「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公
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山内 容堂
1827年 〜 1872年
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山内容堂と関連人物のエピソード
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 土佐藩を興した山内一豊は、父盛豊と主家(岩倉織田家)を滅ぼした織田信長に出仕し豊臣秀吉の庇護下で遠州掛川6万石に累進、妻の方が有名なくらい武勲は乏しいが、小山評定で福島正則の次に東軍参加を表明し掛川城の明渡しを申出たことで運が開け関が原合戦後に土佐20余万石へ大増封された(幕末には24万2千石)。感謝感激の山内一豊は徳川家康に「ご恩のほど子々孫々に至るまで申し伝えて、決して遺忘させません」と誓い、幕末に至るまで土佐藩は佐幕の気風を受継いだ。山内一豊は、領地の3倍増に見合う家臣を急募し浪人も多数召抱えたが、幕府を憚って長曽我部遺臣の採用を控え逆に弾圧しため大反発を招き、桂浜の相撲興行へ誘き寄せ73人を磔刑で虐殺したが火に油を注ぐ結果となった。2代藩主山内忠義の代となり執政に抜擢された野中兼山は、藩士登用を餌に原野を開放し開墾を奨励、応じた地侍の多くが「郷士」となり反抗は鎮まったが、正規藩士(上士)への配慮から身分差別を徹底し政治参加を著しく制限、郷士内に上級の「白札格」を設け分断を図った。郷士株は売買が認められ売って帰農した家は「地下浪人」と呼ばれた。後藤象二郎・板垣退助・福岡孝弟らは歴とした上士、吉田東洋と谷干城の家は長曽我部遺臣だが山内一豊に召出され上士、武市半平太は郷士で白札格へ昇格、坂本龍馬の本家才谷屋は豪商だが分家が郷士株を取得、逆に岩崎弥太郎の家は地下浪人であった。幕藩体制に虐げられ怨念を溜めた土佐郷士は幕末の尊攘運動へ飛付き、明治維新後の自由民権運動の土壌となった(土佐派)。一方、「四賢侯」に数えられた山内容堂と執政の吉田東洋は開明的で学識豊富ながら佐幕的公武合体論の枠に捕われ過激な尊攘思想を毛嫌いした。山内容堂・後藤象二郎(東洋の甥)は、武市半平太を殺し土佐勤皇党を根絶して吉田東洋暗殺に報いたが自ら中央政局への手蔓を絶ち、大慌てで脱藩浪士の坂本竜馬や中岡新太郎に接近して大政奉還建白の功を浚い徳川家の辞官納地に反対するも薩長は無視、板垣退助が独断で戊辰戦争に参戦し辛うじて「薩長土肥」の末席に滑り込んだ。
- 山内容堂は、佐幕的公武合体から逸脱した武市半平太ら土佐勤皇党の暴走と京都での天誅騒ぎに不快感を募らせ、恩人で腹心の吉田東洋を殺した恨みも忘れていなかった。そんな折に青蓮院宮が平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太に藩政改革を促す令旨を与えた一件を軽率にも暴露し山内容堂は土佐勤皇党の粛清を決断、土佐へ戻った容堂は、平井ら3人を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し、武市半平太を京都から呼戻して獄に繋ぎ厳しく尋問した。武市の身を案じる久坂玄瑞は長州藩への亡命を勧めたが、武市は断り「挙藩勤皇」の初志を貫徹するため従容と帰国の途についた。盗賊に落ちぶれ武士の誇りを失った岡田以蔵は拷問に怯え自供したが、武市半平太らは結束し断固否認を続けたため吉田東洋暗殺の罪状を明らかにすることはできなかった。業を煮やした山内容堂は「主君に対する不敬行為」という曖昧な罪を押し着せ断罪、武市半平太を切腹・岡田以蔵ら4名を斬首・9名を永牢に処した。武市半平太は三度腹を切り裂く「三文字割腹法」で見事な最期を遂げた。生残った志士らもほとんどが土佐藩を脱藩し土佐勤皇党は壊滅、武市半平太が志した「挙藩勤皇」の夢は費え去り、自ら薩長への手蔓を絶った土佐藩は時流に取り残された。
- 大酒呑みの山内容堂は「鯨海酔候」と自称し豪傑を気取ったが、アルコール中毒症が疑われ重度の歯槽膿漏も患っていた。そのためか、根気と集中力を欠き、体調不良を理由に重要な会議にも欠席しがちで、気に入らないと物事を投出す場面が多々あった。四候会議の根回しで高知を訪れた西郷隆盛は、山内容堂から上洛の承諾を得るも「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」を懸念し、シラフの容堂が「此度は東山の土となるつもりぞ」と決意表明したことを福岡孝悌から聞いてから高知を去り伊達宗城を説くため宇和島へ向かった。大恩ある徳川家の運命を決した小御所会議(最初の三職会議)は山内容堂の一世一代の見せ場であったが、「鯨海酔候」はこの日も泥酔状態で遅参したうえ大声で喚き散らす醜態を演じ「2、3の公卿が幼沖の天子を擁し権威を恣にしようとしている」との失言(事実だが)を岩倉具視に叱責され沈黙、松平春嶽も徳川慶喜の出席要請を断念した。山内容堂は徳川慶喜が目論む「徳川宗家を中心とする列候会議」(徳川家を盟主とする大名共和制)を代弁したが無視され、西郷隆盛の「ただ、ひと匕首あるのみ」(慶喜1人を殺せば片付く簡単なことだ)という気迫が議場を制し、後藤象二郎は大久保利通に丸め込まれ、薩摩藩の思惑通り徳川慶喜の辞官納地が決議された。最初の難関を突破した西郷隆盛と大久保利通は武力討幕へ邁進、幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し「朝敵」徳川慶喜を討つ大義名分を獲得した。
- 山内容堂は下級武士出身者が多い明治政府を嫌い官職を退いたが(ただ木戸孝允とは仲が良くしばしば自邸に招いて時勢を論じた)、隠居生活に入っても豪奢は変わらず、東京箱崎の旧田安家別邸を買取って本宅とし、橋場の別宅には十数人の妾を囲い死ぬまで酒池肉林の生活を続けた。
- ペリー来航後、和親条約の是非を巡って幕閣と世論は攘夷派と開国派の真二つに割れた。攘夷派の急先鋒は水戸藩の徳川斉昭であり、雄藩連合による公武合体を目指す四賢候(薩摩藩主島津斉彬・福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂)らが斉昭を支持し、老中首座安倍正弘が譜代諸侯との調整に努めた。ただし、単純に外国人を打払えというような「小攘夷」ではなく、外圧による和親条約締結は拒否したうえで洋式軍備を整え、富国強兵を推進して国威を発揚し、西洋列強に立ち向かうべきとする「大攘夷」が四賢候ら開明派の主張であった。そうした政策を推進するため、慶喜将軍を擁立し、従来譜代大名が独占してきた幕閣に春嶽を送込み雄藩連合への道を開くことを当面の政治目標とした。一方、井伊直弼を筆頭とする譜代諸侯の多くは、従来どおりの譜代諸侯による幕政運営に固執し、政治的に対立する立場から開国政策を主張した。さらに、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題が両派の対立に拍車をかけ、前者は斉昭の実子で優秀と目されていた徳川慶喜を推す一橋派を形成し、後者は血縁重視で徳川家茂を推す南紀派となって、激しく主導権を争った。
- 13代将軍徳川家定に子供がなかったため、幕閣・諸侯を巻込んだ将軍継嗣問題が起った。家定との血縁の近さを理由に紀州藩主徳川家茂を推す南紀派と、12歳の家茂よりも英邁といわれた徳川慶喜をたてようとする一橋派が激しく対立した。南紀派は守旧派の譜代大名グループで譜代筆頭彦根藩主井伊直弼が主導し、会津藩主松平容保・佐賀藩主鍋島直正や大奥が強力に後押しした。一橋派は、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に、松平春嶽・島津斉彬・伊達宗城・山内容堂の四賢候、尾張藩主松平慶勝らが与した。四賢候は雄藩連合による公武合体を目指すグループで、将軍継嗣問題をその実現のための手段と考え、活発に運動した。しかし、長野主膳の謀略によって井伊直弼が大老に就任し強権を発動して電撃的に徳川家茂の将軍就任を断行、徳川斉昭の女漁りを毛嫌いする大奥の協力で徳川家定の言質をとったのが決定打となった。徳川家定は精神障害者で男性機能がなく美男子の徳川慶喜に嫉妬し嫌っていたといい、家定に篤姫を入輿させた薩摩藩主島津斉彬の策謀は失敗に終わった。
- 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
- 島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
- 松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
- 徳川斉昭は、会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵した。会沢正志斎らに感化され「水戸学派」「天狗党」の奔走で水戸藩主に就任した徳川斉昭は、門閥重臣や守旧派「諸生党」と死闘を演じつつ幕政に乗込み洋式軍備導入と藩政改革を推進したが、諸生党の幕閣工作で隠居を迫られ嫡子の徳川慶篤に家督を譲った。が、老中安倍正弘に取入った徳川斉昭は、諸生党首領の結城朝道を失脚させ政界に復帰、ペリー艦隊が来航すると「四賢候」と共に「攘夷の後に洋式軍備を整え開国すべし」という「大攘夷」の論陣を張り幕政を牛耳る井伊直弼ら譜代大名と対立、幕府海防参与に就任し大砲74門や洋式帆船「旭日丸」を献上した。生殖能力の無い徳川家定が13代将軍に就任すると、徳川斉昭と四賢候は一橋家に入嗣し将軍資格のある徳川慶喜の擁立を図りつつ開国政策を非難し安政五ヶ国条約の「破約攘夷」を主張(一橋派)、血縁重視で紀州藩主徳川家茂を推す井伊直弼らと対立した(南紀派)。徳川斉昭は、南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭させ宿敵の結城朝道を死罪に処したが、安政の大地震でブレーンの藤田東湖を喪い後ろ盾の阿部正弘も過労死、非常職の大老に就いた井伊直弼は条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を断行し安政の大獄を発動した。薩摩藩主の島津斉彬が井伊打倒を掲げ率兵上洛を宣言するも突然死、「戊午の密勅事件」で強硬化した井伊直弼は江戸城に無断登城した徳川斉昭・慶喜を蟄居に処し松平春嶽・徳川慶勝の藩主職を剥奪、橋本佐内・梅田雲浜・吉田松陰ら尊攘派志士も殺され一橋派は壊滅した。徳川斉昭の意を受けた水戸天狗党の関鉄之助らが江戸城桜田門外で井伊直弼を殺害、全国の尊攘運動は勢いを増したが、逆に水戸藩では諸生党が実権を握り失意の徳川斉昭は急逝、追詰められた武田耕雲斎らが4年後に天狗党の乱を引起し水戸藩は完全に幕末政局から脱落した。
- 2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」編纂事業は幕末まで連綿と受継がれ、「水戸学」は修史局「彰考館」から全国へ伝播し幕末「尊皇攘夷」の行動原理となった。藤田幽谷は、水戸城下の古着商の子ながら学問に優れ水戸藩に出仕、師の立原翠軒より彰考館総裁を承継し、私塾「青藍舎」に会沢正志斎・藤田東湖(幽谷次男)・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら多くの門人を擁し水戸学の藩外普及活動を推進した。彰考館総裁を継いだ会沢正志斎は、7代藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を教化し、尊王攘夷思想を理論的に体系化した「新論」を8代藩主徳川斉脩に上呈、内容が過激なため出版はされなかったが、「水戸学派」の奔走で藩主に就いた徳川斉昭は会沢を藩校弘道館の初代教授頭取に迎え筆写版「新論」は全国へ広がり尊攘派志士の必読書となった。藤田東湖は、徳川斉昭の側近として藩政改革と一橋派の尊攘運動を牽引した。が、日本全国を襲った安政の大地震で江戸小石川の水戸藩邸も崩落、藤田東湖は一旦脱出するも母親の救出に戻り梁の落下で圧し潰され儒学が最上とする孝に殉じた。藤田東湖は水戸学・尊皇攘夷のイデオローグにして西郷隆盛や橋本左内も薫陶した全国志士の領袖的人物、謀臣を失った徳川斉昭の政治力は致命的打撃を受け、天狗党は支柱を喪い水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向う一大転機となった。藤田東湖・戸田忠太夫と共に「水戸の三田」と称された武田耕雲斎は、徳川斉昭の死に伴い失脚、追詰められた藤田小四郎(東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵すると止む無く首領に担がれた。天狗党は、徳川慶喜の水戸藩主擁立を目的に掲げ慶喜の意に反し横浜開港を進める幕府を諌めるべく800人で決起、京都へ向け中山道を進軍し美濃鵜沼宿で街道封鎖に遭い北路をとったが、黒幕の慶喜が裏切り追討軍に加わるに至って敦賀で幕府軍に投降、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬首された。水戸藩は佐幕派諸生党の天下となり尊攘運動は壊滅、徳川慶喜の横浜鎖港運動も頓挫した。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 水戸藩主には江戸常府が義務付けられ公子は江戸藩邸で養育されるのが通例であったが、享楽的な江戸の風俗に馴染ませたくないという徳川斉昭の配慮により徳川慶喜は一橋家に入るまでのほとんどの期間を水戸で養育された。徳川斉昭自身は10人の江戸で妻妾を侍らし享楽生活を送ったが、息子には厳しかったようである。徳川慶喜は、父の徳川斉昭と同じく会沢正志斎ら水戸学の権威に薫陶され、少年期から英才を謳われ将来を嘱望された。12代将軍徳川家慶は、徳川慶喜に目を掛け偏諱を賜い、病弱な嫡子の徳川家定よりも優秀な慶喜を世子に立てようとしたが老中安倍正弘の諫止で思い止まったという。徳川慶喜は将軍家慶の計いで嗣子の無い一橋昌丸に入入嗣した。一橋家は田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つである。御三卿は、8代将軍徳川吉宗が自分の血統で将軍を独占するために立てた家で、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)に次いで将軍を出す資格があるとされた。さて、13代将軍となった徳川家定は、精神薄弱児ながら徳川慶喜に嫉妬し、大奥に促されて徳川家茂を将軍継嗣にすると述べたといい(真偽不明)、将軍の言質を得た大老井伊直弼は徳川家茂の14代将軍就任を強行した。
- 安倍正弘の急死により一橋派は幕閣における後ろ盾を喪い、南紀派に勢力が傾いて井伊直弼の暴走を招いた。ただ、南紀派と目された老中首座の堀田正睦は一橋派の松平春嶽を大老に推挙したとされる。堀田正睦は安倍正弘の後継として両派の調整を企図していたと思われ、井伊直弼は大老就任後すぐに堀田を閣外へ追出し、徳川家茂の将軍擁立と列強との修好通商条約調印を強行した。松平春嶽は将軍徳川家定の拒絶で老中に就けず一橋派は南紀派に惨敗したが、春嶽は家定を「凡庸の中でも最も下等」とか「イモ公方(家定はお菓子作りが好き自ら芋を煮て食べていた)」などと吹聴し嫌われていたという。
- 井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。
- 「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。
- 安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。
- 大老井伊直弼は水戸藩に戊午の密勅の返納を強要、水戸天狗党は猛反対したが、藩主徳川慶篤は父の徳川斉昭の承認を得て従った。が、このとき幕閣が水戸藩の改易に言及したため天狗党は激昂し大老井伊直弼の暗殺を決意(徳川斉昭が直接指示を下し愛蔵の象嵌細工の鉄砲を授け、この鉄砲が致命弾を放ったともいわれる)、関鉄之助が指揮する水戸脱藩浪士に薩摩藩の有村雄助・次左衛門兄弟が加わり江戸城桜田門外で登城前の大老井伊直弼を斬殺した(桜田門外の変)。この一挙により幕府は融和路線に転じ全国の尊攘派志士は一層発奮、薩長など雄藩の中央政局復帰への道も開かれた。しかし襲撃犯を出した水戸藩では佐幕派の諸生党が力を得て尊攘派の天狗党が退潮するという皮肉な結果となった。
- 大老井伊直弼の登場で将軍継嗣問題に敗れた一橋派の公武合体運動であったが、井伊の死によって再び息を吹き返した。島津斉彬の遺志を継いだ島津久光が率兵江戸に乗込んで幕閣を脅し上げ、幕政改革を強行した。久光は幕府に、雄藩連合による公武合体路線を認めさせ、将軍徳川家茂の上洛を強要し、徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職にねじ込んだ。幕府の実権は慶喜が握り、ここから幕末へ至る幕府の政策は概ね慶喜の意図による。
- 島津久光のクーデターによって幕政を掌握した徳川慶喜であったが、久光との主導権争いが発生し四賢候も慶喜の独断専行に反感を募らせた。こうしたなか1863年に雄藩連合・公武合体運動の結実ともいえる参預会議が開かれたが、横浜鎖港問題を巡って慶喜と久光が対立、慶喜が横浜鎖港を強行しようとしたことで参預会議は瓦解した。この後、慶喜は江戸へ戻らず禁裏御守衛総督として京都に留まり政局を独占(一会桑政権)、禁門の変、長州征討を主導していく。
- 松下嘉兵衛は、家禄3千石の交代寄合衆(大名待遇の上級旗本)で山内家から分家同様の扱いをされた大物であった。江戸藩邸での酒宴の席、酩酊した松下嘉兵衛が吉田東洋を呼捨てにし頭を撫でてからかった。吉田東洋は抗議したが松下は調子に乗るばかり、相当酒が入っていた吉田は「無礼!」と叫ぶと続けざまに松下を殴りつけた。土佐藩主の山内容堂もさすがに庇い切れず、翌日土佐へ召還された吉田東洋は免職・格式没収のうえ城下と周辺四ヶ村への立入りを禁止され知行も50石削られ残る150石は嫡子の吉田正春に譲らされた。が、長浜に蟄居した吉田東洋は屈することなく研鑽を積み、藩庁に黙って少林塾を開き少年教育に勤しんだ。少林塾門人の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らは、藩政に復帰した吉田東洋の引立てで子飼官僚「新おこぜ組」の中核となり、吉田没後の土佐藩政を担った。後藤象二郎は吉田東洋の義理甥で、板垣退助とは竹馬の友であった。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 武市半平太(瑞山)は、剣術道場主から久坂玄瑞に啓発され「土佐勤皇党」を結成、吉田東洋暗殺で藩政を握り長州藩と連携して「破約攘夷」運動を牽引したが下克上を嫌う山内容堂に誅殺され土佐藩は中央政局から脱落した。文武両道の達人で謹厳実直、大柄で威厳も備えた武市半平太は、吉田松陰と西郷隆盛を兼ねたような絶対的存在だったが、「挙藩勤皇」に固執し大業を成す前に不肖の主君に殺された。白札格郷士の武市半平太は剣術家を志し21歳で高知城下の麻田直養に入門、皆伝を授かって剣術道場を開業し、江戸遊学を許され「江戸四大道場」の士学館に入門するとすぐに皆伝を授かり塾頭に任じられた。高知の武市道場は100人を超える門人で賑わい中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕も名を連ねた。武市半平太は、30歳過ぎまで勤王家の田舎道場主に過ぎなかったが、桜田門外の変で尊攘運動が沸立つと藩庁に願出て江戸へ出向し薩長の志士と交流、長州藩の久坂玄瑞に感化された。土佐へ戻った武市半平太は、門人を母体に「土佐勤皇党」を結成し、薩長土三藩主上洛の盟を果たすべく「破約攘夷」への藩論転換に奔走したが、執政の吉田東洋は「下級藩士や浪人共の騒動」と相手にせず、連絡係の坂本龍馬がもたらす久坂情報に焦った武市は吉田暗殺を決行した。吉田の専断を憎む重臣連を抱込み軽格ながら藩政を握った武市半平太は、晴れて京都政界へ乗出し久坂玄瑞の長州藩に合流、和宮降嫁を弾劾して岩倉具視を隠遁させ、将軍上洛と攘夷決行を促す勅旨を得て長州藩世子毛利定広の江戸下向に随い、岡田以蔵や田中新兵衛を操って天誅騒動を巻起し、攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を得て土佐藩主山内豊範の江戸下向を差配し、将軍徳川家茂の初上洛を実現させ攘夷決行の約束をとった。が、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の山内容堂は、郷士の台頭を嫌悪し土佐勤皇党の粛清を断行、佐幕派追放を図った平井収二郎・間崎哲馬を切腹させ、武市派の重臣を更迭し後藤象二郎(吉田の甥)を執政に据えて吉田暗殺犯の捜索を蒸返し武市半平太を投獄、禁門の変で長州藩の尊攘運動が瓦解すると武市に「不敬罪」を着せ切腹させた。
- 武市半平太は、「身長六尺(182cm)、鼻高く、あご長く、眼中に異彩があり、顔面蒼白、深沈で喜怒色にあらわさず、音吐高朗、見るからに人に長たる威厳があった」と評された偉丈夫で、性格は超真面目・謹厳実直・誠実の極みでほとんど笑ったことがなかったという。その威徳は薩摩藩の西郷隆盛と並び称され、土佐藩の志士は皆「オラ」「オンシ」と気さくに呼び合ったが武市半平太にだけは「先生」をつけたといい、ただ親友で土佐勤皇党の副首領格である坂本龍馬とは「アザ」(坂本は顔に数点のほくろがあった)「アゴ」(武市はアゴが長かった)と砕けた調子で親しんだ。そんな武市半平太だが幼時より絵心があり、徳弘董斎から南画・弘瀬友竹から和画を学び、武市が描いた巧みな文人画や美人画が現存する。また義太夫が上手だったというが、妻の富子によると「下手の骨頂」で真相は不明である。武市半平太をモデルにしたといわれる行友李風の戯曲『月形半平太』は、1919年の初公演以来大人気を博して映画化され「春雨じゃ、濡れてまいろう」の台詞で親しまれた。「月形」の方は福岡藩尊攘派(首領は平野国臣)の月形洗蔵からとったものと考えられる。
- 坂本龍馬は、土佐藩を脱藩して勝海舟に師事するが神戸海軍操練所の閉鎖に伴い薩摩藩の庇護下に入り亀山社中・薩長同盟に貢献、土佐藩に戻って大政奉還を差配し「世界の海援隊」を夢見たが暗殺された幕末一の人気者である。土佐藩郷士の次男で、18歳で江戸へ出て桶町千葉道場に入門し塾頭に進んだが、ペリー来航で尊攘運動に目覚め、武市半平太の土佐勤皇党に副首領格で加盟し久坂玄瑞への使者を務めた。吉田東洋暗殺で武市半平太は土佐藩政を握ったが、坂本龍馬は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂に絶望し島津久光の率兵上洛を機に脱藩、江戸の千葉道場に寄寓した。坂本龍馬は、脱藩浪士ながら政治総裁職の松平春嶽に拝謁し幕府軍艦奉行の勝海舟に入門、勝の口利で脱藩を赦され「神戸海軍塾」に同志を呼集めた。幕府は勝海舟に神戸海軍操練所の設立を許したが、塾生が池田屋事件・禁門の変に加わったため1年で廃止され勝は罷免された。土佐藩では山内容堂が武市半平太を誅殺し土佐勤皇党は壊滅、召還を拒否した坂本龍馬は再び脱藩の身となり、勝は坂本らを薩摩藩の小松帯刀に託し江戸へ去った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となったが、薩摩藩は西郷隆盛の宥和路線により出兵を拒絶し、長州藩の武器輸入を援けるためダミー会社「亀山社中」を設立し坂本龍馬に実務を委託、さらに坂本と黒田清隆を長州へ送って和解工作を進め薩長同盟を締結した。伏見寺田屋で幕吏に襲われ重傷を負った坂本龍馬は鹿児島へ逗留した後、ユニオン号で馬関へ乗込み小倉渡海作戦に参加したが、長州藩勝利で亀山社中は役割を終えた。一方、長州藩の圧勝に慌てるも薩長に知己の無い土佐藩は、坂本龍馬・中岡慎太郎を懐柔し海援隊・陸援隊を提供、坂本は「船中八策」で後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩土同盟で薩摩藩と協調、徳川慶喜は大政奉還に踏切ったが、武力討幕を期す薩摩藩は慶喜に辞官納地を強制し戊辰戦争に引きずり込んだ。開戦前夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は京都近江屋で見廻組に襲われ横死、海援隊は分裂解消したが商社機能は岩崎弥太郎の三菱へ志は陸奥宗光へ受継がれた。
- 坂本龍馬は、勝海舟に学んだ航海術と周旋の才を武器に幕臣や諸藩の志士と交流し、薩摩藩のエージェントとして薩長同盟の成立に貢献した。ただ、龍馬ファンには耳障りだろうが、薩長同盟と「裏書」のほかに大きな政治的貢献はなく、それとて主役は西郷隆盛・大久保利通と木戸孝允・高杉晋作であり、周旋の労は長州藩で重きをなした中岡慎太郎の方が大きかった。亀山社中は薩摩藩が長州藩に武器輸入の便宜を図るために設けたダミー会社、土佐海援隊は土佐藩による懐柔策である。本来政治活動家である坂本龍馬らの操船技術と商才は怪しいもので、「ワイル・ウエフ号」「いろは丸」を海難事故で失い、両社とも経営は火の車で海援隊の世話を押付けられた岩崎弥太郎は大いに苦労した。坂本龍馬は、土佐藩執政の後藤象二郎に大政奉還建白を促し薩長志士に周旋して土佐藩の中央政局復帰に貢献したが、大政奉還論は坂本龍馬のオリジナルではなく幕臣の勝海舟や大久保一翁すら主張した時流であり、戊辰戦争勃発で薩長の機先をかわす効果も得られなかった。「船中八策」は中央情勢に疎い後藤象二郎ら土佐藩士には画期的だったろうが、民主主義の元祖である横井小楠ら福井藩士や進歩派知識人が共有していた政治思想の域を出ず、さらに作成者は海援隊士の長岡健吉とされる。坂本龍馬が有名になったのは、田中光顕と司馬遼太郎のお陰である。日露戦争開戦前夜、美子皇后の枕頭に白装束の武人が立ち自分が日本海軍を守護すると言った。不思議に思った皇后が宮内大臣の田中光顕に語り、それは坂本龍馬に違いないということになった。田中光顕は、土佐勤皇党から中岡慎太郎に随身して陸援隊の幹部となり、明治政府で土佐人の佐々木高行・土方久元と共に宮廷政治を主宰した人物。薩長の専横に対抗するため坂本龍馬を持ち出したと思われ、皇后の夢が「陸軍人」なら兄貴分の中岡慎太郎に代わっていただろう。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の作者で、過剰な感情移入により坂本龍馬を幕末の主人公に仕立て上げた。
- 中岡慎太郎は、武市半平太の「土佐勤皇党」から長州藩尊攘派に合流し浪士群を率いて高杉晋作の功山寺挙兵や薩長同盟に大活躍、薩土密約と陸援隊で武力討幕に備えたが戊辰戦争直前に暗殺された幕末浪士随一の殊勲者である。遺志を継いだ板垣退助が独断参戦して薩土密約を果し土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。中岡慎太郎は、北川郷の大庄屋の嫡子ながら17歳で武市半平太の尊攘運動に身を投じ、長州藩の久坂玄瑞と共に「破約攘夷」を牽引する武市が山内容堂・豊範の江戸下向を実現させると、発奮した中岡は「五十人組」を率いて江戸へ突出、長州藩士との出会いを果し帰路は久坂に随行したが、間もなく八月十八日政変が起り破約攘夷運動は瓦解した。土佐へ戻った中岡慎太郎は「酔えば勤皇・覚めれば佐幕」の山内容堂を見限り脱藩、三条実美ら七卿の在す周防三田尻へ参じて真木和泉の「招賢閣」浪士に身を投じ、上洛出兵を扇動し来島又兵衛の遊撃隊に従い奮闘したが長州藩は大敗し真木・久坂らが戦死した(禁門の変)。中岡慎太郎は、京都に潜伏し高杉晋作から受継いだ島津久光襲撃の機を窺うも果たせず三田尻へ帰還、征長軍全権の西郷隆盛と協力し大宰府への「五卿遷座」を遂行した。そして高杉晋作の功山寺決起、応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであったが、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦し長州藩軍を撃破、高杉は政権奪回を果し木戸孝允が執政に座った。徳川慶喜が第二次長州征討を号令すると長州藩では薩長和解が生存課題となり、中岡慎太郎は京都・鹿児島を奔走し西郷隆盛に木戸孝允との下関会談を了承させるも急遽取止め、中岡は坂本龍馬と共に憤慨する長州藩士を宥め再び上京して西郷を口説き、高杉晋作・井上馨が渋る木戸を上京させ薩長同盟が実現した。長州藩が四境戦争に勝利すると、慌てた土佐藩は中岡慎太郎と坂本龍馬を懐柔、後藤象二郎は坂本が勧めた大政奉還建白で面目を施した。武力討幕を志す中岡慎太郎は、西郷隆盛と板垣退助の薩土密約を斡旋し京都土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を発足させたが、京都近江屋で見廻組に襲われ坂本と共に斬殺された。
- 中岡慎太郎は、17歳で武市半平太の剣術道場に入門し土佐勤皇党へ加盟、若輩で庶民の出自(大庄屋の豪農だが)ながら頭角を現し、脱藩後は長州藩に参集した浪士団に加わり大物志士の真木和泉・宮部鼎蔵らと肩を並べた。八月十八日政変・七卿落ち後の長州藩で浪士団は隠然たる勢力を占め過激路線を牽引、中岡慎太郎は禁門の変や馬関戦争で実戦を闘い、第二次長州征討では三条実美ら五卿の座す大宰府を拠点に西郷従道や吉井友実と連絡し長州藩の苦戦に備え薩摩藩の援軍工作に任じた。配下の田中光顕は高杉晋作の「丙寅丸」に同乗して大島海戦を戦い小倉城攻撃でも武功を挙げている。中岡慎太郎の最大の功績は、高杉晋作の功山寺挙兵に率先加わったことだろう。後に解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が参戦したが、当初決起に応じたのは中岡慎太郎の遊撃隊60人と伊藤博文の力士隊30人のみであった。藩政奪回の功労者となった中岡慎太郎は、木戸孝允・高杉晋作に薩長和解を説いて「薩賊会奸」を忘れさせ、土佐浪士という中立的立場を活かして西郷隆盛の懐に飛込み薩長同盟の周旋役を果した。薩長和解自体は時代の要請だが、この時機を逃すと第二次長州征討で長州藩が敗北し歴史が変わったかも知れない。その後の中岡慎太郎は、乗遅れた土佐藩を中央政局へ導いて薩長陣営(武力討幕勢力)への抱込みを図り、板垣退助を啓発して薩土密約を結ばせ、京都土佐藩邸に浪士を集め討幕戦に備えた(陸援隊)。なお、薩長同盟といえば坂本龍馬が有名だが、坂本はもともと勝海舟の子分で、神戸海軍操練所の閉鎖に伴い勝が薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀に坂本ら門人の庇護を頼んだのが事の起りで、亀山社中は長州藩への輸入武器供与のために薩摩藩が設けたダミー会社であった。自由闊達な坂本龍馬は土佐藩に金を出させて世界の海援隊を志したが、薩摩藩での重みは長州藩における中岡慎太郎とは全く異なった。
- 江戸で薩長の志士と交流し長州藩尊攘派を率いる久坂玄瑞に感化された武市半平太は、土佐藩も薩長に負けず挙藩体制で尊攘運動に乗出すべく門人らを糾合して「土佐勤皇党」を結党した。武市半平太が首領、坂本龍馬が副首領格で、大石弥太郎・間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村寅太郎・那須信吾・田中光顕・土方久元・岡田以蔵らが名を連ね最終的に192人が加盟したが、上士は2人だけで他は郷士以下の身分だった。土佐勤皇党の絶対的領袖である武市半平太は、志士の間で久坂玄瑞を最も尊敬し、遅れて中央政局に出た土佐藩は長州藩の「破約攘夷」「草莽崛起」運動に追随し京都に「天誅」旋風を巻起すなど最も過激に活動した。久坂が武市へ宛てた手紙には(坂本龍馬が両雄の連絡役を務めた)、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」が明記されている・・・「諸侯たのむに足らず、公卿もたのむに足らず、草莽の志士を糾合して義挙のほかに道はないと、私共話し合っています。失礼ながら貴藩も幣藩も滅亡しようと、大義が生かされれば苦しからず、両藩生きながらえても、大義が貫かれなくては無意味だと、友人たち話しています。」。武市半平太と久坂玄瑞の運動は、江戸幕府への勅使派遣で最高潮を迎えたが、八月十八日政変で一夜にして瓦解、自藩に退いた両名は失地回復かなわず共に非業の死を遂げた。
- 薩長の動きに追いつこうと焦る武市半平太は、藩主山内豊範の参勤交代出立に際し遂に挙藩勤皇を阻む吉田東洋の暗殺を決断した。武市は、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3人を刺客に定めて隙を探らせ、重臣の山内民部に暗殺計画を告げて挙行後の対処を依頼、東洋が藩主に『日本外史』の講義をした帰路を襲うことに決し那須らを差し向けた。暗殺現場は凄惨であった。真暗な闇夜で、東洋が城を退出したのは10時過ぎ、供をしていた甥の後藤象二郎と別れた後、帯屋町の自宅付近で那須が後ろから切りつけた。吉田は持っていた傘を投げつけ「不届き者!」と連呼しながら猛然と反撃したが、安岡の背後からの一刀が致命傷となり「無念!」と一声あげて斃れた。那須らは吉田の首級を河野万寿弥ら同志に渡し、脱走して周防三田尻に向かった。吉田の首級は高知西部の雁切河原の高札場に斬姦状をつけて晒された。犯行後、新おこぜ組(後藤象二郎・板垣退助など)ら東洋派と土佐勤皇党は一触即発の事態となったが、吉田の専断を憎む山内民部ら重臣の多くが武市を支持し東洋派を一掃、武市が白札郷士小頭の卑職ながら土佐藩政を掌握することとなった。吉田家は家名取潰しとなり、暗殺事件は不問にふされた。
- 吉田東洋を暗殺した武市半平太は重職連を懐柔し後藤象二郎ら「新おこぜ組」を排斥したが、身分の低い岩崎弥太郎は連座を免れ下横目に補され吉田暗殺犯の捜索を命じられた。軽輩揃いの土佐勤皇党の捜査に同じ郷士をもってあたらせるという岡引き式の追捕策であった。岩崎弥太郎は藩主山内豊範の随員に加えられ上方へ上ったが、端から気乗り薄で故意か偶然かミスを犯し土佐へ召還された。同役で熱心に職務を遂行した井上佐市郎は、中岡慎太郎らの襲撃をかわすも大阪で岡田以蔵の一味に捕まり絞殺、筆舌に出来ないほど無残な方法で死骸を晒された。危うく難を逃れた岩崎弥太郎は、藩職を辞して井ノ口村へ戻り猛然と農業に励んだ。安芸川の両岸に広がる荒野を開墾し、綿栽培を興し、林業と薪炭製業を企画して山林を取得、帰国3年後に長男の岩崎久弥が誕生する頃には貧乏だった岩崎家は富豪となっていた。
- 薩摩藩・長州藩・土佐藩が参集した京都は尊攘派志士のルツボとなり「天誅」と称して開国主義者や公武合体派を殺傷する事件が頻発、なかでも薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎・熊本藩の河上彦斎・土佐藩の岡田以蔵の四人は「人斬り」と呼ばれ恐怖の対象となった。岡田以蔵と田中新兵衛は武市半平太の影響下にあり(岡田は子分で田中は義兄弟)、武市は「攘夷の元締め」「暗殺問屋」と恐れられ暗殺を依頼する公家もあったという。田中新兵衛は長州系公卿の姉小路公知の暗殺嫌疑を掛けられ割腹自殺(朔平門外の変)、中村半次郎(桐野利秋)は薩摩「私学校党」の主戦派で西郷隆盛と共に西南戦争で戦死、佐久間象山を斬殺した河上彦斎は明治政府に反抗し斬刑に処された。岡田以蔵は、高知城下の麻田直養の剣術道場で武市半平太と出会い武市道場へ移籍、足軽の出自を蔑まない武市の信奉者となり土佐勤皇党に加盟した。武市半平太は岡田以蔵の激しく敏捷な剣法を評価し、岡田は志士仲間に認められたい一心で田中新兵衛と競うように暗殺を繰返した。武市半平太が山内容堂に召還されると、袂を別ち京都に残った岡田以蔵は単なる狂犬となり、遊郭に入浸りで身を持崩し、坂本龍馬ら同志からも見放され(岡田は坂本の依頼で勝海舟の用心棒を務めた)、遂に盗賊に落ちぶれて強盗を犯し幕吏に逮捕された。土佐藩へ送還された岡田以蔵は、志士時代に追い求めた「武士の誇り」の欠片もなく、拷問に怯えて武市半平太と土佐勤皇党の所業を洗いざらい自白したのち「無宿人以蔵」として斬首された。
- 武市半平太の土佐藩と久坂玄瑞・木戸孝允の長州藩が連携して朝廷に工作し攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使を得て江戸の幕府へ派遣した。正使三条実美・副使姉小路公知を奉じ、土佐藩主山内豊範が警護役として兵数百人を率いて江戸に入り、幕府に破約攘夷の早期実行と京都警護の御親兵提供を迫った。破約攘夷は誤魔化したが幕閣は丁重に対応し、、御親兵提供については実施を約束した。これを受けて京都守護職に任じられた会津藩主松平容保が藩兵と新撰組を擁して京都に駐留し志士狩りを断行、尊攘派は自ら宿敵を呼込む最も皮肉な結果となった。
- 第二次長州征討を前に長州藩が生残る道は薩長同盟しかなかったが、政府首脳の木戸孝允は禁門の変の恨み「薩賊会奸」に感情を捕われ西郷隆盛が下関会談を反故にし面子を潰された一件を言い募り上洛を逡巡した。現実的な高杉晋作は「薩摩の芋が何を」と言いつつも藩論を薩長和解に纏め、長州藩主毛利敬親に受けの良い井上馨の奔走で藩命を取付け、高杉を代役に立てようとする木戸に対し「木戸さん1人が殺されても長州藩は問題ない」と突撥ね背中を押した。会津藩兵・新撰組が厳重に警護する京都に潜入した木戸孝允は、京都の小松帯刀邸で西郷隆盛・小松帯刀と会談し軍事同盟たる薩長同盟を締結した(攻守同盟だが第二次長州征討について薩摩藩は表面上中立を保ち後方支援に留める)。土佐浪士の坂本龍馬は薩摩方・中岡慎太郎は長州方として両藩の斡旋に奔走、薩長同盟の場に同席した坂本は木戸の要請で約定書に裏書した。浪人で薩摩方の坂本に担保力は無く、非命に散った武市半平太や吉村寅太郎に報いるためか、土佐藩の参加を含んだものと考えられる。実際この直後に土佐藩は、中岡慎太郎の斡旋で板垣退助・谷干城が薩土密約を、坂本龍馬の仲介で後藤象二郎が薩土同盟を結んでいる。薩土同盟は大政奉還と共に無視されたが、板垣退助は独断で戊辰戦争に賛成し薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の末座に滑り込んだ。中岡慎太郎は三条実美ら五卿の世話を焼くため大宰府に行っており会盟の場面に立会えなかったが、同志の福岡藩士早川勇曰く・・・「薩長和解は、坂本龍馬が仕遂げたというても過言でないが、私は内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う。中岡は、高杉がまだ長州藩の内訌を回復せぬ前、四境には兵がかこんでおり、ことに遊撃隊に身をおいてその苦心は一方ならぬものがあった。坂本は私どもが五卿を迎えて国にかえった後に長州に来た人であるから、どれだけの功労があったか知らぬが、私は中岡の功労はよく知っている」。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 第二次長州征討の最中に大阪城に陣取る将軍徳川家茂が急逝、徳川慶喜は喪を秘して戦争を継続し自ら出馬すべく「長州大討入り」を勇ましく宣言し、孝明天皇に頼み岩清水八幡宮への戦勝祈願までやらせた。が、小倉城陥落の敗報を聞くとあっさり進発を撤回し薩長に近い勝海舟に講和交渉を命令、直後に孝明天皇が崩御した。孝明天皇は、病的な外国人嫌いだが長州藩の過激な尊攘運動を嫌い徳川慶喜に好意的で禁門の変や長州征討を支持し続けた。徳川慶喜は大きな後ろ盾を喪い、14歳で即位した明治天皇は後に岩倉具視ら薩長派公卿の傀儡となる。さて、嗣子の無い将軍徳川家茂は、江戸を発つとき万一のときには田安亀之助(徳川家達)を跡継ぎにと言い残したが、老中の板倉勝静や小笠原長行は3歳の将軍では難局に対処できないとして徳川慶喜に将軍就任を要請した。徳川慶喜は「将軍継嗣問題のとき野心を疑われて不愉快な思いをした。いま将軍職を引受ければ、その悪評を裏付けることになろう」などと逡巡、このため先ず徳川宗家のみを相続し4ヶ月の間をおいて孝明天皇の説得により将軍就任という体裁をとった。徳川慶喜の説得にあたった松平春嶽は「ねじあげの酒飲み」(口ではもう飲みたくないといいながら、杯を勧めないと機嫌が悪くなり、結局はまた飲む)と評している。徳川慶喜は将軍就任に際し側近に王政復古を匂わせる発言をし諌められたともいわれる。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長同盟締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 開成館は、遅ればせながら富国強兵に目覚めた土佐藩が1866年に設立した巨大機関で、軍艦・貨殖・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局(漢方)・訳局(洋書翻訳)の部局からなり、山内容堂の命を受けた後藤象二郎が藩政改革の旗振り役となり財政・軍備・藩営事業などの諸機能を全てここに統合した。貨殖局は特に重要で、樟脳など土佐藩物産の振興と外国輸出、獲得した外貨での武器輸入を目的とし、長崎・大阪・兵庫に出張所が置かれた。洋式軍備の調達を急ぐ後藤象二郎は、藩交易を活性化すべく長崎へ赴くも大雑把な性格で商才は皆無、下僚の岩崎弥太郎を呼出して丸投げした。貨殖局勤務を命じられた岩崎弥之助は「小鳥の餌鉢をこね回すようなせこい仕事だ」と嫌がり僅か40日間で辞職したが、後藤象二郎の命令で長崎出張所(土佐商会)に引張り出されると外国人の懐柔と強談判で忽ち頭角を現し主任に上って業務を差配、金喰虫である坂本龍馬の土佐海援隊の会計係も押付けられた。明治維新後、岩崎弥太郎は事業より政治を志し後藤象二郎に新政府への斡旋を嘆願したが、後藤は便利な土佐藩の経済官僚を失うのを嫌い無情にも却下した。土佐商会が大阪商会、九十九商会、三川商会へ改組するなか岩崎弥太郎は商事に励みつつ猟官運動を続けたが、1873年政治への夢をきっぱり諦め自らの資本で三菱商会を設立した。後藤象二郎から長崎へ呼出されたことが岩崎弥太郎の人生最大の転機となり、三菱財閥の起点となった。一方の後藤象二郎は、板垣退助の自由民権運動に従うも大臣ポストに釣られて薩長藩閥に懐柔され、「官有物払い下げ」で高島炭鉱を得るも放漫経営により僅か2年で経営破綻させ岩崎弥太郎に買取らせ、借金漬けになっても豪遊を続けた。三菱の金をあてにする後藤象二郎は娘の早苗を岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目)に嫁がせたが、愛想を尽かした岩崎弥太郎は板垣・後藤の自由党ではなく大隈重信(実は福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れし資金源となった。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 土佐藩の貿易商社「土佐商会」(開成館長崎出張所)は、兵庫開港に伴い「大坂商会」(大坂出張所)へ移され、廃藩置県により民間会社「三川商会」へ改組されたが、実態は幕末から一人で切盛りしてきた岩崎弥太郎の個人経営であった。岩崎弥太郎は、維新直後は政治家を志し上司の後藤象二郎を通じて明治政府に猟官活動を展開したが断念、三川商会を名実共に岩崎家の私企業である「三菱商会」へ改組し以後は商事に専念した。三菱商会は、膨大な設備投資を要する海運業を主体としたため当初は弱体であったが、岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力と徹底した低価格・サービス戦略により、僅か一年ほどで三井・鴻池・島田・小野ら政商連合が設立した国策会社「日本国郵便蒸気船会社」と肩を並べるまでに急成長、「士族商法」で破綻した官有物払い下げ事業を吸収し鉱工業などへも手を広げた。なお、今も三菱のシンボルマークである「スリーダイヤモンド」は、岩崎家の家紋「三階菱」と山内家の家紋「三つ柏」を融合し図案化したものである。
- 薩長による討幕の機運が濃くなると、京都に潜伏する諸国浪士の動きが活発化し、新撰組や見廻組による探索は峻烈を極めた。中岡慎太郎は、佐々木高行らと交渉し京都白川の土佐藩邸と食費等費用を拠出させ浪士群を保護、薩長に呼応して挙兵すべく武器と軍事系統を整備するなど密かに討幕戦の準備を進めた。坂本龍馬の土佐海援隊に対し陸援隊と呼ばれた浪士団は、中岡慎太郎を土佐浪士の田中顕助・那須盛馬・大橋慎三・香川敬三らが補佐した。陸援隊士の出身藩は土佐18人・水戸14人・三河9人・京都9人と続いて総勢は75人に達し、十津川郷士隊50人が合流し合計125人の一団を形成した。明日をも知れぬ浪士らの風紀は甚だ悪く土佐藩は厄介視し、新撰組のスパイも紛れ込んでいた(長州人と称した村山謙吉など)。が、坂本龍馬の死で分裂解消した海援隊と異なり陸援隊は中岡慎太郎の死後も組織を保ち、戊辰戦争に従軍したあと薩長土3藩供出の御親兵に吸収された。
- 中岡慎太郎の斡旋により、京都の小松帯刀邸にて、土佐藩板垣退助・谷干城らと薩摩藩西郷隆盛・吉井友実らが武力討幕の密約を結んだ(薩土密約)。戊辰戦争に際して、山内容堂は最後まで武力討幕に反対であったが、板垣退助が土佐勤皇党の流れを汲む迅衝隊を率いて独断挙兵し、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」の一角に滑り込むこととなった。板垣退助は、土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を転戦し、軍人として華々しい勲功を重ねた。甲州勝沼の戦いで近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕し、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩の攻略戦を指揮して勝利に導いた。戊辰戦争で抜群の軍才を示した板垣であったが、薩長が牛耳る軍部には進めず、明治政府では政治家の道を歩むこととなった。
- 土佐から京都へ向かう土佐藩船夕顔丸の船上で、土佐海援隊の長岡謙吉が書いた文章を坂本龍馬が「船中八策」と銘打ち後藤象二郎に提案、土佐藩による大政奉還建白の基となった。単に幕府が政権を朝廷に返上するというだけでなく、上下両院を開くことで大名の居場所を確保しつつ諸国の有志を政治に参加させ、御親兵の設置により新政府の権力強化を図り、国家の基本法である憲法を制定すべしという踏込んだ内容で、海軍の充実と通貨政策の重要性も示唆した。船中八策から「五箇条の御誓文」、自由民権運動へ繋がる民主主義の元祖は福井藩の横井小楠や由利公正であり、勝海舟に松平春嶽を紹介されて以来福井藩士と懇意の坂本龍馬は土佐藩を通じてその実現を図ったといえる。
- 坂本龍馬の斡旋により、京都三本木の料亭にて、土佐藩後藤象二郎・福岡孝悌らと薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通とが、両藩協力して大政奉還と王政復古を実現させることを約した。この後、土佐藩は山内容堂を促し大政奉還の建白書を提出する。しかし、薩摩藩の腹は既に武力討幕で固まっており、同盟を解消して戊辰戦争に踏切ることとなる。中岡慎太郎も有志代表として陪席したが、真意は薩長と同じく武力討幕路線であった。
- 坂本龍馬は、後藤象二郎に大政奉還を提案し諸方周旋に努めたが、一方で長崎のオランダ商人ハットマンからライフル小銃1300挺を購入、うち1000挺を土佐藩に提供し、幕府が大政奉還を拒否した場合は海援隊が尖兵となり土佐藩を挙兵させる腹積もりだった。
- 土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静を尋ね、山内容堂の建白書と副書一通を呈出した。討幕挙兵を決意した薩長はこの動きを無視した。なお、この建白は坂本龍馬が後藤に提唱した「船中八策」に基づくとされるが、大政奉還論は坂本の独創ではない。幕府では大久保一翁が早くから唱え、朝廷の攘夷要求に手を焼いた将軍徳川家茂は征夷大将軍返上を仄めかした。民主主義の開祖である福井藩の横井小楠は、松平春嶽が政治総裁職に就任した1862年に『国是七条』を献策し大政奉還論を説いている。
- 岩倉具視は、大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対した。1851年から1994年まで流通した五百円札の肖像画にみるように岩倉具視は公家らしからぬイカツイ容貌で、幼少期は「岩吉」長じて「山賊の親分」などと形容されたが、見た目どおり豪傑肌で胆力があり、洛北岩倉村での蟄居時代には糊口を凌ぐため自宅を賭場として博徒に貸与したといわれる。和宮降嫁の首謀者として久坂玄瑞・武市半平太に打倒され5年間も隠遁したが、希少な硬骨公家を大久保利通は見逃さず、孝明天皇没後に薩摩藩の名代として朝廷に乗込んだ岩倉具視は偽勅批判を恐れず討幕の密勅を強行し、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行採決した。が、他に見るべき業績は無く、岩倉具視は政治理念よりも朝廷の発揚と自身の出世のために動いたようにみえる。少壮期より世襲公卿に反発した岩倉具視は、関白九条尚忠が推す条約勅許に異を唱え同類の軽輩公家を扇動して「八十八卿列参事件」を起したが、安政の大獄で佐幕へ転じ、井伊直弼暗殺に伴い公武合体派が盛返すと意を受けて和宮降嫁を推進したが、尊攘派の猛攻で失脚した。蟄居中に大久保利通と邂逅した岩倉具視は忽ち武力討幕論に迎合し、大政奉還が成ると王政復古の大号令に摂関と朝臣の世襲制排除を盛込み、三条実美と共に太政官の最上位に就き宿願を果した。なお、本心佐幕派の孝明天皇の崩御は討幕への一大転機で毒殺が噂されたが、真先に疑われたのは岩倉具視だった。新政府の重鎮となってからも岩倉具視は大久保利通を支える役割を果し、「岩倉使節団」から戻り明治六年政変が起ると西郷隆盛ら征韓派の追放に加担したが、秩禄処分で士族特権を奪いながら旧公家のみを優遇する政策が士族反乱に油を注ぎ、自由民権運動には決して妥協しなかった。反動勢力の首魁と化した岩倉具視が没すると、伊藤博文は華族令で旧武士層に幅広く爵位を振舞い、太政官制を廃止して内閣制度を発足させた。
- 徳川慶喜は、大政奉還で討幕の対象たる幕府を消滅させ、徳川氏は最大版図を領する大名共和制の盟主として実権を保持する目論みであった(或いは、江戸幕閣の無能を嫌い京都に留まり続けた徳川慶喜は、世襲制と幕藩体制の限界を悟り一代の大統領的地位を望んだのかも知れない)。が、徳川氏打倒による武力革命を決意する薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛は、朝廷が幕府の大政奉還を勅許する直前に討幕の密勅を強行、宮廷工作は岩倉具視が担当したが正式の手続きを経ない偽勅であったとされる。これにより大政奉還は有名無実化、大久保利通・西郷隆盛は幕府を挑発して鳥羽伏見の戦いを引起し、晴れて「朝敵」慶喜追討の勅を得て戊辰戦争に引きずり込んだ。大政奉還を無視され辞官納地を迫られた徳川慶喜は、一度はこれを拒否し抵抗の姿勢を示したが、鳥羽伏見の敗報を聞くと松平容保・松平定敬を伴って密かに大阪城を脱出し江戸へ逃げ帰った。幕臣は恭順派と抗戦派の真二つに割れたが、徳川慶喜は絶対恭順に決し上野寛永寺に謹慎、薩長が目の敵にする松平容保・松平定敬や小栗忠順ら抗戦派の幕閣を江戸から追払い恭順派の勝海舟に全権を委ねた。近藤勇・土方歳三ら新撰組の残党も江戸へ来たが、勝海舟は勝ったら大名にしてやるなどと甘言を弄して甲州戦線へ追遣り、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍に完敗、投降した近藤勇は斬首され、土方歳三は大鳥圭介の幕府陸軍に合流し会津へ向かった。松平容保は会津若松城に戻って官軍を迎え撃ち、松平定敬は越後柏崎を経て会津戦争・函館戦争と転戦した。西郷隆盛との会談で江戸城無血開城を果した勝海舟は、明治政府で旧幕臣としては異例の出世を遂げ外務大臣・海軍大臣相当職や参議・元老院議官・枢密顧問官を歴任し伯爵にも叙されたが、積極的な政治参加を控えたらしく具体的な業績はほとんど無い。一方、勝海舟は旧幕臣の保護活動には地位をフル活用して熱心に取組み余生を捧げた感がある。徳川宗家と徳川慶喜家への公爵授爵は勝海舟の尽力の賜物であり、旧幕臣には就職斡旋や資金援助に奔走し牧之原台地に茶畑を拓いて入植を推進した。
- 大政奉還の直後、京都近江屋で会食中の坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲われ、頭蓋を斬られた坂本はほぼ即死、中岡は後頭部の傷が悪化し3日後に死去した。「坂本龍馬暗殺の謎」は面白おかしく語られ、フリーメーソン(イギリス)の謀略説や、薩長が遣わした中岡が坂本を斬ったという珍説まである(長州系の中岡は強硬な討幕論者で、土佐藩の大政奉還を差配した坂本は徳川家擁護に動いていた)。が、元新撰組の大石鍬次郎および元見廻組の今井信郎(函館戦争で投降)・渡辺篤の供述により、佐々木唯三郎ら見廻組7人の犯行であることが明らかになった。見廻組は新撰組と同じく京都守護職松平容保(会津藩主)の指揮下で京都の治安維持にあたった警察組織である。新撰組の実態は過激浪士の傭兵集団だが、歴とした幕臣からなる見廻組は統率のとれた幕府機構であり、坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺も上層部の命令によるものと考えられ、命令者は松平容保とも京都所司代松平定敬(容保の実弟で伊勢桑名藩主)ともいわれる。会桑両藩と松平容保・定敬兄弟は、藩兵と新撰組・見廻組を駆使して京都に厳戒体制を敷き池田屋事件などで尊攘派志士を多数殺害したことから目の敵にされ、後戻りできない立場故に最強硬な佐幕派であった。ここで将軍徳川慶喜が大政奉還を遵守し薩長に取込まれると会桑両藩は完全に宙に浮いてしまうが、大政奉還を差配した坂本龍馬は幕臣の永井尚志を通じて幕府に現実的妥協案を呑ませる根回しに動いており会桑両藩にとっては危険人物となっていた。雄藩の後ろ盾がなく身辺警護も脆弱な坂本が真先に狙われ、中岡慎太郎は巻添えを喰ったと考えられる。暗殺事件後、激昂する海援隊・陸援隊に対し土佐藩は復讐禁止令を敷いたが、陸奥宗光ら16人は「いろは丸事件」を恨む紀州藩士三浦休太郎を首謀者と断じ、明る正月一日に油小路花屋町天満屋の酒宴の場を襲撃した。斎藤一ら護衛の新撰組隊士数名が居たため接戦となり、陸奥一派は中井庄五郎を殺され三浦は討ち漏らしたが数名を殺害し逃走、官軍の天下で陸奥宗光らにお咎めは無かった。
山内容堂と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照