雄藩薩摩藩の礎を築き、西郷隆盛や大久保利通を登用、雄藩連合による公武合体運動に乗出した四賢候筆頭の名君
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島津 斉彬
1809年 〜 1858年
80点※
島津斉彬と関連人物のエピソード
- 島津斉彬は、曽祖父の島津重豪の薫陶で幼少から西洋文明に親しみ、西欧列強の帝国主義を知って日本の国難を憂い中央政界進出を志したが、重豪とは違い生活は質素であったという。好奇心旺盛で多趣味な島津斉彬は、蘭学のほかにも絵画・和歌・茶道・囲碁・将棋・釣り・朝顔栽培を嗜み、大柄の怪力で武芸もよくした。老中阿部正弘・将軍徳川家慶を動かし強硬手段で薩摩藩主に就いた島津斉彬は、隠居に追込んだ父の島津斉興に気を遣い閣僚をそのまま引継いだが、一方で西郷隆盛や大久保利通など有能な下級藩士を登用し育成した。勝海舟は斉彬の資質を高く評価し、薩摩藩が維新に多くの人材を出したのは斉彬の教化によるものだと語っている。島津斉彬は鹿児島市磯地区を中心にアジア初の近代的洋式工場群を建設した(集成館事業)。特に製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、反射炉・溶鉱炉の建設に始まり、鉄砲・大砲に武器弾薬、洋式帆船に機械水雷の製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した。鹿児島城下の民家全部の燈火をガス燈にする計画だったという。斉彬没後、財政問題などから集成館事業は一時縮小されたが、後に小松帯刀が再興に尽力した。薩摩藩は、薩英戦争の苦い経験から洋式技術導入の重要性を再認識し、集成館機械工場を再建、日本初の紡績工場である鹿児島紡績所を建造するなど日本の産業革命をリードした。
- 島津重豪は、「蘭癖」と陰口されるほどの西洋好きで金に糸目を付けず西洋の文物を買集め、また贅沢な生活や政治活動(徳川将軍家等との閨閥づくり)により、薩摩藩は年収13万両に対して500万両・年利息50万両もの借金を抱え財政は破綻に瀕した。嫡子の島津斉宣は薩摩藩主を継ぐと財政再建のため緊縮を図ったが、島津重豪は斉宣を隠居させて孫の島津斉興を擁立し後見人として死ぬまで実権を握り続けた。が、借金経営が永久に続くはずもなく三都の商人は薩摩藩へ金を貸さなくなり、遂に藩財政は行き詰まって藩士は大幅減俸、領民への苛斂誅求は度を超え他藩領への逃散が相次いだ。あるとき、島津重豪は金二分ほどの入用があって江戸の七屋敷を隈なく探させたが金はなく「ああ、おれの貧乏もこれほどまでになったか」と嘆息したという。さすがの島津重豪もお手上げとなり、能吏の調所広郷を登用し財政再建を厳命した。重豪は間もなく没したが、調所は無茶苦茶な厳命を剛腕で遣遂げ、500万両の借金を踏倒し(250年賦・無利子償還)、砂糖の専売制や琉球貿易の促進により準備金150万両を備蓄するほどに盛返した。
- 膨大な借金で手の施しようがなくなった島津重豪は、臨時雇いの茶道方あがりの調所広郷を費用掛に登用し手腕を見定めて勝手方重役に抜擢し財政再建を厳命、調所は罵倒に耐えつつ商人を巡訪し浜村屋孫兵衛の支援を得て急場凌ぎの資金調達に成功、高名な済学者の佐藤信淵(元は出羽雄勝郡出身の医者)を招聘し荒療治の策を得た。調所広郷が窮余の一策として断行した250年賦・無利子償還は「薩摩藩の借金踏み倒し」と呼ばれ三都商人ら債権者の大反発を招いたが、一部の有力商人には密貿易品を扱わせるなど損失補填や便宜を図って取引関係を維持し米売買などの基幹業務を保全した。剛腕で債務整理を片付けると、調所広郷は重商主義改革を推進し藩の収入を大きく増やした。まず奄美大島・喜界島・徳之島の三島砂糖の惣買入制(専売制)を敷き、耕作から保管・運送・販売に至る経路を一元管理化して経費削減と増収を達成した。次に、島津重豪の小遣い稼ぎ(琉球支配委託料)を名目に琉球を通じた中国貿易の許可を獲得、認可上限の3万両を超えて取引を拡大し巨利を積んだが、後に超過部分が「密貿易」と断罪され調所の破滅を招いた。農政改革でも成果をあげたが、奄美群島の農民から砂糖を安く買い叩いたうえに重税を課し、薩摩藩内の領民にも苛斂誅求を行い村落ごと他藩領へ逃散する事件が頻発した。500万両の借金を踏倒したうえ準備金150万両を蓄えた調所広郷は筆頭家老へ上り詰め、斉興派と斉彬派の対立が起ると微妙な立場に立たされたが、島津重豪に似て蘭癖で政治好きの島津斉彬が藩主に就くと苦労が水泡に帰すと考え斉興に与した。親の斉興を弾劾できない島津斉彬は調所広郷を攻撃し老中阿部正弘と謀って琉球密貿易を密告するという苦肉の策を強行、江戸へ弁明に赴いた調所は斉興に罪が及ぶことを恐れ芝藩邸で服毒自殺した。図太い斉興は藩主に居座り、斉彬派は側室由羅による斉彬一家の呪詛調伏を弾劾したが、激怒した斉興は首謀者10名を切腹させ斉彬派を一掃した(お由羅騒動)。斉彬は孤立したが、老中阿部正弘と幕閣は強権発動で斉興を隠居させ斉彬を薩摩藩主に据えた。
- 島津斉彬は、琉球に上陸したジョン万次郎を護送途中に薩摩藩に引留め、藩士の田原直助や船大工に造船術や洋式船の操縦術を学ばせた。
- 島津斉彬は、薩摩藩が建造した「昇平丸」に日章旗(日の丸)を掲げ、これを日本船章にすべきだと幕府に献策し採用された。いわば国旗の発案者である。
- ペリー来航後、和親条約の是非を巡って幕閣と世論は攘夷派と開国派の真二つに割れた。攘夷派の急先鋒は水戸藩の徳川斉昭であり、雄藩連合による公武合体を目指す四賢候(薩摩藩主島津斉彬・福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂)らが斉昭を支持し、老中首座安倍正弘が譜代諸侯との調整に努めた。ただし、単純に外国人を打払えというような「小攘夷」ではなく、外圧による和親条約締結は拒否したうえで洋式軍備を整え、富国強兵を推進して国威を発揚し、西洋列強に立ち向かうべきとする「大攘夷」が四賢候ら開明派の主張であった。そうした政策を推進するため、慶喜将軍を擁立し、従来譜代大名が独占してきた幕閣に春嶽を送込み雄藩連合への道を開くことを当面の政治目標とした。一方、井伊直弼を筆頭とする譜代諸侯の多くは、従来どおりの譜代諸侯による幕政運営に固執し、政治的に対立する立場から開国政策を主張した。さらに、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題が両派の対立に拍車をかけ、前者は斉昭の実子で優秀と目されていた徳川慶喜を推す一橋派を形成し、後者は血縁重視で徳川家茂を推す南紀派となって、激しく主導権を争った。
- 13代将軍徳川家定に子供がなかったため、幕閣・諸侯を巻込んだ将軍継嗣問題が起った。家定との血縁の近さを理由に紀州藩主徳川家茂を推す南紀派と、12歳の家茂よりも英邁といわれた徳川慶喜をたてようとする一橋派が激しく対立した。南紀派は守旧派の譜代大名グループで譜代筆頭彦根藩主井伊直弼が主導し、会津藩主松平容保・佐賀藩主鍋島直正や大奥が強力に後押しした。一橋派は、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭を筆頭に、松平春嶽・島津斉彬・伊達宗城・山内容堂の四賢候、尾張藩主松平慶勝らが与した。四賢候は雄藩連合による公武合体を目指すグループで、将軍継嗣問題をその実現のための手段と考え、活発に運動した。しかし、長野主膳の謀略によって井伊直弼が大老に就任し強権を発動して電撃的に徳川家茂の将軍就任を断行、徳川斉昭の女漁りを毛嫌いする大奥の協力で徳川家定の言質をとったのが決定打となった。徳川家定は精神障害者で男性機能がなく美男子の徳川慶喜に嫉妬し嫌っていたといい、家定に篤姫を入輿させた薩摩藩主島津斉彬の策謀は失敗に終わった。
- 島津斉彬・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城は幕末四賢候と称される。四賢候は公武合体による雄藩連合体制(譜代大名が牛耳ってきた幕府政治への参画)を目指し、将軍継嗣問題と絡めて一時政局をリードした。しかし、南紀派の井伊直弼が大老に就任して徳川家茂の将軍擁立を強行、徳川慶喜を推した四賢候ら一橋派は敗北し安政の大獄で弾圧された。四賢候の手足となって中央政局で活躍したのは謀臣の西郷隆盛(薩摩藩)・橋本左内(福井藩)・吉田東洋(土佐藩)・藤田東湖(水戸藩)らであった。松平春嶽は後年「世間では四賢侯などというが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」と語ったという。
- 徳川斉昭は、会沢正志斎・藤田東湖の水戸学・尊皇攘夷論を実践し幕末維新の幕を開いた過激な「水戸烈侯」、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に敗れ悲嘆死したが七男の徳川慶喜が悲願の将軍位を掴み嫡流の水戸家と共に最高位の公爵を受爵した。会沢正志斎らに感化され「水戸学派」「天狗党」の奔走で水戸藩主に就任した徳川斉昭は、門閥重臣や守旧派「諸生党」と死闘を演じつつ幕政に乗込み洋式軍備導入と藩政改革を推進したが、諸生党の幕閣工作で隠居を迫られ嫡子の徳川慶篤に家督を譲った。が、老中安倍正弘に取入った徳川斉昭は、諸生党首領の結城朝道を失脚させ政界に復帰、ペリー艦隊が来航すると「四賢候」と共に「攘夷の後に洋式軍備を整え開国すべし」という「大攘夷」の論陣を張り幕政を牛耳る井伊直弼ら譜代大名と対立、幕府海防参与に就任し大砲74門や洋式帆船「旭日丸」を献上した。生殖能力の無い徳川家定が13代将軍に就任すると、徳川斉昭と四賢候は一橋家に入嗣し将軍資格のある徳川慶喜の擁立を図りつつ開国政策を非難し安政五ヶ国条約の「破約攘夷」を主張(一橋派)、血縁重視で紀州藩主徳川家茂を推す井伊直弼らと対立した(南紀派)。徳川斉昭は、南紀派の老中松平乗全・忠固を更迭させ宿敵の結城朝道を死罪に処したが、安政の大地震でブレーンの藤田東湖を喪い後ろ盾の阿部正弘も過労死、非常職の大老に就いた井伊直弼は条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を断行し安政の大獄を発動した。薩摩藩主の島津斉彬が井伊打倒を掲げ率兵上洛を宣言するも突然死、「戊午の密勅事件」で強硬化した井伊直弼は江戸城に無断登城した徳川斉昭・慶喜を蟄居に処し松平春嶽・徳川慶勝の藩主職を剥奪、橋本佐内・梅田雲浜・吉田松陰ら尊攘派志士も殺され一橋派は壊滅した。徳川斉昭の意を受けた水戸天狗党の関鉄之助らが江戸城桜田門外で井伊直弼を殺害、全国の尊攘運動は勢いを増したが、逆に水戸藩では諸生党が実権を握り失意の徳川斉昭は急逝、追詰められた武田耕雲斎らが4年後に天狗党の乱を引起し水戸藩は完全に幕末政局から脱落した。
- 2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」編纂事業は幕末まで連綿と受継がれ、「水戸学」は修史局「彰考館」から全国へ伝播し幕末「尊皇攘夷」の行動原理となった。藤田幽谷は、水戸城下の古着商の子ながら学問に優れ水戸藩に出仕、師の立原翠軒より彰考館総裁を承継し、私塾「青藍舎」に会沢正志斎・藤田東湖(幽谷次男)・武田耕雲斎・戸田忠太夫・豊田天功・山野辺義観・安島帯刀・青山拙斎ら多くの門人を擁し水戸学の藩外普及活動を推進した。彰考館総裁を継いだ会沢正志斎は、7代藩主徳川治紀の諸公子の侍読に任じられ徳川斉昭を教化し、尊王攘夷思想を理論的に体系化した「新論」を8代藩主徳川斉脩に上呈、内容が過激なため出版はされなかったが、「水戸学派」の奔走で藩主に就いた徳川斉昭は会沢を藩校弘道館の初代教授頭取に迎え筆写版「新論」は全国へ広がり尊攘派志士の必読書となった。藤田東湖は、徳川斉昭の側近として藩政改革と一橋派の尊攘運動を牽引した。が、日本全国を襲った安政の大地震で江戸小石川の水戸藩邸も崩落、藤田東湖は一旦脱出するも母親の救出に戻り梁の落下で圧し潰され儒学が最上とする孝に殉じた。藤田東湖は水戸学・尊皇攘夷のイデオローグにして西郷隆盛や橋本左内も薫陶した全国志士の領袖的人物、謀臣を失った徳川斉昭の政治力は致命的打撃を受け、天狗党は支柱を喪い水戸藩の尊攘運動が衰亡へ向う一大転機となった。藤田東湖・戸田忠太夫と共に「水戸の三田」と称された武田耕雲斎は、徳川斉昭の死に伴い失脚、追詰められた藤田小四郎(東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵すると止む無く首領に担がれた。天狗党は、徳川慶喜の水戸藩主擁立を目的に掲げ慶喜の意に反し横浜開港を進める幕府を諌めるべく800人で決起、京都へ向け中山道を進軍し美濃鵜沼宿で街道封鎖に遭い北路をとったが、黒幕の慶喜が裏切り追討軍に加わるに至って敦賀で幕府軍に投降、武田耕雲斎・藤田小四郎ら352人が斬首された。水戸藩は佐幕派諸生党の天下となり尊攘運動は壊滅、徳川慶喜の横浜鎖港運動も頓挫した。
- 徳川慶喜は、大老井伊直弼に14代将軍就任を阻まれたが島津久光の文久の改革で幕政を掌握、長州征討を強行するもまさかの完敗で薩摩藩は薩長同盟へ鞍替え、大政奉還で体制温存を図り辞官納地を拒否しながら土壇場で恭順へ転じた最後の将軍である。股肱の臣である松平容保・定敬兄弟と新撰組、小栗忠順ら抗戦派幕臣をあっさり見捨て、宗家・慶喜家・水戸家の徳川3家が最高位の公爵に叙され慶喜は徳川将軍中最高齢の77歳まで生延びた。水戸藩主徳川斉昭の七男で御三卿一橋家に入嗣した徳川慶喜は、一橋派の将軍候補に担がれたが安政の大獄で挫折した。が、薩摩藩の島津久光は、率兵江戸へ乗込み徳川慶喜を将軍後見職・松平春嶽を政治総裁職にねじ込み、八月十八日政変で「破約攘夷」の長州藩を締出し「参預会議」で公武合体を実現した。が、禁門の変で自信を深めた徳川慶喜が専横を強め参預会議は挫折、禁裏御守衛総督に就いて半独立の気勢を示し、松平容保・定敬を京都守護職・所司代に任じて京都を制圧(一会桑政権)、武力補強のため水戸天狗党を呼び寄せたが幕府が強硬策に出ると自ら追討軍に加わり捨て殺しにした。幕威発揚を期す徳川慶喜は長州征討を断行、長州藩は恭順し征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めたが、高杉晋作が長州藩政を奪回し再び幕府に挑戦した。徳川慶喜は直ちに長州再征を号令したが、薩摩藩の妨害で足止めされ薩長同盟が成立、6万の大軍ながら軍備に劣る幕府軍は高杉晋作・大村益次郎の洋式軍隊に完敗し大阪城の将軍徳川家茂も急死、小倉城陥落で慶喜は「長州大討入り」を撤回した。小栗忠順の日仏同盟構想(売国的条件による借款と軍事支援)に力を得た将軍徳川慶喜は、参預会議で長州藩赦免を拒否し薩摩藩は討幕を決意、「徳川家を盟主とする大名共和制」を期待し大政奉還するも辞官納地を強要された。大阪城の徳川慶喜は無視し諸外国に徳川政権継続を宣言したが、鳥羽伏見の敗報に接すると軍艦で江戸へ逃げ戻り上野寛永寺に謹慎、主戦派を追放し恭順派の勝海舟に全権を委ねた。徳川宗家を継いだ徳川家達は駿府70万石から公爵に叙され、徳川慶喜も公爵・貴族院議員に栄達した。
- 水戸藩主には江戸常府が義務付けられ公子は江戸藩邸で養育されるのが通例であったが、享楽的な江戸の風俗に馴染ませたくないという徳川斉昭の配慮により徳川慶喜は一橋家に入るまでのほとんどの期間を水戸で養育された。徳川斉昭自身は10人の江戸で妻妾を侍らし享楽生活を送ったが、息子には厳しかったようである。徳川慶喜は、父の徳川斉昭と同じく会沢正志斎ら水戸学の権威に薫陶され、少年期から英才を謳われ将来を嘱望された。12代将軍徳川家慶は、徳川慶喜に目を掛け偏諱を賜い、病弱な嫡子の徳川家定よりも優秀な慶喜を世子に立てようとしたが老中安倍正弘の諫止で思い止まったという。徳川慶喜は将軍家慶の計いで嗣子の無い一橋昌丸に入入嗣した。一橋家は田安家・清水家と並ぶ御三卿の一つである。御三卿は、8代将軍徳川吉宗が自分の血統で将軍を独占するために立てた家で、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)に次いで将軍を出す資格があるとされた。さて、13代将軍となった徳川家定は、精神薄弱児ながら徳川慶喜に嫉妬し、大奥に促されて徳川家茂を将軍継嗣にすると述べたといい(真偽不明)、将軍の言質を得た大老井伊直弼は徳川家茂の14代将軍就任を強行した。
- 松平春嶽は、島津久光の文久の改革で幕政を握るも徳川慶喜の暴走を許し公武合体に挫折、徳川家擁護で「薩長土肥」入りを逃したが横井小楠を招き福井藩で民主主義を育んだ「四賢候」である。御三卿田安家の八男ながら従兄の将軍徳川家慶の後援で福井藩主となり、将軍徳川家定の継嗣争いで徳川慶喜を担ぎ一橋派「四賢候」に数えられたが、大老井伊直弼に敗れ藩主職を奪われた。が、薩摩藩の島津久光が率兵江戸へ乗込みクーデターを成功させると、松平春嶽は政治総裁職に就き将軍後見職の徳川慶喜と共に幕政を掌握した。松平春嶽は徳川慶喜を大所高所に置き実質的な政権運営は自ら行う腹積りであったが、慶喜は意外にも我を張り「公武合体のためには攘夷やむなし」と主張する春嶽に対し「攘夷など無理」と対抗、外国人嫌いの孝明天皇は「即時攘夷」に固執し参預会議は膠着状態に陥った。松平春嶽は、会津藩主松平容保に汚れ役の京都守護職を押付けながら自分は政治総裁職を放出し福井へ帰国、横井小楠の献策に従い公武合体政権を樹立すべく「挙藩上洛計画」を試みたが中根雪江ら守旧派の反対で頓挫した。禁門の変後、専横を強める徳川慶喜は京都に「一会桑政権」を樹立し長州征討を強行、松平春嶽の福井藩は幕府軍の主力を担ったが、征長軍全権の西郷隆盛は宥和的措置で矛を収めた。高杉晋作が長州藩政を奪回すると徳川慶喜は長州再征を断行したが、薩摩藩は薩長同盟へ転じ幕府軍はまさかの完敗、松平春嶽は薩摩藩の側に立って長州赦免を説いたが慶喜は小栗忠順の日仏同盟構想を頼みに妥協を拒否、島津久光は西郷隆盛・大久保利通に討幕のゴーサインを出した。徳川慶喜は大政奉還で体制温存を図ったが薩摩藩は小御所会議で辞官納地を強要、松平春嶽は山内容堂と共に反抗したがねじ伏せられ自ら慶喜への伝達使を務めた。板垣退助の参戦を黙認した土佐藩の山内容堂と異なり、松平春嶽は戊辰戦争に距離を置き、横井小楠や由利公正が新政府の参与に任じられたものの福井藩は「薩長土肥」に入れなかった。薩長の公爵・土肥の侯爵に対し福井藩主松平茂昭は家格並の伯爵に留められたが、勝海舟らの運動により特別に侯爵を与えられた。
- 山内容堂は、「幕末四賢候」に列したが謀臣吉田東洋の死後は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」の迷走、勇み足で武市半平太を殺して中央政局から脱落し大政奉還建白で徳川家擁護を図るも薩長に無視された土佐のアル中藩公である。西郷隆盛ら他藩士をも「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」と憤慨させた。12代土佐藩主の弟の子ながら嫡流が相次いで没し幸運にも土佐藩主となった。「鯨海酔侯」と豪傑を気取り学識も豊富な山内容堂は、織田信長に自己投影し中央進出を志したが襲封当初は家老連の圧迫で思うに任せず、吉田東洋に不遇を救われた。大目付の吉田東洋は、家老や家族の私生活をスパイし非行を見つけて失脚へ追込み、重臣に分散した権力を藩庁の直轄下におく中央集権化を断行、安政の大獄も追い風となり藩主専制を確立した。山内容堂は恩人の吉田東洋に藩政を託し(参政)吉田はよく期待に応えたが、特権を奪われた重臣連は吉田を憎み武市半平太の吉田暗殺に加担した。山内容堂は島津斉彬・松平春嶽・伊達宗城と共に「四賢候」と称され将軍継嗣問題に乗出したが、書類作成や藩外折衝は専ら吉田東洋が担い、吉田の死で舵を失った。山内容堂は、武市半平太が長州藩と提携し「破約尊攘」運動を牽引すると気前良く外交を委ねたが、下克上に機嫌を損ね突如弾圧へ転換、第一次長州征討が起ると勇み足で武市を誅殺し土佐勤皇党を掃討した。が、長州藩では高杉晋作が功山寺決起で藩政を奪回し薩長同盟を結び第二次長州征討で幕府軍に完勝、慌てた山内容堂は後藤象二郎(吉田東洋の義理甥)を参政に任じ、後藤は坂本龍馬・中岡慎太郎を抱込んで薩摩藩に接近し大政奉還建白で政局復帰を果した。が、武力討幕を期す薩摩藩は小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を強行、徳川家擁護を図る山内容堂は猛反発するが泥酔状態で遅参し暴言を吐いて自滅し、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝しても出兵を逡巡、板垣退助が土佐勤皇党の残党「迅衝隊」を率い独断参戦し土佐藩は辛くも「薩長土肥」に食込んだ。山内容堂は下克上の明治政府に馴染めず隠退、薩長専制に「武市半平太が生きていれば」と憤りつつも酒池肉林の生活を続け46歳で没した。
- 薩摩藩主島津斉彬は、将軍継嗣問題で一橋派を有利にするため、一門の島津忠剛(今和泉島津家当主)の娘敬子(斉彬の従妹)を、近衛忠煕の養女としたうえで、13代将軍徳川家定の正室に入輿させた。島津斉彬に近侍した西郷隆盛が諸方面との折衝から輿入れの荷選びと奔走、後年西郷はこれで美術品の目利き力を養ったと語っている。大老井伊直弼が推す徳川家茂に14代将軍をさらわれ島津斉彬の策略は敗れたが、将軍御台所となった敬子改め篤姫は大奥の実力者となり(家定死後は落飾して天璋院)薩幕和解に周旋し維新後は徳川家存続に尽力した。
- 安倍正弘の急死により一橋派は幕閣における後ろ盾を喪い、南紀派に勢力が傾いて井伊直弼の暴走を招いた。ただ、南紀派と目された老中首座の堀田正睦は一橋派の松平春嶽を大老に推挙したとされる。堀田正睦は安倍正弘の後継として両派の調整を企図していたと思われ、井伊直弼は大老就任後すぐに堀田を閣外へ追出し、徳川家茂の将軍擁立と列強との修好通商条約調印を強行した。松平春嶽は将軍徳川家定の拒絶で老中に就けず一橋派は南紀派に惨敗したが、春嶽は家定を「凡庸の中でも最も下等」とか「イモ公方(家定はお菓子作りが好き自ら芋を煮て食べていた)」などと吹聴し嫌われていたという。
- 井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。
- 「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。
- 安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。
- 島津久光は、質朴・剛健で保守的な性格であり、利発で学問好きだったが専ら国学と漢学を好み洋楽は嫌いだった。こうした性格が守旧派の父島津斉興に気に入られ、開明的な兄島津斉彬との後継争いを招く原因となった。斉彬が没したとき既に42歳と高齢だった島津久光は藩主に就かず、長子の島津忠義を斉彬に入嗣させ藩主とした。藩政を奪回した島津斉興は薩摩藩を保守佐幕路線へ急転回させ斉彬派を弾圧して西郷隆盛・月照の入水事件などを引起したが(久光のせいではない)、斉興の死により実権を握った「国父」の島津久光は兄斉彬の雄藩連合・公武合体運動を踏襲し中央政局へ踏出した。参勤交代・江戸住みの経験が無く中央政局に疎い島津久光の政治的手腕を疑う藩士が多く、西郷隆盛は「ジゴロ(田舎者)に斉彬公の真似は無理でごわす」と面罵したが、久光は敢然と反抗勢力を追払い大久保利通・小松帯刀を要路に就け率兵上洛を挙行した。京都から江戸へ乗込んだ久光は、クーデターで幕府政治改革を強行、一橋派の徳川慶喜と松平春嶽を幕閣の中枢に送込み、参預会議を発足させて見事に公武合体を果した(文久の改革)。
- 島津斉興が没し薩摩藩の実権を掌握した島津久光は上洛に反対する勢力を一掃し薩摩藩の人事を刷新、家老の喜入摂津・側役の小松帯刀・御小納戸役の中山尚之助が藩首脳に就き大久保利通が裏で糸を引く体制となった。精忠組からも多くが抜擢され、リーダーの大久保利通が御小納戸役(西郷不在)、有村俊斎と吉井友実が徒目付、有馬新七は造士館訓導に任命された。精忠組は中下級武士を中心に構成された尊攘派グループ。盟主は西郷隆盛と大久保利通、中核メンバーに有馬新七・有村俊斎・伊地知正治・岩下方平・海江田信義・吉井友実など。寺田屋騒動での同士討ちの悲劇を乗越え、最後まで久光政権を支えて討幕に導いた。
- 王政復古の後、西郷隆盛や大久保利通は薩摩藩のくびきを脱し朝臣として独自の立場で動くようになった。頑迷固陋の度を強める島津久光は維新後の政治改革についていけず、保守反動的な言動を繰返して明治政府を困らせ西郷や大久保の罷免まで要求した。かといって新政府の運営に加わるわけではなく上京要請をしばしば断り、余生のほとんどを鹿児島に引篭もって過ごした。廃藩置県の勅令に憤怒した島津久光は抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打上げさせた(廃藩置県に露骨に反感を示した唯一の例)。風俗の洋式化にも激しく抵抗し、太陽暦・洋風玉座・学校制度からキリスト教解禁、外国人との結婚許可にまで反対し明治政府に洋風化廃止をしつこく要求、自身は生涯髷を切らず帯刀和装で通した。西南戦争が起ると、薩摩に居た島津久光は明治天皇からの要請もあり公式には中立を通したが、西郷隆盛に対する大久保利通政府の不当な挑発を激しく非難した。島津久光が没すると鹿児島で国葬が執行われたが、葬送のため新たに道路が整備され熊本鎮台から儀仗兵1大隊が派遣された。
- 鹿児島城下の加治屋町は、甲突川東畔1万坪ほどの地域に貧しい下級藩士の屋敷が80戸ほど並ぶ狭い街区だったが、「維新の三傑」西郷隆盛・大久保利通を筆頭に伊地知正治・吉井友実・有村俊斎・西郷従道・大山巌・東郷平八郎・篠原国幹・村田新八・黒木為禎・山本権兵衛など錚々たる面々を輩出した。彼ら加治屋町出身の薩摩藩士と吉田松陰・松下村塾門下の長州藩士という少人数の2グループが幕末維新を成遂げたのは奇跡的であった。西郷隆盛と三歳年下の大久保利通は、幼少から竹馬の友として育ち、父親の影響で自然に島津斉彬派に属し、長じると近所の仲間を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成、島津久光を担いで雄藩薩摩を動かし討幕の急先鋒長州藩と同盟して徳川幕府を倒した。
- 西郷隆盛は、薩摩藩を率いて討幕を成遂げた「維新の三傑」である。大久保利通ら地元の青年を集めて尊攘派グループ「精忠組」を結成し、下級藩士ながら薩摩藩主島津斉彬に抜擢され名代として将軍継嗣問題に奔走したが、斉彬が大老井伊直弼打倒の上洛軍を発動した直後に突然死し、絶望した西郷は勤皇僧月照を抱え錦江湾で入水自殺を図った。大久保が藩政を握ると西郷隆盛は復帰するが島津久光と衝突し遠島処分、2年の罪人生活の後に再び召還されると薩長同盟、戊辰戦争、明治政府樹立へと直走った。維新後は唯一の大将として全国民の輿望を担い廃藩置県や徴兵制を後押ししたが、政府高官の奢侈と腐敗に悲憤慷慨し、征韓論を大久保利通・木戸孝允・岩倉具視に退けられ下野、西郷が戻った鹿児島は「私学校王国」と化し大久保政府は対決姿勢を明示した。我が身を部下に預けた西郷隆盛は西南戦争の首領に担がれ上京軍を起すが熊本城や田原坂で政府軍に敗北、鹿児島城下の城山に追込まれ自殺した。
- 島津斉彬は、下級藩士の西郷隆盛を見出し懐刀に抜擢、一橋派盟友の松平春嶽に引合せた際には「自分には随分多くの家来はあるが、いざという時、真に役に立つ人物は至って少ない。ただ西郷一人は、我が薩摩において貴重な宝である。しかし、西郷は独立の気象に富んでいるため、普通の人間を扱うようなわけにはいかない」と持上げた。西郷隆盛は斉彬の名代として全国の志士と交遊したが、「われ先輩においては藤田東湖を推し、同輩に遭っては橋本左内に服す」と述べ両者への敬服を語っている。
- 神と仰ぐ島津斉彬の突然死に失望落胆した西郷隆盛は、鹿児島へ戻り順聖公(斉彬)の墓前で殉死する決意であった。これを聞きつけた月照は「今や貴下は薩摩藩の西郷ではなく天下の西郷である。今こそ亡君の精神を受継ぎ身命を捧げて国家のために働かねばならぬ」と励まし西郷を制止した。月照は、五摂家筆頭近衛家の祈祷僧で勤皇家として知られ、関白近衛忠煕との繋ぎ役として薩摩藩主島津斉彬と謀臣西郷隆盛の宮廷工作を支えたが、安政の大獄で京都を追われ鹿児島錦江湾で入水自殺を遂げた(無理心中を図った西郷は蘇生)。島津氏は平安時代に近衛家の荘官として南九州に土着したのが興りで、幕末に至って両家は一層親交を深め、島津斉興の娘興子(郁姫)を娶った近衛忠煕は斉彬の公武合体運動に共鳴し宮廷工作を担った。月照と無理心中を図るも一人生残った西郷隆盛は一月余り病床に臥したが、看病にあたった大久保利通・吉井友実・有村俊斎らは自殺を恐れ刃物類を全て隠したという。
- 大久保利通は、強靭な意志力でシナリオを描き粘り強くキーマンを動かして明治維新を成遂げた「維新の三傑」、声望は西郷隆盛に及ばないが功績と手腕は最高である。鹿児島城下の加治屋町で3歳年長の西郷隆盛と共に育ち尊攘派グループ「精忠組」を結成、デビューは島津斉彬の懐刀として活躍した西郷に遅れたが斉彬没後は主役となった。斉彬の突然死に西郷ら同志が希望を失うなか、大久保利通は、次代を担う島津久光に目を付け趣味の囲碁を自らも習得して接近を図り、島津斉興の死で久光が実権を握ると側近に抜擢され、自ら推挙した門閥閣僚の小松帯刀と共に薩摩藩を尊攘藩に改造した。大久保利通は、我が強く統制好きな久光の下で苦労しながら公武合体運動を推進め、突出脱藩を主張する有馬新七ら精忠組急進派を命懸けの説得で抑えて挙藩一致体制を堅持、久光を説伏せて西郷隆盛の赦免を勝取り薩摩藩同志の抑え役兼他藩への周旋役に据えた。島津久光は文久のクーデターで幕府政治を改革し参預会議により宿願の公武合体を成就したが、八月十八日政変・禁門の変で長州藩を追放した徳川慶喜は専横を強め、尊攘派に恨まれた久光は憤慨して政局を放棄、藩政を託された大久保利通と西郷隆盛は長州征討に固執する幕府を見限り薩長同盟を結んで討幕路線へ転換、岩倉具視と連携して朝廷を確保し一気に王政復古、戊辰戦争、明治政府樹立を達成した。新政府での大久保利通は、ラジカルな木戸孝允と士族に同情する西郷隆盛の意見調整に腐心しつつ、欧米視察を通じて殖産興業・富国強兵の必要性を確信、明治六年政変で岩倉と共謀して西郷の征韓論を覆し反抗勢力を一掃して初代内務卿兼参議に就き独裁政権を樹立した(大久保政府)。ドライな大久保利通は、台湾出兵で薩摩士族のガス抜きを図りつつも秩禄処分を断行、全ての特権を奪われた不平士族の反乱が相次いだが断固たる姿勢で各個撃破し西南戦争で西郷と薩摩志士を処断、史上空前の内乱の渦中で不敵にも第一回内国勧業博覧会を開催したが、翌年不平士族に襲撃され落命した(紀尾井坂の変)。大久保利通の内治優先・殖産興業路線は弟子の伊藤博文と大隈重信へ引継がれた。
- 小松帯刀は、島津久光・門閥とのパイプ役として大久保利通・西郷隆盛を後援し幕末薩摩藩の挙藩体制を支えた名宰相である。薩摩喜入5500石の肝付家に生れ薩摩吉利2600石の小松氏に入嗣した貴公子であったが、偉ぶらない人柄で人望が篤く精忠組の活動に理解を示したことから大久保利通の推挙で島津久光政権の首脳となった。小松帯刀は、島津斉彬が遺した集成館事業を再興し薩摩藩の近代化を推進しつつ、保守佐幕へ傾きがちな門閥閣僚を抑え気分屋の久光を励まし討幕路線へ導いた。生来の虚弱体質で肺病持ちであったが、幼年から文武に打込み示現流剣術も修めている。イギリス外交官として多くの志士と交わったアーネスト・サトウは著書『一外交官の見た明治維新』の中で「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物、家老の家柄だがそういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり態度がすぐれ、友情が厚くそんな点で人々に傑出していた。」と評している。愛妻家で新婦の千賀を連れて霧島の栄之尾温泉に滞在、日本初の新婚旅行ともいわれる。小松帯刀といえば坂本龍馬との情誼が有名だろう。神戸海軍操練所・海軍塾が幕命で閉鎖された際、親分の勝海舟は坂本龍馬以下30余名の塾生を小松帯刀に託し、小松は坂本らを大坂薩摩藩邸に引取り親密な間柄となった。公武合体を見限り討幕へ傾いた西郷隆盛・大久保利通は長州藩への接近を図り、幕府の圧力で輸入取引を塞がれた長州藩のために薩摩藩名義で武器や艦船を購入し提供したが、小松帯刀はダミーとして亀山社中を設立し洋式操船術を学んだ坂本らに貿易・輸送実務を任せ、薩長の仲介役となった坂本は薩長同盟に奔走した。寺田屋事件で重傷を負い薩摩藩に匿われた坂本龍馬は愛人の寺田屋お龍を伴い霧島山や温泉場を巡訪、「日本初の新婚旅行」といわれるが実は小松帯刀が先達である。生来病弱な小松帯刀は維新後間もなく病没したが、西郷隆盛・大久保利通の上司である小松が存命なら西南戦争の悲劇は避けられたかも知れない。
- 有馬新七は、島津久光・大久保利通の挙藩一致方針に逆らい続け平野国臣の扇動に乗って討幕運動を激発し寺田屋騒動で誅殺された薩摩藩急進派の首領である。年少の西郷隆盛・大久保利通と共に鹿児島城下の加治屋町で育った有馬新七は、共に尊攘派グループを結成し(精忠組へ発展)、「天性急烈で、暴悍で、長者の教えに従わず、しばしば叱られた」という少年期の性格そのままに過激志士へ成長、叔父の坂木六郎から神影流剣術を学び、江戸へ遊学して最も大義名分を重視し純粋激烈な学風を誇る崎門学(山崎闇斎派朱子学)の山口菅山に入門した。有馬新七は、島津斉彬の懐刀として活躍する西郷隆盛に従い公武合体運動に挺身したが、斉彬が急死し薩摩藩の率兵上洛計画は頓挫、京都に先乗りした西郷と有馬は失意のなか鹿児島へ帰還した。このとき有馬新七が詠んだ「朝廷べに死ぬべき命ながらへてかへる旅路のいきどほろしも」の歌は第二次大戦中に編纂された「愛国百人一首」に採られ有名になった。西郷が奄美大島へ隠れ島津久光の謀臣となった大久保利通が精忠組の首領格になると、年長で最古参の有馬新七は過激派を束ね反発、挙藩一致の公武合体運動など手緩いと断じ即刻上洛して尊攘運動に挺身すべしと主張し「突出脱藩」騒ぎを起した。大久保の命懸けの説得に屈した有馬新七は、精忠組の分派活動へ奔り、父の縁故を頼って近衛家へ仕官を求めたり長崎外国商館の焼打ちを企てたりしたが、いずれも失敗に終わった。そうしたなか平野国臣が『尊攘英断録』を薩摩藩に献じ武力討幕を提案、大久保利通は体よく追払ったが渡りに船の有馬新七らは大いに賛同し、上洛した平野が「島津久光の討幕挙兵近し!」と触回り尊攘派志士を狂奔させた。そして島津久光が率兵上洛、有馬新七と急進派薩摩藩士は真木和泉らと関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃を企てたが、久光の鎮撫使と斬合いになり道島五郎兵衛と揉合った有馬は「おいごと刺せ、おいごと刺せ」と叫び道島共々橋口吉之丞に串刺しにされ絶命した。この後、島津久光は公武合体を実現するが挫折、西郷隆盛・大久保利通は討幕へ転じ薩摩藩は挙藩一致で王政復古を成遂げる。
- 鍋島直正は、大老井伊直弼の暗殺で中央政局から離脱するも佐賀藩の富国強兵と洋式軍備導入に専念し、戊辰戦争が起ると幕末最強の最新兵器を投入し「薩長土肥」に滑り込んだ開明的専制君主である。志士活動を封印された江藤新平・大隈重信・副島種臣・大木喬任らは薩長藩閥に切歯扼腕し鍋島直正の出遅れを恨んだが、最強軍備を蓄えた佐賀藩は血を流すことなく明治政府で漁夫の利を占め多くの実務官僚を輩出した。幕府は長崎を直轄領としたが警備役を命じられた佐賀藩は代々膨大な出費を強いられ、フェートン号事件では藩主鍋島斉直が閉門に処されたが、佐賀藩は逸早く西洋文明に覚醒し「蘭癖」の鍋島直正が出て幕末随一の技術力と洋式軍備を整えた。鍋島斉直の十七男ながら若年で佐賀藩主を継いだ鍋島直正は、先ず藩校弘道館の拡充を指示して人材の涵養を図り、経費節減・債務減免や交易促進など大胆な藩政改革により破綻に瀕した財政を再建、日本初の反射炉を建設して洋式砲の鋳造を開始し、技術開発のため「精煉方」(招聘した田中久重は東芝を創業)および「三重津海軍所」(国産初の実用蒸気船「凌風丸」を建造)を開設、ペリー艦隊が迫ると長崎沖合に砲台を築き大砲の大量生産に着手した。「技術立国」を果した鍋島直正は中央政界へ進出、幕府の品川台場(砲台)や伊豆韮山反射炉に技術供与して老中安倍正弘の信任を獲得し、大老井伊直弼の親友となり将軍継嗣問題で従兄弟の島津斉彬ら一橋派「四賢候」に勝利したが、桜田門外の変が起ると身の危険を察知して佐賀へ引込み嫡子の鍋島直大に佐賀藩主を譲った。以後の鍋島直正は黙々と洋式軍備を蓄え(自家製より輸入が主体)、藩士の尊攘運動を抑え幕府・薩摩藩双方の出兵要請を黙殺したが、鳥羽伏見の戦いで官軍が圧勝すると決然と参戦を表明し江藤新平に出陣を命令(徳川慶喜は「鍋島直正はずるい人だった」と述懐)、洋式銃器で武装した精強佐賀軍は函館戦争まで転戦し最新鋭のアームストロング砲は上野彰義隊や会津若松城の攻略に威力を発揮した。鍋島直正は、薩長土肥の4藩主連署の版籍奉還に従い、初代開拓使長官に就いたが、廃藩置県の直後に58歳で病没した。
- 鍋島直正は「蘭癖」といわれるほどの開明派であったが、ペリー来航に際して幕府から意見を求められると「夷荻ども傲傲の振る舞い、断固打ち払い」を主張し、長州藩の攘夷決行(下関事件)を高く評価した。。政敵となる「四賢候」と同様に「まずは武威を示し然る後に洋式軍備を導入し外夷を打払うべし」という「大攘夷」を唱えたか、或いは対外交渉窓口は長崎という原則の遵守を強調したのかも知れない。鍋島直正は洋式兵器の自藩製造を志し「精煉方」を開設したが、叔父の鍋島茂義(支藩の武雄藩主)の影響も大きかった。鍋島茂義は、長崎町年寄として下向した高島秋帆に弟子入りして西洋式砲術や科学技術を学び、オランダ人と親密に交流、雄藩に先駆けて武雄藩の軍備と軍制を洋式化した傑物であり、精煉方では自ら蒸気船建造の責任者に任じた。なお、幕府と雄藩は競って洋式兵器製造に取組んだが、先ず必要な設備は鉄製砲身の鋳造に欠かせない反射炉であり、幕府(伊豆韮山)と薩長は反射炉の実用化に成功したが、先駆となって技術開発をリードしたのは鍋島直正の佐賀藩であった。佐賀藩は、幕府や他藩が及ばない水準まで鋳造技術を高め、アームストロング砲に代表される最新式の洋式大砲・鉄砲の自藩製造に唯一成功、また洋式蒸気船の開発にも取組み国産初の実用蒸気船「凌風丸」の建造を成功させた。ただし、幕末時点では佐賀藩でも製造より輸入の方が安上りで、戊辰戦争に投入された銃器・軍艦の主体は輸入品であった。佐賀藩の精煉方で技術革新を牽引したのは「東洋のエジソン」田中久重である。田中久重は久留米出身の細工職人で、上方へ出て機械仕掛けの技術を磨き「からくり儀右衛門」と称され大評判をとった。西洋技術も習得した田中久重は、緒方洪庵の適塾に学んだ佐野常民の勧めで鍋島直正の佐賀藩に出仕し、精煉方の技術開発職に就いて反射炉や凌風丸の建造を主導、日本初の蒸気機関車・蒸気船の模型も製作した。1864年故郷の久留米藩へ転籍し西洋技術導入に貢献、1873年東京に移住し東芝の前身とされる「田中製造所」を創立した。
- 福岡藩は藩祖の黒田長政が豊前中津12万2千石から52万3千石へ大増封された恩義故に幕末に至っても佐幕の気風が強く、黒田長溥は大叔父として薩摩藩主島津斉彬を後援したが最後まで勤皇藩にはならなかった。薩長に挟まれた地勢ながら福岡藩に尊攘派は育たず平野国臣が孤軍奮闘、ようやく桜田門外事変後に平野の扇動で月形洗蔵・鷹取養巴・中村円太・江上英之進・浅香市作・海津幸一・加藤司書らが加盟した。が、大老井伊直弼の暗殺に驚愕した福岡藩は再び保守化し攘夷志士を大検挙、月形洗蔵・鷹取養巴・海津幸一が重臣へ預けられほか九人に謹慎処分が下され尊攘派は壊滅した。首謀者の平野国臣は捜索をかわし藩外へ脱出、久留米で真木和泉と会い、村田新八の案内で薩摩藩に潜入したが島津久光の浪人嫌いを気に掛ける大久保利通の反対で退去、下関の白石正一郎や肥後の松村大成の庇護を受けつつ天草まで逃避行を続けた。
島津斉彬と同じ時代の人物
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維新
大久保 利通
1830年 〜 1878年
130点※
島津久光を篭絡して薩摩藩を動かし岩倉具視と結んで明治維新を達成、盟友の西郷隆盛も切捨てる非情さで内治優先・殖産興業・富国強兵の路線を敷き近代国家の礎を築いた日本史上最高の政治家
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維新
高杉 晋作
1839年 〜 1867年
110点※
吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄
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維新
西郷 隆盛
1828年 〜 1877年
100点※
島津斉彬の懐刀として政治力・人脈を培い大人格者の威望をもって討幕を成遂げた薩摩藩の首魁、没落する薩摩士族に肩入れし盟友の大久保利通に西南戦争で討たれたが「大西郷」人気は今も健在
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