薩長藩閥と講和し兄の岩崎弥太郎が興した海運業から撤退したが膨大な遺産を元手に鉱山業・造船業の買収攻勢で忽ち復活、経営多角化を成功させ全方位外交で政界と宥和した実質上の三菱財閥創業者
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岩崎 弥之助
1851年 〜 1908年
80点※
岩崎弥之助と関連人物のエピソード
- 岩崎弥之助は、兄の岩崎弥太郎が興した海運業を日本郵船に引渡したが、膨大な遺産を元手に鉱山買収と造船業を核に多角的経営を成功させ短期間で三菱財閥の礎を築いた敏腕経営者である。出発時の事業は銅山(吉岡銅山)・水道(千川水道会社)・炭鉱(高島炭鉱)・造船(長崎造船所)・銀行(第百十九銀行)の5部門で、「三菱社」を設立した岩崎弥之助は唯一まともな吉岡銅山から手を付けた。東大出身者を鉱山長に迎え最新の採掘・精錬法と設備の導入で吉岡銅山の産出量は倍増、並行して短期集中的に鉱山買収を推進し、興共・瀬戸・樫村、尾去沢・大葛・細地・槙峰・多田・木浦・佐渡・生野を獲得した三菱は日本屈指の金銀銅メーカーへ躍進した。岩崎弥之助は炭鉱にも注力し、最新技術で高島炭鉱を優良化させ、新入・鯰田・碓井・佐与・上山田・方城・古賀山・端島・油戸を相次いで買収、三菱の国内産出シェアは1割に達した。さらに岩崎弥之助は製造業にも手を広げ、政府のお荷物だった長崎造船所を45万9千円で譲受けると、外国人技師と大卒技術者を雇用し、多数の社員をイギリスへ派遣して本場の造船技術を習得させ、日本一の技術力を得て6000トン級巨船の建造に成功した(日本郵船「常陸丸」)。三菱は新たに神戸造船所を開設し、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫した。岩崎弥之助は、海運業特化で失敗した岩崎弥太郎の轍を踏まぬよう主力の鉱業・造船のほか倉庫・保険・銀行・不動産・農場(小岩井農場)など多種多様な事業を展開、日本郵船も三菱傘下に取戻した。「丸の内の大地主」三菱地所の創業者もまた岩崎弥之助であり、丸の内一帯10万余坪の土地を128万円の巨費を投じて陸軍省から買取り、コンドル設計の「三菱第一号館」を皮切りに近代的オフィスビルを次々と建設し「日本初のオフィス街」を現出させた。「三菱合資会社」への改組を機に岩崎弥太郎の遺言に従い岩崎久弥に三菱3代目を禅譲した岩崎弥之助は、三菱の政治的基盤を固めるため各派閥への全方位外交を展開、松方正義と大隈重信を仲立ちして「松隈内閣」を成立させ紐帯として日銀総裁に就き、大隈の東京専門学校を援助し早稲田大学へ昇格させた。
- 岩崎弥太郎の憤死により三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、三菱潰しの首謀者である西郷従道農商務卿の和解勧告を受入れ海運業からの撤退を決断、1885年共同運輸会社が郵便汽船三菱会社を吸収併合し日本郵船会社が発足した。資本金11百万円のうち三菱側は5百万円を保有したが岩崎家の経営参画は認められず、社長には共同運輸社長の森岡昌純が就き理事4人のうち三菱側は荘田平五郎のみであった。三菱は海運分野に関する全ての資産と権益および従業員約2千2百人のうち1千5百人を日本郵船へ移譲、本業を失うも三菱再興を期す岩崎弥之助は残された鉱業・造船業などを整理し「三菱社」を設立したが従う幹部(管事)は川田小一郎(岩崎弥太郎の腹心)のみであった。が、日本郵船では結束の固い三菱派閥が次第に影響力を増し理事を独占するに至り、薩長藩閥と和解した岩崎弥之助と岩崎久弥(弥太郎の長男)が男爵に叙された翌年の1894年、三菱出身の吉川泰二郎が社長に就任し日本郵船は事実上三菱の傘下に入った。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵だらけの岩崎弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ岩崎弥之助は、海運業独占で排除された岩崎弥太郎の特化路線を捨てて鉱山・造船・不動産・銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘の繁子を嫁がせ薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部率のエリート外務官僚である加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期戦略で三菱勢力の政界浸透を図った。三菱合資会社への改組を機に三菱3代目を岩崎久弥に禅譲した後、岩崎弥之助は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取持って第二次松方正義内閣(隈板内閣)を成立させ川田小一郎(三菱幹部)に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としての岩崎弥之助は、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制移行を断行したほか、中小銀行の統廃合・担保品付手形割引の廃止・日銀の個人取引開始・初の金融市場操作などを実施、後に「名総裁」と讃えられる業績を残した。日露戦争では、軍需を期待すべき三菱財閥のドンとしては必然か、岩崎弥之助は強硬な開戦論を唱え加藤高明ら対外硬派を後押しした。
- 岩崎弥之助は、岩崎一族の男児を親元から引離して本郷竜岡町の寄宿舎「雛鳳館」に入れ厳しいスパルタ教育を施した。三菱商船学校から優秀な「御学友」も選抜し、風呂焚きや洗濯など家事全般を自分達で行わせ、食事は召使が哀れむほどの粗食、有名な英語教師・漢学者・思想家らを家庭教師につけ猛勉強させた。岩崎久弥(弥太郎の嫡子)は、米国ペンシルベニア大学に5年間留学したが住居は安下宿であった。親友のロバート・グリスコム(後の駐日大使)も日本の苦学生と侮っていたが、二人で欧州旅行へ行きロシアの高級毛皮店を訪れた際、寡黙な岩崎久弥は「帽子全部と婦人用の外套・ケープがほしい」と店中の品を床一杯に並べさせたうえで「これで全部かね。全部頂きましょう」と無造作に言いグリスコムを仰天させた。雛鳳館で甘やかされずに育った岩崎久弥と岩崎小弥太は優秀な三菱総帥となり、仲間意識と質実剛健を重んじる美風は三菱社員へも浸透し、今日でも三菱系は「組織の三菱」を誇り仲間内から物を買う風潮が強い。さて、岩崎弥之助は一般の教育事業にも熱心で、日本女子大学の発起人として多額の資金を援助し、大隈重信が創立した東京専門学校に基金1万5千円を寄付し早稲田大学への昇格を後押しした。早稲田大学と福澤諭吉の慶應義塾は今も三菱社員を輩出し続けている。岩崎弥之助は文化活動にも取組み、膨大な和漢書・刀剣・書画の蒐集に励んで「静嘉堂文庫」の基礎を成し、多くの芸術家のパトロンになった。
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎に重宝され土佐藩の貿易商社「土佐商会」を掌握、維新後独立し大久保利通の保護政策と台湾出兵・西南戦争の特需に乗じて「三菱海上王国」を現出させたが大隈重信に肩入れし薩摩閥との激闘の渦中に憤死した三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して日本郵船が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助が残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 岩崎弥太郎は、生れつき癇が強く持余し者のガキ大将となり成績劣等で寺子屋を転々としたが、12歳頃に恩師の小牧米山に巡り合い詩作の才能が開花した。13代土佐藩主の山内豊熈が安芸郡を巡視で訪れた際、14歳の岩崎弥太郎は歓迎の詩を献上、藩主に褒賞され扇子と銀を賜わった。この一件で郷土の誉に転じた岩崎弥太郎の向学心は燃え盛り、翌年高知城下へ出て岡本寧浦の私塾「紅友舎」に入門した。岩崎は小牧米山の恩を忘れず後年「威徳碑」建立費用の一部を献金している。岡本寧浦は、頼春水(頼山陽の父)に師事し大塩平八郎や安積艮斎らと交流した儒学者で、山内容堂の招きで土佐藩校「教授館」の教官となり高知城下に紅友舎を開講、門人には岩崎弥太郎のほか清岡道之助・河田小龍らがおり、武市半平太・吉田東洋・間崎哲馬とも交流があった。岡本寧浦の影響で歴史好きとなった岩崎弥太郎は、『三国志』や『水滸伝』を読み漁るうちに自分を英雄視するようになり「将来自分は世の中に名を成すだろう」と宣言、文字下手をからかわれると「将来出世して能書家を雇うから問題ない」と嘯き、自宅の庭に日本列島をかたどった石群を置いて睥睨し(安芸市の「岩崎弥太郎生家」に現存)、海を見ては「大人になったら太平洋を横断してやる」と豪語した。学問(儒学)での立身出世を志した岩崎弥太郎は、藩儒の奥宮慥斎に頼み込んで随員に加えてもらい江戸へ出て安積艮斎に入門したが、出立に際し近所の妙見山の星神社の社殿に「天下の事業はこの手腕にあり。吾れ、志を得ずんば、ふたたび此の山に登らず」と大書したと伝わる。
- 庄屋の島田便右衛門の酒席に招かれた「地下浪人」の岩崎弥次郎(弥太郎の父)は、泥酔して島田に絡み、リンチの制裁を受け重態となった。江戸遊学中の岩崎弥太郎は母の美和から急報を受け記録級のスピードで駆け戻り安芸郡奉行所に訴え出たが、奉行所は岩崎父子のみを叱責し島田らはお咎め無しであった。逆恨みに激怒した岩崎弥次郎は、あろうことか奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書、奉行所は弥太郎の所業と知りつつも落書を消して穏便に済ませようとしたが、弥太郎がまたも同じ白壁に非難の文言を書き付けたため看過できず投獄した。岩崎弥太郎は後年、牢獄生活が商売に目覚める転機になったと述懐、同牢に居た魚梁瀬村の樵から算盤や商売を学び立身出世のためには学問より商売と悟ったのだという。感銘を受けた岩崎弥太郎は「出世したら盛相(茶碗)一杯の金を与える」と約束し、海運王に成上るとわざわざ樵を見つけ出し金を取りに来るよう促したという。
- 安芸郡奉行所は喧嘩両成敗で岩崎弥次郎リンチ事件を収拾、島田家と岩崎家を家名断絶に処し、島田便右衛門に加担した岩崎の分家2名の村役人職を解いた。もともと嫌われ者で無役の岩崎家に実害は無かったが庄屋を罷免された島田家は被害甚大、岩崎弥太郎の事実上の勝訴であったが、弥太郎も高知城下および郷里井口村への出入りを禁じられ神田村の近藤楠七のもとで謹慎を命じられた。岩崎弥太郎は謹慎中に私塾(寺子屋)を開き近隣の子弟を教育、生徒には後に坂本龍馬に随身する近藤長次郎や池内蔵太がいた。
- 松下嘉兵衛は、家禄3千石の交代寄合衆(大名待遇の上級旗本)で山内家から分家同様の扱いをされた大物であった。江戸藩邸での酒宴の席、酩酊した松下嘉兵衛が吉田東洋を呼捨てにし頭を撫でてからかった。吉田東洋は抗議したが松下は調子に乗るばかり、相当酒が入っていた吉田は「無礼!」と叫ぶと続けざまに松下を殴りつけた。土佐藩主の山内容堂もさすがに庇い切れず、翌日土佐へ召還された吉田東洋は免職・格式没収のうえ城下と周辺四ヶ村への立入りを禁止され知行も50石削られ残る150石は嫡子の吉田正春に譲らされた。が、長浜に蟄居した吉田東洋は屈することなく研鑽を積み、藩庁に黙って少林塾を開き少年教育に勤しんだ。少林塾門人の後藤象二郎・板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎らは、藩政に復帰した吉田東洋の引立てで子飼官僚「新おこぜ組」の中核となり、吉田没後の土佐藩政を担った。後藤象二郎は吉田東洋の義理甥で、板垣退助とは竹馬の友であった。
- 岩崎弥太郎は、参政に復帰した吉田東洋の引きで土佐藩に出仕、郷廻(郡奉行配下の下級役人で農村を巡査する微職)から同年中に長崎出張へ出された。財政改革の一環として土佐藩物産の輸出を図る吉田東洋は下許武兵衛(上士)に長崎視察を命じ、その従者に任じられた岩崎弥太郎は準備視察と人脈作りに励み西洋情勢を探るべく鳴滝塾のシーボルトや蘭医の松本良順にも会った。が、都会に浮かれた岩崎弥太郎は、遊郭に通い詰めて大散財、遂に藩の公金を使い込み進退窮まって職を辞し土佐へ帰国した。安芸浦町の酒造家に頼み込んで100両の大金を借受け横領額を弁済し処罰だけは免れたが、大失態で面目を失った岩崎弥太郎は郷里の井ノ口村で隠遁した。
- 第二次長州征討で幕府権威は失墜し諸藩は動揺、土佐藩でも、再び勤皇派の人士を登用し薩摩藩に接触して真意を探るなどの動きをみせたが、武市半平太と土佐勤皇党を葬ったことで薩長志士人脈を失い自力で中央政局に復帰する力を欠いていた。慌てた執政の後藤象二郎は、長崎で福岡孝悌と会談し(共に吉田東洋門下の新おこぜ組)薩摩系の坂本龍馬と長州系の中岡慎太郎の起用を決定、両者の脱藩罪を赦免し志士活動後援で懐柔し、坂本・中岡は旧怨を忘れて周旋に協力した。坂本龍馬の亀山社中は、薩長連合締結に伴い薩摩藩での役割を失い、海難事故もあって経営は破綻に瀕しており、土佐藩の援助は渡りに船だった。土佐藩の傘下に改めて発足した海援隊は、菅野覚兵衛・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・坂本直・長岡謙吉・中島信行ら土佐浪士に陸奥宗光ら神戸海軍操練所出身者を加えた50人ほどの組織であった(坂本龍馬の暗殺後、土佐藩は求心力を失い分裂した海援隊を解散し、土佐藩の商社機能は土佐商会へ引継がれ主宰の岩崎弥太郎が独立し三菱財閥へ発展)。坂本龍馬の差配で薩土同盟を結び将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した土佐藩と後藤象二郎は穏健な王政復古路線の主役に躍り出たが、薩長と共に武力討幕を期す中岡慎太郎は、同志の板垣退助(新おこぜ組)に西郷隆盛と薩土密約を結ばせ、土佐藩に京都藩邸と資金を拠出させ浪士群を集めて陸援隊を結成したが、開戦直前に坂本龍馬と共に見廻組に暗殺された。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通は岩倉具視と結んで朝廷を掌握し山内容堂の猛反対を抑えて辞官納地を断行、討幕の密勅で大政奉還を有名無実化して戊辰戦争の火蓋を切った。徳川家擁護に固執する山内容堂と後藤象二郎は動けなかったが、中岡慎太郎の遺志を継ぐ板垣退助は急ぎ洋式銃器を購入し土佐勤王党系人士を糾合して迅衝隊を結成、独断で戊辰戦争に参戦した。東山道軍の参謀に就いた板垣退助は軍事的才能を発揮、甲州勝沼の戦いで近藤勇ら新撰組残党を撃破し、会津若松城攻略で東北戦争の殊勲者となり、薩土密約を果した土佐藩は「薩長土肥」に滑り込んだ。
- 後藤象二郎は、山内容堂と共に土佐勤皇党を粛清し時流に取残されたが坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込み大政奉還建白で桧舞台に立った土佐藩執政、維新後は政府高官となり板垣退助の自由民権運動に従うも迷走続きで事業も破綻させた。武市半平太に暗殺された土佐藩執政の吉田東洋は義理の叔父で、板垣退助は竹馬の友、下僚の岩崎弥太郎を商事に引込み弟の岩崎弥之助に娘を嫁がせた。中岡慎太郎の遺志を継いだ板垣退助が戊辰戦争に独断参戦し土佐藩は「薩長土肥」へ食込み、板垣退助と後藤象二郎は新政府首脳に採用されたが、明治六年政変で征韓派に属し下野、板垣は薩長藩閥に対抗すべく民衆を動員して自由民権運動を牽引し後藤も行動を共にした。良く言えば豪快な後藤象二郎は、豪遊で公金を散財し、高島炭鉱など事業で失敗を重ね借金まみれだった。板垣退助が立憲政治・議会制度視察のため洋行を志向し金策中との情報を得た山縣有朋は、陸軍省御用商人でもある三井の番頭に命じ2万ドルの大金をあるとき払いの催促なしで拠出させ、金を受取った後藤象二郎は板垣を促しヨーロッパへ旅立った。が、山縣有朋のリークだろう、洋行費が政府から出ているとの噂が立ち自由党内は騒然、後藤象二郎は2万ドルの件を隠し一人で費消したうえにシラを切り、板垣退助は支持者から3千ドルを借りて弁済にあてたが窮地に追込まれた。山縣有朋の分断工作は図に当り自由党は分裂、板垣退助の権威は失墜し総理の地位も失った(後に復帰)。伊藤博文が最初の内閣を発足した翌年、後藤象二郎は民権諸派に大同団結運動を提唱したが、次の黒田清隆内閣で逓信大臣の餌に飛付いて懐柔され、第二次伊藤博文内閣で農商務大臣に就くも収賄事件で引責辞任、60歳で生涯を閉じた。大町桂月は後藤象二郎を「たとえていえばナイル河の水で、氾濫して人びとをさわがせるが、土地を肥やしもする」と評したが、後半部分は三菱への便宜供与を指すかも知れない。新貨条例の施行を前に後藤象二郎から新政府が各藩札を買上げるとの情報を得た岩崎弥太郎は、10万両を調達し安値で買叩いた藩札を政府に転売して巨利を積んだというが、後藤の放漫経営で破綻した高島炭鉱を押付けられ(後に巨利を生むが)死ぬまでに相当な金を貢いだと考えられる。
- 板垣退助は、土佐藩の上士には珍しく熱烈な尊攘派で「薩摩好き」だった。師の吉田東洋を暗殺した土佐勤皇党とは敵対したが、武市半平太の投獄に先んじて藩政を辞し江戸へ遊学した。長州藩が馬関戦争を起すと、板垣退助は自ら兵を率い救援すると言い立て山内容堂に厄介払いされたが、このとき中岡慎太郎と意気投合、小笠原唯八・佐々木高行・谷干城ら上士の同志と勤皇盡忠を誓い合い、江戸で大久保利通ら薩摩藩士と交流、幕臣の勝海舟と坂本龍馬の脱藩罪赦免を協議した。江戸で形勢を観望していた板垣退助は、時節到来とみたか、四候会議決裂で土佐へ戻った山内容堂と入替わるように上京し、中岡慎太郎の斡旋により京都の小松帯刀邸で西郷隆盛と薩土密約を締結した。席上、中岡は「もし板垣が違約したなら割腹してお詫びしよう」と言葉を添え、豪傑好みの西郷は「愉快愉快」と喜んだという。薩土密約を果たすべく藩政に復帰し大監察に就いた板垣退助は、大政奉還で徳川家擁護を図る山内容堂と後藤象二郎を横目に大急ぎで討幕挙兵を準備、洋式銃器を購入し突貫で軍政改革を行い、土佐勤皇党の島村寿之助・安岡覚之助らを出獄させ残党を集めて迅衝隊を結成した。鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても薩摩藩の専横を恨む山内容堂は出兵を逡巡、板垣退助は独断で迅衝隊を率いて参戦し、東山道先鋒総督府の参謀として東北戦争を指揮し会津城攻略の立役者となった。中岡慎太郎は生前「将来事をなそうとするには、門閥家による必要がある。板垣は門閥ながら仕事ができる人物である。諸君は昔の反感を捨てて板垣と共にことをはかれば、必ず成功するだろう。」と語ったが、予言どおり板垣退助は切所で勇猛心を発揮し土佐藩を「薩長土肥」に押込んだ。板垣退助は、清貧な豪傑タイプを好む西郷隆盛に重用され共に「留守政府」を取仕切ったが、本来は政治家ではなく軍人ながら薩長が牛耳る軍部には進めず、岩倉使節団が帰国し明治六年政変が起ると征韓派に与し下野、自由民権運動のカリスマとなった。
- 開成館は、遅ればせながら富国強兵に目覚めた土佐藩が1866年に設立した巨大機関で、軍艦・貨殖・捕鯨・税課・鉱山・火薬・鋳造・原泉(貨幣鋳造)・医局(漢方)・訳局(洋書翻訳)の部局からなり、山内容堂の命を受けた後藤象二郎が藩政改革の旗振り役となり財政・軍備・藩営事業などの諸機能を全てここに統合した。貨殖局は特に重要で、樟脳など土佐藩物産の振興と外国輸出、獲得した外貨での武器輸入を目的とし、長崎・大阪・兵庫に出張所が置かれた。洋式軍備の調達を急ぐ後藤象二郎は、藩交易を活性化すべく長崎へ赴くも大雑把な性格で商才は皆無、下僚の岩崎弥太郎を呼出して丸投げした。貨殖局勤務を命じられた岩崎弥之助は「小鳥の餌鉢をこね回すようなせこい仕事だ」と嫌がり僅か40日間で辞職したが、後藤象二郎の命令で長崎出張所(土佐商会)に引張り出されると外国人の懐柔と強談判で忽ち頭角を現し主任に上って業務を差配、金喰虫である坂本龍馬の土佐海援隊の会計係も押付けられた。明治維新後、岩崎弥太郎は事業より政治を志し後藤象二郎に新政府への斡旋を嘆願したが、後藤は便利な土佐藩の経済官僚を失うのを嫌い無情にも却下した。土佐商会が大阪商会、九十九商会、三川商会へ改組するなか岩崎弥太郎は商事に励みつつ猟官運動を続けたが、1873年政治への夢をきっぱり諦め自らの資本で三菱商会を設立した。後藤象二郎から長崎へ呼出されたことが岩崎弥太郎の人生最大の転機となり、三菱財閥の起点となった。一方の後藤象二郎は、板垣退助の自由民権運動に従うも大臣ポストに釣られて薩長藩閥に懐柔され、「官有物払い下げ」で高島炭鉱を得るも放漫経営により僅か2年で経営破綻させ岩崎弥太郎に買取らせ、借金漬けになっても豪遊を続けた。三菱の金をあてにする後藤象二郎は娘の早苗を岩崎弥之助(弥太郎の弟で三菱2代目)に嫁がせたが、愛想を尽かした岩崎弥太郎は板垣・後藤の自由党ではなく大隈重信(実は福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れし資金源となった。
- 岩崎弥太郎が赴任したとき土佐商会(開成館長崎出張所)は実質的な破綻状態にあった。ドイツやイギリスの商人から大量の銃器や蒸気船を購入したが、土佐藩が売れるものは特産品の樟脳くらいしかなく、大幅な出超で借金は20万両に膨らみ、困り果てた責任者の後藤象二郎・山崎昇六は商売の分かる岩崎弥太郎を長崎に呼寄せた。過去の横領事件の汚名返上に燃える岩崎弥太郎は奮闘したが、金も輸出品も無いのに藩庁からは武器弾薬を送れとの矢の催促、端から厳しい経営を強いられた岩崎は接待攻勢で外国人の信用を繋ぎつつ、割賦購入後の返品要求や踏倒す素振りで代金を大幅に値切るといった悪徳商法にも手を染めた。そんな経営が続くはずはなかったが、土佐商会が破綻する前に幕府が崩壊してしまい、維新の混乱のお陰で辛うじて命脈を保った。一方、商圏拡大を期す岩崎弥太郎は、朝鮮交易を企画しギリス商人オールトの船で鬱陵島へ乗込み下調べを行った。無人島と信じ「奉大日本土藩之命、岩崎弥太郎発見此島」の標柱を持参したが、住民が居て無駄になったという逸話がある。また、岩崎弥太郎は対馬に漂着した朝鮮商人伯楽に接触し土佐商会との密貿易を持掛けたが、伯楽の失踪により頓挫したという。
- 岩崎弥太郎は長崎で坂本龍馬と親しくなり、土佐藩から土佐海援隊の会計係も押付けられた。海援隊士は火の車の財政などお構いなしに岩崎弥太郎に金をせびり、両者の関係は次第に険悪化した。後藤象二郎の参政就任に伴い佐々木高行が長崎土佐商会を後継したが、佐々木は上士ながら熱心な尊攘派で土佐海援隊と意気投合し政治活動を優先、業務を妨害された岩崎弥太郎は京都へ奔り後藤象二郎に辞任を申出た。平時なら職務放棄は重罪だが武器輸入が急務な情勢下で後藤象二郎は折れざるを得ず、岩崎弥太郎を上士格「新居留守組」への昇格で慰留し土佐商会主任に復帰させた。佐々木高行は土佐への帰国を命じられたが、間もなく王政復古の大号令が発布され時局が流動化、佐々木は土佐海援隊の指揮者として長崎に留まり政治活動にあたった。
- 戊辰戦争に呼応した土佐藩の佐々木高行が海援隊を率い長崎奉行所を占拠、薩摩藩の松方正義と連携し長崎を勤皇派諸藩の共同統治下に置いた。佐々木高行は板垣退助の土佐軍を支援すべく藩船「夕顔丸」の上方派遣を命じるも、商事第一の岩崎弥太郎は先約を理由に拒否し又も辞表を届捨てにして大坂へ奔り後藤象二郎に直訴した。岩崎弥太郎は今度も後藤に慰留され長崎へ戻ったが、佐々木高行は新政府の長崎裁判所参謀助役に就いて土佐商会からは手を引いており、晴れて土佐商会の全権を掌握した。
- 土佐藩の貿易商社「土佐商会」(開成館長崎出張所)は、兵庫開港に伴い「大坂商会」(大坂出張所)へ移され、廃藩置県により民間会社「三川商会」へ改組されたが、実態は幕末から一人で切盛りしてきた岩崎弥太郎の個人経営であった。岩崎弥太郎は、維新直後は政治家を志し上司の後藤象二郎を通じて明治政府に猟官活動を展開したが断念、三川商会を名実共に岩崎家の私企業である「三菱商会」へ改組し以後は商事に専念した。三菱商会は、膨大な設備投資を要する海運業を主体としたため当初は弱体であったが、岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力と徹底した低価格・サービス戦略により、僅か一年ほどで三井・鴻池・島田・小野ら政商連合が設立した国策会社「日本国郵便蒸気船会社」と肩を並べるまでに急成長、「士族商法」で破綻した官有物払い下げ事業を吸収し鉱工業などへも手を広げた。なお、今も三菱のシンボルマークである「スリーダイヤモンド」は、岩崎家の家紋「三階菱」と山内家の家紋「三つ柏」を融合し図案化したものである。
- 三菱商会の第一の成長要因は岩崎弥太郎の外国人脈に基づく豊富な資金力であり、膨大な設備投資を要する海運業への参入を可能にした。また、多くの土佐藩士を引受けた三菱商会では「士族の商法」が横行したが、岩崎弥太郎は「前垂れ」の着用を義務付け顧客本位のサービス戦略を徹底した。競争相手の日本国郵便蒸気船会社は、親方日の丸で勤労意欲が乏しいうえ、政府から払下げを受けた老朽船の割合が多く、さらに地租改正によって租税が金納となり年貢米輸送を独占していた郵船は大打撃を蒙った。近代的な会社組織の確立を目指す岩崎弥太郎は、国益奉仕の使命を謳い列強諸国に負けない海運事業を興すことを目的に掲げ、就業規則などの福利厚生施策を導入、社則のほか会計規程「三菱会社簿記法」も整備した。が、一方で岩崎家による社長独裁を宣言し、没後も三菱財閥の伝統となった。三井財閥は早くから三井家の当主のもと「番頭政治」といわれた役員寡頭体制を敷き、渋沢栄一は合本組織を好み自身を含む世襲制を排除した。岩崎弥太郎は人材を重視し、社員養成のため三菱商船学校・三菱商業学校・明治義塾を創設、社員の2割も外国人を雇い当時希少な大学卒業者を多く採用した。「はじめは一般の若者を採用していた。彼らはみな従順で、言われたことは素直に黙々とやってくれた。しかし教養がないものだから、事の軽重がわからずよく大失敗をしでかすことがあった。これに対して大卒者は、エリートゆえに高いプライドを持ち、客に対して高飛車で愛想もないが、深い知識があるのでいざというときの談判でも堂々と渡り合うことができた。一長一短はあるが、教養のない者に大卒者の気風を養わせるのはとても難しい。反対に、大卒者をしっかり教育して三菱色に染めていくのはたやすいことだ。」・・・岩崎弥太郎は福澤諭吉が唱える事業立国構想に共鳴し大きな影響を受けたという。福澤諭吉も「岩崎氏は噂に聞いたのとは全く違い、山師ではない。今日の様子では成功は疑いない。殊に店の前におかめ面を掲げ、店内に敬愛を重んじさせているのは、近頃の社長にはできぬことだ」と胸襟を開き、岩崎弥太郎は立憲改進党の資金源となり慶應義塾生を大量に雇用した。
- 岩崎弥太郎は、海運業のほか、鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などにも手を広げたが、若い頃に米相場で失敗したのに懲りて海運業以外の事業については消極的で慎重だったという。高島炭鉱は、「官有物払下げ」で取得した後藤象二郎が放漫経営により破綻させた事案で、岩崎は「なぜ俺が後藤の尻拭いをしなくてはいかんのだ」と激怒しつつ参議筆頭大隈重信の仲立ちで不承不承引受けたのだが、2代目岩崎弥之助の経営で日本有数の大鉱山となり三菱の主要な資金源となった。
- 大久保利通は、大蔵省と工部省から殖産興業部門を分離し、司法省から警保寮(警察)も巻き取って、絶大な権限を有する内務省を設置、自ら初代内務卿となり辣腕を振るった。西郷隆盛ら征韓派が一掃され木戸孝允も病気で働けない状況のなか大久保は独裁体制を確立、参議の伊藤博文と大隈重信が側近として大久保を支えた。大久保政府の主眼は内地優先論に基づく殖産興業にあり、鉄道網の整備を進め、官営模範工場や農事試験場を設立して軽工業や農業の近代化を推進した。また岩崎弥太郎の三菱を手厚く保護し、国内海運業の育成と外国勢力の排除に努めた。外交面では、征韓論を抑えたものの、薩摩藩の不平士族のガス抜きのため台湾出兵を断行し、大久保自ら清国に乗込んで有利な講和条約をまとめた。征韓論争に敗れ帰郷した要人を核に各地で不平士族が蜂起し佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き日本史上最悪の内戦となった西南戦争が勃発したが、大久保は怯まず断固たる姿勢で対応し新造の鎮台兵を動員して速やかに各個鎮圧し国内の治安を回復した。大久保利通は最も現実的な政治家だが、明確な長期ビジョンと意志を持っていた。大久保は「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り発展を待つ時期だ。」と語り、岩倉具視への手紙には「国家創業の折には、難事は常に起るものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない。」と記した。福地源一郎は大久保に「北洋の氷塊」の渾名を奉り「政治家に必要な冷血があふれるほどあった人物」と評している。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 松方正義の政治的功績は「松方財政」即ちインフレ収束と中央銀行創設に尽きる。西郷隆盛が嫌う島津久光の側近で志士活動に参加しなかった松方正義の中央進出は遅れたが、日田県知事として政府の資金調達活動に忠実に働いたことなどが認められ大久保利通の推挙で民部省大丞に任じられた。民部省解散に伴い井上馨(大蔵大輔)・陸奥宗光(租税頭)の大蔵省へ移った松方正義は、薩長藩閥に不平満々の陸奥とは対照的に地租改正などに黙々と取組んだ。江藤新平の汚職追及で井上馨が辞め参議筆頭の大隈重信が大蔵卿に就任、明治六年政変で陸奥宗光も去り松方正義が次席に上った。明治政府は紙幣増発で財源を捻出し鉄道網・郵便制度・学校・官営工場・官庁街建設などの殖産興業施策を矢継ぎ早に行ったが、西南戦争の膨大な戦費負担で財政が逼迫、大隈重信ら志士上りで財政音痴の政府首脳は安易な不換紙幣発行に頼り(戦費42百万円に対し紙幣増刷27百万円・国立銀行借入15百万円)急激にインフレが進行した。無能な大隈重信は外債発行による政府紙幣整理を策し松方正義と衝突、松方は伊藤博文の計いで内務卿へ転出し渡仏して国家財政の基礎を学んだ。3年後の明治十四年政変で大隈重信が失脚、伊藤博文に財政再建を託され参議兼大蔵卿に就いた松方正義は、緊縮財政と増税で収支均衡を図り官営事業売却で資本回収と税収増を促進、蓄えた剰余金で不換紙幣の償却を進め正貨の準備銀を買入れ兌換制度に備えた。一方、松方正義は日本銀行を設立して紙幣発行権を一元管理下に置き銀兌換紙幣(日本銀行券)に統一し銀本位制を確立した。一連の松方財政でインフレは収束し財政危機を脱したが、反動デフレが進行し農産物価格の暴落で小作農が急増、過激な政党活動が蔓延し秩父事件などの農民反乱を引起した。「財政の第一人者」となった松方正義は、最初の伊藤博文内閣から2度の松方内閣を含む6内閣で蔵相を占め、日清戦争では勅令で軍事公債5千万円を発行し伊藤を助けた。伊藤博文に属した松方正義は「黒幕内閣」「後入斎」などと揶揄され薩摩閥でも重みが無かったが、元老・公爵に上り詰め89歳まで長寿を保った。
- 戦前の財政家といえば松方正義・高橋是清・井上準之助が有名だろう。松方正義は、伊藤博文の後援のもと無能な大隈重信に代わって大蔵卿に就き西南戦争の膨大な戦費負担で破綻に瀕した政府財政を緊縮財政と紙幣整理(日本銀行への紙幣発行権の集約と銀本位制の確立)で再建、「財政の第一人者」と称され首相・元老・公爵に栄達した。志士上りが多く財政音痴の薩長閥首脳のなかで経済が分かる松方正義は逸材であったが、実務官僚としてやるべきことをやったに過ぎず、その後の反動デフレには有効な対策を採れなかった。井上準之助は、帝大から日本銀行へ進んだエリート官僚で、上司の高橋是清の引立てで日銀総裁となり、高橋蔵相と連携して金融恐慌を収束させた。が、第二次山本権兵衛内閣と濱口雄幸内閣で蔵相を務めた井上準之助は、世界恐慌の最中に金解禁を断行しデフレ不況に拍車を掛けた。松方正義と井上準之助が緊縮財政・デフレ政策を採用したのに対し、「野人」から銀行家・財務官僚となった高橋是清は積極的な財政出動と金融緩和でデフレ退治に成功した。高橋是清は政友会総裁に担がれ首相となったが、政治には不向きで持参金欲しさに陸軍長州閥の田中義一に政友会総裁を禅譲、軍事費の引締めへ転じたことで「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。財政・金融政策の積極・緊縮には功罪あるが、現在に至るまで平時におけるデフレ政策の成功事例は少なく財政出動・量的緩和などの有効性が世界的常識となっている。が、輸出立国の現代日本では円高回避・デフレ阻止が最重要課題であるにも関わらず、バブルに懲りた日本銀行主流派はインフレ退治に執着し「失われた20年」を放置、安倍晋三内閣の「異次元金融緩和」で漸く円高不況から脱出した。さて、松方正義・高橋是清・井上準之助の優劣は、結果をみると明らかに高橋の積極財政に軍配、外債による日露戦費調達の大殊勲もあり高橋が本物の「財政の第一人者」という評価になるだろう。
- 台風で遭難した琉球藩御用船が台湾に漂着、乗員54名が先住民により惨殺された。明治政府は清政府に事件の賠償などを求めたが清政府は台湾は「化外の民」としてこれを拒絶、日本で台湾征討の機運が高まった。この事件を知った清アモイ駐在のアメリカ総領事チャールズ・ルジャンドルは「野蛮人を懲罰するべきだ」と明治政府を煽った。大久保利通は、佐賀の乱勃発で政治問題化した不平士族のガス抜きに丁度良いと考え台湾出兵を決断、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命して軍事行動の準備に入った。こうした薩摩系の動きに対し、長州系は征韓論を廃しておきながら台湾出兵を行うのは矛盾するとして反対し木戸孝允が参議を辞任し下野した。慌てた大久保政府は中止を決定したが、西郷従道が旧薩摩藩士を中核とする征討軍3千名を組織し台湾出兵を強行、大久保は已む無しの態で追認を与え、征討軍は瞬く間に台湾を制圧した。清はイギリス駐日行使パークスを抱込んで抗議したが、大久保が自ら北京に乗込み交渉した結果、清は台湾出兵を「保民の義挙」と認め遭難民への見舞金10万両(テール)及び戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払うこと、これと引換えに日本は征討軍を撤退させることに合意した。政権運営に長州閥首領を欠かせない大久保利通は、伊藤博文・井上馨を遣わして木戸孝允を慰撫し立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立の条件を呑んで参議に復帰させた。
- 政府は台湾出兵に係る海上輸送業務を国策会社「日本国郵便蒸気船会社」に依頼したが拒否され、やむなく依頼した三菱の岩崎弥太郎は即決快諾し社運を賭けて協力した。郵船は大量の保有船舶を回す間に国内輸送シェアを三菱に奪われることを危惧したというが、経営母体である三井などの政商は井上馨ら長州閥と昵懇で、台湾出兵に反対し下野した木戸孝允に気兼ねしたとも考えられる。一方、岩崎弥太郎が「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕えずして逸してしまう。これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である。」と物語ったように三菱にとって台湾出兵は飛躍への画期となった。感謝した大久保利通は「政府の保護のもと民間会社を育成し、この会社に海運事業を一任する」という一社独占による海運業振興策を採用し三菱商会を「保護育成会社」に指定、大久保の意を受けた駅逓頭の前島密は「第一命令書」を交付し「政府の依頼を優先し航路開設の命令に応じる見返りとして、台湾出兵時に貸与した政府船10隻に2隻を加えた12隻を無償貸与し年間25万円の運航費助成金を与える、1年間の試用期間を経て15年間継続」という大盤振る舞いを約束、更に大久保政府は非協力的と断じた郵船を解散させて三菱に引継がせ(郵便汽船三菱会社へ改称)、岩崎弥太郎には民間人異例の勲四等旭日小綬章のオマケも付けた。政府の12隻と郵船の18隻を合わせ三菱の保有船舶は40隻に膨らみ全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」が出現、西南戦争でピークを迎えたが、大久保利通の暗殺で岩崎弥太郎は政界の後ろ盾を失い大隈重信(福澤諭吉)の立憲改進党に肩入れしたことで薩長藩閥の猛反撃に遭遇、弥太郎の憤死に伴い弟の岩崎弥之助は海運業からの撤退を選択した。
- 西南戦争は、西郷隆盛を盟主に担ぐ旧薩摩藩士が起した不平士族反乱で日本史上最大の内乱事件である。徴兵令、廃刀令、秩禄処分と続いた士族の特権剥奪政策に対する不満は全国に蔓延し、佐賀の乱を皮切りに既に各地で不平士族反乱が起っていたが、薩摩藩は維新の功労があるだけに不満は大きく、さらに他藩より武家率が数倍も高く武士の絶対数が多かったことも災いし(全国士族の1割とも)、空前の大規模反乱に発展した。征韓論争に敗れて鹿児島に退いた西郷隆盛は、暴発を抑えるため私学校を作って統制に努めたが、逆に求心力となって続々と不平士族が参集、鹿児島は中央政府から独立した「私学校王国」の様相を呈した。そして遂に暴発事件が起ると、西郷は、篠原国幹・村田新八・桐野利秋・辺見十郎太ら私学校党幹部に身を委ね、「陳情」を名分に中央への進軍を開始した。大久保利通率いる明治政府は、即座に断固鎮圧の断を下し、鹿児島県逆徒征討総督の有栖川宮熾仁親王以下、実質的な指揮官(参軍)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、徴兵制で発足したばかりの鎮台兵を大挙派兵し、また旧士族を急募して編成した警察兵も続々と投入した。戦域は鹿児島県から熊本県、宮崎県、大分県にまで拡大、戦死者は官軍6,403人・西郷軍6,765人に及び、激戦の末に西郷隆盛はじめ反乱軍の幹部は悉くが戦死、反乱は鎮圧された。このとき戦った官軍には、司令官の大山巌中将・谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐のほか、児玉源太郎少佐・川上操六少佐・奥保鞏少佐・乃木希典少佐など後の大物軍人が数多く従軍した。西南戦争で政府が費やした戦費は4156万円の巨額に及び深刻な財政難に陥って富国強兵政策の重大な足枷となった。さらに、西南戦争の最中に木戸孝允は「西郷、いいかげんにせんか」の言葉を残して病没、その西郷隆盛も間もなく戦死、残った大久保利通も翌年不平士族の凶刃に斃れた。柱石たる「維新の三傑」を一気に喪った悪影響は計り知れず、明治日本にとって最も不幸な大災難であった。ただ、岩崎弥太郎の三菱・大倉喜八郎・三井など政商たちに戦時特需をもたらし飛躍の契機を与えたことは、せめてもの救いであった。
- 開拓使長官の黒田清隆が、開拓使に属する事業や施設を不当な廉価で薩摩系政商の五代友厚らへ払下げようとしていることが発覚(約1400万円を投じた官有事業が約39万円と「簡保の宿」より酷い安値、しかも支払い条件は無利息30年割賦)、民権派新聞の糾弾で払下げは中断され藩閥専制への批判が沸騰した。「維新の三傑」没後、佐賀藩出身の大隈重信が主席参議に推されたが薩長平等の建前を保つため担がれたに過ぎず政権基盤は脆弱だった。大隈重信は伊藤博文・井上馨と親密で長州閥を後ろ盾に出世の階段を上ってきたが国会開設問題で暴走し信用を喪失、その矢先に開拓使官有物払下げ事件が起り福澤諭吉ら民権派に煽てられた大隈は黒田清隆を非難したため情報リークを疑われ薩摩閥からも見放された。黒田清隆・西郷従道は即座に報復へ動き伊藤博文・井上馨と提携して明治天皇臨席の緊急閣議を開催、大隈重信の参議職を罷免し大隈派の官僚群を追放するクーデターを決行した(明治十四年の政変)。これにより完全な薩長藩閥政府が現出したが、首班の伊藤博文は薩長の「超然主義」の限界を悟り自由民権運動との協調を図るべく官有物払下げの中止を発表したうえ「国会開設の詔」で憲法制定および10年以内の国会開設を国民に約束、民権派は沸立ち板垣退助は自由党を結成し、下野した大隈重信は福澤諭吉・慶應義塾派が結成した立憲改進党の党首に担がれた。黒田清隆・西郷従道ら薩長閥の矛先は大隈重信の資金源である岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社へ向けられた。
- 国会開設の詔を受けて立憲改進党が結成された。大御所の大隈重信が党首に座り河野敏鎌・前島密・犬養毅・矢野文雄ら幹部が党務を差配、大隈重信に近い岩崎弥太郎の三菱が後ろに控え豊富な資金源を擁した。立憲改進党は、自由党より穏健なイギリス流立憲主義を主張し、慶應義塾出身者など都市部の知識人を基盤とした。板垣退助の自由党とは、薩長藩閥・有司専制(官僚支配)を批判し政党政治の実現を目指す点で一致していたが、主義主張の相違から対立することも多かった。
- 大隈重信は、語学力と外国人相手の「対外硬」で明治政界に売出した。佐賀藩の上級藩士だった大隈重信は、江藤新平・副島種臣・大木喬任らと尊攘派グループを組み、お家大事の『葉隠』教育に反抗し藩校弘道館を追われたが、藩の蘭学寮に学びフルベッキの英学塾「致遠館」で教頭格となった。井伊直弼に肩入れした鍋島直正は佐賀に逼塞し藩士の政治活動を禁じたが鳥羽伏見戦後に官軍参加を表明、脱藩罪を赦された大隈重信は長崎裁判所に派遣され副参謀として関税問題などにあたった。この頃、幕府長崎奉行所が浦上のキリシタン68人を逮捕した「浦上四番崩れ」が外交問題化しパークス英公使は明治政府に信徒の赦免を強要、薩長人は叱られ役を嫌がり井上馨が推薦した大隈重信を参与兼外国事務局判事に採用した。発奮した大隈重信は恫喝外交のパークスを相手に「信教問題は内政干渉」と突撥ね(結局本件は木戸孝允が片付けたが)、英語音痴の政府首脳にあって外交折衝の第一人者となった。大隈重信は井上馨や伊藤博文ら長州人と親しく西郷隆盛ら無骨な薩摩人を敬遠したが、小松帯刀の推挙により薩長人敬遠で空席の外国官副知事(外務次官)に就任、木戸孝允にも認められ参議兼大蔵卿に昇進した。が、無能な紙幣濫発がインフレを招き政府財政は破綻に瀕した。伊藤博文と共に大久保利通に仕えた大隈重信は、大久保の横死後薩長平等の原則に乗り主席参議に担がれたが、国会開設問題の暴走で長州閥に見放され、開拓使官有物払下げ事件では民権派に煽られ黒田清隆を非難、薩長は提携して「明治十四年政変」を起し大隈一派を政府から一掃した。福澤諭吉に師事する大隈重信は立憲改進党の党首に担がれ、井上馨から外相職を奪うも条約改正に行詰り玄洋社員に爆弾を投げられ右脚を失った。一命を取留めた大隈重信は、岩崎弥之助・三菱の援助で東京専門学校(早稲田大学)を創設し、日清戦争では伊藤博文内閣を軟弱外交と非難、板垣退助と合同して「隈板内閣」を成立させるも内部分裂により4ヶ月で瓦解、70歳を前に政界引退を表明したが井上馨の誘惑に飛付いて第二次大隈内閣を組閣し薩長藩閥のために働き「対華21カ条要求」の愚を犯した。
- シーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れると、元老の井上馨は「反政府と護憲の大火事を消すには、早稲田のポンプを使うしかない」と山縣有朋や松方正義の反対を抑え大隈重信を首相に擁立、薩長藩閥の手先と化した大隈は衆議院解散により政友会議員を半減させて井上の期待に応え山縣の言うままに二個師団増設を断行、褒美に侯爵を与えられた。そして「対外硬」の大隈重信首相と加藤高明外相は、第一次世界大戦で列強の手がアジアに回らない間隙を突いて袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告、山東半島におけるドイツ権益の承継、遼東半島と満州における日本権益の99年延長、漢冶萍公司(中国最大の製鉄所)への経営参画、政治・経済・軍事に係る日本人顧問の受入れなど国際常識に反する無茶な要求を突きつけた。当然ながら欧米列強の干渉で画餅に帰し大隈重信内閣の国内向け対外硬パフォーマンスに終わったが、対華21カ条要求は中国民衆のナショナリズムに火をつけ欧米列強へ向かうべき怒りが日本に集中し「五・四運動」など大規模抗日運動に発展、根深い反日意識は日中戦争泥沼化の原因となり、受諾日の5月9日は現代中国で「国恥記念日」とされ「侵略」の象徴となっている。恫喝外交のパークス英公使らに対するハッタリと強談判で出世の糸口を掴んだ大隈重信は、おそらく福澤諭吉の『脱亜論』でアジア蔑視思想に染まり、日清戦争では伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省も日本の領土として要求せよなどと下関条約にケチをつけた。83歳まで長寿を保った大隈重信は「失敗とか成功とかいうことは、人の客観、主観によって相違がある。また、時の経過、時潮の流れによっては、一時の失敗もあるいは大きな成功ともなる・・・すべてはタイムが解決する。功名誰か論ずるに足らんや、である」と実に無責任な言葉を残し、盛大な「国民葬」で送られた。大隈重信の大衆迎合的対外硬パフォーマンスは加藤高明や(直接の関係は無いが)「史上最悪の外交官」松岡洋右へと受継がれ、軍部・マスコミと結託して幣原喜重郎らの協調外交を葬った。
- 福澤諭吉は豊前中津藩の下級武士ながら欧米遊学経験と英語力を武器に立身出世を果した。幕末明治期の世界情勢は世界に冠たる大英帝国と新興大国アメリカを中心とする新秩序の確立期にあったが、幕府の鎖国政策で蘭書以外へのアクセスを阻止された日本では英語習得と英米新秩序への対応が遅れていた。緒方洪庵の「適塾」で蘭学を猛勉強し塾頭も務めた福澤諭吉は、中津藩の要請で築地鉄砲洲の藩屋敷に蘭学塾を開講、幕閣の目に留り通商条約批准の遣米使節で軍艦奉行木村摂津守の随員に選ばれ勝海舟艦長の「咸臨丸」で渡米した。英米新秩序を知った福澤諭吉は帰国後すぐに蘭学塾を英学塾へ改め、英語に飢えた学生の受け皿となり「慶應義塾」へ繋がる大発展、木村摂津守の引きで幕府外国方に就任し文久遣欧使節の随員に選ばれ直参旗本に出世した。明治維新後、福澤諭吉は新政府の招聘を断り慶應義塾で教育活動に専念、かたわら森有礼の「明六社」に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動に一定の距離を置いたが、「脱亜論」に基づくイギリス流立憲主義を提唱し、三菱の岩崎弥太郎と共に後藤象二郎や大隈重信を支援した。明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、福澤諭吉は専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、三菱はじめ財界へも荘田平五郎・豊川良平ら多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は東大閥から締出された北里柴三郎を救い国立伝染病研究所および北里研究所の開設を主導、北里は慶應義塾大学医学科(医学部)の創設に尽くし無給で初代学部長兼付属病院長を務め福澤の恩義に報いている。
- 外圧を跳ね返すために明治維新を達成した日本においては、アジア諸国が連帯して西欧列強の侵略に対抗すべしとする「興亜論」が支配的であった。福澤諭吉もその論客の一人であり、朝鮮独立党支援にも動いたが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の方針を一変、『時事新報』の社説で「脱亜論」を発表した。「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべしと主張した。折りしも、日本国内では文明開化が進むにつれてアジア蔑視の風潮が起りつつあって、「脱亜論」が世論の主流となり、対清開戦機運が醸成されていった。没後のことなので福澤諭吉に責任はないが、「脱亜論」は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へと受継がれ、「対華21カ条要求」の暴挙へと繋がったとみることもできる。
- 西郷従道・黒田清隆ら薩摩閥と「三井の番頭」井上馨の主導により、政府出資に加え渋沢栄一・益田孝・雨宮敬次郎・大倉喜八郎・川崎正蔵ら主要財界人から出資を募り資本金600万円で「共同運輸会社」が設立された。社長・副社長はじめ多くの海軍人が送込まれ事実上海軍の一部ともいえる組織であり、国家規模の露骨な三菱潰しに岩崎弥太郎と郵便汽船三菱会社は存亡の淵に立たされた。当時、岩崎弥太郎が後援する大隈重信の立憲改進党と板垣退助の自由党は対立しており、自由党系の新聞が「海坊主退治、偽党撲滅」の論陣を張ったため世論も三菱に冷淡だった。共同運輸との熾烈な顧客争奪戦はタダ同然の廉価競争へ陥り三菱の海運収益は3年で半減、西郷従道はしぶとく抵抗を続ける岩崎弥太郎を国賊呼ばわりしたが岩崎は「俺を国賊と呼ぶのか。ならば俺も所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼払い、残りの財産は全部自由党に寄付してやる。そうなれば、薩長藩閥政府はたちまちにして転覆するだろう」と放言した。が、共同運輸側も業績悪化で無配に陥り、現場で凌ぎを削る両社船舶の衝突事故が発生、政府内でも厭戦ムードが濃くなった。死闘のなか岩崎弥太郎は胃癌の悪化で壮絶死、後を継いだ弟の岩崎弥之助は苦渋の決断で三菱の海運部門を共同運輸に譲渡し両社合併して「日本郵船」が発足した。三菱は本業の海運業を失ったが、岩崎弥之助は残された鉱山採掘・造船・倉庫・水道・為替・樟脳製造・製糸・保険などを発展させ今日に続く三菱財閥の基礎を築き、晩年には日本郵船も三菱傘下に取戻した。
- 開拓使官有物払下げ事件で自由民権運動が沸騰し薩長閥が国会開設の詔を発布した翌年、民権派との融和を期す伊藤博文は数人の随員を従え自らドイツ・オーストラリアを歴訪、ウィーン大学のシュタイン教授、グナイスト、モッセらの法学者からドイツ(プロイセン)流の憲法理論や政治制度を学んだ。なお伊藤博文は、岩倉具視よりフランス流自由主義にかぶれた西園寺公望の懐柔を依頼され随員に加えた。反動勢力を率いた岩倉具視が没し、帰国した伊藤博文は、華族令を定めて貴族院の土台を作り、民権派との妥協を嫌う山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らを説伏せ、来るべき国会開設に対し強力な行政府を備えるべく内閣制度を発足させた。権力の所在が曖昧で意思決定に難のある太政官制を廃し、各省庁の長が国務大臣として内閣を構成し国務大臣を束ねる内閣総理大臣を政府の最高責任者とする近代的な行政府制度が現出した。伊藤博文が自ら初代内閣総理大臣に就き、国務大臣は薩長のバランスに配慮して長州閥4人(伊藤博文・井上馨、山縣有朋・山田顕義)に対し薩摩閥5人(松方正義・大山巌・西郷従道・森有礼・榎本武揚は旧幕臣だが黒田清隆の配下)および土佐1人(谷干城)とし、太政官の最高位(太政大臣)にあった三条実美には名誉職の内大臣をあてがった。戊辰戦争以来薩長に伍して来幅を利かせてきた公家層を政治の実質から締出した意義も大きかった。伊藤博文は3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り、憲法問題に専念するため枢密院を設立し初代議長に就任した。
- 板垣退助と大隈重信を中心とする自由民権運動は、内実は薩長藩閥への反抗であり政府首脳にとって頭の痛い問題であった。山縣有朋・黒田清隆・西郷従道らは「超然主義」を唱え一貫して政党勢力を弾圧したが、伊藤博文は藩閥政治の限界を悟り「国会開設の詔」で10年以内の国会開設を公約し藩閥サイドの工作を主導した。伊藤博文は、自ら渡欧して立憲政体を研究し、太政官制を廃して内閣制度を発足させ初代総理大臣に就任、枢密院議長に退いて大日本帝国憲法を制定し、公約どおり衆議院選挙と帝国議会開催を実現させた。その後も超然主義に固執し自らの軍閥形成と政党排除に邁進する山縣有朋との政争のなか、伊藤博文は、伊東巳代治・金子堅太郎・西園寺公望・原敬ら配下の官僚政治家および帝国党など「吏党」をベースに、星亨・尾崎行雄・片岡健吉ら憲政党自由派を糾合して、立憲政友会を結党した。これに先立ち、隈板内閣が瓦解したあと与党憲政党では星亨ら自由派が「領袖会議」クーデターで進歩派を追放、大隈重信の失脚と板垣退助の政治意欲喪失で憲政党を掌握した星亨は、第二次山縣有朋内閣の地租増徴に協力したが裏切られ、山縣の政敵で政党政治に理解を示す伊藤博文に接近、伊藤が政友会を結成すると憲政党を解党し合流した。自由民権運動のカリスマとして一時代を築いた板垣退助は政友会創立に伴い潔く政界から引退したが、未練タラタラの大隈重信は14年後に井上馨に担ぎ出され第二次内閣を組閣、薩長藩閥の傀儡に堕し「対華21カ条要求」をしでかした。
- 国会議事堂の四隅には板垣退助・伊藤博文・大隈重信の銅像が立つが(残りの一隅は空の台座)「自由民権運動」の元祖は何といっても板垣退助である。土佐勤皇党の残党を率い戊辰戦争で活躍した板垣退助は、東山道指揮官として会津戦争を鎮圧したが、戦争負担に喘ぐ会津の民衆が藩を見捨てて官軍に味方するのを見て四民平等でなければ国は守れないと痛感し、征韓論争で下野すると「民撰議院設立建白書」を提出し土佐立志社を結成した。伊藤博文の「国会開設の詔」を受け板垣退助が結成した自由党は、薩長藩閥打倒と急進的な国体改革を目指す土佐人中心の社会主義的革新政党で、志士上りの過激活動家が多く西南戦争に呼応し(立志社)秩父事件や大阪事件を引起した。対する改進党は、福澤諭吉を理論的主柱とする慶應義塾出身者ら「文化的進歩人」の集団で、政府を追われた大隈重信を党首に担ぎ、国体改革云々より民意を背景に政治的発言力を高め薩長藩閥に物申そうという方向性で、外交は福澤の『脱亜論』を党是とし日露戦争を機に軍部以上の「対外硬派」となった。薩長藩閥打倒のため両党は大同団結し憲政党を結成、初の政党内閣「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)を成立させたが僅か4ヶ月で内部分裂し瓦解、カリスマ板垣退助は潔く引退し星亨ら自由党系は伊藤博文の政友会に合流し政権与党の基盤となった。シーメンス疑獄で山本権兵衛内閣が倒れると、元老院の井上馨は護憲運動を抑えるべく第二次大隈重信内閣を擁立、薩長藩閥の走狗に堕した大隈は衆議院解散で政友会議員を半減させて井上の期待に応え、二個師団増設を押通して山縣有朋を満足させ、第一次世界大戦が起ると加藤高明外相と共に「対華21カ条要求」をやらかし後世に重大な禍根を残した。原敬・高橋是清の政友会内閣を経て護憲三派が合同し加藤高明内閣が発足したが又も内部分裂、金権政治で金欠の政友会は陸軍機密費の持参金を目当に陸軍長州閥の田中義一を首相に担ぎ、憲政会は分派工作で若槻禮次郞・濱口雄幸が政権奪回、満州事変の激震のなか政友会の犬養毅が組閣したが五・一五事件で横死、以後は軍部主導の内閣が続き政党政治は終焉した。
- 自由民権運動に理解のある伊藤博文が自由党懐柔の動きを見せたため、改進党は小政党を糾合し代議士99名の進歩党を発足させた。主導者の犬養毅・尾崎行雄は大隈重信を事実上の党首に据え、大隈の入閣要請で第二次伊藤博文内閣を揺さぶりつつ松方正義に接近、三菱の岩崎弥之助を動かして進歩党と薩摩閥の縁組をまとめた。伊藤博文は大隈重信入閣に動くも山縣有朋と板垣退助の反対で已む無く退陣、第二次松方正義内閣が発足した。大隈重信が外相に返咲き半政党内閣というべき「松隈内閣」が実現したが、藩閥と政党の合同には無理があり言論弾圧事件(二十世紀事件)を機に進歩党が離脱し内閣は4ヶ月で瓦解、第三次伊藤内閣に代わられた。
- 岩崎弥之助は、大隈重信と松方正義の間を取り持って第二次松方正義内閣を成立せしめ、自身も三菱の盟友川田小一郎に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としては、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制への移行を断行したほか、中小銀行の統廃合、担保品付手形割引の廃止、日銀の個人取引開始、初の金融市場操作などを実施、後に名総裁と讃えられる業績を残した。
- 薩長藩閥に対抗し政党内閣を創るため板垣退助の自由党(衆議院議席数98)と大隈重信の進歩党(同91)が合同し憲政党を結成し、第5回衆議院総選挙で圧倒的多数の議席を獲得した。伊藤博文は民党勢力の協力なくして政権運営は無理だと悟り自ら政党を立上げることを決意、第三次伊藤博文内閣を総辞職させ政友会を立上げた。伊藤博文は憲政会の大隈重信と板垣退助のいずれかを後継首相に指名上奏、初の政党内閣である大隈重信首相・板垣退助内相の「隈板内閣」(第一次大隈重信内閣)が発足した。が、両党合同し結成された憲政党は内部分裂を起し隈板内閣は僅か4ヶ月で崩壊した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 伊藤博文と井上馨は長州藩の志士時代から行動を共にし親友関係は終生続いた。井上馨は220石取りの歴とした上士身分で「雷公」と渾名された癇癪持ちだが、気さくな人柄で農民出身の伊藤博文にも対等に接し「聞多(井上)」「利輔(伊藤)」と呼び合う間柄であった。井上馨の裏工作で伊藤博文もイギリス留学を許されたが、往きの船中で伊藤は下痢に悩まされ、井上は荒れる甲板から用を足す伊藤の体をロープで支え必死に励ました。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ、高杉晋作の藩政奪回「長州維新」を支えた。長州藩主の毛利敬親は何故か癇癪持ちの井上馨を可愛がり意見をよく聴いたといい、馬関戦争の不戦講和・第一次長州征討の武備恭順(いずれも反対派に潰された)・薩長同盟など、敬親への献策役はいつも井上に託された。明治維新後の井上馨は、鹿鳴館外交をぶち上げるも不平等条約改正に失敗、財界へ転じると貪官汚吏の筆頭格となり西郷隆盛から「三井の番頭」と面罵されたが、伊藤博文は身を挺して井上を庇い続け、伊藤のお陰で政治的致命傷を免れた井上は元老のまま長州志士中最長寿を全うした。
- 渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。
- 1872年、渋沢栄一ら大蔵省革新官僚は、三井組・小野組に出資させて合本組織による三井小野組合銀行(後の第一国立銀行)を試験的に発足させたうえ、欧米流の近代的民間銀行の創設を促すため国立銀行条例を制定した。国立銀行は米国ナショナルバンク制度に倣った民営銀行で(「ナショナル」の直訳で「国立」と命名)、独自の銀行券発行が認められ発券銀行としての役割も担った。当初は「太政官札」の乱発で紙幣の信用そのものが下がっていたため、「国立銀行券」の大半は金貨に兌換されて流通せず、信用創造が働かず国立銀行の経営は振るわなかった。が1876年、秩禄処分により大量発行された金禄公債の流通促進が政府の重要課題となり、財界へ転じた第一国立銀行の渋沢栄一や安田商店の安田善次郎の働きかけにより国立銀行条例が改定され、正貨兌換条項の削除や銀行券発行枠の拡大(資本金の6割から8割へ)など経営条件が緩和された。メリットが膨らんだことで国立銀行への新規参入が相次ぎ3年後には153行へ急増、金融制度も順次整備され経済活性化を牽引したが、一方で発券銀行の急増は当然ながらインフレを誘発し、西南戦争の膨大な戦費負担が追討ちとなり政府財政は著しく悪化した。
- 輸出産業の中核である製糸業の育成強化のため、大蔵省の渋沢栄一の主導により、蒸気駆動の輸入製糸機を備えた官営富岡製糸場が建設され大規模生産を開始した。渋沢栄一は、従兄の渋沢成一郎(上野彰義隊頭取、函館戦争で投獄されるが赦免)と義兄の尾高惇忠を現場監督に採用した。官営富岡製糸場を皮切りに日本各地に紡績工場が建設され明治経済の屋台骨となった。『女工哀史』や『あゝ野麦峠』で製糸業女工の悲惨な労働環境がクローズアップされ世の同情を集めたが、そもそも貧窮を宿命づけられた寒村女性に生活手段を与えたもので雇用創出策としても評価すべき事業であった。
- 1882年に渋沢栄一の呼掛けで発足した大阪紡績(現東洋紡)は、株式発行によって膨大な資金を集め、最新・最大級の紡績機を導入した大規模工場を建設、また実用化間もない電力を大々的に導入し、24時間操業も行った。大阪紡績は大成功を収め、それに倣って次々と紡績会社が設立され、紡績業は主要な輸出産業へと発展した。世界の紡績業は産業革命発祥のイギリスがリードしてきたが、日本は100年遅れで産業革命に乗出したためリング紡績機など最新技術をそのまま導入することとなり、旧来型のミュール紡績機からの転換が進まず設備の老朽化が著しいイギリスより有利な状況で紡績業に参入することができた。また、中小事業者が乱立するイギリスに比べ、日本では渋沢栄一をはじめとする財界人が協力して大規模工場の建設を進め、三井物産を筆頭に商社による綿花の大量仕入れも奏功、人件費の安さも手伝って、日本の紡績業は国際市場で比較優位を確立するに至り、主要市場である中国からイギリス製品を駆逐していった。日本の綿製品の輸出量は、1928年にはイギリス製品の37%に達し、1932年には92%と肉薄、1936年には141%と完全に抜き去った。だが、日本の繊維産業の躍進は深刻な経済摩擦を生み、1929年の世界恐慌以降、イギリスは露骨なブロック経済化によって日本製品の排除を進め、インド市場から締出された日本はそのはけ口を満州に求め、日英対立は戦争レベルまでエスカレートすることとなった。そして、遂に第二次世界大戦が勃発すると、インドなど欧米列強植民地への輸出が完全に封鎖され、さらに戦局悪化により輸送路が途絶えたために中国大陸への輸出も激減、隆盛を誇った日本の繊維産業は壊滅的打撃を蒙った。
- 物理学者で「日本のエジソン」と称された藤岡市助のアイデアに賛同した大倉喜八郎・三野村利助ら財界人が発起人となって出資を募り1886年「東京電燈」が設立された(東京電力の前身)。米国トーマス・エジソンの電気事業開始から遅れること僅か6年の快挙であった。翌年早くも電力供給に成功した藤岡市助の東京電燈は、東京の5ヶ所に火力発電所の設置を進め200kWの大出力を誇る浅草発電所の建設にも着手、1891年には契約件数が1万4千を突破し「浅草凌雲閣」には電力駆動のエレベーターが登場した。東京電燈に続き大阪・神戸・京都・名古屋・九州と日本各地に相次いで電力会社が設立され、渋沢栄一の「大阪紡績」など大規模工場から本格的な電力導入が進み製造業発展の牽引役となった。戦前を通じて発電方法の主力は石炭火力だが、1892年開業の琵琶湖水力発電所を皮切りに発電コストの低い水力発電所が全国各地に建設され、電気料金の低下が電力普及に拍車を掛けた。電力は一般家庭へも広がり1916年の普及率は東京・大阪で80%、全国でも40%に達した。電機コンロ・アイロン・扇風機などの家庭用電化製品も発売され、芝浦製作所(東芝)など国産メーカーも存在感を示したが、非常に高価なため一般家庭への普及は進まず、戦前の庶民にとって電気といえば電灯(定額灯)だった。満州事変勃発後の電気産業は軍需一色となり、家電の普及と国産品製造の本格化は第二次大戦後の松下電器・東芝・シャープ・ソニーらの勃興まで待たなければならなかった。
- 生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。
- 大久保利通政府の急速な殖産興業政策に西南戦争の膨大な戦費負担が拍車を掛け政府財政は逼迫、松方正義外務卿の単純な引締め政策が深刻な悪循環を招いたが、1880年代後半に日本経済は「松方デフレ」から脱却し、政策で優遇された鉄道と紡績業を中心に株式会社設立ブームが起り「企業勃興」期に入った。日清・日露戦争による軍需景気を背景に企業勃興は勢いを増し、渋沢栄一ら財界人主導で間接金融システムや証券取引所の整備が進み株式売買高も順調に膨らんだ。今日の大企業にはこの企業勃興期に創業した会社が多く、銀行・鉄道・紡績の各社から資生堂(1872年)・王子製紙(1873年)・東芝(1875年)・セイコーホールディングス(1881年)・東京ガス(1885年)・博報堂(1895年)・サントリー(1899年)・NEC(1899年)・森永製菓(1899年)・松竹(1902年)・第一生命(1902年)・豊田自動織機(1906年)・味の素(1907年)・日立製作所(1908年)・スズキ(1909年)・味の素(1909年)・出光興産(1911年)等々、枚挙に暇がない。世襲財閥による開発独裁を嫌い資本の分散(株式会社)を奨励した渋沢栄一は、自らも500社以上の設立に関与し「日本資本主義の父」と称された。
- 大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。
- 安田善次郎は、富山の農民から一代で安田財閥を築いた天才商人である。安田善次郎は渋沢栄一と並ぶ「金融界の大立者」だが官僚経験も留学経験も無い叩き上げで、死ぬまで個人商店スタイルを貫き、三井・三菱のような政商ではないが奇跡的に四大財閥の一角に成上がった。矢野龍渓は『安田善次郎伝』で「御一新後の新日本に於て、一度も洋行せずして、大事業を成遂げた人物が唯二人ある」として大隈重信と安田善次郎の名を挙げている。家業を捨て上京した安田善次郎は丁稚奉公を経て28歳で両替商「安田商店」を創業、幕府の古金銀取扱方・新政府の太政官札引受・東京都心部の不動産買収など、維新の混乱を追風に着々と業績を伸ばし、公金取扱いの為替方指定で有力両替商に台頭した。担保に供する公債保有高と公金預り額がスパイラル的に増大するシステムを編出した安田善次郎は、官公庁や自治体の為替方指名を次々と獲得し「公金の富士」の礎を築いた。政府の動きを読んだ安田善次郎は条例改正を待って国立銀行業務に参入し第三国立銀行を設立、多くの国立銀行や政策銀行の設立に携わり、創立事務御用掛・監事として草創期の日本銀行の実務も差配した。銀行の勃興期が終わると、安田善次郎は百三銀行など経営不振行の経営再建に乗出し、金融界の救世主と感謝されつつ事業吸収を重ね「銀行王」となった。安田善次郎は浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら新興企業家の金主となって銀行業を拡大し生命保険業にも進出、安田財閥は鉱工業主導の三井・三菱・住友と異なり純粋な金融財閥として独自の発展を遂げ、1923年から1971年まで最大資金量を誇った安田銀行(富士→みずほ)を中核に安田生命・東京建物などが連なる芙蓉グループを形成した。安田善次郎は国家予算の8分の1に相当する膨大な個人資産を築いたが、経営の近代化や多角化を嫌い「大卒者不要」と断じて「安田十家族」の同族経営に固執、「相場操縦」で第一次大戦後のバブル崩壊を仕組み巨富を積み増したが、世間に憎まれチンピラの襲撃で落命した。安田善次郎の死で安田財閥は大混乱に陥ったが、大番頭が招聘した結城豊太郎が経営近代化を断行し窮地を救った。
- 三井・三菱・住友などが持株会社・コンツェルン方式を採用し財閥経営の近代化を進めるなか、安田財閥は個人商店スタイルに固執する安田善次郎のもと「関係するところの事業は、他の英雄豪傑を加えるを欲せず。権力を一身に集め、重役に任ずるものは子弟・安田善某、安田善某・・・」という有様で、一度は後継者に就いた婿養子の安田善三郎も一族不和を理由に追放され、前時代的な「のれん・前垂れ主義」の旧態を保ち続けた。独裁者の安田善次郎が暴漢の凶刃に斃れると「安田王国にはただ狼狽だけがあった」と評される大混乱に陥り、実子の安田善之助・善五郎・善雄が安田保善社・安田銀行・第三銀行のトップに就き集団指導体制を敷いたが、安田一族を含め社内には安田財閥を担うべき人材が皆無だった。古参幹部の原田虎太郎は蔵相の高橋是清に人材周旋を依頼し、人選を任された日銀総裁の井上準之助は日銀理事・大阪支店長の結城豊太郎に白羽の矢を立てた。大物財界人を期待した安田側は冷淡だったが、結城豊太郎は経営独裁を条件に安田入りし、保善社専務理事・安田銀行副頭取の要職に就いて実権を掌握すると敢然と経営近代化に乗出した。結城豊太郎は、安田善次郎の「大卒者不要」論を捨てて大学・高等専門学校卒業生の定期採用に踏切り、即戦力確保のため海外視察派遣制度や外部招聘にも注力した。事業面では傘下銀行の大合併など事業統廃合による合理化を推進、結城豊太郎の孤軍奮闘により安田財閥は関東大震災から金融恐慌へ至る波乱局面を何とか乗切った。が、「喉もと過ぎると」結城専制に不満を抱く安田一族と古参幹部が蝟集し、浅野財閥の経営危機に乗じ内部クーデターが発生、結城豊太郎は功成って追放される憂き目に遭った。安田財閥を去った結城豊太郎は、高橋是清・井上準之助ラインで官界に復帰し日本興業銀行総裁・蔵相・日銀総裁を歴任、第二次大戦後は悠々自適の余生を送り1951年に永眠した。最後の総帥として財閥解体に対処し芙蓉グループの礎を築いた安田一(安田善次郎の嫡孫)は、安田財閥を救った結城豊太郎の業績を讃え感謝の辞を贈っている。
- 加藤高明は、東大法学部を主席で卒業したが薩長藩閥政府を嫌気して官僚に進まず三菱に入社、すぐにイギリス遊学に出され5年後に帰国すると岩崎春治の婿に迎えられた。舅の「海運王」岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に憤死し、弟の岩崎弥之助が海運業から撤退し三菱社を立上げたばかりであった。薩長藩閥に敗れた岩崎弥之助は政官界への勢力扶植を図り、加藤高明は外遊中に知遇を得た陸奥宗光の勧めで外務省に出仕し大隈重信外相(三菱系)の秘書官となった。第二次伊藤博文内閣が陸奥宗光を外相に抜擢すると、加藤高明も駐英公使に抜擢され不平等条約改正と日清戦争に奔命、陸奥は病没したが第四次伊藤内閣に外相で初入閣した。日清戦争講和で加藤高明は「対外硬」の本領を現し、親分の伊藤博文・陸奥宗光を相手に山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開している。日露開戦が迫ると加藤高明は桂太郎内閣を弱腰と非難し最強硬に開戦を主張、不戦論の伊藤博文とは対極の立場となったが巧みに立回って関係を維持し、講和交渉が始まると無茶な要求で妨害、新聞に煽られた民衆は暴徒化し日比谷焼打事件を起した。既に強大な三菱に加藤高明の助勢など不要だったが、日清・日露戦争は三菱ら財閥を大いに潤した。なお、桂太郎内閣発足に伴い外相を退いた加藤高明は、第7回総選挙は高知県・第8回は横浜市から出馬し1年余だが衆議院議員を務めている。三菱ファミリーの加藤高明は政治資金に飢えた政党連にモテモテだったが、公認を断った政友会には恨まれ大御所の板垣退助から公開絶縁状を叩きつけられた。横浜市で「金権選挙」と攻撃された加藤高明はまさかの落選、次点繰上げで議員ポストは得たものの世論と新聞の威力を痛感し、岩崎弥之助に頼んで東京日日新聞(毎日新聞)を買収し社長に就任した。英紙『タイムズ』を模倣するだけの新聞経営は大赤字で行詰ったが、加藤高明は外交問題の論説を受持ち対外硬政策を喧伝、ポーツマス会議が始まると「償金とサハリン割譲をロシアに認めさせろ、戦闘を再開しても要求を貫徹せよ」と煽り「軟弱外交は失敗だった」と決め付けた。
- 東大法学部を主席で卒業した加藤高明は、岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春治と結婚し三菱社員となったが、陸奥宗光外相の引きで外務官僚に転じ駐英公使・大使として日清戦争と条約改正に奔走、第四次伊藤博文内閣に外相で初入閣した。「対外硬」急先鋒の加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を「軟弱外交は失敗した」と攻撃し世論を扇動、国際関係の悪化を招き西園寺公望内閣で外相辞任に追込まれたが、なんと桂太郎に鞍替えして外相に返咲き、第二次大隈重信内閣の第一次世界大戦参戦と「対華21カ条要求」で主導的役割を果した。国際常識を無視した対華21カ条要求の暴挙は、当然ながら列強に圧殺され国内向けパフォーマンスに終始したが、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となり末代まで禍根を残した。加藤高明は伊藤博文・陸奥宗光に属したが、政友会総裁を継いだ西園寺公望に対外硬を敬遠されると駐英大使・外相の餌に釣られ桂太郎に乗換え、桂の急死で打算が狂ったが桂の同志会(憲政会)を継ぎ反政友会政党の首領に納まった。西園寺公望が唯一の元老となり首相指名権を握ると「苦節十年」寝返りのツケを払わされたが、宿敵の政友会と合同して清浦奎吾の「超然主義内閣」を倒し念願の首相職を手に入れた(護憲三派による第二次護憲運動)。加藤高明は帝大卒・官僚出身の首相第一号、後継の若槻禮次郞が第二号である。外相ポスト欲しさに伊藤博文・大隈重信・桂太郎(山縣有朋)の間を浮遊し、首相ポスト欲しさに政友会と手を組んだ加藤高明の無節操はむしろ見事だが、金権政治が進むなか三菱の財力ゆえに不誠実が許されチヤホヤされ続けたとも言える。政権目当ての「護憲三派体制」はすぐに崩壊し2年後に加藤高明首相は急死、後継の若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣したが政友会との政権争い明け暮れ、政治ソッチノケの二大政党の対立抗争は政党政治の崩壊を招いた。なお、加藤内閣で成立した普通選挙法は原敬・犬養毅・尾崎行雄ら政党人の努力の結晶であり、加藤高明に個人として特筆すべき業績は無い。
- 幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。
岩崎弥之助と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照