奇兵隊幹部から運良く陸軍長州閥の首領に納まり汚職にまみれながら徴兵令を敷き外征のための軍事国家建設と政党弾圧に邁進、統帥権・軍部大臣現役武官制で文民統治を抹殺した軍部暴走の元凶
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山縣 有朋
1838年 〜 1922年
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山縣有朋と関連人物のエピソード
- 山縣有朋は、伊藤博文と同じく長州藩での立身は望むべくもない農民同然の出自で、青年時代までは槍術師範が精一杯の夢だったが、吉田松陰の松下村塾に入門し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら正義党の末端に加わったことで大きく運が開けた。武人を志す山縣有朋は、久坂玄瑞の光明寺党に加わって馬関戦争で奮闘し、高杉晋作が創設した奇兵隊の幹部(軍監)となった。高杉晋作から奇兵隊総督(トップ)を譲られた河上弥市は生野の変で戦死し、後任の赤根武人は俗論党政府に懐柔され失脚(最期は刑死)、軍監の山縣有朋が幸運にも奇兵隊の実質上のトップに納まった。長州藩政よりも奇兵隊と保身が大事な山縣有朋は、高杉晋作の功山寺決起で日和見を決め込んだが、高杉が敗れれば奇兵隊ら諸隊の解散が確実な情勢となり長州藩正規軍の不意を衝いて参戦、大田・絵堂の戦いを勝利に導き藩政奪回の功労者となった。が、力士隊30人を率い功山寺決起から参戦した伊藤博文に対する負目は伊藤が没するまで拭えなかった。長州藩の軍権を担った大村益次郎は軍制改革と洋式軍備導入で近代的軍隊に改造し、奇兵隊など諸隊を組込んだ長州軍は第二次長州征討で幕府軍を撃退し戊辰戦争の主力として活躍、指揮官の山田顕義・前原一誠・山縣有朋は揃って賞典禄600石を賜った(大村は1500石)。が、維新の翌年に大村益次郎が暗殺され、次席の前原一誠兵部大輔は黒田清隆と衝突して下野し萩の乱で敗死、大村の愛弟子でフランス流市民軍を構想した山田顕義は一派と共に自滅し、長州軍人首領の座は山縣に転がり込んだ。さらに幸運は続き陸軍大将の西郷隆盛が明治六年政変で下野すると次席の山縣有朋中将が全陸軍のトップに浮上、篠原国幹・村田新八・桐野利秋らライバルの薩摩軍人は西南戦争で揃って戦死した。山縣有朋は桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅・田中義一ら自派幕僚で陸軍中央を固め陸軍長州閥に君臨、文治派の伊藤博文と張り合いながら軍国主義政策と民権派弾圧を推進した。
- 長州藩奇兵隊の元隊士で陸軍省(兵部省)御用商人となった山城屋和助が、陸軍省から借りた膨大な公金を使込み陸軍省内部で割腹自殺、事前に帳簿と長州系軍人への貸金証文を焼却したため事件は迷宮入りとなった(山城屋事件)。山城屋に公金を貸した山縣有朋は、桐野利秋ら薩摩系陸軍人の厳しい追及で近衛都督辞任に追込まれ失脚必至、生涯最大のピンチに見舞われたが、山縣の徴兵令を支持する西郷隆盛に救われ、翌年の徴兵令施行に伴い陸軍卿(陸軍大臣)に昇進し失脚どころか焼太りする大幸運に恵まれた。うるさ型の木戸孝允が岩倉使節団で外遊中だったことも幸いした。西郷隆盛は、薩長のバランスに配慮したとも、山縣有朋の軍政の才を高く評価していたともいわれる。西南戦争で政府軍を指揮した山縣有朋は、実戦指揮を執る桐野利秋を斃し山城屋事件の恨みを晴らしたが、恩人の西郷隆盛まで死なせることになった。さて、長州藩36万石は村田清風の藩政改革を経て「実力100万石」の富裕藩となり、木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら周旋役は藩の公金で豪遊し京都市民の人気をさらったが、金にルーズで公私混同の悪弊は明治維新後も受継がれた。西郷隆盛に「三井の番頭」と面罵された井上馨が貪官汚吏の代表格だが、山縣有朋(および陸軍長州閥)も三井・大倉喜八郎ら政商と癒着して汚職にまみれ、東京で「椿山荘」京都で「無鄰菴」の豪華庭園造りに励み、奇兵隊軍監時代に隊士の給料を着服していたことを幹部の三浦梧楼に暴露された。西南戦争後に論功行賞の遅れと減給に怒った近衛砲兵隊士が暴動を起したが(竹橋事件)、逸早く勲章をもらい椿山荘建築に精を出す山縣有朋陸軍卿ら軍首脳への不満が背景にあったと思われる。一方、明治日本の大立者となった伊藤博文は、遊び好きだが蓄財にも派閥作りにも恬淡で、同情した明治天皇が小遣いを賜うほどであった。明治天皇は西郷隆盛・板垣退助・山岡鉄舟・乃木希典ら無骨な清貧タイプを好んだが、とりわけ伊藤博文への新任は篤かったという。
- 陸軍長州閥に君臨した山縣有朋だが、実は軍事的才能に乏しく失策が多い割に目立つ戦功は無い。長州藩の奇兵隊は高杉晋作が創設し大村益次郎の洋式化で精強軍隊となったが、松下村塾の縁で軍監に納まった山縣有朋は高杉の功山寺挙兵を日和見し、長州征討・戊辰戦争での活躍は三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼の「三人衆」ら優秀な部隊長のお陰であった。山縣有朋は、鳥羽伏見の戦いで出征を志願するも軍事的弱点(臆病)を知る大村益次郎に長州待機を命じられ、漸く北陸方面軍参謀として出征すると越後長岡の戦闘で出撃を逡巡し親友の時山直八を戦死させる大失策、大苦戦の末に長岡を攻略し会津戦争に転戦したが板垣退助の軍略を前に鳴りを潜めた。日清戦争が起ると「生涯一介の武弁」を自認する山縣有朋は首相経験者ながら陸軍第1軍司令官として朝鮮に出征、第1軍は無事に平壌を陥落させたが、大本営の冬営命令を無視した山縣は桂太郎の第三師団に深追いを指令し敵に重包囲され甚大な損害を蒙った。現地将官の総意を受けた川上操六参謀本部次長が伊藤博文首相と大山巌陸相を説き、山縣有朋は司令官を解任され日本へ召還されるという不名誉極まる事態となった。帰国した山縣有朋は、長州軍閥直系の桂太郎まで召還願書に署名したことを知り激怒したが、伊藤博文との政争の駒に使うべく隠忍自重した。桂太郎は、台湾総督・東京湾防御総督を経て、第三次伊藤内閣で大山巌(薩摩)から陸相を継ぎ第四次伊藤内閣で児玉源太郎(長州)に途中交代するまで約3年も陸相を務めた後に首相となり、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し史上最長政権を築いた(桂園時代)。第一次桂太郎内閣が日露戦争に踏切ると、やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征を志願したが、用兵に難があるうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうとの明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。伊藤博文の死で傀儡を立てる必要が無くなると、山縣有朋は桂太郎を内大臣に押込めて17年越しの報復を果し自ら組閣に乗出したが、元老会議は慣例を破り桂に第三次内閣を組閣させた。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 明治維新後の軍部は、西郷隆盛の薩摩閥と大村益次郎の長州閥が勢力を二分したが、西南戦争で西郷隆盛と共に桐野利秋・村田新八・篠原国幹ら薩摩閥を担うべき人材が戦死、大山巌や西郷従道は残ったものの長州閥が俄然優勢となった。長州藩の木戸孝允・大村益次郎・伊藤博文は文民統治を重視したが、運よく奇兵隊幹部から長州軍人のトップに納まった山縣有朋は木戸の死でタガが外れ、長州閥で陸軍を牛耳り政治に乗出して軍拡を推進、伊藤の没後は直系の桂太郎・寺内正毅・田中義一を首相に据え政府に君臨した。外征志向の山縣有朋は強大な軍隊を志し、プロシア流の皇帝直属軍すなわち「天皇の統帥権を大義名分とする自律的な軍隊」の建設に邁進、軍事予算の獲得と外征に励みつつ軍部大臣現役武官制などで文民統治を排除した。「金があれば早稲田の杜を水底に沈めたい」ほど政党嫌いの山縣有朋は自由民権運動の弾圧に執念を燃やしたが、これも「国民の軍隊」を作らせないための自己防衛であった。大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義と三好重臣・鳥尾小弥太・三浦梧楼・谷干城らはフランス流の市民軍を構想し「外征を前提とした軍拡は国家財政の重荷となりむしろ国力を弱める」と正論を説いたが、山縣有朋は官有物払下げ事件に乗じ山田一派を追放、思惑どおり政府や国民の干渉を受けない自律的な軍隊を作り上げた。山縣有朋は死ぬまで極端な長州優遇人事を貫いたが、優秀な野津道貫・児玉源太郎らが死ぬと人材が枯渇、山縣の死の前年に「バーデン・バーデン密約」を交し長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機・石原莞爾ら中堅幕僚「一夕会」が下克上で陸軍を乗取り満州事変・日中戦争・仏印進駐・対米開戦へと暴走した。一方、当初陸軍の一部だった海軍では、薩摩人の山本権兵衛が西郷従道を擁して大胆な組織・人事改革を行い日清・日露戦争の活躍で陸軍から完全独立、出身地に拘らない人材登用で加藤友三郎(広島)・斎藤実(仙台)・岡田啓介(福井)・米内光政(岩手)・山本五十六(越後長岡)・井上成美(仙台)・鈴木貫太郎(下総関宿)らを輩出したが、後継指名した伏見宮博恭王が艦隊派首領となり対米開戦を主導した。
- 「天皇の軍隊」に邁進する山縣有朋の陸軍は、天皇を神格化した「教育勅語」を全国の学校に配布し祝祭日や卒業式などに生徒の前で奉読するよう強制、やがて教育勅語の謄本自体が神聖視されるようになり奉読式での礼拝が義務付けられた。第一高等中学校嘱託教員の内村鑑三はキリスト教徒の立場から奉読式での礼拝を拒否、ジャーナリズムに糾弾され依願退職に追込まれた(内村鑑三不敬事件)。
- 松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が1842年に長州萩城下外れの松本村に設立した私塾で、密航事件の罪で地元に蟄居した松蔭が1857年に引継いだ。吉田松陰が罪人となっても長州藩主毛利敬親の敬愛は変わらず、また松陰に好意的な周布政之助や益田弾正など正義派人士が藩庁の要路にあって、藩政改革に係る松陰の上書がよく採用され、その効果もあり松下村塾の入門者は増え尊攘派の拠点として一大勢力を形勢した。松下村塾は、学校というよりはサークルのような雰囲気で、特段の規則はなく、授業料の類もとらなかった。皆で米搗きや農作業をしながら勉強することも日常で、ときに登山・撃剣・水泳の実習も行い、塾舎の増築工事は塾生の手で行った。藩校明倫館で行われた藩士子弟の漢籍素読の試験では、松下村塾から応試した15人全員が優等の成績を採り基礎教育にも強いことを証明した。松下村塾は、士分だけが入学できた藩校明倫館とは異なり、入門者の身分を問わなかったが、門閥藩士は国禁を犯した吉田松蔭を危険思想家と敬遠し、父に戒められた高杉晋作は家人の目を盗んで通わねばならなかった。そのため松下村塾では中級藩士(大組士200石扶持)の高杉晋作が群を抜いて地位が高く、ほとんどの門人が下級藩士か庶民の出自であり、1858年に吉田松蔭が野山獄に再入獄となるまで僅か1年余の就学だったが、幕末長州藩をリードする多くの尊攘派志士を輩出した。入門者は50名ほど、高杉晋作と久坂玄瑞(松陰の妹文の夫)が最優秀で「松下村塾の双璧」、これに吉田稔麿と入江九一を加えた4人が「松下村塾の四天王」といわれた。松下村塾の生残り渡辺某は後年「高杉は恐ろしかった。栄太郎(吉田稔麿)はかしこかった。久坂はついていきたいようであった」と述懐している。他の門人に、寺島忠三郎・伊藤博文・山縣有朋・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・赤根武人などがいる。なお、木戸孝允は、吉田松蔭が藩校明倫館で兵学を教えていたときの弟子で生涯松陰に師事したが松下村塾生ではない。亡き松蔭を慕う乃木希典は玉木文之進の家に寄寓した。松下村塾の遺構は現在も保存され側には松陰神社が建つ。
- 高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、松下村塾の師匠である吉田松蔭や尊攘派同志の枠から離れて独創的な「防長割拠論」を唱え、討幕戦に備えて洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。同志が公武周旋や過激な攘夷論に浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。「松下村塾の双璧」と並び称された久坂玄瑞は、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」に則り諸国の志士と提携して京都政局で破約攘夷運動を主導、孤立した高杉晋作は自暴自棄となったが、禁門の変で久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。続く四国連合艦隊の襲来で窮地に陥った長州藩は高杉晋作を呼戻し、高杉は有利な条件で講和交渉を纏め、兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊を創設、第一次長州征討が起ると伊藤博文・井上馨と共に徹底抗戦を叫んだが長州藩は幕府に恭順した。絶望した周布政之助は自決し俗論党(佐幕派)政権は正義派を弾圧し井上馨は瀕死の重傷、高杉晋作は筑前へ逃れたが、すぐに長府へ舞戻り奇兵隊などの諸隊に決起を呼掛け、応じたのは伊藤博文・前原一誠の手勢と中岡慎太郎ら遊撃隊(浪士隊)の90名のみだったが功山寺挙兵を断行した。三田尻で藩の軍艦3隻を奪い東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固めると、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が呼応し大田・絵堂の戦いで長州藩正規軍を撃破した。高杉晋作は、奪回した政権を木戸孝允に譲渡し、逡巡する木戸の背中を押して薩長同盟を締結、第二次長州征討が起ると自ら最前線に乗込み大島口奇襲で緒戦を制し老中小笠原長行が守る小倉城を攻落して勝利を決定付けた。が、肺結核で動けなくなり「おもしろき ことをなき世を おもしろく」の辞世を遺し27歳で死去した。
- 久坂玄瑞は、吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で「草莽崛起」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥った。久坂玄瑞は、長州藩医の三男坊で幼少から英才を謳われ、熊本の宮部鼎蔵の勧めで吉田松陰に会い過激な攘夷論を披瀝したが空理空論と論破され学門に降り、1つ年長の高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称された。吉田松陰の名代として江戸・京都へ出た久坂玄瑞は、梅田雲浜・梁川星厳の導きで中央政界へ乗出し、安政の大獄が起り吉田松陰は江戸で刑死したが、大老井伊直弼が斃れると先輩の木戸孝允・土佐藩の武市半平太と共に活発な尊攘運動を展開、和宮降嫁を幕府の謀略と糾弾して岩倉具視を退隠させ、長井雅楽の「航海遠略策」を幕主朝従と排撃し薩摩藩の島津久光に対抗して長州藩論を「破約攘夷」へ転換、長州藩世子毛利定広と勅旨を奉じて幕府に攘夷を迫り、圧力に屈した徳川家茂は将軍として230年ぶりに上洛し朝廷に5月10日の攘夷決行を約束した。草莽崛起(全国志士の決起)を目指す久坂玄瑞は、長州藩の外国船砲撃で天下に攘夷決行の実を示し(下関事件)「光明寺党」を率いて奮戦するも米仏軍艦に惨敗、京都へ戻り討幕含みの攘夷親征計画(大和行幸)を策動するが八月十八日政変で一夜にして瓦解した。朝敵とされた長州藩では藩主の上洛釈明・出兵論が沸き起り、木戸孝允・高杉晋作・周布政之助は自重論を唱えたが、久坂玄瑞は来島又兵衛・真木和泉らと強硬論を唱え参預会議瓦解を機に即時出兵を断行、池田屋事件で激発した長州藩は京都御所を攻めたが西郷隆盛率いる薩摩軍の参戦で大敗し首謀者の久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉は戦死した。続く第一次長州征討・四国連合艦隊との馬関戦争で長州藩は存亡の危機に陥り久坂玄瑞の野望は費えたが、久坂の「草莽崛起」を批判し続けた高杉晋作が奇兵隊・諸隊を率いて政権を奪回し薩長同盟して討幕を実現した。明治維新後、西郷隆盛は木戸孝允に「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどといって威張ってはおられませんな」と語ったという。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。
- 大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。周防の村医の嫡子に生れた大村益次郎は、防府の梅田幽斎(シーボルトの弟子)に師事し豊後日田の咸宜園にも遊学、22歳で大坂の適塾に入門し長崎遊学を経て塾頭に就いたが、父の懇請で帰郷し村医を開業した。が、2年後のペリー来航で蘭学者の需要が急増し、無愛想の治療下手で評判の悪い大村益次郎は早々に医業を畳み宇和島藩に仕官、砲台建設や洋式軍艦製造を差配し、藩主伊達宗城に従い江戸へ出ると麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開講、幕府に招聘され蕃書調所を経て最高学府の講武所教授に栄達した。一流洋式兵学者の名声を博した大村益次郎は、長州藩に軍制改革を託され藩政に参画(政務座役)、藩校明倫館や私塾「普門塾」で兵卒を熱血指導し「火吹き達磨」と渾名された。尊攘運動に関与せず俗論党からも重宝された大村益次郎は、禁門の変後も重職に留まり、高杉晋作が藩政を奪回すると但馬出石から木戸孝允を呼戻して指導者に迎え、正規軍と奇兵隊など諸隊を統合再編して軍事教練を施しミニエー銃・ゲベール銃を大量購入して長州藩軍を洋式軍隊へ変貌させた。第二次長州征討では山陰方面軍を指揮、新式兵器と巧みな用兵で浜田城を攻落し「その才知、鬼の如し」と評された。薩摩藩嫌いの大村益次郎は戊辰戦争出兵に反対し左遷されたが、すぐに上京を命じられ諸藩献上の御親兵を訓練し伏見に兵学寮を開設、江戸の治安回復を託されると兵員不足を危惧する薩摩藩士を一喝し西郷隆盛を説伏せて武力討伐を断行し上野彰義隊を殲滅した。大村益次郎は、明確なプランのもと近代的国軍建設に邁進、持論の徴兵制は兵制論争で退けられたが、軍政のトップ(兵部大輔)に就いて京都河東操練所・兵学寮の開設や軍事工場建設を進めたが兇漢に襲われ横死、「西国(薩摩)から敵が来るから四斤砲をたくさんこしらえろ」との遺言は8年後の西南戦争で的中した。靖国神社境内には今も大村益次郎の銅像が聳える。
- 農民出身の伊藤博文は、16歳のとき作事吟味役の来原良蔵が相模警備に赴く際に下働きとして召抱えられ、長崎出張にも随行した。来原良蔵は後に禁門の変で暴発する来島又兵衛の盟友で尊攘派同志の吉田松陰を伊藤に紹介、翌年伊藤は松下村塾に入門し立身出世の手掛りを掴んだ。少年期にまともな教育を受けていない伊藤博文は松下村塾の劣等生で、吉田松陰から「才劣り、学幼し」と酷評されたが、図太さと交際術で「利助(伊藤)もまた進む。なかなか周旋家となりそうなり」と評価を上げた。来原良蔵は伊藤博文を世に出すため義兄の木戸孝允を紹介、木戸は松蔭門下の伊藤を雇人とし藩の文武修行道場「有備館」に就学させ他藩同志との連絡係に使った。木戸孝允の江戸出向に随い志士グループの末席に連なった伊藤博文は、長州藩の外交官で運動資金が潤沢な木戸のオコボレに預り、不自由無い小遣いを与えられ品川遊廓で遊びも覚えた。手柄に飢えた伊藤博文は、長井雅楽暗殺の企てに名乗りを上げて久坂玄瑞・高杉晋作に認められ、神奈川外人襲撃計画およびイギリス公使館焼き討ちに加わり、和宮降嫁で尊攘派に睨まれた塙次郎を親友の山尾庸三と共に暗殺した。尊攘派の「正義党」が公武合体派の長井雅楽を自害させ長州藩の実権を握ると、一端の志士と認められた伊藤博文は「主人」木戸孝允の計いで一代限りながら士分に採り立てられ念願の武士身分を手に入れた。吉田松陰の処刑時に運良く江戸に居た伊藤博文は木戸孝允に従い小塚原刑場に赴いて遺骸を仮埋葬し、5年後の高杉晋作による世田谷若林への改葬にも参加(松蔭神社)、偉大な師匠を葬ったことで一層箔が付いた。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 伊藤博文と井上馨は長州藩の志士時代から行動を共にし親友関係は終生続いた。井上馨は220石取りの歴とした上士身分で「雷公」と渾名された癇癪持ちだが、気さくな人柄で農民出身の伊藤博文にも対等に接し「聞多(井上)」「利輔(伊藤)」と呼び合う間柄であった。井上馨の裏工作で伊藤博文もイギリス留学を許されたが、往きの船中で伊藤は下痢に悩まされ、井上は荒れる甲板から用を足す伊藤の体をロープで支え必死に励ました。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ、高杉晋作の藩政奪回「長州維新」を支えた。長州藩主の毛利敬親は何故か癇癪持ちの井上馨を可愛がり意見をよく聴いたといい、馬関戦争の不戦講和・第一次長州征討の武備恭順(いずれも反対派に潰された)・薩長同盟など、敬親への献策役はいつも井上に託された。明治維新後の井上馨は、鹿鳴館外交をぶち上げるも不平等条約改正に失敗、財界へ転じると貪官汚吏の筆頭格となり西郷隆盛から「三井の番頭」と面罵されたが、伊藤博文は身を挺して井上を庇い続け、伊藤のお陰で政治的致命傷を免れた井上は元老のまま長州志士中最長寿を全うした。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 長州藩では村田清風の藩政改革以来、保革対立が絶えなかった。「正義派」と称した革新系は、尊皇攘夷から後に討幕派へ発展した流れで、村田清風・周布政之助・木戸孝允が直系であり、藩主の毛利敬親と家老の浦靱負・益田弾正らが支持した。吉田松陰・松下村塾生と長井雅楽は共に正義派に属したが、幕府不要論者で草莽崛起を説く松陰は中央政局で公武合体を進める長井に猛反発しだ。正義派が「俗論党」と憎悪した保守系は、村田清風と政権を争った坪井九右衛門から椋梨藤太へ受継がれた派閥で、大組士など門閥世襲士族の大多数を支持基盤とし、徹底的なお家大事・幕藩体制擁護論を固持した。藩主毛利敬親の尊攘方針のもと最初は正義派が優勢、安政の大獄で俗論党が盛返すが桜田門外事変で正義派が復活し、「航海遠略策」と共に長井雅楽を葬った周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞が藩論を「破約尊攘」へ転換させたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解、池田屋事件で新撰組に吉田稔麿らを殺され激昂した過激尊攘派は坪井九右衛門を血祭りに挙げ京都へ攻込んだが禁門の変で大敗し長州藩は朝敵となった。久坂玄瑞・入江九一は戦死し木戸孝允は行方不明、絶望した周布政之助まで自殺するなか第一次長州征討と馬関戦争が同時に勃発、高杉晋作は井上馨・伊藤博文を従え徹底抗戦を叫んだが長州藩は恭順の道を選び俗論党の天下となった。が、僅か90人を率い功山寺で挙兵した高杉晋作は奇兵隊など諸隊を引込んで長州藩正規軍を打倒(山縣有朋ら奇兵隊幹部は当初日和見)、椋梨藤太を殺して俗論党を殲滅し逃避行から戻った木戸孝允が執政に就任、薩長同盟を締結し、大村益次郎の洋式兵制改革で増強した長州藩軍は第二次長州征討で幕府軍を返討ちにした。死力を尽くして戦った高杉晋作は間もなく病没したが、岩倉具視と提携し朝廷を掌握した薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通が戊辰戦争の火蓋を切り長州藩も出兵して討幕を成遂げた。正義派の吉田松陰と松下村塾四天王(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一)に長井雅楽・周布政之助、俗論党の坪井九右衛門・椋梨藤太まで悉く非業の死を遂げた壮絶な長州維新であった。
- 幕府が朝廷に攘夷決行を約束した1863年5月10日、久坂玄瑞が木戸孝允・高杉晋作の自重論を抑え長州藩は攘夷決行を断行、馬関海峡を封鎖し米仏蘭商船に無警告で砲撃を加えたが、米仏軍艦の艦砲射撃により猛烈な報復を受け長州藩の海軍と砲台は壊滅的打撃を蒙った。が、外国船退去後も長州藩は抵抗を続け、有利な条件で講和交渉を纏めた高杉晋作が兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊など諸隊を創設し、下関の砲台を修復し対岸小倉藩領の一部を占拠して新たな砲台を築き馬関海峡封鎖を続行、翌年第一次長州征討に乗じた四国連合艦隊が来襲し馬関戦争が起った。一連の下関事件では、久坂玄瑞が大和行幸に参加すべく赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら松下村塾系志士を糾合し結成した光明寺党が獅子奮迅の活躍をみせた。
- 長州藩が馬関戦争で西洋列強に惨敗した後、藩主毛利敬親より馬関の防御を一任された高杉晋作は窮余の策として庶民から兵員を募って奇兵隊を創設、洋式軍備で武装させた。下関事件で孤軍奮闘した久坂玄瑞率いる光明寺党から赤根武人・滝弥太郎・山縣有朋・河上弥市・入江九一・吉田稔麿ら多数の幹部が加わった。奇兵隊の創設後、農民・町人・漁師・猟師・神官・力士・僧侶など武士以外の様々な身分からなる義勇兵部隊が数多く結成され同年末には早くも総員750人を突破、奇兵隊を含め諸隊または遊撃隊と総称した。高杉晋作は奇兵隊を大組士(正規藩兵)の下に置くつもりであったが、諸隊は戦意旺盛なうえに大村益次郎の洋式軍備導入で強化され実戦で正規藩兵を圧倒、次第に独立の勢いを示し高杉のクーデターを援けることとなる。高杉晋作は奇兵隊創設者であることを生涯の誇りとし、自分の墓碑銘を「奇兵隊開闢総督」とするよう依頼した。
- イギリス留学の僅か半年後、『ロンドン・タイムズ』で四国連合艦隊の長州攻撃計画を知った井上馨と伊藤博文は、圧倒的な洋式軍備と戦う不利を悟り、長州藩に頑迷な攘夷論を捨てさせ開戦を阻止すべく大急ぎで帰国の途についた。山尾庸三・野村弥吉・遠藤謹助も帰国を望んだが「5人とも死んだのでは意味がない。居残って初志を貫徹してくれ」との言葉に従った。横浜に着いた井上馨と伊藤博文は直ちに英公使館に乗込み「長州藩主を説得して平和的解決を図るから実力行使をしばらく待ってもらいたい」と申入れ、熱意に打たれたオールコック公使は藩主説得のための親書を与え英軍艦を派して二人を豊後姫島まで送り届けた。過激な攘夷論が沸騰する長州藩で不戦を説くのは極めて危険であり、通訳のアーネスト・サトウは「十のうち六、七は殺される状況だった」と回想している。長州に戻った井上馨と伊藤博文は決死の覚悟で不戦を説き、藩主毛利敬親から慰労金を賜るも藩論を覆せず、かつての同志から命を狙われた。家老の清水清太郎から「木戸孝允を口説け」と言われた伊藤博文は京都へ発つが、禁門の変が起り木戸は行方不明、万策尽きて長州に引き返した。長州藩は海上封鎖を解かず四国連合艦隊の砲撃で惨敗したが(馬関戦争)、伊藤博文にとっては講和交渉で高杉晋作の通訳を務めたことで新たな道が開けた。開明的で現実的な高杉晋作に共鳴した伊藤博文は従者のように付随い、功山寺決起では力士隊30人を率い真先に参戦を表明、「長州維新の功労者」という華々しい志士歴は「維新の三傑」亡き後の明治政府では傑出しており政治力の重要な裏付となった。一方、運よく陸軍長州閥の首領に納まった山縣有朋は、自由民権運動や軍事国家建設の処方を巡りしばしば伊藤博文と争ったが、功山寺決起で日和見した汚点は拭い難く伊藤が没するまで大きな顔はできなかった。
- 幕府軍艦奉行の勝海舟から「日本人同士の争いは西欧列強を利するのみ」と長州宥和を促された薩摩藩(征長軍大参謀)の西郷隆盛は、征長総督徳川慶勝に武力衝突を回避する穏当策を提言、慶勝は西郷を征長軍全権に任じ長州藩との折衝を委ねた。西郷隆盛は、岩国藩主吉川監物を通じて禁門の変で上京した国司信濃・益田弾正・福原越後の三家老切腹、四参謀斬首、三条実美ら五卿の追放を降伏条件として提示、長州藩主父子が謝罪文書を提出し恭順したため開戦は回避された(第一次長州征討)。これに対し、奇兵隊などの諸隊には不満を抱く者が多く、高杉晋作は即時挙兵を主張したが、俗論党に懐柔された奇兵隊総督赤根武人をはじめ諸隊の長官は応じなかった。徳川慶喜政権の後ろ盾であった薩摩藩は長州征討を機に幕府批判へ転じ薩長同盟・討幕へ突進んだが、西郷隆盛を長州宥和へ転換させた勝海舟の役割は非常に大きかった。西郷隆盛は大久保利通への書簡で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」「英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」と評している。勝海舟は幕臣でありながら雄藩諸侯や尊攘派志士と広く交流、西郷隆盛が神と仰いだ島津斉彬とも懇意であり、開国の利と幕藩体制変革の必要性を説いて反幕府陣営に大きな影響を与えた。幕府首脳で軍艦奉行も務めた勝海舟の言葉は非常に重く、討幕を奨励するような言説は志士たちを大いに勇気づけたに違いない。この3年後に薩摩藩が戊辰戦争を引起すと、勝海舟は徳川慶喜を説いて絶対恭順を決意させ、幕府代表として西郷隆盛に会い江戸城無血開城を成遂げた。
- 奇兵隊などの諸隊は、長州藩庁による解散を免れるため、三条実美ら五卿を擁して長府に転陣し藩庁と交渉を続けた。奇兵隊総管赤根武人は俗論党に懐柔されて藩庁の政務座役に兼任され、山縣有朋や福田侠平らの幹部連中も赤根に引きずられて「正俗調和」の慎重論へ傾いた。高杉晋作は必死の説得を試みたが諸隊長の反応は鈍く、決起に応じたのは河瀬真孝・中岡慎太郎ら遊撃隊士(浪士軍)と伊藤博文・前原一誠らごく少数で、諸隊750人のうち従う兵力は遊撃隊60人と力士隊30人ばかりであった。しかし高杉晋作は、長府功山寺に在する五卿に「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と宣言し颯爽と兵を挙げ、三田尻で藩の軍艦3隻を奪い、東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固め、遂に長州藩正規軍を破り長州回天を成功させた。伊藤博文は後に高杉晋作の墓所がある下関郊外清水山の「東行碑文」に「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし。衆目駭然としてあえて正視するものなし。これわが東行高杉君にあらずや。」と揮毫したが、功山寺の情景を眼前に現す名文である。功山寺には、三条実美ら七卿の御在所が現在も保存されており、境内には馬上挙兵に乗出す高杉晋作を映した見事な一鞭回天像があるが、傍らに「一将功成って万骨枯る」の碑が立つ。力士隊を率い決死の行軍に参じた伊藤博文は大功労者だが、肝心要の功山寺挙兵で日和見しながら位人臣を極め椿山荘やら無鄰菴やらを築いた山縣有朋への面当てのようでもある。実際、山縣の汚点となったに違いなく、伊藤の生存中はこれを憚り軍事に徹して政治に距離を置いたとされる。なお赤根武人は、高杉の反乱軍が優勢になると上方へ逃亡、幕府に捕縛されて走狗となり、第二次長州征討で大目付永井尚志の随員として長州入りし不戦を説いたが全く相手にされず、逆に捕らえられ1866年に山口で処刑された。
- 長州藩庁は反乱軍鎮圧のため正規藩兵の選鋒隊を差し向けた。高杉晋作の反乱が鎮圧されれば諸隊の解散も確実な情勢となり、奇兵隊の山縣有朋ら諸隊長はようやく重い腰を上げ高杉の檄文に応えた。諸隊は恭順を偽って絵堂の政府軍を不意撃ちで破り、慎重過ぎる山縣有朋の指揮で戦線は膠着したが、高杉晋作率いる遊撃隊が下関から合流し根拠地の赤村を急襲すると政府軍は総崩れとなった。高杉晋作は萩まで攻込む腹であったが、またも山縣有朋が慎重論を唱え已む無く休戦協定を結んだ。高杉晋作は藩庁から椋梨藤太ら俗論党幹部を一掃し正義派が政権を奪回した。長州維新の大立者である高杉晋作は、「艱難は共にできるが富貴は共にできない」と言って藩政に参加せず、禁門の変後に失踪中の木戸孝允を呼戻し指導者に据えた。高杉晋作は、念願の西欧視察を実行に移すべく藩庁の許可を得て1千両をもらい伊藤博文を伴い長崎へ赴いたが、グラバーから第二次長州征討が近いと聞き急ぎ長州へ戻った。なお、高杉晋作が藩庁から分捕った1千両は行方知れずとなり、高杉らが丸山遊廓で蕩尽したとも、別の藩費留学生の渡航費用に充てたともいわれる。
- 高杉晋作の身長は160cm足らずで少壮期より痩身でなで肩だったが、晩年は肺結核に侵れ更に痩せ衰えた。写真では男前に見えるが、長州人らしい細目の馬面で、少年期に患った天然痘のせいであばた面だったという。大の遊興好きで、三味線上手で自作のどどいつを多く残している・・・功山寺挙兵後にようやく参戦に踏切った奇兵隊の山縣有朋に贈った歌「わしとお前は焼山かつら うらは切れても根は切れぬ」、遊女に贈った戯歌「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」、辞世「おもしろき ことをなき世を おもしろく」・・・。
- 徳川慶喜の策動により第二次長州征討が勃発し幕府軍は芸州口・石州口・大島口・小倉口から山口へ進軍したが(四境戦争)、山陽道を守る高杉晋作の軍艦奇襲により大島口から撃退され、山陰道では大村益次郎が浜田城を攻落し石州口を封鎖した。小倉口が決戦場となったが、作戦上の意見対立から熊本藩兵が戦線離脱し、大阪城に陣取る将軍徳川家茂の急死を知った小倉藩主・老中の小笠原長行は本営を抜け出し長崎へ逃走、孤立した小倉藩兵は自ら城に火を放ち小倉城は落城、長州藩の勝利が決定的となった。家茂から徳川家の家督を継いだ徳川慶喜は、自身の長州大討入りを宣言したが小倉城陥落を知り断念した。徳川慶喜から講和交渉を一任された勝海舟は、安芸厳島へ赴き長州藩代表の井上馨・広沢真臣と会談し止戦協定を結んだが、徳川慶喜は二面外交の策を弄し朝廷に工作して征長停止の停戦の勅命を得たうえ小栗忠順が推進するフランスとの同盟(売国的条件による借款と軍事支援)に飛付いた。決死の覚悟で敵地に乗込んだ勝海舟は激怒し辞職願いを叩き付けて江戸へ帰った。翌年長州藩は小倉藩とも講和し完勝で四境戦争を終結、武力政権たる徳川幕府の権威は地に落ちたが、面従腹背の徳川慶喜はフランスを頼りに巻返しを図った。戦勝の立役者である高杉晋作は、病身に鞭打ち最前線で戦闘指揮にあたったが肺結核の病状が悪化、小倉城陥落を見届けると遂に動けなくなり、井上馨や伊藤博文に「ここまでやったのだからこれからが大事じゃ、しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」の言葉を遺し27歳の若さで病没した。山縣有朋は結核の感染を恐れ見舞いを避けたという。
- 戊辰戦争の越後長岡攻略戦で共に参謀を務めた山縣有朋(長州)と黒田清隆(薩摩)は事あるごとに衝突し、河井継之助への対応を誤り開戦に至らせた軍監の岩村高俊(土佐)の処遇を巡って対立はピークに達した。山縣有朋は、作戦ミスで僚友の時山直八を戦死させた岩村高俊を憎んでいたが(実は山縣自信の失策)、黒田清隆が岩村を「朝廷の権威を笠に着て空威張りする奴だ」と責めると山縣は「若気の至りに過ぎない」と援護に回り、岩村が軍曹に降格されると山縣が参謀辞任を申出る騒ぎとなった。官軍司令官の西郷隆盛は両参謀の不仲を懸念し吉井友実を仲裁役に立て和解させたが、黒田と山縣の犬猿の仲は終生のものとなった。
- 長州藩の木戸孝允は、戊辰戦争の最中に早くも郡県制による中央集権制化を構想し三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出、このときは時期尚早として見送られたが、戊辰戦争の帰趨が定まり世が落着くと長州藩主毛利敬親に率先して版籍奉還するよう建言し承諾を得た。1869年、木戸孝允は薩摩藩の大久保利通・土佐藩の後藤象二郎と連携し薩長土肥の4藩主連署で朝廷に上表を提出させ、全藩主が追随して領地(版図)と領民(戸籍)を天皇へ返還した(版籍奉還)。この時点では旧藩主がそのまま知藩事に任じられ実質的変動はなかったが、1871年木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛は薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設、幕府を倒した朝廷の権威と直轄軍の武力を背景に、藩を廃止して中央集権化し地方統治を中央管下の府県に一元化する廃藩置県を断行した。版籍奉還で知藩事へ横滑りした旧藩主は領国支配権を召上げられ原則東京在住を義務付けられたが、十分な身分と収入を補償され、表立った反対運動は起らなかった(薩摩藩の島津久光のみは鹿児島に引篭り生涯反抗姿勢を続けた)。「維新の三傑」の連携プレイで最初にして最大の難関をクリアした明治政府は、殖産興業と徴兵制導入で富国強兵に邁進、財政を圧迫する士族特権を秩禄処分で剥奪し、1877年西南戦争で西郷隆盛を斃し不平士族反乱を根絶、維新から僅か10年で近代的中央主権国家の礎を築いた。
- 明治政府は王政復古に功労のあった公家・大名・士族に対して家禄の他に賞与として賞典禄を下賜した。支給期間によって永世禄・終身禄および年限禄の3種に分類される。最高は公家の三条実美・岩倉具視の5千石、士族では西郷隆盛の2千石が最高で、大久保利通・木戸孝允・広沢真臣1800石、大村益次郎1500石、後藤象二郎・板垣退助1000石、由利公正800石、黒田清隆700石、山田顕義・山縣有朋・前原一誠600石、寺島秋介450石、福岡孝悌・辻将曹400石、桂太郎250石、江藤新平・島義勇・土方久元100石と続いた。決めたのは大久保利通と木戸孝允だが、薩摩藩士の数が少な過ぎ、長州藩士では高杉晋作と共に長州維新を成遂げた井上馨や伊藤博文の名がないのに大した功の無い広沢・前原・寺島・桂が選ばれている。後世からみても不自然極まる論功行賞であり、伊藤はこの件で「いつまでも家人扱いする」木戸孝允に失望し大久保利通へ鞍替えした。
- 廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立(兵制論争)、大久保利通が士族擁護に傾き1871年薩長土3藩供出の士族兵による御親兵が創設された。西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。兵制論争に敗れた大村益次郎は、辞表を出したが木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に京都河東操練所(士官訓練施設)など軍事施設の設置、兵学寮の開設とフランス人教官の招聘、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した。なお京都河東操練所には、後に陸軍長州閥を仕切る児玉源太郎や寺内正毅らが学んだ。さて、大村益次郎没後の1873年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が断トツで多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。が、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命し、運よく軍のトップに立った山縣有朋は大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築、配下で陸軍を牛耳り陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へ受継がれた。山田顕義と与党の鳥尾小弥太・谷干城・三浦梧楼らは、フランスの国民軍に近いものを構想し、山縣流の外征を前提とした軍備拡張は国家財政の重荷となり国力を弱めると主張したが容れられなかった。
- 日本との国交を拒絶する李氏朝鮮に修好条約締結を迫るため西郷隆盛は自身の派遣を閣議決定したが(征韓論)、遣欧使節より帰国した岩倉具視・木戸孝允・大久保利通と大隈重信・大木喬任らの内治優先論に覆され西郷派遣は無期限延期となり、これを不服とする西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎ら参議と征韓論に同調する軍人・官僚600余名が大挙辞職し下野する大事件に発展した(明治六年政変)。征韓論の背景には廃藩置県で失業した50万人に及ぶ士族の雇用問題があった。政変後、革新の木戸孝允と保守の岩倉具視が相克し岩倉寄りの大久保利通が木戸を宥めつつ独裁的指導力を発揮する構図となった(大久保政府)。木戸孝允は、西郷・大久保を巻込んで廃藩置県を成遂げると「廃藩置県を断行して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならない」と憲法制定を政治目標に定め、学制と国民皆学の充実を図り、言論出版を奨励し、軍事においては大村益次郎のフランス流市民兵構想を後援した(大村は暗殺され山縣有朋らが「天皇の軍隊」に仕立てる)。木戸孝允の基本理念は大久保利通の殖産興業・富国強兵に通じるものであったが、乏しい政府財政と人的資源を巡って優先順位や進め方で両者は対立、粘り強い戦略家の大久保が長州の伊藤博文・井上馨や肥前の大隈重信を自陣へ引込んで勝利し木戸孝允はヘソを曲げて放り出した(土佐の板垣退助や後藤象二郎は征韓論に与し下野)。木戸孝允と大久保利通の関係について、徳富蘇峰は「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる。要するに一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」と語り、松平春嶽は薩摩藩への恨み節もあろうが「木戸は至って懇意なり。練熟家にして、威望といい、徳望といい、勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、衆人の異論なからしむるは、大久保といえども及びがたし。木戸の功は、大久保の如く顕然せざれど、かえって、大久保に超過する功多し。いわゆる天下の棟梁というべし」と評した。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 台風で遭難した琉球藩御用船が台湾に漂着、乗員54名が先住民により惨殺された。明治政府は清政府に事件の賠償などを求めたが清政府は台湾は「化外の民」としてこれを拒絶、日本で台湾征討の機運が高まった。この事件を知った清アモイ駐在のアメリカ総領事チャールズ・ルジャンドルは「野蛮人を懲罰するべきだ」と明治政府を煽った。大久保利通は、佐賀の乱勃発で政治問題化した不平士族のガス抜きに丁度良いと考え台湾出兵を決断、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命して軍事行動の準備に入った。こうした薩摩系の動きに対し、長州系は征韓論を廃しておきながら台湾出兵を行うのは矛盾するとして反対し木戸孝允が参議を辞任し下野した。慌てた大久保政府は中止を決定したが、西郷従道が旧薩摩藩士を中核とする征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行、大久保は已む無しの態で追認を与え、征討軍は瞬く間に台湾を制圧した。清はイギリス駐日行使パークスを抱込んで抗議したが、大久保が自ら北京に乗込み交渉した結果、清は台湾出兵を「保民の義挙」と認め遭難民への見舞金10万両(テール)及び戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払うこと、これと引換えに日本は征討軍を撤退させることに合意した。政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保利通は、伊藤博文・井上馨を遣わして木戸孝允を慰撫し立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立の条件を呑んで参議に復帰させた。
- 木戸孝允は、西郷隆盛の征韓論を廃しながら台湾出兵を強行した大久保利通に反発し参議を辞任し下野したが、政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保は伊藤博文・井上馨を遣わして慰撫、憲法制定を志す木戸は立憲政体樹立・三権分立・二院制議会の確立を条件に参議に復帰し、直ちに三条実美・板垣退助と連名で奏上し大久保政府に「立憲政体の詔書」を発布させた。岩倉具視は辞任を仄めかし立憲に断固反対する姿勢を示したが、大久保利通が宥めた。木戸孝允は、二院制議会の実現に向け地方官会議を挙行したが大久保利通の内務省に抑えられ機能せず終わり、不平士族を逆撫でする性急な秩禄処分に異を唱えるが退けられ、病状悪化のため再び参議を辞任し西南戦争の渦中に西郷隆盛を案じながら病没した。
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 伊藤博文は、憲法問題に専念するため首相を辞して新設の枢密院議長となり、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎ら官僚を駆使しドイツ人顧問ロエスレルとモッセの助言を得ながら憲法草案を起草、枢密院で若干の修正を加えたのちに閣議を通した。大日本帝国憲法は、「神聖不可侵にして統治権を総攬する」天皇に絶対的君主権を与え、憲法自体も天皇から下された欽定憲法の形式をとった。天皇の下に帝国議会(立法)・内閣(行政)・裁判所(司法)を併置する三権分立制を採用し、「天皇大権」を輔弼する直属機関として統帥部(陸軍参謀本部・海軍軍令部)・枢密院(最高諮問機関)・内大臣(側近)・宮内大臣(皇室事務)を置いた。また、法令の規定外に薩長重鎮らが構成する元老院が設けられ(後に重臣会議に転化)、総理大臣をはじめ国務大臣の実質上の指名権を掌握し絶大な権力を握った。貴族院(選挙制)と衆議院(勅撰および互選制)からなる帝国議会の権限は、天皇の立法行為に対する「協賛権」に制限されたが、予算案・法案の成立には両院の同意が必要とされたため立法府の行政府に対する牽制機能は十分に在り、藩閥政治から政党政治への移行を促す要因となった。が、伊藤博文が軍部を握る山縣有朋らと妥協した結果、軍事権(統帥権)を三権から分離し絶対君主たる天皇の専権事項としたため文民統治の機能を欠き、天皇および側近のチェック・アンド・バランスが崩れると軍部の暴走を許すという構造的欠陥を内包しており、実際に軍部は統帥権を振りかざして軍国主義化に邁進し軍部大臣現役武官制により内閣(行政権)をも脅かす存在となった。
- 明治維新から日清戦争まで僅か27年の間に日本は近代的軍隊を創り上げたが、陸軍の実務面では川上操六の功績が大きく「近代陸軍の創始者」と称された。薩摩藩士の川上操六は20歳で戊辰戦争に従軍、そのまま新政府軍へ進んで頭角を現し、西南戦争で軍歴を積み薩摩軍閥のホープと目された。軍隊の近代化を急ぐ明治政府は大山巌(薩摩)陸軍卿を団長とする軍事調査団を欧州へ派遣、随行した川上操六は同年生れの桂太郎(長州)と意気投合し、普仏戦争でフランスを下したドイツ陸軍に倣った軍制改革を決意した。軍事研究のため再び渡独した川上操六は(長州の乃木希典と同行)「近代軍制の創始者」と称された独軍参謀総長モルトケおよびワルデルゼー参謀次長に師事し、1年半みっちり学んで帰国すると参謀本部次長に復職し(参謀総長はお飾りの有栖川宮熾仁親王)大山巌陸相のもと矢継ぎ早に軍制改革を断行した。川上操六は先ず、陸軍省との区切りが曖昧で影が薄かった参謀本部の改革強化に乗出し「作戦計画の府」に恥じない組織に変貌させ、藩閥に拘らず有能な人材を集め育成したため参謀本部はエリート集団へ様変わりした。参謀本部に詰め切りの川上操六は夜は毛布にくるまって寝ながら一心不乱に陸軍改造事業に没頭し、師団制の整備充実・軍備兵制の近代化はもとより、戦術・情報・操典・兵站・衛生・通信・運輸・測量・行軍に至るまで全陸軍のあらゆる軍制が刷新され、早くも3年目の1892年には川上改革は一段落を迎えた。40歳そこそこで陸軍の近代化を牽引し参謀本部を「創始」した川上操六は「作戦の神様」と称され、長州閥の調整や軍政面を担当した桂太郎・児玉源太郎と共に「陸軍の三羽鴉」に数えられた。朝鮮を巡り清との関係が破綻すると伊藤博文首相は作戦会議を開催、軍制改革を完了した川上操六は「陸軍は勝てる」と断言し陸奥宗光外相と共に首脳陣を日清戦争に踏切らせ、征清総督府参謀長に就き内地から陸軍の出師計画や作戦軍略を差配した。川上操六は「日本海軍の父」山本権兵衛に比肩する偉業を果し、政治や藩閥に距離を置く良質な陸軍首脳であったが、日清戦争で死力を尽くし戦後4年目に惜しくも50歳で病没した。
- 陸軍から分離発足した海軍は境界が曖昧で、海相の西郷従道さえ陸軍中将のままであり、上層部には海軍の素人が多かった。海相官房主事に任じられた山本権兵衛は人事と統帥部の分離独立を掲げ大胆な改革を断行、薩長藩閥を問わず96人もの将官佐官をリストラ(予備役編入)する一方で斎藤実(仙台)・加藤友三郎(広島)・岡田啓介(福井)ら海軍兵学校出身者を積極的に登用、海軍は山縣有朋の長州閥が牛耳る陸軍と異なりオープンな組織となった。なお、加治屋町の先輩東郷平八郎も整理リストに入っていたが山本権兵衛の一存で残された。急激な改革は軍人のみならず新聞の酷評を受け世論も反発、大ボスの山縣有朋が山本権兵衛退治に乗出したが、山本は「閣下」と煽てて篭絡し応援の井上馨らも理路整然と説伏せた。山場を乗切った山本権兵衛は、日清戦争準備の作戦会議で海軍輸送の重要性を説き統帥部(海軍軍令部)の独立に成功、終戦直後には対露開戦の不可避を予見しロシアの軍拡を上回る速度で軍艦を建造し10年以内に戦艦六隻・重巡洋艦六隻を整備するという「六六艦隊計画」に着手、西郷従道から海相を継ぎ戦争準備に邁進した。正に10年後に桂太郎内閣が対露開戦を決定すると、山本権兵衛海相は軍令部も掌握して作戦を指揮し連合艦隊に出撃命令を下した。連合艦隊司令長官は常備艦隊司令長官の日高壮之丞(薩摩)の順送りが筋だったが、日高の独断専行を嫌う山本権兵衛は命令遵守型の東郷平八郎への交代を強行、懸念を示す明治天皇には「東郷は運の良い男ですから」と奏上した。加治屋町の先輩で陸軍総司令官の大山巌は出征直前に山本権兵衛を訪ね内地で早期講和に尽くすよう依頼、奉天会戦・日本海海戦の勝利で日露戦争の帰趨が決すると山本海相は伊藤博文・井上馨・陸軍の児玉源太郎と共に桂太郎首相の無謀な継戦論を抑え日本の国益を護った。
- 列強の対日政策のリーダーシップをとるイギリスは、アジアで南進政策を進めるロシアへの対抗勢力として日本を重視するようになり、明治政府の悲願である不平等条約改正のチャンスが訪れた。松方正義内閣の外相青木周蔵が大津事件で引責辞任した後を継いで、伊藤博文内閣の外相となった陸奥宗光(元海援隊士)が交渉にあたり、遂に領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃を勝ち取り、日英通商航海条約に調印した。アメリカ・フランス・ロシアなど他の条約国とも同様の改正が行われ、1899年に同時施行された。不平等条約の改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)は、伊藤博文内閣の快挙であったが、外相に陸奥宗光を起用したことも大きかった。陸奥は、坂本龍馬の海援隊で鳴らした猛者だが、維新後は薩長藩閥に恨みを抱き、西南戦争時の土佐派による政府転覆計画に連座して5年の実刑を食らった過去があった。政治家にとっては致命的な瑕疵であり、さらに政府要人暗殺リストに陸奥自身が伊藤の名を書き加えたことも発覚した。しかし、伊藤は、「カミソリ陸奥」といわれた奇才に期待をかけ、経歴に不信感を表す明治天皇を説得し、遂に陸奥宗光外相を実現させて条約改正を託した。条約改正は明治政府発足以来の悲願で、鹿鳴館外交に失敗して政治的権威を落とした井上馨、玄洋社社員の爆裂弾襲撃で右脚を失った大隈重信、大津事件で更迭された青木周蔵と、外交責任者にも不幸をもたらし続けた大難題であった。陸奥は、日清戦争とその講和交渉においても切れ味を発揮し、次代を担う大政治家となるべきところであったが、惜しくも1897年に病没した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 伊藤博文政府は下関条約で獲得した台湾の植民地経営にあたり、軍隊を派遣して独立運動を制圧し台北に台湾総督府を設置した。台湾総督には樺山資紀(海軍大将)・桂太郎(陸軍中将)・乃木希典(陸軍中将)と軍人が相次いで就任し強硬な軍政が敷かれたが、ゲリラ的な抵抗運動は鎮まらず、日清戦争を上回る1万余の戦病死者を出し台湾統治は難航、特にマラリア感染による人的損耗が深刻で台湾人への権限委譲が急務となった。難局打開を図る日本政府は1896年台湾総督府条例で軍政から民政への方針転換を決定し、台湾総督府の開設業務を担当した児玉源太郎(陸軍中将)が自ら第4代総督に就任し内務省医系技官の後藤新平を民政局長に抜擢、民生向上と警察力強化のアメムチ政策を駆使し植民地経営を軌道に乗せることに成功した。ただ、1902年頃から都市部の抗日運動は沈静化したものの、山岳部を拠点とする高砂族は根強くゲリラ活動を続けた。後藤新平が政界へ転じ台湾を去った後も、児玉源太郎は死の直前まで8年以上も台湾総督を兼任し民政重視路線を承継し、土地調査事業による土地制度の近代化、電気・水道・交通インフラの整備、アヘンや樟脳の専売制実施、台湾銀行の設立、台湾製糖会社の設立、台北から高雄までの台湾縦貫鉄道の敷設などに膨大の資本を投入、清朝から「化外の民」と野蛮視された台湾は瞬く間に日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。なお、台湾統治の実績を買われた後藤新平は、日露戦争後に児玉源太郎・桂太郎の推挙で南満州鉄道会社(満鉄)の初代総裁に就任し、再び壮大な国家建設を推進し満州経営の礎を築いた。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 日露戦争は結果的に勝ったから良かったものの、当時世界最強を謳われた陸軍とバルチック艦隊を擁すロシア帝国への挑戦は後進国日本にとって国運を賭けた大博打であった。ロシアが日本の国土防衛の要である朝鮮に固執したため妥協の余地は無くなったが、伊藤博文は井上馨と共に「日露協商」を主張し「満韓交換論」まで持出して開戦阻止に努めた。桂太郎内閣が日英同盟を後ろ盾に日露戦争に踏切ると、伊藤博文は腹心の金子堅太郎をアメリカに送込みセオドア・ルーズベルト大統領を引張り出して早期講和を実現(ポーツマス条約)、井上馨は日銀副総裁の高橋是清を米欧に派遣し外債発行で膨大な戦費調達を成功させた。また台湾・朝鮮の植民地経営においても、伊藤博文と井上馨は国際協調・民政路線を貫き、伊藤は老骨に鞭打って初代韓国統監に就任、山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎ら陸軍長州閥や大隈重信・加藤高明・小村寿太郎ら対外硬派に対する抑え役であり続けた。が、皮肉なことに朝鮮独立運動家を称する安重根がハルビン駅頭で伊藤博文を射殺、伊藤が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり、格好の口実を得た陸軍長州閥と対外硬派は翌年韓国併合を断行、初代朝鮮総督に寺内正毅を据え第二次大戦終結まで軍政を敷いた。ただし伊藤博文を腐心させた抗日「義兵運動」は、日本が道路・橋・ダムなどの社会インフラ整備と工場建設(主に北朝鮮)・農地開拓(南朝鮮)を推進し破綻状態の朝鮮経済・民生を大幅に改善させたことで沈静化へ向かった。伊藤博文の国際協調・平和主義路線は政友会の西園寺公望らへ引継がれたが抑止力の低下は如何ともしがたく、後に政党政治も軍部に取込まれ軍国主義はエスカレートしていった。
- 桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
- 桂太郎の出世の原動力は長州人にして中谷正亮の甥という素性が第一だが、人身掌握の才能も大きかった。首相となってからは「ニコッと笑ってポンと押す」ことの形容で「ニコポン宰相」と称されたが、少壮期から長州罰首脳の歓心を買うことに長けていた。兵学寮を自己都合で退校した桂は本来なら軍籍に復帰できないところであったが、木戸孝允の温情で帰国後すぐに大尉に任官されて陸軍省に出仕した。賞典禄250石を考えると佐官でもおかしくなかったが、逆に「陸軍の秩序のためには大尉ではなく少尉に」と申出たうえに、徴兵制に賛意を表して、大いに山縣有朋の歓心を買った。徴兵制は、大村益次郎の構想を引継いで山縣が実現させた軍制改革で、当時賛成する者は少なかった。さらに、ドイツ軍流の軍政(陸軍省)と軍令(参謀本部)の分離など山縣の意に添う献策をし、瞬く間に山縣の腹心に納まって出世街道を驀進した。一方、最初の恩人で気難しい木戸孝允に対する気配りにも抜かりがない。駐在武官としてドイツの地にあっても毎月の手紙を怠らず、「木戸尊大人様閣下」という仰々しい宛名でなりふり構わず木戸を持上げ、木戸の愛妻松子夫人に高価な贈り物をせっせと貢いで木戸を喜ばせた。
- 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。
- 日露戦争開戦を前にして、参謀本部の大黒柱であった田村怡与造次長が急死した。陸軍内に適当な後任がおらず人選は難航したが、内相兼文相の児玉源太郎が自ら降格人事を行い参謀本部に入った。明治維新から第二次大戦に至るまで降格人事を承諾した軍人は児玉源太郎の他に無く、己の能力を頼み国難に際し面子を捨てる大英断だった。満州軍総参謀長として戦地に入った児玉源太郎は「大将人形」に徹する大山巌総司令官のもと思う存分辣腕を振るい、戦力倍するロシア軍を相手に遂に辛勝を掴んだ。児玉源太郎の人物像は『坂の上の雲』の司馬遼太郎史観で乃木希典と対極の大名将に脚色され逆に胡散臭くなってしまったが、第三軍の203高地争奪戦を除外しても児玉の偉業が萎むことはないだろう。陸軍大学校教官・臨時陸軍制度審査委員会顧問として日本の近代陸軍建設を指導したドイツ軍人のメッケルは児玉源太郎の軍才を高く評価し「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と太鼓判を押したという。奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ舞戻り、戦勝に浮かれてウラジオストク進軍・沿海州占領を主張する大本営内の強硬論を封殺し、桂太郎内閣に即時講和を説いた。継戦余力が尽きた現地日本軍の実情を知らない桂太郎首相は講和を渋ったが、陸海軍トップの児玉源太郎と山本権兵衛海相が継戦不可能と断じるのを覆すだけのパワーはなく、伊藤博文・金子堅太郎が準備したルーズベルト米大統領の講和斡旋に乗る道を選択した。児玉源太郎はポーツマス条約妥結まで講和誘導に奔走したが、賠償金要求に拘る桂太郎首相に手を焼き「桂のバカが金もとれる気でいる」と側近にこぼしたという。児玉源太郎は台湾・朝鮮・満州の植民地経営では軍政を主張するタカ派であったが、引くべきは引く現実的な判断力に優れ、台湾統治や日露講和の難局で抜群の器量を発揮した。死力を尽くした児玉源太郎は日露戦争の翌年に病没したが、「軍神」を祀る児玉神社が故郷の山口県周南市と神奈川県江ノ島に建てられた。東京赤坂に乃木希典を祀る乃木神社があるが、どちらかを拝むなら間違いなく児玉神社だろう。
- 日露戦争中、明石元二郎陸軍大佐は、ロシア政府の後方攪乱を画策し、山縣有朋の承諾を得て100万円(現在の価値で400億円以上)もの工作資金を獲得、スパイとしてロシアに潜入し膨大な活動資金を提供して革命運動を支援した。血の日曜日事件はロシア第一革命ともいわれロシア革命の発端となった大事件であったが、ロシア政府の日露戦争早期講和に少なからぬ影響を与えたと考えられ、結果として明石の謀略は成功裏に帰した。
- 陸軍の二大巨頭として肩を並べた山縣有朋(長州)と大山巌(薩摩)は人格も業績も対照的で、山縣の悪名と反比例するように大山の名望は高まった。「任せるタイプ」の大山巌が日清・日露戦争で比類ない武勲を挙げたのに対し、日清戦争で現地司令官にシャシャリ出た山縣有朋は大本営の命令を無視して敵中に深入りし大損害を蒙って解任・召還され、雪辱に燃えた日露戦争では総司令官を買って出るも幕僚の反対を知る明治天皇の英断により日本国内に留め置かれた。また、軍人に徹し首相にならなかった大山巌に対して、山縣有朋は「軍人勅諭」で軍人の政治介入を戒めながらも自分は超積極的に政治介入して文治派・伊藤博文の足を引張り、首相退任後も院政を敷いて老害を撒き散らし、シビリアンコントロール崩壊の元凶として重大な禍根を残した。さらに、大山巌・西郷従道・山本権兵衛ら薩摩人が派閥作りに恬淡だったのに対し、名誉欲と権力欲が旺盛な山縣有朋は桂太郎・寺内正毅・田中義一ら配下の長州人で陸軍中央を固め死ぬまで陸軍長州閥に君臨した。さらに、山縣有朋は金銭にも汚く、山城屋事件の大ピンチを西郷隆盛に救われた後も懲りずに井上馨の三井財閥など政商と癒着して私財を蓄え、「椿山荘」「無鄰菴」などの豪華庭園創りに精を出した。
- 鹿児島城下加治屋町に育った大山巌は15歳年長の従兄西郷隆盛に随従し「精忠組」に加盟、西郷従道と共に有馬新七らの急進派に属し「寺田屋騒動」に遭遇したが、薩英戦争の勃発で謹慎を解かれ砲台将校として激戦を経験した。薩摩藩士は英兵の上陸を阻み錦江湾から英艦隊を追出して薩英戦争は痛み分けに終わったが、鹿児島城下は艦砲射撃で焼土と化し洋式兵器の威力と攘夷の不可を思い知らされた。アームストロング砲に驚愕した大山巌は最たる者で、西郷隆盛に願出て江戸へ遊学し江川坦庵の砲術塾に学び、鹿児島城下に「砲隊塾」を開き大砲研究と後進指導に打込んだ。「大砲弥助どん」(弥助は巌の旧名)と称された大山巌は洋式大砲を改善した「弥助砲」も開発し、戊辰戦争が起ると砲隊を率いて鳥羽伏見の緒戦から函館戦争まで転戦し重傷を負いつつ華々しい戦功を挙げた。新政府軍では西郷隆盛がトップに君臨し、大山巌は欧州遊学で箔を付け(普仏戦争を観戦)累進したが、西郷は大久保利通との征韓論争に敗れて鹿児島へ退き(明治六年政変)「私学校党」に担がれ西南戦争を引起した。苦渋の決断で大久保利通政府に留まった大山巌は官軍司令官として城山攻撃を指揮、西郷隆盛と共に篠原国幹・村田新八・桐野利秋ら薩摩将官が悉く戦死し陸軍の主導権は山縣有朋の長州閥に握られたが、残った大山巌と西郷従道は薩摩閥の首領に浮上した。欧州軍事調査団を率いた大山巌は長州の桂太郎と薩摩の川上操六を握手させドイツ流の陸軍建設を後援し、文官へ転じた山縣有朋の後を受け桂太郎に交代するまで16年以上も陸軍卿・陸軍大臣を務めた。日清戦争が起ると大山巌は陸相ながら第2軍司令官に就任し旅順・威海衛の攻略戦を指揮、日露戦争では明治天皇より陸軍総司令官の大任を託され、西郷隆盛譲りの巨体(体重82㎏超、布袋のような太鼓腹、頸抜きで直接胸につづく重厚きわまる二重あご)と鷹揚な人格で「大将人形」に徹して児玉源太郎参謀長らに作戦指揮を任せ切り勝利の立役者となった。公爵・元帥・元老に栄達した大山巌は生涯軍人に徹して晩節を汚さず74歳まで長寿を保ったが、西南戦争後鹿児島に帰郷することはなかったという。
- 戦勝に沸く国民に温かくポーツマスへと送り出された首席全権小村寿太郎であったが、帰国時に待っていたのは対露強硬派が扇動する民衆の罵声で、泣き崩れる小村を伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸に連れて行ったという。桂太郎政府は日露戦争で日清戦争の8倍近い18億円以上もの戦費を費やし、1904年の財政支出は前年の約2.5倍に増大、国民は増税を強いられて不満が溜まっていたところに、期待していた賠償金を得られず怒りが爆発した。対露強硬派により講和条約破棄を訴える集会が日比谷公園で開催されると、3万人の怒れる民衆が参集し、遂に暴徒化して各地の警察署や派出所を次々と襲撃、日比谷公園近くの芳川顕正内相官邸や、政府の御用新聞といわれた国民新聞の社屋に放火して全焼させるという大騒擾に発展した。警察だけでは混乱を収拾できないと判断した政府は、戒厳令を施行し、近衛師団を出動させて鎮圧した。この日比谷焼打事件では、約2000人が逮捕(うち起訴308人)され、死者17人、負傷者約2000人、警察署2ヶ所・派出所203ヶ所などの焼失被害が生じ、講和反対・戦争継続を訴えた新聞約30紙が発禁処分となった。さらに、混乱は東京にとどまらず全国へと波及した。
- ポーツマス条約で獲得した関東州(遼東半島南端部、旅順と大連を中心とする日本租借地)の行政と、東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)の保護管理を目的として関東総督府が設置された。本部は遼陽に置かれ、初代関東総督府には長州出身の大島義昌陸軍大将が任命された。ロシアの脅威に備えるため強硬な軍政が敷かれたが、文治派の伊藤博文や西園寺公望が児玉源太郎ら軍部の反対を退けて民政に転換、関東都督府に改組され本部は旅順に移された。
- 南満州鉄道会社(満鉄)は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)等の鉄道と付属地の炭坑の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1077倍もの応募を集め、大倉喜八郎(長州閥系武器商人)のように1人で全額を申込む者もあった。満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。満鉄周辺には野心的な官僚や事業家が参集して関連事業を拡げ鉄道・鉱山のほか都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなど多種多様な分野に拡大、満州事変の勃発で軍政へ移行する1931年まで満鉄は満州計略の中核を担った。なお、アメリカは、日露戦争講和で日本を援けたが、中国進出への遅れを挽回するため日本の満州権益に関心を示し、早くも満鉄設立に際してアメリカ人実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営を持ち掛けた。日本政府は、桂・ハリマン協定によりこの提案を受入れようとしたが、小村寿太郎外相の反対により拒否した。アメリカでは反日機運が高まって日本人移民排斥運動が始まり、対外硬派の加藤高明外相が辞任する事態となった。
- 日清戦争で初めて中国からの独立を果した李氏朝鮮(大韓帝国)だったが、日露戦争もどこ吹く風で親日・親露・親中に分れ不毛な派閥抗争に終始、日露戦争でロシアの脅威を退けた日本政府は、有名無実の李朝から外交権を奪って保護国化し、首都の漢城(ソウル)に韓国統監府を置き監視体制を強化、初代韓国統監には文治派の伊藤博文が就任し山県有朋ら軍閥を抑え朝鮮守備軍の指揮権も掌握した。なお、李朝には大勢の世襲「武班」はいたが「軍隊」は1万人足らずで国防どころか国内の治安維持も覚束ない有様で、儒生を核とする朝鮮全土の農村組織も「家」あって「国家」無き朱子学に侵され著しく統率を欠いていた。親露派の高宗はオランダ・ハーグの万国和平会議に密使を送り日本の非道を訴えたが同類の帝国主義諸国は黙殺、日本は高宗を退位させて純宗を擁立し(大韓帝国最後の皇帝)内政権を取上げ名ばかりの李朝軍も解体した。「小中華の弟の反逆」に抗日運動(義兵運動)が沸起り1908年には1万人もの死者が発生、穏健統治の限界を悟った伊藤博文は韓国統監を辞任し、民政派の曽禰荒助が後継するも機能せず、伊藤はハルビン駅頭で安重根のテロに斃れた。死に臨む伊藤博文が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり穏健派重鎮の暗殺死は軍部と桂太郎首相・小村寿太郎外相ら武断派に格好の口実を与え、翌年には陸軍の寺内正毅が乗込んで韓国併合を断行し初代朝鮮総督に就任した。以後、朝鮮総督は陸海軍大将が歴任したが穏健な文化統治への転換が図られ、日本による国家建設で民生の劇的改善が進むなか小規模暴動も「三・一独立運動」で終息した。韓国併合後、日本は赤字経営を続けながら産業インフラ整備と農地開拓を推進し、内地徴用を含む雇用創出で総失業状態を解消、生活向上で韓国人口は倍増し、スラム街は近代都市へ生れ変り、100しか無かった小学校は6千近くへ増え朝鮮人の識字率は6%から一般国並へ躍進、西洋列強の収奪モデルとは異なる対等な植民地経営で同化政策を推進した。が、第二次大戦に敗れた日本軍は米軍に執政権を明渡し退去、ソ連軍が殺到して朝鮮国土は南北に分断され、米対中ソの朝鮮戦争で未曾有の戦禍を蒙った。
- 桂太郎は、高まる護憲運動に対抗するため、政党嫌いの山縣有朋の反対を押し切って自派の官僚と議員を糾合し桂新党「同志会」を立上げた。桂太郎総理のもと後藤新平・河野広中・大浦兼武・加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸らが幹部会を形成し党運営にあたった。伊藤博文・陸奥宗光・西園寺公望に属し桂太郎内閣攻撃の急先鋒だった加藤高明は「外相のポスト欲しさ」に寝返りを打ち、桂の急死を受けて同志会総理に納まった。同志会は政友会に匹敵する二大政党へ発展、第二次大隈重信内閣の与党となり加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻禮次郎蔵相が主要ポストを占めた。その後も内閣交代の度に加藤高明内閣が取り沙汰されたが、唯一の元老となり首相指名権を握った西園寺公望に組閣を引延ばされ「苦節十年」寝返りのツケを払わされた。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 長州藩の下級藩士に生れた寺内正毅は、少年期から長州藩軍に駆出され16歳で戊辰戦争を転戦した。寺内正毅と児玉源太郎は同じ長州出身で同年生、共に京都河東操練所で大村益次郎の薫陶を受け、後年寺内は娘を児玉の嫡子(児玉秀雄)に嫁がせ縁戚を結んだ。寺内正毅は、山田顕義(長州人で大村益次郎の愛弟子)に属し、兵制論争で山田が失脚すると山縣有朋に鞍替えして順調に出世を続け、西南戦争で右手に後遺症を負ってからは軍政や教育畑を歩み、初代教育総監から日露戦争時の陸相となり初代朝鮮総督を6年務めた後、山縣の傀儡首相に担がれた。日露戦争の英雄で陸軍長州閥を担うべき児玉源太郎の早世により凡庸な寺内正毅にお鉢が回ってきた次第だが、時代遅れの「超然主義」を振りかざす寺内首相は、顔貌が酷似するビリケン人形と非立憲(ひりっけん)に引掛けて「ビリケン内閣」と揶揄された。寺内正毅内閣は、ロシア革命に乗じて「シベリア出兵」を断行するも赤軍の猛反撃に遭い失敗、日本は第一次世界大戦の特需景気に沸いたが野放図な輸出は国内の物資不足を招き「米騒動」が全国へ波及、鎮圧軍を発動した寺内内閣は国民の非難を浴び総辞職に追込まれた。翌年寺内正毅は急逝し、三宅坂に北村西望作「寺内正毅元帥馬上像」が建てられたが(功山寺の高杉晋作一鞭回天像のマネか)、東京市民の轟々たる非難に晒され警視庁が厳戒態勢を敷く事態となった。辛くも生延びた寺内正毅像は、太平洋戦争中の金属没収に供され溶解への末路を辿った。
- ロシア革命に乗じて日本の勢力拡大を目論む山縣有朋・寺内正毅首相ら軍部は、ソ連軍の捕虜となったチェコスロバキア軍兵士の救出を口実にアメリカ・イギリス・イタリア・カナダと共同でシベリアに派兵した。寺内正毅首相は、陸軍長州閥に連なる対外硬派の後藤新平を内務大臣から外務大臣に転任させシベリア出兵を強力に推し進めた。連合軍の総勢8万5千人のうち7万余を占める日本主導の軍事作戦であったが、民衆ゲリラ部隊の激しい抵抗に遭い最終的に5千人もの死者を出して敗退、シベリア出兵は失敗に終わった。各国はいずれも1920年半ばまでに撤兵を完了したが、日本軍のみは1922年までシベリアに駐留を続けた。
- 第一次世界大戦の特需景気で輸出が増大、貿易収支は黒字に転換したが、そのぶん国内物資は生産が追いつかず諸物価が高騰、わずか4年の間に物価は2.3倍、米価は1.8倍に跳ね上がった。農村では、固定率の地租を払えばよい自作農層は米価高騰で潤ったが、小作農などの貧しい庶民層はたちまち困窮した。米価高騰を阻止しようと富山県魚津町の漁村の主婦が騒動を起したことに端を発した「米騒動」は、「大正デモクラシー」の波に乗ってまたたく間に全国に広がり、米穀商や資産家宅を襲撃する事件が頻発、寺内正毅内閣は軍隊を出動させて鎮圧を図ったが、国民から非難を浴びて総辞職に追込まれた。1922年には日本農民組合が結成され、小作争議は増加の一途を辿り、農村の困窮化は昭和の暗い世相に影を落とすこととなる。
- 田中義一は長州藩出身だが、12歳のとき萩の乱で反乱軍に加わったことで前途を塞がれた。長崎・対馬・松山を転々し独学を続けたが、陸軍教導団で受験資格を獲得し2・3年遅れで陸軍士官学校に進学、校長は萩の乱で鎮圧軍を指揮した三浦梧楼だった。田中義一は晴れて陸軍長州閥に連なり、日清戦争では第一師団副官として動員計画を担い第一師団参謀に昇進、参謀本部勤務を経てロシア留学に出された。明朗な田中義一は部下に慕われ、30歳前の結婚まで兵卒と営内居住を共にした。陸軍主流(ドイツ留学→作戦担当)から外れた田中義一は陸士同期の山梨半造や大庭二郎に水を空けられたが、ロシアで情報収集任務と語学習得に励みつつ外遊生活を謳歌、海軍駐在武官の広瀬武夫と共に女優出身のロシア帝室付ダンサーからダンスを習び、ギリシア正教に入信、ロシア将校の妹と浮名を流した。日露開戦が迫ると、帝政ロシアの弱体化を確信する田中義一は開戦を主張、不戦(日露協商)派の伊藤博文に嫌われロシア革命に身を投じようと思い詰めたが、ロシア通ゆえに大本営参謀本部に召喚されロシアの動員能力を過小に偽り開戦を促した。日露戦争の軍令は児玉源太郎参謀総長の独壇場で参謀に活躍の場は無かったが、田中義一は山縣有朋・井上馨ら長州閥首脳に認められ陸軍省軍務局長を経て原敬内閣で陸相に栄達した。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋の死で田中義一は陸軍長州閥首領へ躍り出たが、在郷軍人会で独自の勢力基盤を築き政友会とも協調関係を構築、普通選挙法で政友会が資金難に陥ると田中は陸軍機密費300万円の持参金を手土産に高橋是清から総裁を継ぎ首相に上り詰めた。高橋是清蔵相が積極財政で金融恐慌を収拾し「おらが首相」田中義一は大衆人気を博したが、足元の陸軍では長州閥打倒を掲げる永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が台頭し張作霖爆殺事件が発生、昭和天皇の意を受けた田中首相は事件究明を図るも配下の白川義則陸相・阿部信行次官・杉山元軍務局長まで敵対する上原勇作元帥に靡き、天皇から叱責された田中は陸軍との対決を避け総辞職を選択、間もなく急死した(自殺説あり)。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
山縣有朋と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照