沿線住民の生活を丸抱えする私鉄経営モデルを創始した元祖「鉄道王」にして大衆消費社会のパイオニア、現在も同族経営で一家繁栄する阪急東宝グループの創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
小林 一三
1873年 〜 1957年
90点※
家系・子孫
- 江戸に近く商業資本の集積が進んだ甲斐国は明治期に並居る豪商を輩出し若尾逸平・雨宮敬次郎・根津嘉一郎らは「甲州財閥」と称された。韮崎の小林家は甲斐でも五指に入る豪農で酒・絹の問屋も営み巨富を積んだ。小林一三の生家は分家ながら大変裕福で、家付き娘の生母は甲州屈指の素封家丹沢家から甚八を婿養子に迎え娘と一三(1月3日生れ)を産んだが嫡子誕生の8ヵ月後に病没した。甚八は離縁して丹沢家へ戻り、幼年で家督を継いだ小林一三は姉と共に本家の「布屋」に引取られ、裕福ながら両親の愛情を知らずに育った。甲州財閥には属さず独自の私鉄経営モデルで阪急東宝グループを築いた小林一三は、逃げた女房の後釜に馴染みの芸妓コウを据え、三男二女をもうけた。長男の小林冨佐雄が家督を継ぎ東宝社長となったが小林一三と同年に無嗣没し、次男の辰郎は松岡潤吉の婿養子となっていたため、三男の小林米三が長兄の後を継ぎ1969年に没するまで京阪神急行電鉄の社長を務めた。子の無い小林米三は姪(松岡辰郎の長女)喜美を養女とし三菱重臣の三村家から公平を婿養子に迎え、家督を継いだ小林公平は阪急電鉄の社長・会長・名誉顧問を歴任し宝塚音楽学校校長や東宝取締役も務め2010年に永眠した。長男の小林公一は演出家・プロデューサーを経て宝塚歌劇団理事長・阪急電鉄常務取締役に就いており、小林一三の死から半世紀を経ても阪急の創業家は健在である。小林一三次男の松岡辰郎は養家の松岡汽船を継ぐも商船三井系列に吸収され、父の東宝へ転じ社長となった。長男の松岡功は東宝の社長・会長・名誉会長を歴任し阪急阪神ホールディングスやフジテレビの取締役も兼任、妻は元タカラジェンヌで、長男の松岡宏泰に東宝社長を継がせている。松岡功はデビスカップ日本代表にも選ばれたテニスプレーヤーだが、次男の松岡修造はテニスプロからテレビタレントとなった。小林一三次女の春子は、NHKドラマ「マッサン」でお馴染みの鳥井吉太郎(サントリー創業者の鳥井信治郎の長男)に嫁いでいる。小林一三の威徳か平和産業ゆえか、阪急東宝グループほど同族経営が穏当に続いたケースは非常に珍しい。
小林一三と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照