「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度も尼子再興軍を結成して毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将にして忠君愛国の代名詞
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山中 鹿介
1545年 〜 1578年
60点※
山中鹿介と関連人物のエピソード
- 尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。
- 尼子氏は、近江源氏佐々木氏の末流で、佐々木道誉の孫高久が所領の近江犬上郡尼子から名字を採った。出雲は鎌倉時代初期から佐々木氏の管国で、一時山名氏に奪われたが、応仁の乱後に佐々木(京極)氏が奪回し、高久の次男持久を出雲守護代に任じ月山富田城に拠らしめた。軍記物によると・・・持久を継いだ嫡子の尼子清定は、領民に対して暴悪であったばかりでなく、主家京極氏に叛逆して税収を全部横領、大軍に攻められて敗走し行方知れずのまま世を去った。清定には経久・久幸の二男があり、山深い生母の実家へ落ち延びたが、厄介者に居場所は無く、成長すると養家を出て諸国を流浪、乞食坊主に身をやつして餓死を免れつつ、復讐心と尼子家再興の意志を研ぎ澄ましたという。出雲を回復した尼子経久は、吉川経基の娘を妻に迎え、政久・国久・興久の三男をもうけた。嫡子尼子政久は、智勇に優れた頼もしい跡取りであったが、出雲磨石城攻城戦で運悪く落命、激怒した経久は次男国久に猛攻を命じ城兵悉くを誅殺し、政久の死を惜しみ遺児晴久を後継者とした。尼子国久は、月山富田城東北の新宮谷に拠って戦闘集団新宮党を率い、経久没後は尼子の柱石と頼られたが、権勢を妬む晴久が毛利元就の離間策に嵌り一族諸共殺害した。墓穴を掘った尼子晴久は完全にジリ貧となり、山陽道を制圧し山陰攻めに転じた毛利元就に追い詰められ、悲憤のうちに月山富田城で陣没した。その5年後、後継の嫡子義久が毛利氏に降伏し、(同時ではないが)山陽・山陰11ヶ国に支配を及ぼした戦国大名尼子氏は滅亡した。毛利元就は、尼子氏族滅を主張する吉川元春・小早川隆景らの強硬論を退け、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟を助命、義久は関ヶ原合戦後1292石の大禄を与えられて毛利家重臣に列した。義久には男児が無く、倫久の子元知が養嗣子となり、元知の子就易の代に本姓の佐々木に改めて幕末まで存続した。毛利家家臣の福永氏も尼子氏の末裔といわれる。山中鹿介が尼子再興軍の旗印に担ぎ出した尼子勝久は、国久と共に誅殺された嫡子誠久の五男である。
- 毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。
- 天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。
- 吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。
- 小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。
- 村上武吉は、毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩した。瀬戸内海では藤原純友のころ既に海賊が横行し、南北朝時代に襲撃免除の「帆別銭」(通行料)を確立した村上義弘は「海賊大将」と称された。多島海の芸予諸島では海難事故が頻発し水先案内人の実需も存在した。三家に分かれた村上氏は能島・来島・因島を要塞化して監視・略奪体制を整え「三島村上水軍」と恐れられたが同族間抗争で嫡流能島の村上隆勝が暗殺死、孫の武吉は大内義隆の後援を得て従兄との家督争いを制した。1555年「1日だけの味方」要請に応じた村上武吉は厳島合戦で毛利元就に加勢、村上水軍の手引きで闇夜厳島へ渡った毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅し、村上水軍は防長経略で勢力を伸ばし瀬戸内海を掌握した。1568年村上武吉は毛利氏の伊予出兵に従うが、毛利が九州侵攻に失敗すると大友宗麟に接近、1571年毛利と交戦中の宇喜多直家・浦上宗景に加勢したが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島・因島水軍も毛利に帰順、能島に孤立した武吉は降参した。顕如の籠る石山本願寺への海上輸送に任じた毛利・村上水軍は九鬼嘉隆の織田水軍を撃退するが、織田信長が大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を投入、1578年村上武吉は自ら水軍を率いて決戦を挑むが惨敗した(木津川口の戦い)。1582年信長の毛利攻めに際し来島通総が豊臣秀吉へ寝返り、武吉は来島水軍の拠点を攻落とすが毛利を降した秀吉に返還を迫られ拒絶、四国伊予攻めに率先働いた通総は伊予風早郡1万4千石の大名に栄達したが従軍を拒否した武吉は能島を奪われ小早川家へお預け、1588年海賊停止令で抵抗虚しく村上水軍は解体され、帰順を拒んだ海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされた(家船のルーツとも)。村上武吉は小早川隆景の隠居に伴い子の村上元吉・景親と共に毛利へ帰参、元吉は関ヶ原合戦で戦死し嫡子元武と景親は長州藩の船手組組頭の微職に留まった。
- 宇喜多直家は、流浪の身から有力者を次々謀殺して身代を奪い主君浦上宗景を追放して備前を乗取った悪逆無道の卑劣漢、毛利から織田に転じて備前岡山城57万4千石を保つが嫡子秀家が関ヶ原合戦に敗れ子孫は流刑地の八丈島で逼塞した。祖父宇喜多能家は浦上氏を播磨・備前・美作の領袖へ導いた勇将だったが、大物崩れで浦上村宗が討取られ尼子経久の侵攻で主家が没落するなか後継の浦上政宗に嫌われ政敵の島村盛実に殺害された。5歳の宇喜多直家は流浪の身に転落したが元服後に浦上宗景(政宗の弟)に出仕すると、毛利元就と同盟し政宗に取って代った宗景の下で勢力を伸ばし、沼城主中山信正(舅)、鷹取城主島村盛実(祖父能家の仇)、沼城主松田元輝・元賢(娘婿)、岡山城主金光崇高、龍口城主撮所元常を次々と謀殺して所領を奪い邪魔者の浦上政宗・清宗父子も始末した。主君宗景を凌ぎ備前の実権を握った宇喜多直家は、美作を争う三村家親(毛利被官で備中領袖)を鉄砲で暗殺し、1567年父の仇を討つべく備前へ来襲した三村元親を撃退し毛利氏と対峙した(明禅寺合戦。直家唯一のまともな戦功)。1569年浦上宗景・赤松義祐が播磨の赤松政秀を攻撃、織田軍が来援すると宇喜多直家は宗景に反旗を翻すが、姫路城を攻めた政秀が黒田官兵衛に逆襲され龍野城を落とされ滅亡(毒殺)、辛くも助命された直家は臥薪嘗胆で主家簒奪の機を窺った(青山・土器山の戦い)。織田信長の脅威が山陽道に及び浦上宗景と播磨の小寺政職・黒田官兵衛・別所長治・赤松広秀(政秀嫡子)らが織田に帰順すると、1575年宇喜多直家は毛利と同盟して対抗、直家憎しで織田へ奔った三村元親を討ち滅ぼし、宗景を敗走させて備前を制圧(天神山城の戦い)、宗景の嫡子浦上宗辰に娘を娶わせ偽りの和議に誘って毒殺した。が、1577年毛利討伐を決意した信長が豊臣秀吉軍団を派遣すると忽ち織田へ寝返り、娘婿の三星城主後藤勝基を毒殺して美作を制圧、三木合戦を織田軍勝利へ導いた。翌年宇喜多直家は備前岡山城で病没、嫡子宇喜多秀家は秀吉に厚遇され五大老・朝鮮役総大将に抜擢され関ヶ原合戦で西軍主力として奮戦したが敗亡、流刑地の八丈島で生涯を終えた。
- 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
- 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の生涯を閉じた。
山中鹿介と同じ時代の人物
-
戦国
織田 信長
1534年 〜 1582年
140点※
中世的慣習を徹底破壊して合理化革命を起し新兵器鉄砲を駆使して並居る強豪を打倒した戦国争覇の主人公ながら、天下統一を目前に明智光秀謀反で落命し家臣の豊臣秀吉・徳川家康に手柄を奪われた悲劇の英雄
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戦国
毛利 元就
1497年 〜 1571年
100点※
安芸の小領主の次男坊から権謀術数で勢力を拡大、息子の吉川元春・小早川隆景を両翼と頼み、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を奪取、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将
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戦国
徳川 家康
1542年 〜 1616年
100点※
旧主今川義元を討った織田信長と同盟して覇業の一翼を担い、豊臣秀吉没後秀頼を滅ぼして天下を奪取、信長の実力主義・中央独裁を捨て世襲身分制で群雄割拠を凍結し265年も時間を止めた徳川幕府の創設者
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