父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6ヶ国120万石を保ち自身も筑前・筑後37万石と五大老職に封じられた智将だが後継者が最悪、遺命に背いた毛利輝元が関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが小早川秀秋の寝返りで徳川家康に勝利を献上し防長36万石に大減封
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦国
小早川 隆景
1533年 〜 1597年
80点※
家系・子孫
- 毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長36万石に大減封された。
- 関ヶ原完敗で茫然自失の毛利輝元は、井伊直政らの口車に乗せられて大阪城を明渡し120万余石から防長36万石へ大減封、西軍総大将ながら不戦のまま敗れたうえ大封を騙し取られるという戦国史最悪の大失態を演じた。以来、長州藩士の徳川家に対する怨念は骨がらみで、毎年の新年拝賀の儀では家老が「今年は倒幕の機はいかに」と伺いを立てると藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとか、長州藩士はみな江戸へ足を向けて寝たという伝説もある。一方、毛利輝元の大失策と統率力不足(小早川隆景と吉川広家の裏切り)で領地を削られ家臣団の大リストラを余儀無くされた毛利氏は藩士への引け目を代々受継いだとも考えられ、幕末に至っても毛利敬親は「そうせい候」にならざるを得ず或いは幕府への復讐心を秘めていたかも知れない。さて幕末の長州藩では、10代藩主毛利斉熙が隠居し従弟の毛利斉元が11代藩主を継いだが早世、毛利斉広(斉熙の庶子)が12代藩主に就くも翌年無嗣没し、斉元嫡子の毛利敬親が斉広娘の都美子に入婿する形で13代藩主を承継した。なお、毛利斉元は、8代藩主毛利重就の六男親著の一子で、毛利一門八家に列した家柄家老の福原氏(毛利元就の生母の実家)に入嗣したが、毛利宗家に呼戻され毛利斉熙の養嗣子となった。なお福原氏は明治維新後に1万石大名並みの男爵に叙されている。さて毛利敬親は、一男三女を生したが全員夭逝、支藩徳山藩主の毛利広鎮の十男定広を世子に据えた。毛利定広(元徳)は、幕末長州藩の旗頭として活躍し敬親の隠居に伴い家督を相続、華族令施行に伴い最高位の公爵に叙され、議定、参与、貴族院勅撰議員を歴任、「華族銀行」と呼ばれた第十五国立銀行の頭取も勤めた。公爵を継いだ嫡子の毛利元昭は、尾張藩主徳川慶勝の八女富姫と離婚した後、三条実美の三女美佐子を娶って二男二女を生し、嫡子の毛利元道は初代の毛利季光から数えて30代目の当主となった(毛利元就は12代目)。毛利定広の八男は西園寺公望の娘を娶り公爵を継いだ西園寺八郎で、長子の西園寺公一はゾルゲ事件に関与し廃嫡された。
小早川隆景と同じ時代の人物
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戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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