「田中角栄の秘蔵子」ながら金丸信に従い経世会の内紛で自民党離脱、「二大政党制」を掲げて2度の政権交代を実現し民主党政権で従米脱却を図るが「国策捜査」で失脚
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小沢 一郎
1942年 〜 年
60点※
小沢一郎と関連人物のエピソード
- 1972年、戦後最長2798日の長期政権を閉じた佐藤栄作は自民党総裁の後任に実兄岸信介直系の福田赳夫を推したが、佐藤派を割って出た田中角栄が大平正芳(宏池会)・三木武夫・中曽根康弘らと「福田包囲網」を結成し「角福戦争」に勝利、高等小学校卒の野人宰相は「今太閤」と持て囃された。新潟の寒村出身の田中角栄は「裏日本」への利益誘導と格差是正を使命に掲げ「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」と宣言し(日本列島改造論)、公共工事ラッシュを巻起こしたが、間もなくオイルショックが起り列島改造は挫折した。今に続く「バラマキ」・土建行政・財政赤字・金権政治の元凶というべき田中角栄政権だが、外交面では自主路線を追求し後世に範を示す偉業を為した。通産相として国内繊維業者への巨額損失補填を断行し佐藤栄作内閣の「繊維密約」問題を片付けた田中角栄は、翌年首相に就くと3ヶ月も経たないうちに巨額の財政援助と引換えに「日中国交正常化」を達成した。佐藤栄作内閣の繊維密約違反に激怒したアメリカは電撃的なニクソン訪中・ドル兌換停止宣言(ニクソン・ショック)で報復したが、頭越しの日中国交正常化で田中角栄に果実をさらわれ、キッシンジャー国務長官は「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やした。さらに田中角栄首相は、日本の宿命的課題である独自資源の確保に乗出しソ連を含む世界各国を歴訪、産油国等を相手に派手な「資源外交」を展開し米政府と石油メジャーの神経を逆撫でした。こうしたなか立花隆が「田中角栄研究 その人脈と金脈」を著すと米国メディアから追及の火の手が上り、朝日新聞・読売新聞が煽り立て政治問題に発展、1974年田中内閣は総辞職に追込まれ資源外交も成果の無いまま頓挫した。とはいえ田中派は自民党最大勢力を保持し田中角栄は2年後を目処に首相に復帰する考えでいたが、キッシンジャー米国務長官と三木武夫首相の共同謀議「ロッキード事件」で刑事訴追され、10余年もキングメーカーに君臨しながら政権復帰は叶わなかった。
- 田中角栄は、毀誉褒貶はあるが今なお根強い人気と知名度を誇る野人政治家である。田中角栄は新潟の寒村から15歳で単身上京し建築技師となり「田中土建工業」を開業、肺炎で兵役を免れ理研の大河内正敏の庇護下で身代を築いた。戦後政界へ転じた田中角栄は吉田茂・佐藤栄作に属し1957年郵政相で初入閣、佐藤の政敵である池田勇人内閣でも盟友大平正芳の支えで要職に留まった。田中角栄は無学ながら100本を超す議員立法を行った政策通で、建築士法や道路法など土木関連法を案出し自ら推し進める様は「コンピュータ付きブルドーザー」と評された。剛腕の田中角栄は自民党幹事長として佐藤栄作内閣を支え、通産相を託されると国内繊維業界に2300億円の損失補填を断行し3年も膠着した対米繊維交渉を決着させた。が、佐藤栄作は後継総裁に岸信介直系の福田赳夫を指名、田中角栄は「田中派」で佐藤派を割り大平正芳・三木武夫・中曽根康弘らと結んで「角福戦争」を制し1972年念願の首相に就任した。経済成長に取残された「裏日本」の振興と格差是正を宿志とする田中角栄首相は、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」という「日本列島改造論」を標榜し建設ラッシュを巻起こしたが、オイルショックで挫折し福田赳夫の「総需要抑制政策」へ転換した。一方で田中角栄首相は自主外交に注力、巨額の財政援助を餌に「日中国交正常化」を引出すと、欧州・ソ連・中東など世界各国を歴訪し日本独自の資源確保に奔走(資源外交)、オイルショックでは産油国に理解を示し日本産業界の窮地を救ったが、頭越しの独走を米政府と石油メジャーは許さなかった。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣は倒され、キッシンジャー米国務長官らの謀略「ロッキード事件」で復活を阻まれたが、金権選挙に強い田中派は最大勢力を保持し首相指名権を握る田中角栄は「目白の闇将軍」に君臨した。が、首相を出せない田中派では不満が募り、1987年竹下登・金丸信・小沢一郎らが造反し「経世会」を結成、脳梗塞に倒れた田中角栄は影響力を失い1993年刑事被告人のまま病没した。
- 「地域間格差の是正・地方への利益誘導」を使命に掲げた田中角栄内閣は、鉄道・道路などの公共工事で「列島改造ブーム」を巻起こし、見返りの利権でスパイラル的に勢力を伸張、土建行政と金権政治の元祖というべき政権であった。田中角栄政権に端を発する過剰な地方・農村・社会的弱者への「バラマキ」は歪な逆差別構造と地元偏重の悪弊を生み、今なお解消されていない。安易な財政出動の「パンドラの箱」を開けたことも田中角栄政権の重罪だろう。当時は経済が好調で税収が充実していたのでやっていけたが、財布の紐は一度緩めると締まらないもので、田中角栄退陣後の1975年には10年ぶりに赤字国債が復活し、バブル期も国債発行残高は増え続けた。バブル崩壊で税収が激減しても無駄遣いに歯止めが掛からず、1994年から赤字国債が常態化し小泉純一郎政権で国債発行残高が急膨張、「財政再建」は行われないまま日本政府の借金は積りに積って2014年現在1000兆円・対GDP比200%の大台に迫っている。また「政治と金の問題」で必ず名前が挙がるのも田中角栄である。代名詞の「ロッキード事件」はキッシンジャー米国務長官らの陰謀とされるが、氷山の一角であり、田中角栄は中堅時代から政治利権の現金化に天才的手腕を発揮したうえ小佐野賢治と組んで違法すれすれの土地取引等を繰返し荒稼ぎしていた。財界がバックに控える福田赳夫(清和会)や宏池会と異なり、有力な資金源を持たない叩上げの田中角栄は自力で政治資金を稼ぐほか無かったが、あの笹川良一が敬遠したほどの傍若無人ぶりで「田中金脈」の発覚は自業自得であった。
- 田中角栄の政権復帰を阻止したいアメリカが「ロッキード事件」を仕組んだとする謀略説には説得力があり、首謀者の可能性が高いキッシンジャーは後年中曽根康弘に「ロッキード事件は間違いだった」とこぼしている。1972年に発足した田中角栄内閣は「日中国交正常化」でアメリカの「虎の尾」を踏んだともいわれるが、キッシンジャーはニクソン大統領の特使として軽井沢の別荘に田中首相を訪ね訪中延期を頼むも一蹴され、「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やしていた。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣が退陣し、イメージ刷新を図る与党自民党は本命の福田赳夫・大平正芳へ繋ぐ暫定首相に「クリーン三木」を擁立した。三木武夫は、戦前は南カリフォルニア大学に留学し「日米同志会」で対米戦争反対の論陣を張り、戦後はマッカーサーから芦田均内閣の後継首相を打診された筋金入りの親米派であった。1976年「米SECからフィンドレー会計事務所に送るべき資料がチャーチ委員会に誤送される」という不審極まる経緯で「ロッキード事件」が発覚、関係者に事情聴取したチャーチ委員会は「ロッキード社が、日本、イタリア、トルコ、フランスなど世界各国の航空会社に自社の飛行機を売り込むため、各国政府関係者に巨額の賄賂をばらまいていた」と表明した。日本では「当初から」田中角栄前首相の関与が囁かれたが、米政府は「収賄者を発表すると複数の友好国で要人が失脚する」ため公表しない立場を明確にした。ところが三木武夫首相は、フォード大統領に直訴して関係資料を日本の検察に開示させ、アメリカでの嘱託尋問という超法規的措置を強行して無理やり証拠をかき集め、事件発覚から半年足らずで田中角栄と資金源の小佐野賢治を逮捕した。その直後、福田赳夫が「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」で大平正芳と手を組んで「三木おろし」を成就させ首相に就任している。田中角栄は政権復帰を企図したが東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され断念、1983年懲役4年・追徴金5億円の有罪判決を受け、1993年田中の死により控訴審が上告棄却しロッキード事件は終わった。
- 「ロッキード事件」の謀略劇で田中角栄前首相は刑事被告人となり政権復帰を阻まれたが、金権選挙に強い田中派(木曜クラブ)は最大勢力を保持し「目白の闇将軍」は10余年も自民党政権に院政を敷いた。1976年ライバルの福田赳夫が三木武夫を引きずり下ろし政権に就いたが、1978年「2年後の首相禅譲密約(大福密約)」を破った福田首相に大平正芳(宏池会)が挑戦、田中角栄は盟友の大平を支持し番狂わせの大平内閣を成立させ「角影内閣」と称された。1980年総選挙の最中に大平正芳首相が心不全で急死すると田中角栄は大平派幹部の鈴木善幸への政権移譲に協力、1982年「日米同盟に軍事的意味はない」発言で鈴木内閣が倒れると弱小派閥の中曽根康弘を首相に擁立した。が、翌年の総選挙で与党自民党が大敗し中曽根康弘首相は「田中角栄氏の政治的影響を一切排除する」と声明、ロッキード事件の影響で最大派閥ながら首相を出せない田中派でも不満が高まった。1895年竹下登・金丸信らが造反し派閥内派閥「創政会」を結成、直後に脳梗塞で倒れた田中角栄は影響力を失い、1987年創政会改め「経世会」は正式に田中派から分離独立し政権を狙った。息子のように可愛がった小沢一郎まで金丸信に従い、大きなショックを受けた田中角栄は俄かに酒量を増し脳梗塞の病状を悪化させた。「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」という右翼街宣車の「ほめ殺し」で追詰められた竹下登は極道に仲裁を頼み田中角栄に謝罪(皇民党事件)、田中は目白邸に訪れた竹下を門前払いし憂さを晴らしたが、大勢を覆す余力は無く竹下内閣の発足を許した。1993年小沢一郎の策動で細川護熙内閣が成立し自民党支配の「55年体制」が終焉、直後に田中角栄は刑事被告人のまま75歳で病没したが、死の直前に訪中し「日中友好の井戸を掘った友人」と鄧小平らに歓待されたことと、長女の田中眞紀子が新潟3区の地盤を継ぎ衆議院議員に初当選したことがささやかな花道となった。
- 福田赳夫は自主路線・岸信介の後継者である。群馬の旧庄屋に生れた福田赳夫は東大法学部から高等文官試験主席合格で大蔵省へ進み、軍部と闘う高橋是清蔵相に感銘を受け、ロンドン勤務や汪兆銘政権の財政顧問も経験した。戦後も出世コースを歩んだ福田赳夫は主計局長に上ったが「昭和電工疑獄」を機に退官し(のち無罪)、1952年衆議院議員へ転じた。福田赳夫は大蔵省傍流の池田勇人ではなく同じエリート官僚の岸信介に仕え、岸内閣で自民党三役となり農林相で初入閣、池田勇人内閣では政調会長に登用されたが「党風刷新連盟」で経済偏重主義を批判して解任され5年も冷飯を食った。しかし続く佐藤栄作内閣は派閥横断人事を行い(人事の佐藤)、福田赳夫は蔵相・幹事長・外相を歴任、戦後初の国債発行で「昭和四十年不況」を克服し「昭和元禄」を守り、沖縄返還では米軍駐留費負担の密約で交渉妥結に寄与、佐藤首相は退陣にあたり福田を後継指名した。1972年、田中角栄が佐藤派を割り「角福戦争」が勃発、大平正芳・三木武夫・中曽根康弘と包囲網を組み自民党総裁戦で福田赳夫を破った。田中角栄首相の「日本列島改造論」はオイルショックで挫折し、蔵相を託された福田赳夫は「総需要抑制策」へ転換し「狂乱物価」を終息させた。続く三木武夫内閣で福田赳夫は副総理兼経済企画庁長官に就任したが、「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で宏池会の大平正芳と提携し「三木おろし」に成功、1976年71歳にして悲願の政権に就いた。「さあ働こう内閣」を掲げた福田赳夫首相は、カーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を推進、「福田ドクトリン」でASEAN諸国との連携を強化し懸案の日中平和友好条約を成立させた。しかし1978年、密約を反故にされた大平正芳が自民党総裁選に挑み田中角栄の支持を得て番狂わせの勝利、長期政権を期待された福田赳夫は僅か2年での退陣となった。その後も「昭和の黄門」福田赳夫は「清和会」に影響力を保持し1990年85歳で引退するまで衆議院議員を務めた。福田赳夫の没後、清和会を継いだ森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三が政権を担い、長男の福田康夫も首相となった。
- 福田赳夫首相はカーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を追求し、従米脱却に挑んだ岸信介直系の名に恥じない働きを示した。ベトナム戦争敗北の翌1977年、大統領に就任したジミー・カーターは直ちに在韓米地上軍の削減を発表し「アジア離れ」の外交方針を鮮明にした。これを受けて福田赳夫首相は、カーター大統領を訪問し日米協調を確認したうえで、ASEAN5ヶ国の首脳を歴訪し「ASEAN工業プロジェクト」への10億ドル拠出およびODA支出額倍増を約束、最後の訪問地マニラで「日本の軍事大国化の否定・心と心が触れ合う相互信頼関係の確立・ASEAN各国の連帯性と強靭性強化に向けた自主的努力への協力」を骨子とする「福田ドクトリン」を表明した。福田ドクトリンとは即ち「米国のプレゼンス喪失で生じたアジアの力の空白を日本の経済力を求心力にASEAN諸国との政治経済両面での連帯強化によって埋めていく」外交方針の宣言であり、あわせて福田赳夫首相はベトナム問題や中ソ対立の波及など国際環境の分極化を未然に防ぐ日本の役割を国際社会に明示した。続いて福田赳夫首相は、改革解放を進める鄧小平復活後の中国と日本国内の親中・反ソ世論に促され、田中角栄内閣が達成した「日中国交正常化」の仕上げに乗出した。福田赳夫首相は、反ソ戦略の一環で対中接近を図るアメリカの了解を取付け、母体の岸派に根強い親台湾派を懐柔し、「反覇権条項」に抗議するソ連の牽制を黙殺して、1978年「日中平和友好条約」締結に漕ぎ着けた。福田赳夫首相は日中関係が「吊り橋から鉄橋になった」と自賛したが、中国への肩入れで「全方位外交」の建前は崩れ日ソ関係は悪化、さらに中国とベトナムの関係悪化を受け対越経済援助を堅持するも中越戦争勃発の抑止力にはなれず、日ソ関係改善に取組むなか自民党総裁選で大平正芳に敗れあっけなく退陣した。国内政治に弱い福田赳夫政権は短命に終わり岸信介以来の悲願である憲法改正・再軍備には踏込めなかったが、しっかりアメリカの了解を得ながらアジア経済共同体の構築を目指した外交戦術は秀逸で後世に範を示すものであった。
- 大平正芳は「保守本流」池田勇人の後継者で、盟友田中角栄の支持で首相となったが在任2年目に絶命した。「アーウー宰相」「讃岐の鈍牛」と揶揄されたが、政界有数の読書家で教養人だったという。香川の農家に生れた大平正芳は、苦学して東京商科大学(一橋大学)へ進み同郷の津島壽一大蔵次官の推薦で大蔵省出仕、税務畑を歩み傍流の先輩池田勇人に属した。池田勇人蔵相の秘書官を3年務めた大平正芳は1952年衆議院議員へ転身し、1960年池田内閣で官房長官に就くと「低姿勢」のスポークスマンぶりを評価され外相に栄転、利子平衡税や原潜寄港問題を捌いて良好な日米関係に寄与し、朴正煕政権との日韓交渉に働いた。大平正芳は池田勇人を喪い後継の佐藤栄作首相に敬遠されたが、田中角栄の尽力で政調会長・通産相にありつき、1971年「大平クーデター」で前尾繁三郎を追放し「宏池会」会長に納まった。佐藤栄作退陣に伴う自民党総裁選で、大平正芳は存在感を示すべく出馬したが、実際は田中角栄を支持し共に福田赳夫を破った。田中角栄内閣で外相・蔵相に補された大平正芳は、航空協定交渉を妥結へ導き日中国交正常化に貢献、田中首相の「資源外交」を支え、金大中事件・オイルショック・ニクソンショックと噴出する難題の対処に追われた。続く三木武夫内閣で大平正芳は蔵相に留まり「日本列島改造論」とオイルショックによる経済混乱の沈静化に努め、福田赳夫の赤字国債復活には異を唱えたが不況打開のため容認を決断した。1976年「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で福田赳夫と大平正芳の提携が成り「三木おろし」で福田内閣が成立、大平は幹事長に就任したが、福田が密約を反故にしたため自民党総裁選に挑み田中角栄を後ろ盾に番狂わせを演じた。1978年「角影内閣」こと大平正芳内閣が発足、大平首相は福田赳夫政権の「全方位外交」を引込め「日米同盟」強化で従米路線へ戻し対中「贖罪外交」で「自虐史観」を強めたが、自民党を二分する福田との「怨念の対決」に忙殺され、総選挙の最中に心不全で急逝した。黒幕の田中角栄は大平派の鈴木善幸を後継総裁に担ぎ、福田赳夫の政権復帰は阻まれた。
- 1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。
- 心不全により急死した大平正芳首相の後を受けて、大平派幹部だった鈴木善幸が首相に就いた。大学を出ずに岩手県漁協職員・社会主義運動から政界に入ったためそもそも政官界での受けが悪く、日米関係悪化を招いたとしてマスコミから「暗愚の宰相」と批判されたが、平和主義・アジア重視を貫いた自主路線の政治家であった。「日米同盟」に基づくアメリカからの防衛費増額要請を決然と断り、「第一に、わが国の努力は、平和的手段のものにかぎられるということです。わが国として各国に対する軍事的な協力は行いません。この方針はアジア諸国も理解しています。第二に、わが国のなしうる最大の貢献は、経済社会開発と民生安定に通ずる各国の国づくりに対する協力です。第三に、国づくりとともに、この地域の平和と安定のための政治的役割をはたしていくことが求められていると思います」「アメリカとの関係を悪化させることはできない。しかし日本はなんといってもアジアの国で、アジアの国々と共に進んでいかなければならない。これからアメリカ、あるいはヨーロッパ、あるいはソ連圏、中国圏というように、三極、四極に分かれた国際時代に入ると思うのです。その場合、日本はアジアにしっかりと根をおろし、アジアの尊敬と支援と理解、協力を得た上に立つ日本という形で、国際社会のなかで日本の主張、立場というものを明らかにしていかばければ駄目だ」と語りその実現を目指した。しかし、米大統領が「人権外交」と軍縮を推進したカーターからタカ派のレーガンに交代するなか、日米共同声明で発した「日米同盟」という言葉が問題となり、言葉尻をとらえた新聞が「鈴木首相は『日米同盟に軍事的意味はない』といった」と煽り立てたことで「外交音痴」のイメージが作られ、伊東正義外相の辞任騒動を発端に事態収束のため首相を辞任するに至った。
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 中曽根康弘は、小派閥の領袖ながら1806日の長期政権を築いた「政界の風見鶏」、レーガン米大統領に追従し「ロン・ヤス」関係を築いたが、対日経済制裁と「プラザ合意」を受入れ「バブル経済」「失われた10年」の元凶となった。中曽根康弘は東大法学部から内務省へ進み海軍へ志願転出、1947年民主党から衆議院議員に初当選し、日の丸を立てた白塗りの自転車で徘徊し「青年将校」と称された。河野一郎に属した中曽根康弘は「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判したが、欧米遊学でキッシンジャーや正力松太郎と通じ米国の「原子力平和利用」に便乗、1955年原子力基本法を成立させ、1959年科学技術庁長官で初入閣し原子力委員会委員長を兼ねた。中曽根康弘は、吉田茂直系の池田勇人政権で不遇を託ち、河野一郎の死に伴い1966年中曽根派を結成し佐藤栄作政権を批判したが運輸相ポストに釣られ転向、改憲・自主防衛論を封印し要職を歴任した。1972年「角福戦争」で田中角栄を勝たせた中曽根康弘は存在感を高め通産相に就任、続く三木武夫内閣では幹事長のくせに「三木おろし」に加担し、「四十日抗争」では福田赳夫に付いたが土壇場で大平正芳首相へ寝返って田中派に恩を売り、1982年「田中曽根康弘内閣」「角影内閣」を組閣した。極端な従米路線を採る中曽根康弘首相は、対韓経済援助40億ドルの肩代りを買って出、NTT・JT・JRの三公社民営化で「新自由主義」に迎合、日本を米国の「不沈空母」と発言した。が、忠勤も虚しくレーガン米政権は日本経済を敵視し「再破壊」を発動、無抵抗の中曽根康弘政権は制裁関税・自主規制・輸入強制に続き1985年プラザ合意で破壊的な円高を容認し、対抗的な金融・財政政策の拡大で「バブル経済」を招来した。1987年政権を竹下登に譲った後も中曽根康弘は自派閥に院政を敷いたが、後継者の渡辺美智雄は2度の自民党総裁選に敗れ、求心力低下で造反議員が続出し「中曽根さん、あんたはもう高崎へ帰りなさいよ」と罵倒された。ロッキード事件・リクルート事件をすり抜けた中曽根康弘は「御意見番」の地位を保ったが、2003年小泉純一郎首相に引導を渡され漸く引退した。
- 少壮期に「国権回復論」を唱え吉田茂の従米政権を批判した中曽根康弘は、改憲・再軍備派に期待されたが、政権に就くと極端な従米路線を採りGHQ以来の「日本経済再解体」に全面協力した。中曽根康弘個人はロナルド・レーガン大統領(共和党)と「ロン・ヤス」と気安く呼合い各国首脳の「招待外交」で存分にアピール出来たが、日本は経済面で高すぎる代償を払わされた。若き中曽根康弘は改憲・タカ派で鳴らし「吉田ドクトリン」批判で保守本流に対抗したが、かたやキッシンジャーら米国要人と誼を通じ正力松太郎と共に原子力行政を牽引した。1982年首相となった中曽根康弘は、翌年アメリカの対韓経済援助40億ドルを肩代わりし、日本の防衛に無関係なP3C等軍備の代替購入と対米武器技術供与を決定、「不沈空母」発言が批判を浴びたが釈明すらしなかった。米国の要求は「防衛協力」に留まらず、中曽根康弘政権(蔵相竹下登・宮沢喜一、外相安倍晋太郎・倉成正)は「経済音痴」では済まされない大失策を犯した。1981年発足のレーガン政権は、ソ連に対する軍事的優位を確立すべく「戦略防衛構想」(SDI)で軍拡を推進しつつ、同盟国の日本も敵視し経済破壊へ方針転換、直ちに乗用車輸出の「自主規制」を押付けた。中曽根康弘の従米政権発足で攻勢を強めたレーガン米政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ、輸出競争力を奪うべく「プラザ合意」で急激な円高を押付け、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強制、スーパー301条で対日制裁を強化した。それでも貿易赤字が減らず日本のバブル景気に業を煮やしたレーガン政権は、貿易赤字削減を逸脱して金融・不動産・流通など日本の経済システムの解体に踏込み、中曽根康弘政権はNTT・JT・JRの三公社民営化などで迎合、「BIS規制」と「日米構造協議」が決定打となり1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。露骨な内政干渉を唯々諾々と受入れた中曽根康弘首相と竹下登・安倍晋太郎・宮澤喜一ら主要閣僚は「二度目の亡国」を招いたと非難されても仕方ないだろう。
- 竹下登は「言語明瞭・意味不明瞭」ながら「気配り・目配り・金配りで総理になった」調整型政治の達人で、年次の丸暗記から始めて官僚操縦術を習得し、政治家には人事ポストの「損失補填」で派閥横断人脈を形成、「選挙の神様」と称されコロンビア大学から「選挙学」で名誉博士号を得ている。早稲田大学商学部を卒業した竹下登は、地元の島根県議を経て1951年衆議院議員初当選、佐藤栄作・橋本登美三郎に属し1971年官房長官で初入閣したが、田中角栄の田中派結成と政権獲得に主導的役割を演じ退陣後も要職に留まった。蔵相・幹事長として中曽根康弘政権を支えた竹下登は、「プラザ合意」などレーガン米政権の内政干渉に従い「バブル経済」の端緒を開く大失策を犯している。さて田中派は「ロッキード事件」批判に晒されつつ与党自民党で最大勢力を保ったが、政権を取れない苦境に不満が募り、1985年竹下登と盟友の金丸信は「創政会」で反旗を掲げ激怒した田中角栄は脳梗塞でダウン、田中派を乗取る形で「経世会」が発足した。「ほめ殺し」の「皇民党事件」で反撃に遭うも、竹下登は「裏技」で凌ぎ中曽根康弘の後継指名を得て1987年首相に就任、最大派閥領袖のうえ総裁選を争った安倍晋太郎を幹事長・宮澤喜一を副総理に起用する派閥横断人事で長期政権に臨んだ。が、竹下登首相は早々に皇民党事件で躓き、懸案の消費税初導入は果したものの、中曽根康弘政権が助長したアメリカの日本経済破壊に為す術無く「スーパー301条」「BIS規制」「日米構造協議」に遭遇、軍事協力要請を拒否した2週間後に「リクルート事件」が起り2年足らずで総辞職に追込まれた。退陣後も検察の執拗な追及は続き竹下登は訴追を免れるも金庫番の青木伊平が自殺、1991年遂にバブルが崩壊し、翌年「東京佐川急便事件」で金丸信が議員辞職に追込まれ反発した小沢一郎・羽田孜が経世会を割り新生党を結成した。小沢一郎・細川護熙の「新党ブーム」で自民党は政権を失い「55年体制」は終焉したが、自社さ連立の村山富市内閣で復活し橋本龍太郎・小渕恵三の経世会内閣が成立、晩年恵まれた竹下登は2000年異母弟の竹下亘に地盤を譲り76歳で永眠した。
- レーガン米政権は、軍拡・富裕層減税・米国製造業の地盤沈下で「双子の赤字」を膨張させた責任を日本経済へ転嫁し懲罰政策に狂奔した。対する中曽根康弘政権は、輸出自主規制・制裁関税・輸入強制に加え「プラザ合意」で急激な円高まで唯々諾々と受入れ、「円高不況」打開のため安易な低金利政策と財政出動で「バブル経済」を引起したが、残念なことに蔵相は「経済音痴」の竹下登であった。それでも貿易赤字は減らず怒り心頭に達したアメリカは「原因は日本の国体にあり」と金融・不動産・流通など経済システムの破壊に踏込み、続く竹下登政権は「BIS規制」「スーパー301条」に続き露骨な内政干渉「日米構造協議」まで呑まされ、日銀のソフトランディング失敗でバブルは崩壊し日本は「失われた10年」に沈んだ。経済政策で「2度目の亡国」を招いた竹下登だが、1988年の国連軍縮会議で「日本が二度と軍事大国にならないこと」「非核三原則を国是として堅持すること」を宣言し、レーガン米政権の「防衛責任の増強」(防衛協力)要求を「軍事的な分野に人を出す考えはまったくない。PKOについても事前の調査に十分な注意をしたい」と拒否している。その僅か2週間後に朝日新聞が「リクルートの川崎市への誘致時の助役が関連株を取得、株式公開で利益1億円」と報じ「リクルート事件」が発生、政財界を揺るがす大疑獄事件に発展し、関与を疑われた竹下登首相の「金庫番」青木伊平が自殺し翌年内閣総辞職に追込まれた。竹下登内閣は自主外交に殉じた観もあるが、日本を「(米ソという)ビルの谷間のラーメン屋みたいなもの」と言って憚らない竹下登に師匠の佐藤栄作や田中角栄のように日米安保や「55年体制」の枠組みにまで踏込む意志は無く、アメリカが仕掛けた「日米経済戦争」に対抗する力量も気概も無かった。
- 1991年ソ連が軍拡競争で自滅し冷戦が完結、軍拡の名分を失ったアメリカでは軍事費縮小と経済再建予算増額を求める至極妥当な世論が高まり、ゴルバチョフが示唆したように「新しい敵を探さなければならない」事態に直面した。石油富豪で「軍産複合体」の一員である父ブッシュの共和党政権は、イラク・イラン・アフガニスタン・リビア・北朝鮮ら「ならず者国家」を新たな脅威に仕立て、「湾岸戦争」で乾坤一擲の巻返しに出た。イラクのサダム・フセイン政権は、もともとアメリカが仇敵イランへの対抗馬として軍事大国に育てた経緯があり、増長したフセインは米軍の介入は無いと信じ「クウェート侵攻」を強行したが、新たな敵を求めるブッシュ政権の好餌となった。日本の経済力を「米国の死活的脅威」の筆頭に掲げるアメリカは、湾岸戦争を口実に海部俊樹・宮澤喜一内閣から膨大な上納金を巻上げたうえ、「国際社会は日本の財政的貢献を評価しなかった」というアマコスト駐日大使らの偏重情報で宮澤内閣を揺さぶり「PKO協力法」で自衛隊のカンボジア派遣を引出した。小沢一郎幹事長・橋本龍太郎蔵相は「積算根拠もないままに」ブレディ米財務長官の要求額を支払い続け湾岸戦争協力金は130億ドルに膨らんだが、それでもアメリカは「遅すぎる、少なすぎる」と批判し更なる人的貢献を求めた。父ブッシュ政権は、軍縮世論を封じるため過剰に「ならず者国家」の脅威を煽り、「国防費の維持は不可欠→軍事費負担をアメリカに押付け経済競争に勝った日本はケシカラン→日本への防衛協力要求と経済破壊政策は正当」との強引なロジックで世論の矛先を日本へ向け超軍事大国の維持に成功した。1993年父ブッシュ政権は1期で倒れたが、続くビル・クリントンの民主党政権は対日懲罰を強め、2001年発足の子ブッシュ政権は「9.11」の口実を得て「予防戦争」「テロとの戦い」を開始しアフガニスタン戦争・イラク戦争の暴挙を犯した。日本ではブッシュの「ポチ」小泉純一郎が政権に就き、対テロ戦争に迎合し2003年イラク戦争に自衛隊を派遣、急激なアメリカ化と市場開放(小泉構造改革)は日本経済を破壊し「格差社会」の弊害も呼込んだ。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
- 田中角栄の祟りか、自民党最大派閥を簒奪し首相に就いた竹下登は1987年「リクルート事件」で退陣し、1992年共謀者の金丸信も「東京佐川急便事件」で失脚し翌年小沢一郎の造反で細川護熙内閣が成立、「55年体制」の終焉を見届けた田中角栄は4ヵ月後に亡くなった。が、祖父の近衛文麿にソックリな細川護熙は1年足らずで政権を投出し、非自民連立の羽田孜内閣も64日で瓦解、1994年自民党(河野洋平総裁)は社会党と連立を組んで村山富市内閣を成立させ政権与党に返咲いた。革新政党の存在意義を放棄し「村山談話」(侵略戦争を謝罪)で迷走を極めた村山富市内閣は2年保たず、1996年竹下登から「経世会」(旧田中派)を継いだ橋本龍太郎が自民党政権を復活させた。橋本龍太郎は、湾岸戦争時の海部俊樹内閣の蔵相で小沢一郎幹事長と共に「積算根拠もないままに」130億ドルもの金をアメリカに貢いだ従米派、首相に就任すると「日米同盟」強化を掲げ「防衛協力」を粛々実行した。さらにバブル崩壊後の経済再建を期待された橋本龍太郎政権は「不良債権処理」「グローバリゼーション」の名の下に米国主導の「金融ビッグバン」「規制緩和」を推進したが、「ハゲタカ・ファンド」など外資の跳梁跋扈を招いただけで日本経済の傷口を広げた。しかし自意識の強い橋本龍太郎は国内マスコミの前ではアメリカと対等を演じ、「天安門事件」後の中国に西側閣僚で初めて訪問(当時蔵相)、政権に就くと日米首脳会談でクリントン大統領に普天間飛行場返還を要求し「何回か、日本政府がもっている米国債を大幅に売りたいとの誘惑にかられたことがある」と爆弾発言、尤もな主張ながら驚いた米国株式市場は一時大幅安となった。「新党ブーム」は終わり人気者の橋本龍太郎は長期政権を期待されたが、1998年共和党の揺さぶりでイラク攻撃へ傾いたクリントン大統領に長野冬季五輪中の武力行使自粛を求めて怒りを買い、間もなく行われた参議院選挙で自民党が惨敗し引責辞任に追込まれた。後継首相には経世会盟友の小渕恵三が就任、2001年森喜朗内閣の後継選で橋本龍太郎の復帰が有力視されたが小泉純一郎の「劇場型政治」に敗北した。
- 小泉純一郎は、「劇場型政治」で史上断トツの内閣支持率を獲得し1980日の長期政権を樹立、子ブッシュ米政権に追従し「聖域無き構造改革」と宿願の「郵政民営化」を強行したが、公約の景気回復・行財政改革は進まず国体破壊・国債残高急増・格差社会を招く無残な結果に終わった。小泉純一郎は「刺青大臣」小泉又次郎の孫で父の急死で横須賀の地盤を継ぎ、福田赳夫の「清和会」に所属し1972年30歳で衆議院議員初当選、1988年厚生相で初入閣したが、山崎拓・加藤紘一と反経世会連合「YKK」を組み無謀な郵政民営化主張で変人扱いされた。2001年森喜朗(清和会)内閣の後継選で、「自民党をぶっ壊す」「構造改革なくして景気回復なし」と連呼する小泉純一郎が経世会の橋本龍太郎に逆転勝利(小泉旋風)、田中眞紀子人気も手伝い内閣支持率は80%を超えた。小泉純一郎首相は、亀井静香・平沼赳夫ら「抵抗勢力」を排斥し、米国流「新自由主義」の竹中平蔵とオリックスの宮内義彦を旗振り役に「小泉構造改革」を強行したが、郵政民営化・日本道路公団分割民営化・健康保険本人3割負担・個人情報保護法・製造業派遣解禁・法科大学院設置・商法改定(会社法)等々、いずれも実態は日本のアメリカ化・市場開放策に過ぎず、「景気回復」は空手形で大混乱と膨大な財政ロスをもたらした。外交面でも小泉純一郎首相は従米路線に邁進、「9.11テロ」発生と同時に対テロ戦争参加を表明し「テロ対策特別措置法」制定、2度の訪朝と「日朝平壌宣言」で使命に掲げた「拉致問題解決」を前進させたが、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼ぶブッシュ大統領に叱られ従順な「ポチ」となった。2003年ブッシュ米政権が「イラク戦争」の暴挙に及ぶと小泉純一郎首相は即座に自衛隊派遣を決定し、「日米同盟 未来のための変革と再編」で日米同盟を全世界の「予防戦争」へ拡大、ブッシュ邸招待を「ご褒美の卒業旅行」に2006年任期満了で勇退し北朝鮮外交で浮上した安倍晋三(岸信介の孫)に政権を譲った。2009年小泉純一郎は隠居し次男の小泉進次郎が衆議院議席と人気を承継、翌年ゆうちょ銀行の米国債大量購入が発覚し郵政民営化の真相が垣間見えた。
- 2001年「9.11同時多発テロ」が発生、石油富豪で「軍産複合体」の一員である子ブッシュの米共和党政権は即座に「アルカイダ」の犯行と断定しアフガニスタン・タリバン政権にウサマ・ビン・ラーディンらの引渡しを要求、応じないと見るや僅か1ヶ月で「アフガニスタン戦争」に踏切った。米軍は2ヶ月で作戦を終えタリバン政権を崩壊させたが、ブッシュ政権はテロの温床と見做すタリバンの撲滅(石油利権の奪取)に固執し軍隊を駐留し内政に介入、民衆も巻込んだ泥沼の長期戦に嵌り込んだ。ブッシュ政権は米国民の狂気を煽り正体不明な「テロとの戦い」はイスラム圏全域へ波及、「湾岸戦争」で父ブッシュ政権が取逃したサダム・フセインへ矛先を転じ「イラク戦争」に突入した。「①イラクが大量破壊兵器を大量保有している、②イラクはアルカイダと協力関係にある、③先制攻撃しないとフセインはいつ世界を攻撃してくるかわからない」というアメリカの主張は根拠薄弱で、明らかな勇み足に露仏中独は猛反対し国連も同意しなかったが、ブッシュ政権は英豪ポーランドを抱込み伊蘭韓など30余国の「有志連合」でお茶を濁し2003年3月イラク攻撃を敢行、日本の小泉純一郎政権も自衛隊派遣で追従した。米軍は瞬く間にフセイン政権を倒し軍政を敷いたが、重しを除いたことでイスラム宗派対立と民族問題が噴出し内戦状態が出現、悩める米軍は2006年にフセイン・2011年にビン・ラーディンを殺害したが効果は無かった。さらに何処を探してもアメリカの開戦根拠は見つからず、中東の石油利権と軍需産業を代弁するブッシュ政権の「私闘」であることが明白となった。イスラム全域で反米感情が爆発し米軍や露仏からの武器流入でテロ組織が乱立する最悪の事態となり、2012年オバマ米政権は米軍を完全撤退しイラク戦争から手を引いたが、2015年シリア問題にもたつく間にイラク・バアス党の将校群を吸収したISが新たな主役に躍り出た。スティグリッツが「イラク戦費3兆ドルの衝撃」で予期したとおり多くの戦傷病者を抱えるアメリカは戦後も膨大な負担に悩まされ、引けない米軍は学資援助を餌に低所得層を狩り中東の前線へ送り続けている。
- 「年次改革要望書」「金融ビッグバン」「小泉構造改革」と続いた規制緩和ブームの実態は米国の強引な内政干渉であったが、非効率な官営事業・規制産業の合理化というメリットも大きく、金融・不動産の分野で大蔵規制の牙城を崩した宮内義彦・オリックスの功績は大きい。新聞再販・球界再編で宮内義彦と衝突した渡邊恒雄は「宮内ごときと大巨人が日本シリーズで対決?穢れる。不愉快。オリックスはまともな正業ではない」と放言したが、規制利権の権化の怒りは「規制改革の旗手」の面目躍如だろう。とはいえ、宮内義彦は公職の「規制改革審議会」議長を10余年も務めた「歴代内閣の指南役」でありながら「改革利権」を貪りオリックスは最大受益者となった。しかし小泉内閣退陣の2006年から宮内義彦は因果応報に襲われ、子分の村上世彰がライブドア事件に絡むインサイダー取引で逮捕され盟友の福井俊彦日銀総裁への利益供与も発覚した。「村上ファンド」はオリックス傘下に発足し私募投信解禁後M&Aの尖兵となったが、宮内義彦はニッポン放送買収劇で有頂天の村上世彰を見限り資金と人材を引上げた。巨額のニッポン放送株式を抱え進退極まった村上世彰は、ライブドアの堀江貴文をカモに売抜け150億円の売却益を獲得したが、やり過ぎてお縄となった。宮内義彦は公職辞任で説明責任を逃れたが、2009年鳩山邦夫総務相が「かんぽの宿」70施設のオリックス不動産への不正入札(2400億円→109億円)を暴露、盟友の西川善文日本郵政社長が糾弾され久々の改革利権は画餅に帰した。鳩山邦夫は「『かんぽの宿』疑惑は、単なる入札疑惑ではない。『小泉・竹中構造改革』が日本を米国金融資本に売り渡した疑惑だ」と喝破し、中立の野中広務まで「郵政民営化の利権に群がるハゲタカがらみの疑惑は西川(善文)から遡って、生田(正治)氏時代からの神戸人脈を解明しなければならない」と宮内義彦追及の烽火をあげた。翌年日経新聞が「ゆうちょ銀行が米国債を大量購入していた事実」をスクープ、「売国奴」疑惑は図星となり小泉構造改革は地に落ちたが、巨悪の小泉純一郎・竹中平蔵・宮内義彦に司直の手は及ばない。
- 宮内義彦は、貿易商の父に英語を仕込まれ、関西学院大学を出てワシントン大学でMBAを取得したが大手商社には入れなかった。ニチメンに入社した宮内義彦は、英語堪能ゆえに米国USリーシングへ研修に出され1964年「オリエント・リース」設立に伴い出向、創業者乾恒雄の腹心としてニチメン・三和銀行からの「独立戦争」に勝利し、1980年45歳で3代目社長を譲られ1989年「オリックス」への改称を機に独裁権を握った。乾恒雄のオリエント・リースは、自力営業でOA機器リース市場を開拓し、銀行が敬遠するパチンコとラブホテルを上得意にノンバンク最大手へ成長、リース・融資・生命保険を組合せた「クロス販売」で高収益を確立した。跡を継いだ宮内義彦はバブルに踊らず不動産融資の担保掛目7割を堅持し深手を免れたが、地価反転期を見誤って不動産買叩きに乗出し大損害を蒙った。1995年オリックスは3期連続減益に陥り宮内義彦は不動産部門を縮小したが、米国の構造改革圧力に触れ「規制緩和は戦後最大のビジネスチャンス」と矛先転換、1996年橋本内閣が「年次改革要望書」で「金融ビッグバン」を受入れると「規制改革審議会」議長に就任し2006年の小泉内閣退陣まで「規制改革の旗手」を務めた。宮内義彦は外圧を背景に大蔵規制破壊を主導し、適債基準撤廃で直接金融へシフトし資金力を高めたオリックスは銀行・生保・証券業の垣根を破りM&Aに邁進、不良債権バルクセールや日債銀買収で暴利を貪り「日本版リート」も創設し急成長を遂げた。小泉純一郎の従米政権で宮内義彦は竹中平蔵と両輪を為し「聖域なき構造改革」を牽引、金融・不動産で「改革利権」を満喫したオリックスは最大受益者となり、子分の村上世彰を尖兵にM&Aに狂奔、農業・病院の株式会社化を試行しエネルギー事業へも手を拡げた(盟友エンロンの破綻で頓挫)。しかし小泉劇場と共に新自由主義ブームも終焉、「日本のリーマンブラザーズ」オリックスはリーマンショックに直撃され、「村上ファンド」「かんぽの宿」でメッキが剥れた宮内義彦は逮捕を噂されるなか2014年「功労金」44億円をもらい取締役とCEOを退任した。
- 毎日新聞報道:「米政府系住宅金融機関二社が経営危機を迎えていた2008年8月下旬、日本政府が外貨準備を使って両社の支援を検討していたことが5日、関係者への取材でわかった。入札不調に終わる懸念があった二社の社債数兆円を、日本政府が買い支える計画だった。世界的な金融危機におちいる瀬戸際とはいえ、公的資金で外国の金融機関を救おうとしたことはきわめて異例で、経済的に密接不可分な日米関係の特殊性を明らかにする事実といえる」。この暴挙は、2008年9月1日の福田康夫首相の退陣表明で政府が機能不全に陥ったため、実現しなかったといわれている。急に政権を投げ出した福田康夫首相は厳しい批判に晒されたが、子ブッシュ大統領からのアフガニスタンへの自衛隊大規模派遣要求を拒絶し続けたことも考え合わせると、内閣自爆によって米国の野望を挫き国益を守った可能性が高い。それにしても、ここまで横暴な子ブッシュ大統領と蜜月関係を築き長期政権を保った小泉純一郎は、一体どれだけの日本国益を犠牲にしてアメリカに貢いだものか想像するだに恐ろしい。
- 2009年鳩山由紀夫代表・小沢一郎幹事長の民主党が総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し、戦後初めて本格的な政権交代を実現した(細川護煕・村山富市・羽田孜と続いた非自民党政権は、小沢一郎らの自民党造反で発生した亜流に過ぎない)。鳩山由紀夫は、吉田茂の従米政権と争い日ソ国交回復を果した鳩山一郎元首相の孫で、自主外交の遺志を受継いだ。民主党は選挙公約「マニフェスト」に「日米地位協定の改定を求め、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で米国と交渉する」「東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する」と明記し、鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長は組閣後直ちに従米脱却へ動いた。しかし、そもそも労組や日教組を基盤とする民主党に政権担当能力を期待するのが無理な話で、小沢一郎も内部抗争で剛腕を発揮できず、官僚組織を叩くばかりで活用術を心得ず立派なマニフェストを遂行する力は無かった。「沖縄普天間基地問題」で鳩山由紀夫首相は根回し無く「最低でも県外移設」と口を滑らせ、アメリカと野党はもちろん民主党内でも批判が噴出、県外移設断念を表明した直後に内閣支持率急落により僅か266日で辞任に追込まれた。2010年民主党代表選で菅直人が小沢一郎が担ぐ樽床伸二を破り首相に就任したが、もともと菅は市川房枝(婦人参政権運動の主導者)に連なる「闘士」であり、亀井静香が「色男、金も力もなかりけり」と揶揄したとおり、翌年起った東日本大震災および福島第一原子力発電所事故で無能を露呈し混乱を煽った挙句に政権を追われた。続く野田佳彦内閣に至って民主党政権は政権担当能力以前に松下政経塾の「政権ごっこ」に堕し小沢一郎グループ50人が離脱、2012年の総選挙で歴史的大敗を喫し自公連立の第二次安倍晋三内閣が発足した。
- 稲盛和夫は、世界的電子部品企業「京セラ」の創業者で「KDDI」創設も主導したM&A経営の泰斗だが、正体不明の「アメーバ経営」を唱え松下幸之助ばりの「盛和塾」「京都賞」に言論・財界・慈善活動で自己宣伝に励むも胡散臭さを拭えない。鹿児島の印刷屋に生れた稲盛和夫は鹿児島県立大学から京都の町工場「松風工業」に就職、3年で退職し1959年「京都セラミック」を設立した。京都には村田製作所など良き手本もあり、稲盛和夫は旺盛な「三種の神器」需要を追風に電子部品事業を拡大し1971年株式上場、「京セラ」へ改称し欧米へ販路を拡げた。電気通信事業自由化を商機と見た稲盛和夫は1985年第二電電(DDI)を設立、1997年に会長を退きDDIはKDD・IDOと合併しKDDIとなったが、筆頭株主の京セラは上場で巨利を博した。日本の米国化を予期した稲盛和夫はM&A戦略を始動、タイトー買収では業績を上げて株式上場しスクエニへの転売で大儲けした。携帯電話の勃興期を満喫する京セラにバブル崩壊は無縁で、稲盛和夫は小泉純一郎の米国化政策に乗じM&Aを加速、三田工業・東芝ケミカル・キンセキ・三洋電機・ソニーのTFT液晶ディスプレイ事業など携帯関連事業を次々傘下に加え、太陽光発電や中国市場へも手を拡げた。財界活動にも熱心な稲盛和夫は小沢一郎の民主党を支援、2010年JALが経営破綻すると鳩山由紀夫首相の肝煎りで会長に就任し(内閣特別顧問兼任)業績V字回復で2年後に再上場を果した。稲盛和夫の経営塾とノウハウ本は繁盛したが、公的資金注入の条件として労働組合に経営実態と乖離した賃金と年金の適正化を呑ませたに過ぎず、さらに京セラが再上場前のJAL株式を大量取得し膨大な評価益を稼いだインサイダー取引が露見した(不起訴)。稲盛和夫は1986年に社長を退き2009年取締役も退任、京セラでは6代も社長が代ったが同社HPには名前も載らず登場人物は創業者のみ、2015年末現在83歳の稲盛和夫は京セラに君臨し続けている。売名行為を嫌い一般には無名の村田昭、社員の貢献を綴る村田製作所のHPとは対照的で、稲盛和夫の京セラは「一将功なって万骨枯る」の観がある。
小沢一郎と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照