A1型乗用車」と「G1型トラック」の初号機完成を何とか間に合わせて実績をアピールし、先行する鮎川義介の日産自動車と共に許可会社の指定を受けることに成功した。後に東京自動車工業(いすゞ自動車)が加えられ許可会社は3社となった。自動車製造事業法施行後、日中戦争勃発による円為替相場下落もあって、1939年にフォード・GM・クライスラーの3社は日本から撤退することになったが、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易には達成されず、ヘンリー・フォードは「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している。国産技術が未熟な当時においては国内でも評判の悪い法律であったが、今振り返れば、我が国自動車産業の萌芽期を支えた有意義な国内産業保護政策であったといえよう。
- 1937年の機械系輸出品目で自転車が初めて首位に立ち、次いで船舶・鉄道車両・自動車・自動車部品の順となり、玩具や製鉄も輸出産業へ台頭した。なお1937年は日中戦争開戦の年であり、豊田喜一郎が軍用トラック製造のためトヨタ自動車工業を設立し、日産自動車の鮎川義介は満州重工業開発を設立し日産コンツェルンの満州移転を開始している。自転車の輸出先は中国32%を筆頭にインドネシア・インド・満州など。江戸時代初頭より各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が存在したが、幕末に洋式銃砲に切替わったことで多くが職を失った。失業した鉄砲鍛冶たちは文明開化で普及が始まった自転車に着目し、修理業から始め自転車製造の担い手へ成長した。宮田自転車を創業しトップメーカーに育てた宮田栄助も、常陸笠間藩のお抱え鉄砲鍛冶の出身である。優秀で低コストな職人の活躍で、日本の自転車生産台数は1923年の7万台から1928年12万台・1933年66万台と急増し1936年には100万台を突破した。世界の自転車市場はイギリスの牙城であったが、イギリス製品の半額ほどで品質も劣らない日本製品は瞬く間にシェアを獲得し、大英帝国は中国・インドなどの支配地で日本製自転車に高関税をかけるなどして対抗したが圧倒的な低価格攻勢に押切られた。繊維製品に続き自転車でも輸出競争に敗れたイギリスの反日感情は一層悪化した。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。
- 日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。
- 東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。
- トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。
- 1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。
- 1956年版経済白書抜粋(首相鳩山一郎・通産相石橋湛山):「戦後日本経済の回復の速さには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。・・・貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべればその欲望の熾烈さは明かに減少した。もはや戦後ではない。」
- 従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。
- 1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。
- 東京日本橋の木工職人に生れた早川徳次は、貧家の養子となり虐待されたが、隣家の盲目女性に救われ8歳で錺屋(金属細工)職人の丁稚となった。年季奉公を終えた早川徳次は20歳前に親方から独立し、穴開け不要のバックル「徳尾錠」と画期的な「水道自在器」で台頭、1915年不朽の傑作「シャープペンシル」(特許名は早川式繰出鉛筆)を発明すると、第一次大戦で物資不足の欧州輸出に火がつき注文殺到で急成長を遂げた。再会した実兄を招き「早川兄弟商会」を設立した早川徳次は、工場を拡張し従業員70人を擁して大量生産に乗出したが、投資回収前に関東大震災に見舞われ、九死に一生を得るも妻子と工場を失った。不屈の早川徳次は事業再開に奔走したが、日本文具製造に販売代理店契約を打切られ保証金返還を迫られ万事休す、事業と特許を取上げられ技術移転のため大坂へ移った。大坂に留まり再起を期す早川徳次は1924年現シャープ本社所在地に「早川金属工業研究所」を設立し、万年筆の部品製造で糊口を凌ぎつつ欧米で登場したばかりのラジオの国産化に挑戦、希少な輸入品を解体し職人技で部品を再現して国産初の鉱石ラジオ受信機の製作に成功した。間もなくラジオ放送が始まると輸入品の半額以下の「シャープ・ラジオ」は爆発的に売れ、遠距離受信が可能な交流式真空管ラジオも発売、満州事変後のラジオ普及本格化に乗って業績は急拡大し社名を「早川電機工業」へ改めた。ラジオで「玉音放送」が流れた後、物資不足とドッジ・ライン恐慌でラジオメーカーは80社から18社へ淘汰されたが、生延びた早川電機工業は朝鮮特需で蘇生、株式上場も果し高度経済成長の波に乗った。脱ラジオ専業を目指す早川徳次は、米国RCA社と技術移転契約を結び1953年テレビ放送開始に先立ち国産第1号テレビ(白黒)を発売、電子レンジ・電卓・太陽電池と手を広げ日本屈指の総合家電メーカーへ成長を遂げた。1970年「シャープ」への社名変更に伴い会長へ退いた早川徳次は、盲人等障害者福祉に尽力しつつ86歳まで長寿を保った。2015年現在、液晶工場への過剰投資で致命傷を負ったシャープは万策尽き果て公的資金注入を待つ身である。
- 松下幸之助は、「日本的経営」を確立し松下電器産業(パナソニック)を築いた高度経済成長の象徴、「経営の神様」と崇められ松下政経塾・PHP研究所の創設者としても名高い。和歌山の貧家に生れた松下幸之助は9歳で大阪へ丁稚奉公に出され、市電に感激し大阪電燈で電気技術を習得、改良ソケットを考案し1917年22歳で創業した。妻と義弟の井植歳男に友人2人の船出だったが、松下幸之助は取外し可能なカンテラ式自転車ランプを開発し業績伸張、「ナショナル」商標でアイロン・乾電池・ラジオへ手を拡げ、門真市に現本社工場を開設し1935年「松下電器産業株式会社」へ改組した。国家総動員法制下では船舶・飛行機など畑違いの軍需品生産と海外移転を強要されたが業容は拡大した。第二次大戦後、松下電器産業は満州・朝鮮・台湾・ジャワ・マニラの工場等を接収されたうえ財閥解体指定を受け、松下幸之助は公職追放に遭難したが、GHQに対し4年間で150回に及ぶ猛抗議を行い「PHP研究所」を設立し平和主義をアピール、社内労組の赦免運動も功を奏し1年で社長復帰を果した。共に公職追放された義弟の井植歳男は1947年暖簾分けで「三洋電機」を創業している。続くドッジ・ライン恐慌で松下電器産業も苦境に陥ったが、松下幸之助は代理店開拓と株式上場で経営基盤強化に努め、朝鮮戦争のラジオ特需で盛返し高度経済成長下「三種の神器」で躍進、「Pana Sonic」商標で欧米市場を開拓した。松下幸之助は「ひかりの道」の啓示で「水道水の如く安価な生活物資を十分に提供し、貧を無くす真の経営=真経営」を標榜し、小林一三に倣い広告宣伝にも注力、「マネシタ電器」と批判されつつ「ナショナルショップ制度」・事業部制・終身雇用など優れた経営手法で日本一の総合家電メーカーへ発展させた。1961年松下幸之助は娘婿の松下正治に社長を譲ったが、3年後販売不振に陥ると「熱海会談」で一線復帰し「販売の松下」を再建、1973年年商一兆円突破を花道に相談役に退いた。10度も長者番付首位に輝いた松下幸之助は名誉職と啓発活動で快い晩年を過ごし、日米貿易戦争とバブル崩壊を見ることなく94歳で大往生を遂げた。
- 電気技師を父にもつ井深大は、早稲田大学理工学部在学中に「走るネオン」の特許を取り「学生発明家」と持て囃されパリ万博で金賞を獲得した。東芝に落ちた井深大はベンチャー企業へ進み1940年日本光音工業の出資で「日本測定器」を設立し常務就任、軍需で業績を伸ばしつつ戦時科学技術研究会委員に任じられ祖国の勝利を願い兵器開発に邁進した。しかし敗戦で軍需工場の日本測定器は閉鎖され、井深大は疎開先の長野から同志7人と帰京し1946年「東京通信工業」を設立、海軍技術将校の盛田昭夫も合流した。当初は社員20余名がラジオ修理で糊口を凌いだが、井深大が名誉社長に迎えた岳父(元文相)前田多門の後援で石坂泰三・石橋湛山ら大物の出資を得るなど恵まれた船出であった。井深大は「真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」を掲げ「人がやらないことをやる。優れた製品を作る。それについては妥協しない」と宣言し果敢に新分野に挑戦、「東芝のモルモット」と揶揄されつつ、国産初のテープレコーダーを経て1955年国産初のトランジスタラジオを発売すると低価格を武器に世界市場を席巻、株式公開を果し社名を商標「SONY」へ統一した。井深大とソニーは挑戦を続け、世界初のトランジスタテレビ、家庭用ビデオ・テープレコーダー、「トリニトロン」方式のカラーテレビなど技術優位を世界に示し、超能力研究や超幼児教育にまで手を拡げた。また盛田昭夫の経営手腕も冴え、ADR発行・NYSE上場など国際金融の分野でもソニーは先駆者であった。1971年井深大は盛田昭夫に社長を譲ったが、存命中ソニーは創業理念を失わなかった。「ビデオ戦争」でソニーのベータ方式は松下電器産業のVHS方式に敗れたが、1979年発売の「ウォークマン」が革命的大ヒット、米CBSレコードやコロンビア映画の買収で日本叩きの矢面に立つも「PlayStation」など新機軸で地位を保った。1997年井深大は89歳で永眠、多磨霊園の墓碑には「自由闊達 井深大」と刻字された。2年後に盛田昭夫も他界し、出井伸之社長は日本潰しの波に呑まれソニーは独自性と競争力を喪失した。
- 盛田昭夫は、井深大と二人三脚で「世界のソニー」を創り上げた名参謀である。大阪帝大理学部物理学科を出て海軍技術中尉となった盛田昭夫は、戦時科学技術研究会で井深大と邂逅し熱戦誘導兵器等の共同研究を通じて互いに人物と学識を認める間柄となった。終戦後、朝日新聞のコラムで「兵器会社経営から町の学者として新に出発」した井深大の健在を知った盛田昭夫は東京に馳せ参じ、井深は12歳も年少の盛田を「日本通信工業」のパートナーに迎えた。盛田家は愛知県常滑市で300年続く造酒屋で「敷島パン」も経営する名門、長男の盛田昭夫は家を継ぐ予定であったが、井深大は盛田家に乗込んで強談判し「生涯の伴侶」を得た。盛田昭夫は優秀な技術者であったが経営面に徹し、一歩下がって井深大を支え続けた。特に国際金融で盛田昭夫は辣腕を発揮し、ADR(米国預託証書)発行やニューヨーク証券取引所上場など日本企業初の快挙を達成している。1971年井深大が会長に退き盛田昭夫がソニーの2代目社長に就任、盛田も5年後に岩間和夫に社長を譲り創業者2人は共に一線を退いた。1997年井深大が89歳で永眠、脳溢血で動けない盛田昭夫に代わり夫人が感動的な弔辞を代読した・・・「井深さん、あなたはとうとう一人で新しい世界に旅立ってしまわれました。戦争中、あなたに初めてお会いして50余年。二人で会社を作って51年。苦しいときも楽しいときも、いつも二人一緒でした。今、二人は別れ別れになってしまいましたが、これからは、私はこの世の中に今しばらくとどまって、次の世代の若者が、どのようにこの難しい世の中を乗りきってゆくかを、じっと見つめてまいりましょう。『さよなら』とは申しません。またいつの日かお会いできる日がくるでしょう。それまでしばらくのお別れです。そして私は、今改めて、私にこんなにもすばらしい人生を与えて下さった井深さんに、心からお礼を申しあげます。井深さん、本当にありがとうございました」・・・この2年後、後を追うように盛田昭夫は78歳の生涯を閉じた。
- キヤノン創業者の御手洗毅は終戦間もない1945年10月1日の事業再開に際し「諸君、旧海軍の零式戦闘機は、世界一の性能を持っていたという。日本は戦争には負けたが、われわれには彼らに負けない立派な頭脳のあることが、これでも立証された。われわれは、この頭脳と多年続けてきた技術研究の成果を生かして、世界一のカメラをつくろうではないか。日本は、これから大いに外貨を稼がなければならぬ。諸君、わが社が真っ先に立上がろう」と社員一同に奮起を促した。御手洗毅の宣言どおり、キヤノンは「ライカ」など先発のドイツ勢を技術力で圧倒して世界一のカメラメーカーへ飛躍し、安住することなく複写機・プリンター・デジタルカメラと多角化を推進、「立派な頭脳」を再び証明し日本に膨大な外貨をもたらした。御手洗毅は1984年に没したが、技術革新と情報化の流れに沿って融通無碍に新分野に進出し高い国際競争力を発揮し続けるキヤノンは2015年現在も「メイド・イン・ジャパン」の優等生である。ただし、御手洗冨士夫(御手洗毅の甥)が経団連会長となり「偽装請負」や「大光」裏金疑惑にかまけている間、2008年の「リーマンショック」以後キヤノンの業績と株価は低迷を続けており、創業者の素晴しい遺産を食潰さないことを祈りたい。
- 御手洗毅は大分から北大医学部へ進み東京で産科医院を開業したが、内田三郎と夫人の出産で知合い「ちょっとしたはずみ」でカメラ製作の「精機光学工業」に参画、軍用レントゲンカメラを大量受注し、1942年外征した内田から社長を引継ぎ軍需品製造で事業を拡げた。終戦後、疎開先の山梨から帰京した御手洗毅は医業を捨てて「世界一のカメラづくり」を宣言し、食糧難のなか海軍等の技術者を招聘し進駐軍将校相手に売上を確保、レンズも自社生産へ切替え1949年「キヤノンカメラ」は東証上場を果した。当時のカメラ市場はドイツ勢の独壇場だったが、「素人の強み」で御手洗毅はドッジ・ライン恐慌下も「キヤノンはあくまで、高品質で世界一を目指す」と技術を磨き、徹底的な工程標準化と製品均質化で職人依存のライカに対抗し低価格・高機能を実現、1963年世界初のオートフォーカス「キャノンAFカメラ」で「ライカM3」を凌駕した。「技術はライカより数段優れているが、占領下日本製では通用しない」と取扱を渋った米国企業も御手洗毅に頭を下げた。カメラで世界一を果した御手洗毅は「キヤノン」へ改称し「右手にカメラ、左手に事務機」を標語に多角化へシフト、1969年独占企業ゼロックスの特許を使わない複写機で牙城を切崩し、ファクス・プリンターと手を拡げ事務機器を中核事業へ発展させた。御手洗毅は販売面でも辣腕を発揮、戦後すぐに自力営業を標榜し「輸出、輸出と叫んで」自ら欧米を行脚したが、商社に依存しない海外販路は技術力と並ぶキヤノン躍進の礎となった。さらに「新家族主義」を掲げる御手洗毅は、利潤を資本・経営・労働で3分割する「三分説制度」や能率給で実力主義を徹底しつつ、労使協調・日本初の週休2日制・財形や持家奨励・「キャノン音頭」・各種社内親睦会等々「10年先を行く」労務施策を展開した。「私は従業員が、『キヤノンで一生を過ごして本当によかった。悔いはない』と思ってくれるような会社を作りたいと考えているのです。これが経営者としての一生の夢なのです」と語り「円満な常識」を追求した御手洗毅の経営哲学は没後もキヤノンに受継がれ、デフレ不況下でも業績を伸ばす超優良企業に結実した。
- 京都の零細陶器工に生れた村田昭は、肺結核で高校を中退したが無事成人して家業を継ぎ「競合しない独自製品」を求め特殊磁器製作に挑戦、1944年三菱電機の下請工場「村田製作所」を設立し電波兵器レーダー用チタンコンデンサの製造を開始した。終戦で「軍需工場」は閉鎖されたが、村田昭は電熱器等の製作で糊口を凌ぎ、翌年チタンコンデンサ製造を再開しラジオブームに乗った。田中哲郎京大助教授と邂逅した村田昭は「専門家の知恵を借り」て「世紀の材料」チタン酸バリウムの応用に成功しラジオ市場を席巻、ドッジ・ライン恐慌で関西のラジオメーカーは松下電器産業とシャープ以外全滅したが技術優位の村田製作所は生延び、朝鮮戦争のラジオ特需を満喫した。村田昭は産学連携を強化し通産省の補助金を得てチタン酸バリウムの応用研究を加速、1952年村田製作所は防衛庁実施の米軍規格試験で唯一の認定部品メーカーとなり、自衛隊受注を独占し市場地位を確立した。朝鮮特需の反動不況で村田製作所の業績は低迷し大規模労働争議も発生したが、間もなく高度経済成長が始まりラジオに白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が加わり業容は急拡大、村田昭は工場増設に追われつつ長岡京市の「村田技術研究所」に巨費を投じて開発体制を増強し、世界初のセラミック半導体・圧電セラミックスなど新分野への布石を打った。さらに村田昭は、米国を手始めに世界各地に販売拠点を展開し1965年には輸出が売上高の3分の1に到達、1985年プラザ合意で円高に突入するとセットメーカーに従い海外現地生産シフトを加速した。村田製作所は1963年に株式上場したが、初めて海外工場を開いたシンガポールでも日本企業初の株式上場を果している。セラミックコンデンサで世界市場を制覇した村田昭は、1991年長男の村田泰隆に社長を譲り4年後に取締役も退任、2006年84歳で永眠した。3代目社長には次男の村田恒夫が就き2015年末も健在である。部品メーカーの村田製作所は知名度は低いが完成品の売行きに左右されない強みがあり、デフレ不況下でも好業績を維持しソニーや東芝に劣らない株式時価総額と国際競争力を誇る。
小平浪平と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照