四日市の老舗呉服商をスーパー「ジャスコ」へ業態転換し豊富な資金力を武器にM&Aと「スクラップ&ビルド」で流通再編を牽引したGMS王国「イオン」の創業者、マイカル買収で躍進したがダイエー再建に苦戦
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岡田 卓也
1925年 〜 年
60点※
岡田卓也と関連人物のエピソード
- 1905年呉服店最大手の「越後屋」が「三越」(三井+越後屋)へ改称し主要新聞の広告で「デパートメントストア」を宣言、1914年には日本初エレベーター装備の地上5階地下1階建の三越日本橋本店が開業し、日本独自の百貨店業態の興隆が始まった。なお越後屋は、伊勢松坂出身の初代三井高利が「現金掛値無し」(定価販売)を掲げ1673年に創業した「三井財閥のルーツ」である。これ以前の小売店は特定品種を扱う専門店ばかりで、商品の店頭陳列も値付もせず客をみて値段を決める商慣行が横行していたが、デパートの登場で小売業界は一変、顧客は店頭に陳列された多種多様な商品を目で見て手に取り値札で比較購買できるようになった。三越が始めた百貨店業態は瞬く間に日本中へ広がり、1931年には人口10万人以上の30都市のうち24都市で営業面積500坪以上のデパートが営業するに至った。三越・松阪屋・白木屋・松屋・阪急などは斬新な呼物の開発に凌ぎを削り、定番のレストラン・屋上庭園に続き動物園やスポーツランドも登場、家族連れで終日楽しめる総合娯楽施設として日本独自の発展を遂げた。なかでも阪急百貨店を創始した小林一三は、呼物の枠を超え「宝塚歌劇団」「東宝映画」を一大事業へ発展させた。三越「少年音楽隊」の人気に着目した小林一三は1913年「宝塚新温泉」の室内プール「パラダイス」の閉鎖跡地にステージを設け「宝塚唱歌隊」の営業を開始、忽ち大人気を博した温泉座興は本格演劇「宝塚歌劇団」(←宝塚少女歌劇団)へ発展し、1918年帝国劇場公演で東京進出を果し機関誌『歌劇』も創刊した。芸術家肌の小林一三は趣味で始めた演芸に巨費を投入、芸人養成の宝塚音楽歌劇学校を創立し、宝塚大劇場・東京宝塚劇場を建設した。有楽座・日本劇場・帝国劇場も買収し日比谷一帯を傘下に収めた「東宝」は、浅草の松竹と東京興行界を二分する大勢力となり、大同を期す小林一三は松竹の社外取締役にも就いた。第二次大戦中に東京宝塚劇場と東宝映画が合併し「東宝株式会社」が発足、東宝は小林一三の次男松岡辰郎の子孫へ受継がれ今日も「阪急東宝グループ」の一翼を担う。
- 1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。
- 1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。
- 1972年、戦後最長2798日の長期政権を閉じた佐藤栄作は自民党総裁の後任に実兄岸信介直系の福田赳夫を推したが、佐藤派を割って出た田中角栄が大平正芳(宏池会)・三木武夫・中曽根康弘らと「福田包囲網」を結成し「角福戦争」に勝利、高等小学校卒の野人宰相は「今太閤」と持て囃された。新潟の寒村出身の田中角栄は「裏日本」への利益誘導と格差是正を使命に掲げ「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」と宣言し(日本列島改造論)、公共工事ラッシュを巻起こしたが、間もなくオイルショックが起り列島改造は挫折した。今に続く「バラマキ」・土建行政・財政赤字・金権政治の元凶というべき田中角栄政権だが、外交面では自主路線を追求し後世に範を示す偉業を為した。通産相として国内繊維業者への巨額損失補填を断行し佐藤栄作内閣の「繊維密約」問題を片付けた田中角栄は、翌年首相に就くと3ヶ月も経たないうちに巨額の財政援助と引換えに「日中国交正常化」を達成した。佐藤栄作内閣の繊維密約違反に激怒したアメリカは電撃的なニクソン訪中・ドル兌換停止宣言(ニクソン・ショック)で報復したが、頭越しの日中国交正常化で田中角栄に果実をさらわれ、キッシンジャー国務長官は「汚い裏切り者どものなかで、よりによってジャップがケーキを横取りした」と憎悪を燃やした。さらに田中角栄首相は、日本の宿命的課題である独自資源の確保に乗出しソ連を含む世界各国を歴訪、産油国等を相手に派手な「資源外交」を展開し米政府と石油メジャーの神経を逆撫でした。こうしたなか立花隆が「田中角栄研究 その人脈と金脈」を著すと米国メディアから追及の火の手が上り、朝日新聞・読売新聞が煽り立て政治問題に発展、1974年田中内閣は総辞職に追込まれ資源外交も成果の無いまま頓挫した。とはいえ田中派は自民党最大勢力を保持し田中角栄は2年後を目処に首相に復帰する考えでいたが、キッシンジャー米国務長官と三木武夫首相の共同謀議「ロッキード事件」で刑事訴追され、10余年もキングメーカーに君臨しながら政権復帰は叶わなかった。
- 田中角栄は、毀誉褒貶はあるが今なお根強い人気と知名度を誇る野人政治家である。田中角栄は新潟の寒村から15歳で単身上京し建築技師となり「田中土建工業」を開業、肺炎で兵役を免れ理研の大河内正敏の庇護下で身代を築いた。戦後政界へ転じた田中角栄は吉田茂・佐藤栄作に属し1957年郵政相で初入閣、佐藤の政敵である池田勇人内閣でも盟友大平正芳の支えで要職に留まった。田中角栄は無学ながら100本を超す議員立法を行った政策通で、建築士法や道路法など土木関連法を案出し自ら推し進める様は「コンピュータ付きブルドーザー」と評された。剛腕の田中角栄は自民党幹事長として佐藤栄作内閣を支え、通産相を託されると国内繊維業界に2300億円の損失補填を断行し3年も膠着した対米繊維交渉を決着させた。が、佐藤栄作は後継総裁に岸信介直系の福田赳夫を指名、田中角栄は「田中派」で佐藤派を割り大平正芳・三木武夫・中曽根康弘らと結んで「角福戦争」を制し1972年念願の首相に就任した。経済成長に取残された「裏日本」の振興と格差是正を宿志とする田中角栄首相は、「日本列島を高速交通網(高速道路、新幹線)で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する」という「日本列島改造論」を標榜し建設ラッシュを巻起こしたが、オイルショックで挫折し福田赳夫の「総需要抑制政策」へ転換した。一方で田中角栄首相は自主外交に注力、巨額の財政援助を餌に「日中国交正常化」を引出すと、欧州・ソ連・中東など世界各国を歴訪し日本独自の資源確保に奔走(資源外交)、オイルショックでは産油国に理解を示し日本産業界の窮地を救ったが、頭越しの独走を米政府と石油メジャーは許さなかった。1974年「金脈問題」で田中角栄内閣は倒され、キッシンジャー米国務長官らの謀略「ロッキード事件」で復活を阻まれたが、金権選挙に強い田中派は最大勢力を保持し首相指名権を握る田中角栄は「目白の闇将軍」に君臨した。が、首相を出せない田中派では不満が募り、1987年竹下登・金丸信・小沢一郎らが造反し「経世会」を結成、脳梗塞に倒れた田中角栄は影響力を失い1993年刑事被告人のまま病没した。
- 福田赳夫首相はカーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を追求し、従米脱却に挑んだ岸信介直系の名に恥じない働きを示した。ベトナム戦争敗北の翌1977年、大統領に就任したジミー・カーターは直ちに在韓米地上軍の削減を発表し「アジア離れ」の外交方針を鮮明にした。これを受けて福田赳夫首相は、カーター大統領を訪問し日米協調を確認したうえで、ASEAN5ヶ国の首脳を歴訪し「ASEAN工業プロジェクト」への10億ドル拠出およびODA支出額倍増を約束、最後の訪問地マニラで「日本の軍事大国化の否定・心と心が触れ合う相互信頼関係の確立・ASEAN各国の連帯性と強靭性強化に向けた自主的努力への協力」を骨子とする「福田ドクトリン」を表明した。福田ドクトリンとは即ち「米国のプレゼンス喪失で生じたアジアの力の空白を日本の経済力を求心力にASEAN諸国との政治経済両面での連帯強化によって埋めていく」外交方針の宣言であり、あわせて福田赳夫首相はベトナム問題や中ソ対立の波及など国際環境の分極化を未然に防ぐ日本の役割を国際社会に明示した。続いて福田赳夫首相は、改革解放を進める鄧小平復活後の中国と日本国内の親中・反ソ世論に促され、田中角栄内閣が達成した「日中国交正常化」の仕上げに乗出した。福田赳夫首相は、反ソ戦略の一環で対中接近を図るアメリカの了解を取付け、母体の岸派に根強い親台湾派を懐柔し、「反覇権条項」に抗議するソ連の牽制を黙殺して、1978年「日中平和友好条約」締結に漕ぎ着けた。福田赳夫首相は日中関係が「吊り橋から鉄橋になった」と自賛したが、中国への肩入れで「全方位外交」の建前は崩れ日ソ関係は悪化、さらに中国とベトナムの関係悪化を受け対越経済援助を堅持するも中越戦争勃発の抑止力にはなれず、日ソ関係改善に取組むなか自民党総裁選で大平正芳に敗れあっけなく退陣した。国内政治に弱い福田赳夫政権は短命に終わり岸信介以来の悲願である憲法改正・再軍備には踏込めなかったが、しっかりアメリカの了解を得ながらアジア経済共同体の構築を目指した外交戦術は秀逸で後世に範を示すものであった。
- 1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。
- 日本の自動車生産が米国を抜いて世界一となった1890年の翌年、元役者のロナルド・レーガンが共和党から米大統領に就任した。軍産複合体が担ぐレーガン政権は「戦略防衛構想」(SDI)で「悪の帝国」と呼ぶソ連に過剰な軍拡戦争を仕掛け、同時に富裕層減税も行ったため瞬く間に財政赤字と累積債務が激増、さらに米国製造業の国際競争力低下と日本製品の躍進で巨額の貿易赤字も抱えアメリカは「双子の赤字」に陥った。日米貿易摩擦は以前にも度々起り、それでもアメリカは自由貿易の原則を堅持していたのだが、レーガン政権は「米国産業が輸入品に負けるのは、米国が悪いのではなく、相手国が悪いからだ・・・負けるとすれば相手国が市場閉鎖など不公正なことを行っているからにちがいない。相手国の不公正な制度は米国政府自身が特別チームでも作って大いに叩いたらよい」との傲慢なドグマに捕われ、貿易赤字の元凶とみた日本経済を敵視し破壊する暴挙に乗出した。1981年「自主規制」の押付けで象徴的な乗用車輸出を崩し、中曽根康弘首相を手懐けたレーガン政権は、1985年GATTを無視して通商法301条を適用し日本製パソコンやテレビの関税を100%に引上げ「プラザ合意」で急激な円高を強要、日米半導体協定で米国製半導体の輸入を強要し、スーパー301条で対日制裁を強化した。アジア製品の減価で日本の輸出産業は「円高不況」に陥ったが米国製品の輸出も伸悩み、逆に日本では積極的金融・財政政策で内需が喚起され「バブル景気」が発生、1989年にはアメリカの象徴ロックフェラーセンターやコロンビア映画を日本企業が買収する事態となった。業を煮やしたアメリカは保護貿易の枠さえ踏越え金融・不動産・流通などGHQ以来の「日本経済の再解体」を決意、FRBのBIS規制と日米構造協議が決定打となって1991年初にバブルは崩壊し日本経済は「失われた10年」に叩き込まれた。「防衛協力」で散々貢いだ挙句に経済破壊の内政干渉を黙って受入れた中曽根康弘首相は、レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係と1806日の長期政権を築いたが、その代償は余りに大きく日本は「2度目の亡国」へ引込まれた。
- 冷戦終結が確実になると、米国・軍産複合体は、ゴルバチョフが語ったように「新しい敵を探さなければならない」事態となった。そしてこの1991年、シカゴ外交評議会が行った「米国にとっての死活的脅威はなにか」という世論調査で「日本の経済力」が「ソ連の軍事力」を大きく上回って断トツ1位という結果となった(一般人:日本の経済力60%・中国の大国化40%・ソ連の軍事力33%・欧州の経済力30%、指導者層:63%・16%・20%・42%)。
- 1991年ソ連崩壊で冷戦が完結し、新たな敵を求める米軍と親ブッシュ政権は「ならず者国家」を設え「湾岸戦争」を強行したが、CIAは米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」に乗り「経済安全保障」分野へ軸足を移すことで組織維持に成功した。1992年末の『経済スパイとしてのCIA』には「新たな要請の約40%が経済問題である」「1990年代においては経済がインテリジェンスの主要分野になるだろう。われわれが軍事安全保障のためにスパイするなら、どうして経済安全保障のためにスパイできないのだ」といったCIA要人の談話が掲載されている。1991年の米国世論調査で「米国の死活的脅威」の断トツ1位となった「日本の経済力」がCIAの新標的であることは疑い無く、1993年発足のクリントン政権は同盟国日本から中国へ重点を移し露骨な円高誘導と「年次要望改革書」で内政干渉を強め、CIAも駆使して日本経済を「失われた10年」へ引込んだ。1995年10月15日の『ニューヨーク・タイムズ』:「昨年春の自動車問題を巡って行われたクリントン政権と日本の激しい交渉のなかで、情報機関のチームが米国交渉団に随行した。毎朝、情報機関のチームはミッキー・カンター通商代表に、東京のCIAと国家安全保障局が盗聴して集めた情報を提示した。経済的な優位を得るために同盟国をスパイすることがCIAの新しい任務である。クリントン大統領は経済分野での諜報活動に高い優先順位を与えた。財務省および商務省はCIAから大量の重要情報を入手した」・・・対日経済諜報は公然の事実であった。対する日本では宮澤喜一首相は吉田茂直系の従米派で政権を握る小沢一郎もブッシュ政権の言いなり、湾岸戦争への130億ドル献金とPKO協力法・自衛隊派遣を強行し「日米構造協議」で公共投資増額を受容した。日本経済は最早敵では無く、子ブッシュ米政権とCIAは2001年「9.11」を好餌に「テロとの戦い」へ移行、情報通信技術の発達が「同盟国に対する諜報活動」の暴走を招き通信傍受システム「エシュロン」が登場、2014年スノーデン元CIA職員の告発で全人類規模の通信傍受活動が露見した。
- 「年次改革要望書」「金融ビッグバン」「小泉構造改革」と続いた規制緩和ブームの実態は米国の強引な内政干渉であったが、非効率な官営事業・規制産業の合理化というメリットも大きく、金融・不動産の分野で大蔵規制の牙城を崩した宮内義彦・オリックスの功績は大きい。新聞再販・球界再編で宮内義彦と衝突した渡邊恒雄は「宮内ごときと大巨人が日本シリーズで対決?穢れる。不愉快。オリックスはまともな正業ではない」と放言したが、規制利権の権化の怒りは「規制改革の旗手」の面目躍如だろう。とはいえ、宮内義彦は公職の「規制改革審議会」議長を10余年も務めた「歴代内閣の指南役」でありながら「改革利権」を貪りオリックスは最大受益者となった。しかし小泉内閣退陣の2006年から宮内義彦は因果応報に襲われ、子分の村上世彰がライブドア事件に絡むインサイダー取引で逮捕され盟友の福井俊彦日銀総裁への利益供与も発覚した。「村上ファンド」はオリックス傘下に発足し私募投信解禁後M&Aの尖兵となったが、宮内義彦はニッポン放送買収劇で有頂天の村上世彰を見限り資金と人材を引上げた。巨額のニッポン放送株式を抱え進退極まった村上世彰は、ライブドアの堀江貴文をカモに売抜け150億円の売却益を獲得したが、やり過ぎてお縄となった。宮内義彦は公職辞任で説明責任を逃れたが、2009年鳩山邦夫総務相が「かんぽの宿」70施設のオリックス不動産への不正入札(2400億円→109億円)を暴露、盟友の西川善文日本郵政社長が糾弾され久々の改革利権は画餅に帰した。鳩山邦夫は「『かんぽの宿』疑惑は、単なる入札疑惑ではない。『小泉・竹中構造改革』が日本を米国金融資本に売り渡した疑惑だ」と喝破し、中立の野中広務まで「郵政民営化の利権に群がるハゲタカがらみの疑惑は西川(善文)から遡って、生田(正治)氏時代からの神戸人脈を解明しなければならない」と宮内義彦追及の烽火をあげた。翌年日経新聞が「ゆうちょ銀行が米国債を大量購入していた事実」をスクープ、「売国奴」疑惑は図星となり小泉構造改革は地に落ちたが、巨悪の小泉純一郎・竹中平蔵・宮内義彦に司直の手は及ばない。
- 宮内義彦は、貿易商の父に英語を仕込まれ、関西学院大学を出てワシントン大学でMBAを取得したが大手商社には入れなかった。ニチメンに入社した宮内義彦は、英語堪能ゆえに米国USリーシングへ研修に出され1964年「オリエント・リース」設立に伴い出向、創業者乾恒雄の腹心としてニチメン・三和銀行からの「独立戦争」に勝利し、1980年45歳で3代目社長を譲られ1989年「オリックス」への改称を機に独裁権を握った。乾恒雄のオリエント・リースは、自力営業でOA機器リース市場を開拓し、銀行が敬遠するパチンコとラブホテルを上得意にノンバンク最大手へ成長、リース・融資・生命保険を組合せた「クロス販売」で高収益を確立した。跡を継いだ宮内義彦はバブルに踊らず不動産融資の担保掛目7割を堅持し深手を免れたが、地価反転期を見誤って不動産買叩きに乗出し大損害を蒙った。1995年オリックスは3期連続減益に陥り宮内義彦は不動産部門を縮小したが、米国の構造改革圧力に触れ「規制緩和は戦後最大のビジネスチャンス」と矛先転換、1996年橋本内閣が「年次改革要望書」で「金融ビッグバン」を受入れると「規制改革審議会」議長に就任し2006年の小泉内閣退陣まで「規制改革の旗手」を務めた。宮内義彦は外圧を背景に大蔵規制破壊を主導し、適債基準撤廃で直接金融へシフトし資金力を高めたオリックスは銀行・生保・証券業の垣根を破りM&Aに邁進、不良債権バルクセールや日債銀買収で暴利を貪り「日本版リート」も創設し急成長を遂げた。小泉純一郎の従米政権で宮内義彦は竹中平蔵と両輪を為し「聖域なき構造改革」を牽引、金融・不動産で「改革利権」を満喫したオリックスは最大受益者となり、子分の村上世彰を尖兵にM&Aに狂奔、農業・病院の株式会社化を試行しエネルギー事業へも手を拡げた(盟友エンロンの破綻で頓挫)。しかし小泉劇場と共に新自由主義ブームも終焉、「日本のリーマンブラザーズ」オリックスはリーマンショックに直撃され、「村上ファンド」「かんぽの宿」でメッキが剥れた宮内義彦は逮捕を噂されるなか2014年「功労金」44億円をもらい取締役とCEOを退任した。
- 2003年選挙に滅法強い小沢一郎を得た民主党は同年の「マニフェスト選挙」で躍進、2005年の「郵政選挙」では「小泉旋風」に屈したが、2007年参院選で過半数議席を獲得し「衆参ねじれ国会」が現出、2009年の総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し政権交代を達成した。数だけの政権交代に懲りた小沢一郎は自民党との政策対比戦略を採用、小泉純一郎政権の地方切捨てに地方経済重視で対抗し、従米外交を捨て「国連中心主義」「東アジア共同体構想」を提唱、2009年「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第七艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う。米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事項についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と発言した(第七艦隊発言)。が、その10日後に「西松建設献金問題」が発生、公設秘書逮捕で小沢一郎は民主党代表を引責辞任し直後に鳩山由紀夫内閣が発足した。祖父鳩山一郎の遺志を継ぐ鳩山由紀夫首相は小沢一郎幹事長と共に従米脱却に邁進、内政干渉ツール「年次改革要望書」を廃止して在日米軍基地削減と「有事駐留」転換を図り、自主憲法制定を唱え中国に急接近したが、「普天間基地移設問題」で袋叩きに遭い鳩山首相は「最低でも県外」発言の撤回と共に辞任に追込まれた。組閣早々「尖閣問題」に躓いた菅直人内閣は従米回帰へ傾き東日本大震災・福島原発事故で政権担当能力の無さを露呈、小沢一郎は民主党代表選で対抗したが突然の「陸山会事件」で党員資格を剥奪された。「菅おろし」は成功したが、野田芳彦・前原誠司ら松下政経塾・従米派の天下となり野田政権へ移行、2012年小沢一郎グループ50人は民主党を脱党した。直後の総選挙で民主党は大敗し政権ごっこは終焉、小沢一郎は無罪が確定し「国策捜査」が明白となったが衰退著しく2013年の総選挙で「生活の党」は小沢以外全員落選の惨敗を喫し政党要件さえ失って脱原発の山本太郎一派と合流した。
- 2009年鳩山由紀夫代表・小沢一郎幹事長の民主党が総選挙で憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得し、戦後初めて本格的な政権交代を実現した(細川護煕・村山富市・羽田孜と続いた非自民党政権は、小沢一郎らの自民党造反で発生した亜流に過ぎない)。鳩山由紀夫は、吉田茂の従米政権と争い日ソ国交回復を果した鳩山一郎元首相の孫で、自主外交の遺志を受継いだ。民主党は選挙公約「マニフェスト」に「日米地位協定の改定を求め、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で米国と交渉する」「東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する」と明記し、鳩山由紀夫首相と小沢一郎幹事長は組閣後直ちに従米脱却へ動いた。しかし、そもそも労組や日教組を基盤とする民主党に政権担当能力を期待するのが無理な話で、小沢一郎も内部抗争で剛腕を発揮できず、官僚組織を叩くばかりで活用術を心得ず立派なマニフェストを遂行する力は無かった。「沖縄普天間基地問題」で鳩山由紀夫首相は根回し無く「最低でも県外移設」と口を滑らせ、アメリカと野党はもちろん民主党内でも批判が噴出、県外移設断念を表明した直後に内閣支持率急落により僅か266日で辞任に追込まれた。2010年民主党代表選で菅直人が小沢一郎が担ぐ樽床伸二を破り首相に就任したが、もともと菅は市川房枝(婦人参政権運動の主導者)に連なる「闘士」であり、亀井静香が「色男、金も力もなかりけり」と揶揄したとおり、翌年起った東日本大震災および福島第一原子力発電所事故で無能を露呈し混乱を煽った挙句に政権を追われた。続く野田佳彦内閣に至って民主党政権は政権担当能力以前に松下政経塾の「政権ごっこ」に堕し小沢一郎グループ50人が離脱、2012年の総選挙で歴史的大敗を喫し自公連立の第二次安倍晋三内閣が発足した。
- 「Japan as Number One」と持て囃された日本式経営はバブル崩壊で失墜し、高度経済成長を象徴するソニーや松下電器産業も長引く円高不況で没落、「グローバリズム」「新自由主義」の美名のもと世界は米国覇権主義に染められた。政治経済の米国化と規制緩和の大波は日本にも押寄せ、小泉純一郎の従米政権のもと「改革利権」で肥大化した宮内義彦のオリックスや、堀江貴文のライブドアら怪しいベンチャー成金が台頭する事態となった。孫正義の「ソフトバンク」もM&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」で膨張し、規制緩和に乗じ巨大通信企業にのし上がったが、徒手空拳の創業から30余年でトヨタ自動車に次ぐ株式時価総額10兆円に到達した偉業は「日本史上最高の経営者」の名に値する。さらに孫正義は、米国企業家の模倣者でも単なる友人でもなく数少ないリーダーの一人であり、ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)、スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)、ジェリー・ヤンおよびビッド・ファイロ(ヤフー創業者)、エリック・シュミット(グーグルCEO)、ルパート・マードック(豪メディア王)、マーク・アンドリーセン(ネットスケープ創業者)、ラリー・エリソン(オラクル創業者)、ジャック・マー(アリババ創業者)らと対等の交友関係を築いており、時価総額10兆円が安く思えるほどの人脈を誇る。松下幸之助や本田宗一郎など「ものづくり」で世界の賞賛を浴びた日本人経営者はいたが、「アメリカ人社会」やサービス分野では明らかに孫正義が先駆者であり現時点では日本人唯一の国際的企業家であろう。
- 孫正義は、佐賀県鳥栖市で密造酒・家内養豚を営む貧しい在日朝鮮人家庭に生れ過酷な幼少期を送ったが、父の安本(孫)三憲がサラ金とパチンコ経営で財を成し高等教育を施された。孫正義は名門久留米大附設高校へ進んだが在日差別に生存を脅かされ単身渡米、名門カリフォルニア大学バークレー校で猛勉強に励みつつ、自動翻訳機の製作や中古インベーダーゲーム機の輸入販売など起業活動に励んだ。卒業した孫正義は翌1981年東京に「日本ソフトバンク」を設立、パチンコ店の全国展開に挫折し重度の慢性肝炎で死線を彷徨ったが闘病3年で奇跡的に蘇生し、ハドソンとの契約やラオックスの売場確保でPCソフト市場を独占、「一太郎」の取扱いや自作のLCR「NCC-BOX」で業績を伸ばし、「ソフトバンク」への改称を機に日本に帰化した。1994年ソフトバンクの株式上場で資金力を得た孫正義は、神業的目利きと米国IT人脈を武器に、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」を始動した。1995年友人ジェリー・ヤンの「Yahoo!」起業に際し孫正義は社運を賭けて主要株主となり合弁で「Yahoo! JAPAN」(ヤフー株式会社)設立、両社とも僅か1年で株式上場を果し株価急騰で「ITバブル」の寵児となった。膨大な軍資金を掴んだ孫正義はソフトバンクを持株会社化し、小泉純一郎の米国化政策に乗りM&Aと子会社上場(北尾吉孝の「SBI」・弟孫泰蔵の「ガンホー」など)に邁進、テレビ朝日買収未遂で名を馳せ、自ら証券取引所「ナスダック・ジャパン」創設、日債銀買収で得た巨利を「ソフトバンクBB」に投じ、ダイエー球団を買収し「福岡ソフトバンクホークス」のオーナーとなった。規制緩和に乗じ「日本テレコム」「ボーダフォン」を買収した孫正義は情報通信を本業に定め「光の道」構想に邁進、2013年米国「スプリント」の買収で携帯キャリア世界3位へ躍進した。2014年中国「アリババ」の超大型上場で筆頭株主のソフトバンクはトヨタ自動車に次ぐ時価総額10億円を達成、日本一の大富豪となった孫正義は「メディア支配」を睨みつつ、東日本大震災を機に反原発・自然再生エネルギー事業の商機を窺う。
- 小林一三は、鉄道・宅地造成・商業・娯楽施設の一体開発により沿線住民の生活を丸抱えする「私鉄経営モデル」で阪急東宝グループを築いた大衆消費社会のパイオニア、政商・軍閥ばかりの明治企業家で異彩を放つ存在である。甲州屈指の素封家に生れた小林一三は慶應義塾へ進み小説家を志すも挫折、三井銀行でヤル気の無い社会人となったが、大阪支店長の岩下清周との出会いで運命が一変、北浜銀行を創設した岩下の勧誘で設立間もない箕面有馬電気軌道の経営者となった。経営難の敗戦処理を託された小林一三だが、当時斬新なパンフレットで事業の将来性と「田園趣味に富める楽しき郊外生活」を謳い、甲州財閥を口説き資金調達に成功、現在の宝塚本線・箕面線の開業に漕ぎ着けると、沿線の土地買収と宅地造成で巨利を博し阪神急行電鉄へ改称した(→阪急電鉄)。さらに「阪急沿線の分譲住宅に住み、買物は阪急百貨店、レジャーも阪急宝塚で」という着想を得た小林一三は、終点の宝塚に宝塚新温泉を開設し唱歌隊(→宝塚歌劇団)で集客に注力、始点の大阪梅田にはターミナルビルを建てて阪急梅田百貨店を開業し、沿線土地の付加価値を膨らませつつ新規事業を開拓した。「鉄道王」小林一三の私鉄経営モデルは、五島慶太の東急・堤康次郎の西武・根津嘉一郎の東武らに踏襲され鉄道・レジャー産業発展の原動力となった。阪急百貨店は支店網を広げ全国ブランドへ成長し、数寄者の小林一三は温泉座興で始めた宝塚少女歌劇に巨費を投じ宝塚大劇場・東京宝塚劇場(略して東宝)・宝塚音楽歌劇学校を創設、帝国劇場など日比谷一帯の劇場も傘下に収め浅草の松竹と東京興行界を二分するに至り映画配給でも成功を収めた。ホテル事業を創業し(阪急阪神第一ホテルグループ)阪急ブレーブス・阪急西宮球場も作った小林一三は63歳で社業を退いたが、財界重鎮として東京電燈(東京電力)の経営再建や昭和肥料(昭和電工)設立に働き、第二次近衛文麿内閣の商工大臣も引受けた。第二次大戦後、小林一三は幣原喜重郎内閣に入閣したが公職追放に遭い、東宝社長に復帰し阪急東宝グループの同族経営を固めたあと84歳で永眠した。
- 中内功は、高度経済成長下「価格破壊」で流通革命を牽引した「ダイエー」の創業者だが、消費変化に取残されバブル投資に狂奔し破滅した。神戸高等商業学校を出た中内功は20歳で徴兵されフィリピンで死線を彷徨ったが、戦後マニラの捕虜収容所から神戸に帰還した。家業の「サカエ薬局」で現金仕入れを覚えた中内功は、1957年大阪千林駅前に「主婦の店ダイエー薬局店」を開業、安売り攻勢と牛肉特売で人気を博し、関西から日本全国へ店舗網を拡げ「何でも揃う」スーパー業態を確立した。1971年ダイエーは株式上場を果し翌年小売業売上高日本一を達成、中内功はあらゆる事業に手を拡げ1975年コンビニ「ローソン」を開業した。ダイエーの「価格破壊」を消費者は歓迎したがメーカーは猛反発、中内功は松下電器産業と「30年戦争」を戦いつつPB商品を拡大した。M&Aに目覚めた中内功は同業のマルエツ・ユニード・忠実屋にハワイの商業施設まで買収し規模の拡大に邁進したが、消費ニーズの質的変化に適応できず「ダイエーには何でもあるが、欲しいものは何もない」状態に陥った。ジャスコ(イオン)やイトーヨーカ堂が台頭するなか、ダイエーは1983年から3期連続赤字で経営危機、中内功は「もう一度、俺を男にしてくれ」と号泣し河島博副社長(元ヤマハ社長)らに再建を託した。新経営陣の「V革」でダイエーが復活すると中内功は経営権を強奪し暴走開始、リッカーミシン買収、神戸オリエンタルホテル買収、流通科学大学創立、新神戸オリエンタルシティ建設、ホークス球団買収を僅か2年で片付け借入金を膨張させた。バブル崩壊後も止らない中内功は1992年リクルートの巨額買収を強行、福岡ドーム球場に巨費を投じ怪しい「バブル紳士」の金主にもなった。同族支配に固執する中内功は有力幹部を悉く追放し、ダイエーは自浄作用を失い1999年赤字転落で経営危機が再燃、中内功は会長へ退いたが後任社長の鳥羽董がインサイダー嫌疑で退任し銀行団は匙を投げた。2001年粘る中内功と一族は完全追放されたが時既に遅し、ダイエーの産業再生機構送りが決まった翌2005年、全てを失った中内功は波乱万丈の生涯を閉じた。
- 家業から「ダイエー」を興した中内功は妻萬亀子と長女綾を除く親族全員を雇用した。祖父の中内栄は阪大医学部卒の神戸の眼科医で、ダイエーは「大栄」に因む。父の中内秀雄は神戸で「サカエ薬局」を経営、現金仕入れと安売りのノウハウはダイエーの礎となり創業時会長に就いている。3人の弟(博・守・力)はみなサカエ薬局とダイエーの経営に携わったが、長兄中内功のワンマン経営により亀裂が生じ、特にダイエーの共同創業者である中内力との葛藤は「骨肉の争い」といわれた。中内功が46歳のとき父の中内秀雄は「功は55歳で社長を力へ譲る」仲裁案をまとめたが、功にその気はなく結局「終身社長」を宣言した。ダイエーの東西分割案も出たが、兄弟喧嘩を嫌気した中内力は1969年にダイエーを去り、中内功は住友銀行の堀田庄三から融資を引出し末弟の持株を買取った。骨肉の争いに懲りた中内功は家族を溺愛し、長男の中内潤をダイエー副社長・次男の中内正を「福岡ダイエーホークス」オーナーに据え、血の承継を守るべく有力幹部を次々放逐、「V革」の恩人河島博達まで追出し「中内一族以外誰もいない」惨状となった。中内功は「V革」成ったダイエーの経営権を強奪し大暴走へ奔るが、これも中内潤への経営承継が目的だったといわれる。中内功は田園調布の大豪邸近くに潤・正・綾の豪邸を並べ一帯は「ダイエーの天領」といわれた。かくしてダイエーは経営破綻し粘る中内功は2001年に完全追放されたが、時既に遅く2004年ダイエーは産業再生機構送り、中内一族は全財産を失い路頭に迷った。翌年中内功は憤死、差押えられた大豪邸に亡骸を戻せず菩提寺で密葬に付された。ダイエーグループは経営再建の名の下に丸紅(AP)主導で切売りされ、優良子会社のローソンは三菱商事が買収、ホークス球団は孫正義のソフトバンクに身売りした。本業のスーパーを買収したイオンは経営再建に注力したが業績の足を引張られ、2018年までに全店でダイエーの看板を降す決断を下した。なお、中内潤は唯一残された「学校法人中内学園」の理事長に収まり、中内正は渡邊恒雄(中内功の親友)の読売ジャイアンツに拾われた。
- 鈴木敏文は、中央大学からトーハンを経て1963年「イトーヨーカ堂」入社、米国発祥のCVSに着目し創業家の伊藤雅俊社長の支持を得てサウスランド社のライセンシーとなり1974年「セブン-イレブン」を開業した。「安くないミニスーパー」は当初苦戦したが業態確立を期す鈴木敏文は決して妥協せず、「セブン-イレブンいい気分」のCMと出店攻勢で価格より利便性を求める都市若年層の潜在需要を掘起し、1979年株式上場を果し翌年1千店を突破した。狭小な店舗に品揃えや配送の効率化は必須だが、鈴木敏文はドミナント出店と多頻度小口配送・ベンダー集約化・POS「単品管理」と需要予測・EDB決済・FC店舗監督など独自のシステムを構築、「30坪で平均年商2.5億円」の高効率ビジネスは零細小売店のFC加盟を促し小資本ながら短期間で大量出店に成功した。1990年代に入ると模倣「コンビニ」が乱立し市場飽和が懸念されたが、鈴木敏文は主力の弁当やスイーツの高度化、チルド・おでん・フライヤー・ゲームソフト・各種チケットなど商品ラインの拡張、公共料金等の収納代行サービス、店内ATMと「セブン銀行」開設など次々新機軸を打出し、抜群の収益性を確保しつつ国内市場を制覇した。一方、鈴木敏文は1991年経営破綻したサウスランド社を買収し米国展開を加速(→「7-Eleven,Inc.」)、アジア進出にも注力し、セブン-イレブンは日本17千店・海外36千店(米国8千、タイ・韓国7千、台湾、中国の順)を擁する国際企業へ発展した。営業利益の8割を稼ぐ「セブン-イレブン・ジャパン」はIYグループの中核となり、2005年鈴木敏文はイトーヨーカ堂を逆統合し持株会社「セブン&アイ・ホールディングス」を設立、同年ミレニアムリテイリング(そごう・西武)の電撃買収で売上高5兆円を誇る日本最強の流通グループへ躍進させ、伊藤雅俊の引退に伴い独裁者となった。2015年末現在83歳の鈴木敏文は主要3社の会長兼CEOに君臨、更なる流通再編を睨みつつPB「セブンプレミアム」による川上制覇と高齢者需要開拓を推進し、次男の鈴木康弘をセブン&アイHDの取締役CIOに引上げ世襲を宣言した。
- 柳井正は、早稲田大学政経学部からジャスコに入社したが1年もたず 、1972年山口県宇部市に戻り家業の紳士服店「小郡商事」に就業、青山・アオキとの競争を避けてカジュアル衣料へ転換し、香港視察を機にGUP式SPA(製造小売業)のチェーン展開を志した。1984年社長を継いだ柳井正は直ちに「ユニクロ」を開業し中国地方へ多店舗展開、香港現法を通じて中国に開発輸入体制を構築し、1991年「ファーストリテイリング」へ改称し1994年株式上場を果した。1998年発売の「フリース」が3年間で2600万枚の驚異的売上を記録し、アパレル業界に価格破壊を起した柳井正は東京へ本拠を移し全国展開に邁進、ユニクロは忽ち500店舗を突破しロンドン・上海を手始めに海外市場へ乗出した。ベーシック衣料の少品種生産・大量販売と国産並の品質管理で低価格と高収益の両立に成功した柳井正だが、市場飽和と「ユニバレ」で急減速、新業態開発やブランド買収も振るわず大幅減益に陥った。2002年柳井正は会長兼CEOへ退いたが、2005年「安定成長」を説く新社長の玉塚元一(のちローソン社長)を解任し社長復帰、経営陣の若返りと積極路線回帰を断行した。柳井正は商業施設「ミーナ」や「ユニクロ・グローバル旗艦店」で店舗の大型化を推進、海外事業も漸く黒字化し「ヒートテック」「ブラトップ」で女性市場開拓も進み成長軌道を回復した。デフレ不況もファーストリテイリングには追風となり2013年株式時価総額が流通企業最大の4兆円に到達、柳井正は親友の孫正義に続き世界的大富豪にランクインした。2015年時価総額は6兆円に迫り、ユニクロは国内844店・海外16カ国864店(中国414・韓国163・欧米78)へ拡大し海外販売比率は4割を突破、「セオリー」「GU」も一本立ちした。デフレ悪玉論や「ブラック企業」批判に晒されつつ、柳井正は「国際流通業トップ10入り」を掲げて世界展開を加速しM&Aに虎視眈々、国内では「超大型店」を軸に1千店舗体制を目指し疾走を続ける。柳井正は「世襲はしない」と公言してきたが、2013年社長引退の公約を撤回し2人の息子を執行役員に就けている。
- 安藤百福は日本統治下の台湾出身で、繊維問屋の祖父母に育てられ22歳で繊維商社を興し大坂へ移住し帰化したというが、前半生は不詳である。安藤百福は大阪大空襲で「日東商会」を失ったが、戦後「第三国人」らしく闇商売に手を染めたと思われ、製塩業も興し脱税容疑でGHQに捕まるほど稼いだらしい。が、安藤百福は脱混乱期に乗遅れ1957年理事長を務める信用組合が倒産し(名義貸しと弁明)48歳で無一文に転落した。再起を期す安藤百福は黎明期の即席麺に注目し、テンプラから「瞬間油熱乾燥法」を着想し1958年「チキンラーメン」発売、翌年テレビCMを開始し資本金の10倍を超す年間放映料を注込み「日清食品」と高槻工場を立上げた。即席麺開発は1953年頃始まり「ベビースターラーメン」が先行していたが、チキンラーメンの大ヒットに触発され数百社が乱立するブームが沸起り「チャルメラ」の明星食品・「サッポロ一番」のサンヨー食品・「マルちゃん」の東洋水産らも相次いで参入した。利に聡い安藤百福は逸早く即席麺の製法特許を押さえ粗製乱造品を駆逐、1963年株式上場で資本力を増し更なる広告攻勢で過当競争を制圧した。競争の焦点がカップ麺へ移ると、日清食品は中身が傷まない「宙吊り法」で商品化に成功し1971年「カップヌードル」発売、翌年初の「あさま山荘事件」で機動隊員がカップヌードルを食べる姿がテレビ放映され人気爆発、安藤百福はカップ麺工場を全国展開し業容を急拡大させた。首位の座を固めた日清食品はライバルと競いつつうどん・そば・焼きそばへ手を拡げ「ドン兵衛」「U.F.O.」「ラ王」など不朽の定番品を送出、安藤百福は長男に社長を譲るも追放し1985年次男の安藤宏基を社長に据えたが(2015年現任)2005年まで取締役に留まり退任2年後に96歳で永眠した。晩年の安藤百福は即席麺・カップ麺の「発明」に拘り「インスタントラーメン発明記念館」や財団活動で自己宣伝に努めたが、実質はテレビCMと特許戦略で同質競争を制したプロモーションの先覚者であった。日本発祥の即席麺はアジアから世界へ広がり2012年1千億食に到達した(中国が約半数、日本は54億食で3位)。
- 高原慶一朗は愛媛県の片田舎から外国製品を駆逐し日本の生理用品・紙オムツ市場を制覇した「ユニ・チャーム」創業者である。古い経営体質とバブル投資で一時停滞したが、2代目を継いだ長男高原豪久のもと国際企業へ脱皮しデフレ不況下で急成長を遂げた。高原慶一朗は愛媛県川之江市(現四国中央市)出身、大阪市立大学を卒業し家業「国光製紙」の専務に就いたが1962年29歳で地元に「大成化工」を設立した。建材加工で起業した高原慶一朗だが、2年後に始めた生理用品が本業となり「ユニ・チャーム」へ改称、1976年株式上場を果した。1981年ユニ・チャームは画期的な「立体型パンツオムツ」を開発しベビー市場に参入、高原慶一朗はテレビCMに巨費を投じ国内シェア9割を誇ったP&Gの牙城を切崩し、高齢者用紙オムツやペット用品へ手を拡げた。しかしバブル期に入ると高原慶一朗は「ゴールドタワー」(バブルの塔)建設や事業多角化で集中力を失いユニ・チャームは成長鈍化、国内市場が飽和するなか本格的な海外進出に遅れをとり、創業以来39年続いた増収増益の断絶を機に2001年高原豪久に社長を譲り会長に退いた。創業会長と取巻きが取締役を占めるなか、高原豪久はマスコミも活用して人心掌握を図り、バブルの後始末を進めつつ「1人当たりGDP1000ドルで生理用品が売れ始め、3000ドルでベビー用紙おむつが成長期に入る」と確信し中国を軸にアジア進出を強行した。エース級人材の投入で現地を「自社流」に染める戦術も功を奏し、圧倒的な商品力を有するユニ・チャームはアジア市場を席巻しインドネシア・タイ・ミャンマーではトップシェアを獲得した。高原豪久のもとユニ・チャームは海外売上高を6倍に伸ばし13%だった海外販売比率は6割を突破、国際企業らしく東京三田へ本社を移した。少子化で停滞するベビー用品の穴を介護用品やペット事業で埋めユニ・チャームは成長軌道を堅持、円安転換で2015年株価は最高値を更新し、中南米やアフリカを睨み拠点開設とM&Aを推進している。2代目に恵まれた高原慶一朗は日本の大富豪の上位にランクされ「取締役ファウンダー」として快適な余生を送る。
岡田卓也と同じ時代の人物
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照