ねねの甥で豊臣秀吉の養子となるが秀頼誕生で五大老小早川隆景に入嗣、関ヶ原合戦の寝返りで徳川家康に勝利を献上し備前岡山藩55万石に栄転するも僅か2年後に21歳で発狂死し無嗣改易となった精神薄弱児
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
小早川 秀秋
1582年 〜 1602年
0点※
家系・子孫
- 織田信長に仕える前の豊臣秀吉の事跡は不明だが、本人も語れないほど悲惨な少年期であったと考えられ、少なくとも百姓の子に日吉丸の名はありえない。尾張国中村の出自で、当時賤視された焙烙売り一家の出とも、織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門の子ともいうが、木下は妻ねねの実家の姓であり、秀吉は入婿して木下藤吉郎を名乗ったとする方が信憑性が高い。口減らしのために家を出て放浪生活を送り、行商や盗賊働きもしたであろうが、今川家臣の松下之綱に最初の武家奉公をした話は後に家臣に迎え大名にしたことから事実と考えられる。秀吉の弟豊臣秀長は良き副将だっがた惜しくも早世、徳川家康懐柔のため生母なか(大政所)は人質に送り、中年の妹あさひ(朝日姫)は前夫と引離して入輿させた。「糟糠の妻」の代名詞ねね(北政所)は、加藤清正・福島正則・黒田長政らに敬慕されて反淀殿・石田三成陣営の精神的支柱となり、秀吉没後は徳川家康に誼を通じて実兄の木下家定(足守藩及び日出藩)と養家の浅野長政(広島藩)の三大名家を残した。木下家定の五男小早川秀秋は、秀吉の養子から小早川隆景の養嗣子となり、関ヶ原合戦の寝返りで徳川を勝利に導いて宇喜多秀家旧領の備前岡山55万石に加転封されたが、僅か2年後に狂死し無嗣断絶で改易された。女好きの豊臣秀吉は手当たり次第に励むも体質のせいか後嗣に恵まれず、やっと出来た男児2人は夭逝した。が、浅井長政・市(信長の妹)の長女茶々(淀殿)が鶴松を産み、これも夭逝したが続けて秀頼を出産、57歳にして待望の跡取りを授かった(父親は別人の疑いが濃厚、厳重警護下の不倫は困難であり秀吉が仕組んだ可能性が高い)。耄碌した秀吉は、文禄の役で養子の秀勝(徳川秀忠の正室江の前夫)を戦死させ、家督と関白を譲った秀次を眷属諸共無残に殺害(ともに姉日秀の子)、愛児秀頼の後見を家臣団に哀願して世を去った。豊臣秀頼は、徳川家康の娘千姫を妻に迎え立派に成人したが、大坂夏の陣で嫡子国松と共に滅ぼされた。助命された娘は縁切り寺で有名な天秀尼となり、ほかに求厭上人が秀頼遺児を自称したが、いずれも仏門で秀吉の血脈は途絶えた。
- 毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
小早川秀秋と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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