薩長藩閥と講和し兄の岩崎弥太郎が興した海運業から撤退したが膨大な遺産を元手に鉱山業・造船業の買収攻勢で忽ち復活、経営多角化を成功させ全方位外交で政界と宥和した実質上の三菱財閥創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
岩崎 弥之助
1851年 〜 1908年
80点※
家系・子孫
- 岩崎氏の遠祖は甲斐武田氏の縁者とする説があるが、明確なのは戦国時代以降、安芸郡井ノ口村の「一両領足」として長曽我部元親に仕えてからである。山内一豊の土佐入封により岩崎氏は地下浪人に落とされ、やがて郷士株を買い武士身分を取戻すも、岩崎弥次郎右衛門が酒と博打で家産を潰し郷士株を手放した。地下浪人は、「元武士」として苗字帯刀は認められたが、村政では庄屋の下位に置かれ実態は一般農民と同然であった。数代後の岩崎弥次郎は、農業経営が下手なうえに大酒飲みで田畑を失い一家は困窮、しかも攻撃的で偏屈な性格のため庄屋の島田家や岩崎分家との諍いが絶えず集団リンチに遭難した。「三菱海上王国」を築いた岩崎弥太郎は、喜勢との間に嫡子の久弥と娘の春路・磯路を生し、妾腹の子も多くもうけた。福澤諭吉の門人で三菱幹部の荘田平五郎は弥太郎の姉佐喜の娘婿である。弥太郎から三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、薩摩閥の猛攻をかわすため本業の海運業から撤退したが、鉱山・造船を軸に多角的経営を成功させ今日に続く三菱財閥の礎を築き、去り際も鮮やかに岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲、久弥と弥之助の両家が共に男爵に叙された。岩崎弥之助は大富豪には珍しく艶聞が無く、妻の早苗(後藤象二郎の長女)一筋で三男一女をもうけた。長男の岩崎小弥太は三菱4代目として第二次大戦後の財閥解体を受難、次男の岩崎俊弥は旭硝子の創業者、娘の繁子は外交官の松方正作(正義の次男)の妻である。また、官僚政治家の自家養成を図る岩崎弥之助は、岩崎弥太郎の長女春路を加藤高明に・妾腹の末娘雅子を幣原喜重郎に娶わせ、強大な三菱ファミリーに連なった加藤と幣原は総理大臣に栄達した。弥太郎次女の磯路は木内重四郎に嫁がせ、その長女の美艸子は山内豊中(最期の土佐藩主山内豊範の四男)・次女の登喜子は日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三(栄一の嫡孫)の妻となった。兄弟で三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎・弥之助の生家は高知県安芸市に保存され、弥太郎少年が日本列島を模った石群も見ることができる。
- 後藤氏は、藤原北家利仁流を称した美作の有力土豪だが、戦国期に後藤勝基が舅の宇喜多直家に毒殺され居城の美作三星城を強奪された。同族の後藤又兵衛(基次)は、幼少から姫路城の黒田官兵衛に仕え嫡子の黒田長政と成長を共にしたが、関ヶ原合戦後に長政と仲違いし出奔、豊臣方へ奔り大坂夏の陣で討死した。さて三星城から落延びた後藤福基は、大坂で家臣急募中の山内一豊に500石で召抱えられ土佐入府に従った。嫡子の助右衛門は200石で別家を立て、福基の後は次男の之基が継いだ。後藤助右衛門の子孫は土佐藩の中級藩士として存続し9代を数えて馬廻役150石の後藤正晴へ至る。正晴が早世したため、10歳の嫡子象二郎は義理叔父(母の姉妹の夫)の吉田東洋に養育され、板垣退助・福岡孝悌・岩崎弥太郎ら吉田子飼の「新おこぜ組」の首領となり、山内容堂より土佐藩の執政(参政)に抜擢され、明治維新後は板垣退助と共に伯爵に叙された。長女の早苗は岩崎弥之助に嫁ぎ岩崎小弥太(三菱4代目)・岩崎俊弥(旭硝子創業者)を産んだ。嫡子の後藤猛太郎は、少年期から外国人教師について英仏独語を習得し欧州留学もしたが、父譲りの放蕩癖が過ぎて勘当されたこともあった。伯爵を継いだ後藤猛太郎は、井上馨や土方久元の世話で政府に出仕するも宮仕えに馴染まず、たまたま発見した新潟の銅山が大当たり、終生放蕩を続け大儲けと一文無しを繰返した挙句、友人の杉山茂丸に「なんとか、うまく死ねそうだ。おかげで、二十年間おもしろく暮らせた。」と語り大往生した。家督は新潟の遊女おるんに産ませた保弥太に継がせた。後藤保弥太は、学習院を出て米国プリンストン大学に留学、岩崎家の援助で防水会社を設立し青年社長におさまったが、これまた花柳界で豪遊に励み浮名を流して新聞ネタになった。事業にも失敗し借金漬の後藤保弥太は窮迫、夫人は一人息子の省三を残して実家へ帰り「さすらいの子連れ伯爵」と新聞を騒がせ、流浪の果てに爵位返上を決意し隠居、省三は襲爵手続きをせず伯爵後藤家は3代で滅んだ。華族制度に反対し自ら伯爵位を返上した板垣退助の家と好対照で、正に後藤象二郎の不徳の致す処であった。
岩崎弥之助と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
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戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
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戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
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