戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
家系・子孫
- 長州藩士の佐藤信寛は明治維新後に島根県令に任じられ長州閥の伊藤博文らと誼を通じ、弟の太郎を井上馨の養子に出したといわれ(陸軍少佐井上太郎)、日産コンツェルン創業者の鮎川義介も佐藤家の親戚である。信寛の嫡子で山口県議会議員を務めた佐藤信彦は、娘の茂世の婿養子に同郷田布施の岸要蔵の三男で山口県庁官吏をしていた秀助を迎え分家を立てさせた。田布施に戻り酒造業を営んだ佐藤秀助は、茂世夫人との間に5子を生し、長男の市郎に佐藤家を継がせ、次男の信介は実兄岸信政の一人娘良子の婿養子に出し、三男の栄作は生家に留めた。佐藤秀助の妹さわは山口中学教諭の吉田祥朔に嫁ぎ、長男の吉田寛は吉田茂(家系は別)の長女桜子と結婚している。さて、岸信介・良子夫妻は一男一女を生し、長男の岸信和は地元の宇部興産の勤め人となったが(西部石油会長へ転出)、長女の洋子が嫁いだ安倍晋太郎が政界へ進み岸信介の後継者となった。なお、岸信和に子が無かったため、安倍晋太郎の兄信夫が入嗣し岸家を継いでいる。安倍晋太郎は、東大法学部を出て毎日新聞記者となったが、石橋湛山内閣で外相の任にあった岸信介の秘書となり洋子と結婚、岸の首相在職中に亡父安倍寛の地盤を継ぎ(旧山口1区)衆議院議員に初当選した。安倍晋太郎は、1963年の選挙で落選し岸信介を慌てさせたが、次回選挙から没するまで議席を守り(当選11回)自民党幹事長・通産相・外務相などを歴任した。岸信介直系の「政界のプリンス」安倍晋太郎は、脇が甘いので「プリンスメロン」と揶揄されつつ、共に「ニューリーダー」と称された竹下登・宮澤喜一を凌ぎ次期総理総裁は確実といわれたが目前で病没した。地盤を継いだ次男の安倍晋三は、首相となって亡父の無念を晴らし、祖父岸信介が果たせなかった憲法改正・再軍備に挑んだ。さて、岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父(茂世の兄)佐藤松介の妻藤枝は松岡洋右の妹であり、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作に嫁いで二男を産み、次男の佐藤信二が栄作の地盤を継いで衆議院議員となった。
- 征韓論争で参議を辞職した前原一誠が長州不平士族に担がれて反乱を起した(萩の乱)。三浦梧楼(元奇兵隊幹部)少将率いる広島鎮台兵によりすぐに鎮圧され、首謀者とされた前原一誠と奥平謙輔は、島根県令佐藤信寛(元長州藩士で岸信介・佐藤栄作兄弟の曽祖父)の助命工作も虚しく、木戸孝允の指示により山口に遣わされた大木喬任司法卿に引渡され同地で斬首された。前原を担いで実戦を指揮した玉木正誼(乃木希典の弟)と吉田小太郎(吉田松陰の甥で家督相続者)は戦死、松下村塾の塾頭玉木文之進(吉田松陰の叔父で玉木正誼の養父)は責任をとって切腹した。なお、12歳の田中義一も、反乱軍の一兵卒として従軍している。
- 松岡洋右の生家は山口県光市の廻船問屋で裕福だったが、11歳のとき父の松岡三十郎が事業に失敗し破産、アメリカで事業を営む親戚を頼り13歳で渡米した。妹の藤枝は近郷の医者佐藤松介(岸信介・佐藤栄作兄弟の叔父)に嫁ぎ、娘の寛子は従兄弟の佐藤栄作の妻となった。松岡洋右は妻龍との間に一男一女を生し、嫡子の松岡謙一郎は東大法学部を出てマスコミ業界へ進み第二次大戦後に日本教育テレビの副社長となった。甥の松岡三雄の裔が光市で松岡洋右の地盤を守り政治家の系譜を継いでいる。
- 井上氏は清和源氏の一流で安芸に土着し国人領主となったが、同格の国人から勢力を伸ばした毛利弘元の家臣団に組込まれた。井上元兼ら「井上党」は弘元次男の毛利元就の家督相続を援けたことで主家を凌ぐ権勢家となり、専横を憎む元就の謀略により粛清された。ただ、一門の多い井上党のなかには粛清を免れ存続を赦された家もあり井上就在もその一つ、子孫の井上馨の家は家禄100石の大組士で、高杉晋作(200石)・桂太郎(125石)らと同じ中級藩士であった。井上馨は志道家に入嗣した後に井上家に復籍したが、志道家も毛利元就の代から続く譜代長州藩士で禄高は250石であった。井上馨は男児を生さず、兄井上光遠の次男勝之助を養嗣子とし侯爵井上家を継がせたが、勝之助も男児に恵まれなかった。男系の幸薄い井上馨だが閨閥づくりに励み、特に桂太郎とは濃い縁戚関係を結んだ。桂太郎の次男三郎を実娘千代子の婿養子にとって侯爵井上家の3代目とし、桂太郎の最後(5番目)の妻可那子を養女にした。井上三郎・千代子夫妻の間に生れた井上光貞は、昭和初期に『日本国家の起源』『日本の歴史第一巻・神話から歴史へ』など一般読者に分り易い概説書を著して古代史ブームに火をつけ、大戦後はマルクス主義全盛期にあっても実証主義的立場を貫き歴史学に独自の方法を築いた。「光貞史学」の根底には、常に貴族の誇りが貫かれていると評する人もいる。男児の無い伊藤博文は井上馨の甥の博邦に公爵伊藤家を継がせ、原敬は井上馨の後妻武子の連子(実父は薩摩人の中井弘)貞子を妻に迎えたことで出世し、鮎川義介は母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し日産コンツェルン創業者となった。閨閥家の井上馨は養子女縁組を乱発したが、岸信介・佐藤栄作兄弟の大叔父(母である佐藤茂世の伯父)井上太郎も養子の一人といわれる。
- 鮎川家は中級以上の長州藩士だったが、明治維新後に没落し一家は困窮した。鮎川義介は、母方の大叔父(祖母常子の弟)井上馨の庇護下で成長し出世コースに乗った。鮎川義介には3人の姉妹があり、妹のキヨは久原財閥創始者の久原房之助に、フジは「福岡の炭鉱王」貝島太市に嫁いだ。鮎川義介は、高島屋創業家の飯田二郎の長女美代を妻に迎え、二男一女をもうけた。長男の鮎川弥一は、第二次大戦後に鮎川義介が興した中小企業助成会を引継ぎ、テクノベンチャーに改組してベンチャーキャピタル事業を行ったが、日産・日立の事業には関与できず鮎川家は創業家の名を留めるのみとなった。テクノベンチャーを承継した子の鮎川純太は「日産創業家」の名声を支えに細々と世過ぎするが、日本振興銀行を経営破綻させ実刑を受けた木村剛など怪しい人脈と繋がり、また杉田かおるとの離婚騒動がマスコミを賑わせた。義介次男の鮎川金次郎は、雪村いづみとの婚約を一方的に宣言して話題を集め、史上最年少の30歳で参議院議員に当選するも選挙違反容疑で議員辞職に追込まれ、同じく参議院に議席を得ていた父の鮎川義介も引責辞任する羽目になった。義介娘の春子が嫁いだ西園寺不二男は西園寺公望の孫で、ゾルゲ事件で逮捕され廃嫡された兄の西園寺公一に代わり37代当主を継いだ人物である。長州閥政商の鮎川義介には著名人の縁戚が多く、大叔父井上馨の閨閥関係のほか、岸信介・佐藤栄作兄弟は縁戚で松岡洋右はその親戚、日本水産創業者の國司浩助は兄弟同然に育った幼馴染である。
- 竹内綱は旧土佐藩士で立志社・国会期成同盟・自由党の結党に参加した板垣退助の腹心、吉田茂は芸者の瀧子に産ませた庶子である。立志社の政府転覆工作が発覚し陸奥宗光・林有造・大江卓らと共に投獄された竹内綱は、生後間もない茂と瀧子を親友で子の無い吉田健三に預け、茂は3歳のとき正式に入嗣し横浜で養育された。旧福井藩士の吉田健三は自由民権運動に身を投じたが横浜の貿易で財を成し、11歳の吉田茂に50万円(現在価値で20億円)もの遺産を残し病没した。その後の竹内綱は、衆議院議員を1期務めて実業界へ転じ、朝鮮の鉄道事業や牧場経営などに携わり1922年まで生きたが、吉田茂との交流を伝える逸話は残っていない。なお、竹内綱の嫡子で高知県宿毛で育った竹内明太郎は、小松製作所(現コマツ)・快進社(日産自動車の前身)・早稲田大学理工学部の創設に関わり、政友会系衆議院議員となった。さて吉田茂は、大金持ちながら学業成績は冴えず学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴い学生は東大へ無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。遅咲きの吉田茂は中国領事など「お世辞にもエリートとはいえない」傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で出世運を掴み外務次官へ昇進、広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き駐英大使の要職を得た。吉田茂・雪子夫妻は二男三女を生し(次女は夭逝)、男児の健一・正男は共に学者となった。長女桜子が嫁いだ吉田寛は、松岡洋右の甥で岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟にあたる。三女和子は福岡麻生財閥の当主麻生太賀吉に嫁ぎ、長男の麻生太郎は第92代首相、長女の信子は寛仁親王妃となった。1941年妻雪子の没後、吉田茂は芸者小りんを大磯邸に囲い、岳父の牧野伸顕と世間体を憚り隠蔽を図ったが、新聞記者にスクープされると勿怪の幸いとばかり正式に妻とした。この一件で吉田茂のマスコミ嫌いは一層激しくなり、1952年京都の演説会ではしつこい写真撮影に激怒しカメラマンにコップの水をぶっかけたりしている。
岸信介と同じ時代の人物
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
鈴木 一朗(イチロー)
1973年 〜 年
90点※
オリックスで7年連続首位打者に輝き米国MLBへ渡り10年連続200本安打とゴールドグラブ賞を達成、日米通算4千本安打を突破しMLB殿堂入りも確実視される日本スポーツ界の至宝
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