薩長藩閥と講和し兄の岩崎弥太郎が興した海運業から撤退したが膨大な遺産を元手に鉱山業・造船業の買収攻勢で忽ち復活、経営多角化を成功させ全方位外交で政界と宥和した実質上の三菱財閥創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照岩崎 弥之助
1851年 〜 1908年
80点※
岩崎弥之助の寸評
岩崎弥之助の史実
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1851年
土佐安芸郡井ノ口村の地下浪人岩崎弥次郎の三男に岩崎弥之助が出生(長兄の岩崎弥太郎より16歳年少)
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1853年
ペリー来航
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1853年
土佐藩主山内容堂が吉田東洋を参政に抜擢し藩政改革を推進
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1854年
吉田東洋が松下嘉兵衛打擲事件を起し長浜に蟄居処分、密かに少林塾を開き後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎を教育
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1855年
武市半平太が槍術家で義叔父の島村寿之助と共同経営の道場を開業、中岡慎太郎・岡田以蔵・田中光顕ら多くの門人が参集
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1855年
岩崎弥太郎が江戸へ遊学し安積艮斎の私塾に入門
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1855年
岩崎弥次郎リンチ事件により岩崎弥太郎が江戸から帰国、安芸郡奉行所を挑発し投獄される
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1857年
喧嘩両成敗で岩崎弥太郎が出獄、蟄居中に私塾を開き近藤長次郎・池内蔵太らを教育
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1857年
岩崎弥太郎が吉田東洋の少林塾に入門、土佐藩出仕の手掛りを掴む
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1858年
吉田東洋が土佐藩主山内容堂に蟄居を解かれ江戸出府、参政に復帰し配下の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らを登用(新おこぜ組)
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1859年
岩崎弥太郎が土佐藩に郷廻役で出仕し長崎出張へ出るが公金横領で辞職、井ノ口村で隠遁
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1859年
安政の大獄により一橋派諸侯処分、山内容堂は隠居し豊範が16代藩主となる
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1861年
武市半平太が土佐藩郷士を糾合し土佐勤皇党を結成、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・岡田以蔵ら192人が加盟
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1861年
岩崎弥太郎が郷士株を買取り家老福岡宮内の御預郷士となる
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1862年
岩崎弥太郎が郷士高芝重春の次女喜勢と結婚
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1862年
武市半平太の土佐勤皇党が佐幕派の執政吉田東洋を暗殺し藩政を掌握、土佐藩主山内容堂は怒りを堪え黙認
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1862年
平野国臣の扇動により土佐藩の吉村寅太郎・坂本龍馬らが脱藩、坂本は江戸の桶町千葉道場に寄寓し志士活動に入る
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1862年
島津久光が率兵上洛するが寺田屋騒動で有馬新七ら過激藩士を粛清
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1862年
薩摩藩の島津久光が率兵江戸入りし幕政改革を断行(文久の改革)・謀臣の大久保利通と小松帯刀が暗躍、徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込む
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1862年
幕府により山内容堂の謹慎が解かれる
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1862年
武市半平太の工作により土佐藩主山内豊範が京都へ立寄り国事周旋の勅命を受ける
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1862年
岩崎弥太郎が下横目となり吉田東洋暗殺犯探索の任に就くが辞職、井ノ口村で帰農し富豪となる
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1862年
京都で攘夷派志士による天誅事件が頻発
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1862年
武市半平太・久坂玄瑞の工作により朝廷が攘夷督促と親兵提供を命ずる勅使(正使三条実美)を江戸へ派遣、土佐藩主山内豊範が供奉
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1862年
平井収二郎・中岡慎太郎土佐勤皇党の「五十人組」が東上
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1862年
土佐勤皇党の平井収二郎・間崎哲馬らが青蓮院宮から藩政改革を促す令旨を得る
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1862年
坂本龍馬が松平春嶽の紹介で勝海舟に面会を許され門人となる
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1863年
坂本龍馬が勝海舟の口利で土佐藩より脱藩罪を赦され神戸海軍操練所の設立準備に奔走
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1863年
長州藩・土佐藩の圧力により将軍徳川家茂が初の上洛、朝廷に5月10日の攘夷決行を約束
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1863年
幕府が神戸海軍操練所の設立を許可、勝海舟は土佐浪士の受皿として坂本龍馬を塾頭に神戸海軍塾を設立
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1863年
青蓮院宮から令旨の一件を聞いた山内容堂が土佐へ戻り吉田東洋暗殺犯の捜索と土佐勤皇党の粛清を開始
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1863年
京都で薩長和解工作を進める武市半平太が山内容堂に召還され土佐へ帰国
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1863年
長州藩が外国船を砲撃し攘夷決行(下関事件)、首謀者の久坂玄瑞は光明寺党を率い獅子奮迅の活躍
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1863年
山内容堂が青蓮院宮令旨事件を起した平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太を切腹に処す
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1863年
攘夷親征計画(大和行幸)
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1863年
中山忠光・吉村寅太郎らによる大和天誅組の変
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1863年
八月十八日の政変~薩摩藩・会津藩が長州藩を追放し久坂玄瑞・木戸孝允・武市半平太らの破約攘夷運動が瓦解
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1863年
島津久光の建議により参預会議発足~公武合体論の実現
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1863年
山内容堂が武市半平太ら土佐勤皇党幹部を投獄
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1863年
中岡慎太郎が七卿落ちの情勢を探るため周防三田尻へ出向
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1863年
三条実美ら七卿が在所する周防三田尻の招賢閣に尊攘派浪士が参集、真木和泉・宮部鼎蔵・中岡慎太郎の指揮で活発に尊攘運動を展開
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1863年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1864年
土佐藩に帰国延期申請を拒否された坂本龍馬が再び脱藩
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1864年
参預会議が瓦解し公武合体運動が挫折
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1864年
強盗罪で逮捕され土佐藩に送還された岡田以蔵が拷問に怯え自白
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1864年
幕府が神戸海軍操練所を開設し勝海舟は軍艦奉行・2千石に昇進
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1864年
池田屋事件
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1864年
禁門の変、久坂玄瑞が京都鷹司邸にて自刃(享年25)
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1864年
徳川慶喜が長州追討の勅命を得て第一次長州征討を決行
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1864年
馬関戦争~英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃し長州藩を降伏させる
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1864年
西郷隆盛が勝海舟に会い長州藩への融和路線に転換
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1864年
神戸海軍塾生の不祥事により勝海舟が江戸に召還され軍艦奉行罷免、坂本龍馬ら神戸海軍塾生を薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛に託す
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1864年
中岡慎太郎が長州藩諸隊(浪士隊)の忠勇隊総督となる
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1864年
長州藩で俗論党(佐幕恭順派)が主導権を握り正義派(尊攘派)を粛清、絶望した周布政之助が山口にて自殺(享年42)
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1864年
長州藩恭順により第一次長州征討が停戦・征長軍全権に任じられた西郷隆盛が宥和路線を主導
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1864年
中岡慎太郎が五卿遷座の周旋工作、西郷隆盛ら薩摩藩士と連携
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1864年
高杉晋作が前原一誠・中岡慎太郎の遊撃隊60人・伊藤博文の力士隊30人のみで功山寺挙兵を決行(奇兵隊の山縣有朋らは日和見)
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1864年
野根山屯集事件
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1864年
山内容堂が新おこぜ組を藩政に復帰させ後藤象二郎・板垣退助を大監察に任じ土佐勤皇党の尋問を強化(尊攘派の板垣は辞職し江戸へ遊学)
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1865年
高杉晋作率いる諸隊が大田・絵堂の戦いに勝利し正義派が長州藩の政権を奪回
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1865年
禁門の変で失踪した木戸孝允が長州藩に戻り藩政を掌握
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1865年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し第二次長州征討を号令
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1865年
西郷隆盛が鹿児島へ戻り藩主父子に情勢を報告、同伴した坂本龍馬に薩長同盟の密計を託し小松帯刀主導で亀山社中を設立
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1865年
井ノ口村で農業に励む岩崎弥太郎に長男の岩崎久弥が誕生
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1865年
山内容堂が不敬罪で武市半平太を切腹させ(享年37)土佐勤皇党が壊滅
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1865年
岩崎弥太郎が土佐藩庁に召還され三郡奉行下役に任じられる
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1865年
長州藩が亀山社中を介して大量の洋式兵器とユニオン号を購入
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1866年
薩長同盟
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1866年
坂本龍馬が伏見寺田屋で幕吏に襲われ負傷、鹿児島へ逃れる
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1866年
徳川慶喜の策動により将軍徳川家茂が上洛し兵6万を率いて第二次長州征討開始(四境戦争)、薩摩藩は公式に出兵を拒絶
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1866年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866年
坂本龍馬がユニオン号に乗り長州藩の小倉渡海作戦に参加
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1866年
高杉晋作の活躍で老中小笠原長行が守る小倉城が陥落し長州藩の勝利が決定的となる(高杉は肺結核が悪化し翌年病没)
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1866年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866年
徳川慶喜が朝廷から征長停止の勅令を獲得し幕府敗北・長州藩勝利で四境戦争終結、勝海舟が安芸厳島に乗込み停戦交渉
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1866年
土佐藩執政の後藤象二郎が藩政改革と洋式軍備導入のため開成館を創設・岩崎弥太郎が実務を差配
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1866年
岩崎弥太郎が後藤象二郎の命令で開成館貨殖局に出勤するが僅か40日で退職
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1866年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866年
孝明天皇崩御
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1866年
安田善次郎が日本橋小舟町に店舗を購入、安田商店に改称し両替専業となり、幕府の古金銀回収取扱方を務める
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1867年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867年
徳川慶喜が各国公使に兵庫開港を宣言、幕府は勢いを盛返すが警戒を強める薩長首脳は討幕へ傾く
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1867年
中岡慎太郎が幕府の動向視察のため上京、土佐藩に藩政改革案を示し薩摩藩の西郷隆盛を紹介
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1867年
坂本龍馬が長崎で後藤象二郎と会談、後藤は上海へ視察旅行
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1867年
岩崎弥太郎が後藤象二郎の招聘により貨殖局長崎出張所に勤務、実質上の責任者となる
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1867年
坂本龍馬の亀山社中が薩摩藩から土佐藩へ転籍し土佐海援隊に改編
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1867年
土佐海援隊の「いろは丸」が紀州藩軍艦と衝突し沈没
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1867年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867年
京都で島津久光・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城の四候会議開催
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1867年
将軍徳川慶喜と四候の二条城会談が決裂、薩摩藩が武力討幕の方針を固める
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1867年
坂本龍馬が後藤象二郎に「夕顔丸」船上で船中八策を提案
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1867年
薩土密約
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1867年
薩土同盟
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1867年
中岡慎太郎が京都の土佐藩邸に浪士を集め陸援隊を結成
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1867年
坂本龍馬が土佐に小銃1000挺を運び、上京
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1867年
土佐藩の後藤象二郎と福岡孝悌が老中板倉勝静に大政奉還の建白書を提出
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1867年
西郷隆盛が不逞浪士を江戸へ遣わし幕府を挑発、謀略に掛った江戸市中取締の庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼打ち
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1867年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867年
大久保利通・西郷隆盛・岩倉具視の謀略により朝廷が薩長などに討幕の密勅を下す
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1867年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867年
山内容堂が後藤象二郎を参政(土佐藩政のトップ)に任じる
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1867年
坂本龍馬(33)と中岡慎太郎(30)が京都近江屋で見廻組に襲われ死去
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1867年
土佐海援隊の陸奥宗光らが天満屋事件を起す
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1867年
長崎の岩崎弥太郎が佐々木高行と対立し京都の後藤象二郎に直訴、佐々木は土佐帰国を命じられ岩崎は上士格の新居留守組に昇格
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1867年
王政復古の大号令
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1867年
三職の設置、土佐藩からは山内容堂が議定に後藤象二郎・福岡孝弟らが参与に任じられる
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1867年
小御所会議(最初の三職会議)で薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛と朝臣の岩倉具視が徳川慶喜の辞官納地を強行採決
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
土佐藩の板垣退助が迅衝隊を率い独断で戊辰戦争に参戦、東山道先鋒総督府参謀として官軍を指揮
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
土佐海援隊の佐々木高行と薩摩藩の松方正義が長崎奉行所を占拠・岩崎弥太郎が土佐商会の全権を掌握
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1868年
徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎し主戦派の松平容保・松平定敬・小栗忠順らを江戸から追放し恭順派の勝海舟に全権委任、徳川家達に徳川宗家の家督を譲る
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1868年
木戸孝允の主導により明治天皇が五箇条の御誓文を公布
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1868年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868年
甲州勝沼の戦いで板垣退助の東山道軍が近藤勇・土方歳三の甲陽鎮撫隊を撃破、近藤は板橋刑場で斬首され京都三条河原に首を晒される
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
西郷隆盛・大村益次郎の官軍が上野彰義隊を殲滅
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1868年
木戸孝允の版籍奉還の献策を長州藩主毛利敬親が承諾
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置、土佐藩からは山内容堂が議定・後藤象二郎・福岡孝悌らが参与に任じられる
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1868年
旧幕府海軍の榎本武揚らが軍艦8隻を奪い江戸を脱出、仙台で旧幕府軍を吸収し箱館五稜郭で蝦夷共和国樹立を宣言するが旗艦の開陽丸が座礁沈没
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1868年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868年
板垣退助が土佐藩家老格・陸軍総督に任じられ600石に加増される
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1869年
兵庫開港に伴い土佐藩が土佐商会を閉鎖し大阪商会へ機能移転、主任の岩崎弥太郎は業務を急拡大し小参事(中老)に昇進
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1869年
岩崎弥之助が大阪の土佐藩蔵屋敷に転居、重野安繹の成達書院に学ぶ
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
版籍奉還
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1869年
東北戦争から凱旋した板垣退助が明治政府の参与に任じられる
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1869年
四民平等~華族・士族・平民の三身分制の実施
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1869年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1870年
国内初の日刊紙・横浜毎日新聞創刊
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1870年
土佐藩が大阪商会を九十九商会に改組
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1871年
明治政府が大村益次郎の徴兵制を退け(兵制論争)薩長土三藩の兵を徴し御親兵を創設
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1871年
陸奥宗光の紀州藩政改革により「陸奥王国」が現出
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1871年
廃藩置県
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1871年
九十九商会が三川商会へ改称
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1871年
岩倉使節団派遣、板垣退助・後藤象二郎が留守政府の参議に就く
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1872年
山内容堂が死去(享年46)
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1872年
井上馨・渋沢栄一の主導で銀座煉瓦街の建設が始まる
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1872年
新橋-横浜間に鉄道が開通
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1872年
渋沢栄一の主導で官営工場富岡製糸場操業開始
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1872年
渋沢栄一の主導で三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)が設立され国立銀行条例制定
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1872年
山城屋事件、絶体絶命の山縣有朋は西郷隆盛に救われ初代陸軍卿に就任し徴兵令準備に奔走
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1872年
岩崎弥之助がニューヨークへ語学留学
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1872年
日本独自の海運網整備のため明治政府が政商連合に日本国郵便蒸気船会社を設立させる
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1873年
徴兵令布告
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1873年
岩崎弥太郎が三菱商会を設立
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1873年
地租改正法・地租改正条例布告
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1873年
岩倉使節団が帰国
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1873年
明治六年政変、板垣退助・後藤象二郎は西郷隆盛の征韓派に与し下野
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
岩崎弥之助がアメリカから帰国、三菱商会入りして副社長となる
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1873年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874年
岩崎弥太郎が土佐藩から吉岡銅山を買収
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1874年
板垣退助が高知で立志社を設立
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1874年
佐賀の乱
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
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1874年
岩崎弥太郎の三菱が台湾出兵の海上輸送を一手に引受け、大久保利通に感謝され飛躍への画期となる
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1874年
後藤象二郎が蓬莱社を設立し高島炭鉱の払下げを受けるが2年後に放漫経営で破綻し岩崎弥太郎の三菱に押付ける
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1874年
岩崎弥之助が後藤象二郎の娘早苗と結婚
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1875年
江華島事件
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1875年
大久保利通政府が岩崎弥太郎の三菱商会を保護育成会社に指定、日本国郵便蒸気船会社を吸収した郵便汽船三菱会社が海運業を独占
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1875年
岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が政府の命により上海航路を開設
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1876年
大久保利通政府が黒田清隆全権特使の艦砲外交により李氏朝鮮と日朝修好条規を締結
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1876年
岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社がピー・アンド・オー社を熾烈な競争の末に撤退させる
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1876年
大久保利通政府が岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社に「第二命令書」を交付し15年の保護政策継続を約束
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1876年
岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が政府の命により北清航路・釜山航路を開設
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1876年
秩禄処分
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1876年
神風連の乱
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1876年
秋月の乱
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1876年
萩の乱
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1876年
国立銀行条例改正、国立銀行の隆盛が始まる
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1876年
三井銀行および三井物産設立
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1876年
安田善次郎が第三国立銀行を設立し「銀行王」への道を踏出す
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1877年
三井組総帥の三野村利左衛門が井上馨に後事を託し死去
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1877年
西南戦争、政府軍輸送を担った岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が絶頂を迎える
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
西南戦争に呼応する立志社の策動が発覚、陸奥宗光は5年の禁固刑を受け山形監獄に収容される
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878年
福地源一郎・渋沢栄一ら有力財界人の出願により東京株式取引所設立
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1878年
会頭渋沢栄一と大倉喜八郎が発起人となり東京商法会議所(商工会議所)発足
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1879年
岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が香港航路・元山津航路を開設
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1880年
西南戦争後の財政再建策を巡り渋沢栄一・井上馨・薩長閥と岩崎弥太郎・大隈重信の陣営が対立
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1880年
渋沢栄一らが郵便汽船三菱会社に対抗すべく風帆船会社を設立するが大隈重信・岩崎弥太郎に切崩され経営は難航
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1881年
開拓使官有物払下げ事件
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
自由党結党、板垣退助が総理就任、後藤象二郎は常議員として参加
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1881年
松方正義が参議兼大蔵卿に就任し松方財政が始まる
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1881年
岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が仁川航路・ウラジオストク航路を開設
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1881年
大隈重信の周旋により岩崎弥太郎が後藤象二郎から高島炭鉱を買取る
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1881年
日本鉄道会社設立
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1882年
薩長藩閥政府が岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社に「第三命令書」を交付し事業妨害
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1882年
板垣退助遭難事件
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1882年
板垣退助と後藤象二郎が立憲政治視察のため渡欧、後藤が三井から受取った洋行費を散財し板垣の自由党総理を引責辞任
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1882年
福澤諭吉・慶應義塾派が立憲改進党を結成し大隈重信を党首に担ぐ
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1882年
朝鮮で壬午事変
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1882年
西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と井上馨が三菱潰しのため共同運輸会社を設立
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1882年
松方正義主導で日本銀行開業、安田善次郎・三野村利助が創立事務御用掛を務める
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1882年
大隈重信が東京専門学校創立(早稲田大学)
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1882年
伊藤博文が立憲制視察のため渡欧
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1882年
渋沢栄一主導で大阪紡績(現東洋紡)株式会社設立、紡績業の発展を牽引
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1883年
板垣退助・後藤象二郎がヨーロッパ視察旅行より帰国、公金流用疑惑で自由党が分裂し板垣は総理辞任に追込まれる
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1884年
伊藤博文の計いで陸奥宗光がヨーロッパ遊学
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1884年
華族令公布
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1884年
松方デフレによる不況深刻化
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1884年
秩父事件
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1884年
朝鮮で甲申事変、自由党の板垣退助・後藤象二郎や福澤諭吉が金玉均の独立党を後援
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1884年
薩長藩閥政府が岩崎弥太郎の三菱に官営長崎造船所の経営を押付ける
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1884年
郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の船舶が衝突事故を起し薩長藩閥政府が和解に乗出す
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1885年
福澤諭吉が「脱亜論」を発表
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1885年
岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に東京六義園にて死去(享年51)、弟の岩崎弥之助が三菱を承継
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1885年
西郷従道農商務卿の和解勧告を岩崎弥之助が受入れ共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を併合し日本郵船会社が発足
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1886年
岩崎弥之助が三菱社設立
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1886年
民権諸派の大同団結運動が始まる(発起人の後藤象二郎は黒田清隆内閣に懐柔される)
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1886年
岩崎弥之助の三菱社が興共・瀬戸(岡山)鉱山を買収
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1886年
加藤高明が帰国、岩崎弥太郎の長女春治と結婚
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1886年
藤岡市助・大倉喜八郎らが東京電燈(現東京電力)設立、全国各地で電力普及が進む
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1886年
企業勃興~起業ブームが始まる
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1887年
板垣退助が政府の要請を受入れ伯爵を受爵(後に孫の板垣守正が爵位を返上)
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1887年
後藤象二郎が伯爵を受爵
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1887年
徳富蘇峰が民友社結成、『国民之友』創刊
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1887年
保安条例
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1887年
鹿鳴館外交と条約改正に失敗した井上馨が外務大臣を辞任、伊藤博文首相が兼務ののち大隈重信へ交代
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1887年
岩崎弥之助の三菱社が尾去沢・大葛・細地(秋田)・槙峰(宮崎)・多田(大阪)・木浦(大分)・樫村(岡山)鉱山を買収
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1887年
岩崎弥之助の三菱社が政府から長崎造船所を買収
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1888年
黒田清隆内閣発足、逓信大臣を餌に後藤象二郎を懐柔
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
民法典論争が起る
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1889年
東海道本線が全通(新橋-神戸間)
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1889年
大隈重信外相が玄洋社来島恒喜に襲撃される
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1889年
岩崎弥之助の三菱社が新入・鯰田(福岡)炭鉱を買収
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
板垣退助が立憲自由党を再興
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1890年
第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得
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1890年
第一回帝国議会開催
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1890年
岩崎弥之助の三菱社が古賀山(佐賀)・端島(長崎)・碓井(福岡)炭鉱を買収
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1891年
板垣退助が自由党総理に復帰
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1891年
足尾銅山鉱毒事件
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1891年
第一次松方正義内閣発足、後藤象二郎が逓信大臣に就任
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1891年
内村鑑三不敬事件
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1891年
武市半平太(瑞山)・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎に追贈正四位、武市は高知市武市邸跡地の瑞山神社に祀られる
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1891年
岩崎弥之助の三菱社が佐与(福岡)炭鉱を買収
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1892年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足、板垣退助が内務大臣・後藤象二郎が農商務大臣で入閣
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1893年
政府が官営富岡製糸場を三井へ払下げ
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1893年
三菱社が三菱合資会社に改組、岩崎弥之助が岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲
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1893年
岩崎弥太郎の功により嫡子の岩崎久弥が男爵を受爵、三菱2代目の岩崎弥之助も別に男爵家を樹立
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1894年
後藤象二郎が収賄事件により農商務大臣を引責辞任
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1894年
不平等条約改正(領事裁判権・片務的最恵国待遇の撤廃)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1894年
丸の内オフィス街に三菱第一号館が登場
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1894年
日本郵船が三菱の傘下に入る
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
三菱が上山田・方城(福岡)炭鉱を買収
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1896年
三菱が政府から佐渡金山・生野銀山を買収
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1896年
三菱が油戸(山形)炭鉱を買収
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1896年
豊田佐吉が動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を発明し繊維業界を席巻(2年後特許取得)
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1896年
第二次松方正義内閣発足、大隈重信外相と板垣退助内相が揃って入閣
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1896年
岩崎弥之助が第4代日銀総裁就任
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1897年
松方正義首相・岩崎弥之助日銀総裁が貨幣法を制定し金本位制移行を断行
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1897年
後藤象二郎が死去し(享年60)青山霊園に葬られる、追贈正二位
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
三菱が日本郵船に国産最大6172トンの常陸丸を納品
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1898年
第三次伊藤博文内閣発足
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1898年
憲政党結成~2大民党の合同
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1898年
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)発足~初の政党内閣
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足
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1898年
岩崎弥之助が日銀総裁辞任
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1900年
北清事変
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1900年
黒田清隆死去
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1900年
立憲政友会結成
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足
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1901年
官営八幡製鉄所操業
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足~桂園時代始まる
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1901年
北里柴三郎が第1回ノーベル医学生理学賞の候補となるが共同研究者のベーリングが単独受賞
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1902年
岩崎弥之助が7ヶ月間の欧米周遊旅行、桂太郎内閣の日露開戦工作を支援
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1902年
西郷従道死去
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
岩崎弥之助の援助により大隈重信の東京専門学校が早稲田大学に昇格
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1903年
幣原喜重郎が岩崎弥太郎の末娘雅子と結婚
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
井上馨の依頼を受け高橋是清が日露戦費調達のため渡欧米
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1905年
三菱が神戸造船所を開設
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
三井の越後屋が三越呉服店へ改称しデパートメントストア宣言
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1905年
久原房之助が井上馨の援助で赤沢銅山(茨城県)を買収、日立鉱山へ改称し久原鉱業所開業
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
北浜銀行主導で箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)設立、岩下清周は浪人の小林一三を実質上の経営者に招聘
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1908年
岩崎弥之助が死去(享年57)
岩崎弥之助の交遊録
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岩崎弥太郎
兄・三菱創始者
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岩崎久弥
弥太郎嫡子・三菱3代目
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岩崎小弥太
弥之助嫡子・三菱4代目
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岩崎俊弥
弥之助次男・旭硝子創業者
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後藤象二郎
不肖の岳父
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加藤高明
弥太郎娘婿
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幣原喜重郎
弥太郎娘婿
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木内重四郎
弥太郎娘婿
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渋沢敬三
木内娘婿
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渋沢栄一
敬三祖父
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松方正作
弥之助娘婿・正義次男
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山内容堂
土佐藩国主
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山内豊範
容堂養嗣子の土佐藩主
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山内豊中
豊範四男・木内娘婿
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吉田東洋
弥太郎の恩人
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板垣退助
土佐派重鎮
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土方久元
土佐派重鎮
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佐々木高行
土佐派重鎮
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福岡孝悌
土佐派重鎮
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谷干城
土佐軍人
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武市半平太
土佐勤皇党首領
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坂本龍馬
土佐海援隊首領
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陸奥宗光
超優秀な海援隊士
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中島信行
海援隊士から板垣舎弟
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中岡慎太郎
陸援隊首領・板垣の盟友
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土方久元
土佐勤皇党から宮廷政治家
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田中光顕
土佐勤皇党から宮廷政治家
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川田小一郎
三川商会幹部
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石川七財
三川商会幹部
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中川亀之助
三川商会幹部
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荘田平五郎
三菱幹部・姉の娘婿
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吉川泰二郎
三菱幹部・日本郵船を奪還
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森岡昌純
日本郵船初代社長
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大久保利通
維新の三傑・三菱の恩人
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前島密
大久保舎弟・三菱支援者
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大隈重信
大久保舎弟・腐れ縁
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江藤新平
征韓派
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副島種臣
征韓派
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大木喬任
大久保舎弟
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福澤諭吉
大隈の黒幕
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西郷隆盛
維新の三傑
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西郷従道
隆盛弟・三菱潰しの急先鋒
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黒田清隆
三菱潰しの急先鋒
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松方正義
和解した薩摩閥重鎮
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木戸孝允
維新の三傑
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伊藤博文
長州閥のドン
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井上馨
三井の番頭
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渋沢栄一
井上派財界人
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渋沢成一郎
栄一従兄弟
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三野村利左衛門
三井幹部
-
三野村利助
三井幹部
-
中上川彦次郎
三井幹部
-
益田孝
三井幹部
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團琢磨
三井幹部
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大倉喜八郎
財界仲間
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安田善次郎
財界仲間
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高橋是清
財界の偉材
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小林一三
阪急の奇才
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豊田佐吉
力織機発明家
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小平浪平
食道楽仲間
岩崎弥之助と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 80点
岩崎弥之助は、今日に続く三菱財閥の実質上の創業者である。岩崎弥太郎の急死で2代目を継いだ岩崎弥之助は本業の海運業を断念し「三菱商会」を薩長藩閥の日本郵船へ引渡したが、新たに「三菱社」を興し鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に打って出た。先ず鉱業に乗出した岩崎弥之助は、買収攻勢で次々と所有鉱山を増やしつつ、最新の採掘・精錬法を採用し多額の資本を投下して近代設備を導入、三菱の金銀銅産出量は全国屈指の規模に急成長を遂げた。岩崎弥之助は炭鉱部門にも力を注ぎ、兄が後藤象二郎から押付けられた高島炭鉱を最新技術で優良化させると相次いで炭鉱を買収、三菱の炭鉱生産は国内産出量の1割に膨らんだ。さらに岩崎弥之助は、政府から押付けられたお荷物の長崎造船所を買上げ、本場イギリスから先端技術を導入し日本初6千トン級巨船の建造に成功、神戸造船所も開設し三菱造船は日清戦争・日露戦争・第一次大戦に伴う空前の造船ブームを満喫し稼ぎまくった。岩崎弥之助は主力の鉱業・造船に留まることなく経営多角化を推進、倉庫・保険、銀行・農場(小岩井農場)など多種多様な事業に手を広げた。とりわけ日本初のオフィス街建設は特筆すべきで、岩崎弥之助の先見の明により現在も三菱地所は「丸の内の大地主」である。一方、岩崎弥之助は政界活動でも強かさとバランス感覚を発揮した。大隈重信への肩入れが過ぎて薩長藩閥に潰された岩崎弥太郎を反面教師に、岩崎弥之助は全方位外交を展開、大隈の進歩党を援助しつつ岳父の後藤象二郎と自由党を後援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥に食込んだ。また、エリート外務官僚の加藤高明・幣原喜重郎を青田買いし岩崎弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で政界に三菱勢力を扶植した。日本郵政も参加に収め三菱再興を果した岩崎弥之助は、潔く亡兄の嫡子岩崎久弥に3代目を禅譲し、引退後は政治活動に本腰を入れた。大隈重信(政党)と松方正義(藩閥)の間を取持ち第二次松方内閣を成立せしめた岩崎弥之助は、第4代日銀総裁を引受け金本位制移行や制度改革を断行し「名総裁」と讃えられる業績を残した。