奇兵隊幹部から運良く陸軍長州閥の首領に納まり汚職にまみれながら徴兵令を敷き外征のための軍事国家建設と政党弾圧に邁進、統帥権・軍部大臣現役武官制で文民統治を抹殺した軍部暴走の元凶
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
山縣 有朋
1838年 〜 1922年
0点※
家系・子孫
- 山縣家は足軽の下の中間、卒族の付属身分であり、実態は農民同然で長州藩では武士として扱われなかった。山縣有朋は、下関の豪商石川良平の娘友子を妻に迎えた。友子は1893年に病没したが、山縣有朋はその2年前から日本橋芸妓の貞子を囲い、友子の死に伴い正妻とした。友子は「馬関小町」と持て囃された美人で貞子も大変な美女だったが、山縣有朋は伊藤博文のような女好きではなく「庭園はつくったが女はつくらなかった」といわれた。山縣有朋は三男四女をもうけたが次女松子を除き全て早世したため、甥(姉寿子の子)の伊三郎に公爵山縣家を継がせた。山縣伊三郎は、ドイツ留学後、山縣有朋が牛耳る陸軍には入らず、徳島・三重県知事、逓信大臣、朝鮮総督、関東庁長官、枢密顧問官などを歴任した。跡取り息子に恵まれなかった山縣有朋は、閨閥作りに恬淡で政財界の有力者と姻戚関係を結ぼうとした形跡は無く、目立った子孫も出ていない。
山縣有朋と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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