大久保利通の盟友として薩摩藩の朝廷工作を担い王政復古・討幕の密勅・辞官納地を成功させた豪腕公卿、王政復古の大号令で朝廷から世襲制を排除し自ら太政官の最高位に就いたが公家優遇に固執し立憲制・自由民権運動に反対
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岩倉 具視
1825年 〜 1883年
60点※
家系・子孫
- 岩倉氏は、江戸時代初期に久我晴通(村上源氏)の四男具堯が分家を許され所領の洛北岩倉村から名字を採り、代々朝廷に仕え「羽林家」に数えられた。朝廷の顕官は摂関を牛耳る「五摂家」と左大臣まで出せる「清華家」で占められ、次の羽林家は官位は高いものの有象無象の貧乏公家であった。男児の無い岩倉具慶は同じ羽林家の堀河康親(藤原北家高倉流)の次男具視を養子に迎えた。公家らしからぬイカツイ容貌から「岩吉」と渾名された岩倉具視は、長じると世襲公卿に反抗する過激派となり、老中首座堀田正睦の条約勅許を後援する関白九条尚忠に反発して「廷臣八十八卿列参事件」を起した。88人のなかには養父の岩倉具慶と婿養子の岩倉具綱(富小路政直の長子)、実父の堀河康親および長兄の堀河親賀と子の康隆もいたが、いずれも安政の大獄における処罰を免れ、堀河康親は羽林家極冠の従二位権中納言まで昇進した。岩倉具視は、和宮降嫁で失脚し5年も岩倉村で逼塞したが(「四奸二嬪」に連座した堀河紀子は岩倉の実妹)、薩摩藩の大久保利通の盟友として最幕末の朝廷工作を担い長州系の三条実美(清華家)と共に太政官の最高位に栄達、家督を継いだ次男の岩倉具定が最上位の公爵に叙され長男具義・三男具経・四男道倶も各々分家し華族に列した。五女の寛子は薩摩閥の森有礼の後妻である。女優で加山雄三を産んだ小桜葉子は岩倉具視の曾孫、喜多嶋舞の父喜多嶋修は岩倉具視の玄孫である。
岩倉具視と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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