加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸内閣の外相として対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を展開するが満州事変で失脚、戦後首相に担がれるとGHQ命令を粛々実行し「押付け憲法」を受諾したエリート外交官
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
幣原 喜重郎
1872年 〜 1951年
60点※
幣原喜重郎と関連人物のエピソード
- 岩崎弥太郎は、後藤象二郎の下で土佐藩経済官僚として頭角を現し、維新後独立して大久保利通・大隈重信の庇護のもと台湾出兵と西南戦争に乗じて「三菱海上王国」を現出させた異端の政商にして三菱財閥の創始者である。土佐安芸郡の地下浪人から学問による立身を志して江戸に上ったが、父岩崎弥次郎のリンチ事件により急遽帰国、奉行所の白壁に「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によって決す」と大書して投獄された。2年間の獄中生活を終えて郷里で蟄居したが、吉田東洋の少林塾に入門したことで出世の糸口を掴み、吉田が参政に復帰すると下級役人に登用された。吉田暗殺後しばらく帰農したが、武市半平太失脚により藩政を掌握した後藤象二郎に召還され、長崎で貿易実務を任された。土佐藩には輸出産品がないのに武器弾薬調達は急務で土佐商会の経営は難渋したが、接待攻勢と悪徳商法で何とか幕末を乗り切った。維新後、岩崎弥太郎は、政府出仕を諦めて商事専念を決意、土佐商会を引継いで独立し三菱商会を発足させた。三菱商会は、間もなく起った台湾出兵で輸送業務を一手に引受けたことで飛躍、功労成って大久保利通政府から保護育成会社に指定され、最大手だった日本国郵便蒸気船会社を吸収、続く西南戦争でも政府御用として業績を伸張させ、全国汽船総トン数の70%以上を占める「三菱海上王国」を現出させた。ところが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、薩長閥政府は黒田清隆・西郷従道を筆頭に公然と三菱への猛攻を開始、自由党系新聞が「海坊主退治」と煽り立てたため世論も三菱弾劾を後押しした。薩摩閥と三井の井上馨は三菱潰しのため共同運輸会社を設立、熾烈な競争の末に両者の経営は行き詰まった。岩崎弥太郎は必死の抵抗を続けたが、死闘の最中51歳で無念の憤死を遂げた。弥太郎の跡を継いだ弟の岩崎弥之助は、三菱の海運部門を共同運輸に譲り渡す苦渋の決断を下し、両社合併して日本郵船となった。三菱は本業の海運業を失ったが、弥太郎が手を広げていた鉱山採掘、造船、倉庫、水道、為替、樟脳製造、製糸、保険などを二代目弥之助が発展させ、今日に続く三菱財閥の基礎を築き上げた。
- 岩崎弥之助は、今に続く三菱財閥の実質上の創業者である。兄岩崎弥太郎が築いた三菱商会の本業・海運業を日本郵船に引渡した後、三菱再興を志し、新たに三菱社を設立、海運業を断念して鉱山、造船、不動産、銀行など多角化戦略に切替えた。特に鉱業の発展は目覚しく、買収攻勢により次々と所有鉱山を増やしつつ、最新の採掘・精錬法を採用するとともに、多額の資本を投下して近代的設備を導入、三菱の金銀銅産出量は全国屈指の規模に急成長を遂げた。また炭鉱部門にも力を注ぎ、高島炭鉱を最新技術の導入により優良化させるとともに、炭鉱を相次いで買収、三菱の炭鉱部門は国内産出量の1割を占めるまでに膨張した。さらに、お荷物だった長崎造船所を政府から買取ると、本場のイギリスから先端技術を導入して日本一の技術力を獲得、日本で唯一6000トン級巨船の建造に成功、長崎に続いて神戸造船所も開設した。三菱の造船部門は、日清・日露戦争・第一次世界大戦と続いた空前の造船ブームを満喫し稼ぎまくった。岩崎弥之助は、積極的な多角化路線を採り、主力の鉱業・造船のほかに倉庫業、保険業、銀行経営、農場経営(小岩井農場)など多種多様な事業を展開したが、とりわけ丸の内に日本初のオフィス街を建設したことは特筆に値する。現在でも三菱地所は「丸の内の大地主」として健在である。一方、岩崎弥之助は、政界活動においても強かさとバランス感覚を発揮した。大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開、大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘繁子を嫁がせて薩摩閥にも食込んだ。また、エリート外務官僚の加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期的戦略で政界への三菱勢力の扶植に努めた。三菱のトップ引退後は政治活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取り持って第二次松方正義内閣を成立せしめ、第4代日銀総裁に就任、金本位制への移行などを主導して名総裁と讃えられる業績を残した。
- 岩崎弥之助は、生来素直で温厚沈着な性格で、豪放磊落で敵の多い兄弥太郎とは対照的だった。三菱を継いだ弥之助は、海運業に特化した弥太郎路線を断念して鉱山、造船、不動産、銀行など多角化戦略に切替え、大隈重信への肩入れが過ぎて薩長閥に潰された弥太郎を反面教師に政界で全方位外交を展開した。大隈重信の進歩党を支援しつつ、岳父の後藤象二郎と自由党を応援し、さらに松方正義の次男松方正作に娘繁子を嫁がせて薩摩閥にも食込んだ。また、東大法学部出のエリート外務官僚加藤高明や幣原喜重郎を青田買いし、それぞれに弥太郎の娘を嫁がせるなど、長期的戦略で政界への三菱勢力の扶植に努めた。三菱合資会社のトップを岩崎久弥に禅譲した後は政界活動に本腰を入れ、大隈重信と松方正義の間を取り持って第二次松方正義内閣を成立せしめ、岩崎弥之助自身も三菱の盟友川田小一郎に代わって第4代日銀総裁に就任した。日銀総裁としては、日清戦争で獲得した賠償金(ポンド建て受取)を原資に金本位制への移行を断行したほか、中小銀行の統廃合、担保品付手形割引の廃止、日銀の個人取引開始、初の金融市場操作などを実施、後に名総裁と讃えられる業績を残した。日露戦争では、三菱財閥のドンとしては必然だろうが、強硬な開戦論を唱え、対外硬派を後押しした。
- 加藤高明は、東大法学部を主席で卒業したが薩長藩閥政府を嫌気して官僚に進まず三菱に入社、すぐにイギリス遊学に出され5年後に帰国すると岩崎春治の婿に迎えられた。舅の「海運王」岩崎弥太郎が共同運輸会社との死闘の最中に憤死し、弟の岩崎弥之助が海運業から撤退し三菱社を立上げたばかりであった。薩長藩閥に敗れた岩崎弥之助は政官界への勢力扶植を図り、加藤高明は外遊中に知遇を得た陸奥宗光の勧めで外務省に出仕し大隈重信外相(三菱系)の秘書官となった。第二次伊藤博文内閣が陸奥宗光を外相に抜擢すると、加藤高明も駐英公使に抜擢され不平等条約改正と日清戦争に奔命、陸奥は病没したが第四次伊藤内閣に外相で初入閣した。日清戦争講和で加藤高明は「対外硬」の本領を現し、親分の伊藤博文・陸奥宗光を相手に山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開している。日露開戦が迫ると加藤高明は桂太郎内閣を弱腰と非難し最強硬に開戦を主張、不戦論の伊藤博文とは対極の立場となったが巧みに立回って関係を維持し、講和交渉が始まると無茶な要求で妨害、新聞に煽られた民衆は暴徒化し日比谷焼打事件を起した。既に強大な三菱に加藤高明の助勢など不要だったが、日清・日露戦争は三菱ら財閥を大いに潤した。なお、桂太郎内閣発足に伴い外相を退いた加藤高明は、第7回総選挙は高知県・第8回は横浜市から出馬し1年余だが衆議院議員を務めている。三菱ファミリーの加藤高明は政治資金に飢えた政党連にモテモテだったが、公認を断った政友会には恨まれ大御所の板垣退助から公開絶縁状を叩きつけられた。横浜市で「金権選挙」と攻撃された加藤高明はまさかの落選、次点繰上げで議員ポストは得たものの世論と新聞の威力を痛感し、岩崎弥之助に頼んで東京日日新聞(毎日新聞)を買収し社長に就任した。英紙『タイムズ』を模倣するだけの新聞経営は大赤字で行詰ったが、加藤高明は外交問題の論説を受持ち対外硬政策を喧伝、ポーツマス会議が始まると「償金とサハリン割譲をロシアに認めさせろ、戦闘を再開しても要求を貫徹せよ」と煽り「軟弱外交は失敗だった」と決め付けた。
- 東大法学部を主席で卒業した加藤高明は、岩崎弥之助に青田買いされ岩崎弥太郎の長女春治と結婚し三菱社員となったが、陸奥宗光外相の引きで外務官僚に転じ駐英公使・大使として日清戦争と条約改正に奔走、第四次伊藤博文内閣に外相で初入閣した。「対外硬」急先鋒の加藤高明は桂太郎内閣の日露戦争講和を「軟弱外交は失敗した」と攻撃し世論を扇動、国際関係の悪化を招き西園寺公望内閣で外相辞任に追込まれたが、なんと桂太郎に鞍替えして外相に返咲き、第二次大隈重信内閣の第一次世界大戦参戦と「対華21カ条要求」で主導的役割を果した。国際常識を無視した対華21カ条要求の暴挙は、当然ながら列強に圧殺され国内向けパフォーマンスに終始したが、日中戦争泥沼化と今日まで続く「反日」の元凶となり末代まで禍根を残した。加藤高明は伊藤博文・陸奥宗光に属したが、政友会総裁を継いだ西園寺公望に対外硬を敬遠されると駐英大使・外相の餌に釣られ桂太郎に乗換え、桂の急死で打算が狂ったが桂の同志会(憲政会)を継ぎ反政友会政党の首領に納まった。西園寺公望が唯一の元老となり首相指名権を握ると「苦節十年」寝返りのツケを払わされたが、宿敵の政友会と合同して清浦奎吾の「超然主義内閣」を倒し念願の首相職を手に入れた(護憲三派による第二次護憲運動)。加藤高明は帝大卒・官僚出身の首相第一号、後継の若槻禮次郞が第二号である。外相ポスト欲しさに伊藤博文・大隈重信・桂太郎(山縣有朋)の間を浮遊し、首相ポスト欲しさに政友会と手を組んだ加藤高明の無節操はむしろ見事だが、金権政治が進むなか三菱の財力ゆえに不誠実が許されチヤホヤされ続けたとも言える。政権目当ての「護憲三派体制」はすぐに崩壊し2年後に加藤高明首相は急死、後継の若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣したが政友会との政権争い明け暮れ、政治ソッチノケの二大政党の対立抗争は政党政治の崩壊を招いた。なお、加藤内閣で成立した普通選挙法は原敬・犬養毅・尾崎行雄ら政党人の努力の結晶であり、加藤高明に個人として特筆すべき業績は無い。
- 三浦梧楼の斡旋で加藤高明(憲政会)・高橋是清(政友会)・犬養毅(革新倶楽部)が三浦邸に会し「護憲三派」が大同団結して清浦奎吾の「超然主義内閣」を打倒し政党内閣復活を期すことを盟約、第15回衆議院総選挙の護憲三派圧勝で清浦内閣は総辞職に追込まれ、第一党憲政会の加藤高明に組閣の大命が下された。政友会と並ぶ二大政党に発展した憲政会の加藤高明は桂太郎から同志会を継いで以来首相指名を待ち侘びたが、キングメーカーの西園寺公望に敬遠され、漸く巡って来た高橋是清内閣退陣後のチャンスも政友会に潰されており(加藤友三郎内閣が発足)、「苦節十年」宿敵政友会と結んでまでの悲願達成であった。が、政権目当ての寄集めに過ぎない護憲三派体制は間もなく内部崩壊し憲政会の単独内閣となって不安定化した。組閣2年後、加藤高明首相は帝国議会の壇上で答弁中に倒れ、外相の幣原喜重郎(岩崎弥太郎の相婿)に抱えられ議場から退出、僅か一週間後に病没した。「憲政の常道」に従い与党憲政会を継いだ若槻禮次郞が組閣、以後も政友会との泥仕合は続き田中義一・濱口雄幸・第二次若槻・犬養毅と政権交代を繰返したが五・一五事件で政党内閣は終焉を迎えた。
- 東大法学部を3番で卒業した濱口雄幸は、大蔵省へ進み次官候補と目されたが上司に楯突き左遷、4年のドサ回りを経て大蔵本省に戻されたが次官コースからは脱落した。が、後藤新平(初代満鉄総裁)との邂逅で開運、10倍の高給で誘われた満鉄入りは謝辞したが、第三次桂太郎内閣で同期の勝田主計が大蔵次官となり未練を断って後藤逓信相の勧めで逓信次官に転出した。桂内閣退陣後、後藤新平に殉じ退官した濱口雄幸は衆議院議員となり桂太郎の同志会に加盟、後藤は寄合世帯の内輪揉めを嫌気し脱退したが、濱口は残って地味な党務を粛々とこなし加藤高明総理の信任を得て第二次大隈重信内閣(与党同志会)で念願の大蔵次官ポストを与えられた。大隈内閣退陣後、加藤高明と西園寺公望元老の確執により憲政会は二大政党ながら閣僚を出せず雌伏したが、「苦節10年」を経て加藤が組閣を果たすと腹心の濱口雄幸は蔵相に就き東大同期で親友の幣原喜重郎外相と共に緊縮財政と軍縮を牽引、続く第一次若槻禮次郞内閣で次席の内相に上った。政友会の田中義一に政権を奪われた憲政会は政友本党と合同し民政党が発足、民政党は2年余で政権奪還を果し総裁の濱口雄幸が組閣し井上準之助蔵相の金解禁と幣原喜重郎外相の幣原外交(国際協調・軍縮)を目玉に掲げた。濱口雄幸首相は世界恐慌の渦中に金解禁を断行したがデフレ不況が深刻化し財閥が大儲けしただけ、決然とロンドン海軍軍縮条約を成立させ「ライオン宰相」(容貌も似ていた)と呼ばれたが根回し不足が「統帥権干犯問題」を招来、張作霖爆殺事件の究明と陸軍の弾劾を怠った。海軍・政友会の猛攻のなか銃撃事件で重傷を負った濱口雄幸は無念の首相降板、間もなく落命した。政党内閣の例に漏れず濱口雄幸内閣も散々だったが、「対華21カ条要求」の大隈重信と加藤高明、満州事変を不問にした若槻禮次郞、政友会では利権追求と軍閥妥協の原敬、元来財政家で政治に疎い高橋是清、老政治屋に過ぎない犬養毅と比べてみると、政治理想を貫いただけ上等といえるだろう(濱口雄幸と小泉純一郎を重ねる人もあるが)。
- 濱口雄幸は土佐人初の首相だが、板垣退助・自由党の系譜を継ぐ政友会には所属せず、敵対する「二大政党」民政党の総裁として組閣した。濱口雄幸(旧姓は水口)が婿入りした濱口家は岩崎弥太郎と同じ土佐安芸郡の土豪で三菱との関係が深く、帝大入学時の身元引受人は三菱理事の木村久寿弥太に頼んだ。大蔵省を退官した濱口雄幸は親分の後藤新平(長州系)に随って桂太郎の同志会に入党し高知2区から衆議院議員に初当選(死まで議席保持)、同志会(→憲政会→民政党)を継いだ加藤高明の腹心となり勢力を伸ばした。加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸内閣の外相で対中不干渉・対英米協調の「幣原外交」を展開した幣原喜重郎は、加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿、濱口とは東大法学部同期の親友であった。
- 濱口雄幸首相が、東京駅で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃された。愛国社の岩田愛之助の教唆で犯行に及んだ佐郷屋留雄は犯行理由を「統帥権干犯」としつつも警察官に「統帥権干犯とは何ぞや」と訊かれると答えられなかった。病院へ搬送中の濱口雄幸が潔い態度で「男子の本懐」と語ったことが新聞で話題となり、後に城山三郎は『男子の本懐』のタイトルで濱口雄幸の伝記を書いた。重傷を負った濱口雄幸は職務続行が困難となって翌年首相を辞任、その4ヵ月後に亡くなった。外相の幣原喜重郎が116日間も首相代理を勤めた後、若槻禮次郞が民政党内閣を引継ぎ第二次内閣を組閣した。
- 東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。
- 重光葵は「ラストサムライ」の呼称が最も相応しい硬骨漢、冷静な国際情勢分析により日本の針路を模索し「長いものに巻かれる」ことなく命懸けでエリート官僚の矜持を貫いた。軍国主義一色の時勢のなか、重光葵は朝鮮人の爆弾テロで右脚切断の重傷を負い陸軍の田中隆吉に暗殺されかかったが、平和的日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け、外相として小磯國昭の陸軍内閣を打倒した。第二次大戦後、再び外相に就いた重光葵は皆が嫌がる降伏文書調印を堂々と引受け、日本国中がGHQへの追従に染まるなか不条理な米軍占領統治に抵抗、鳩山一郎内閣で外相に返咲き日ソ国交回復および国際連合加盟を果したが、1ヶ月後に謎の発病で落命した。戦前は各期10人前後の狭い世界で陸奥宗光・小村寿太郎・幣原喜重郎・松岡洋右・吉田茂と主導者が変遷した外交官サークルにおいては、外交官試験主席合格の重光葵は有田八郎・堀内謙介らと「革新同志会」を立上げ外務省改革を提唱、満州事変で「幣原外交」が瓦解した後も要路に留まり広田弘毅・松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら軍部迎合派への対抗軸として大使・外相を歴任した。壊滅的敗戦にも絶望しない重光葵は外務省同期の芦田均と共に、対中強硬の「大陸派」から反戦の「親米派」へ鞍替えし戦後GHQの走狗と化した吉田茂と鋭く対立、吉田の従米路線(保守本流)に対抗し憲法改正・再軍備・自主外交のレールを敷いた。戦前戦後を通じ時流に逆行し続けた重光葵に大仕事の出番は回って来なかったが、信念と反骨の生き様自体が見事で日本人が範とすべき偉材であった。右翼のドンで田中角栄を歯牙に掛けなかった笹川良一は、巣鴨プリズンで重光葵に心酔し「真に男が男として惚れきれるのが重光葵の真骨頂であった。腕も度胸も兼ね備わったこんな人にこそ救国の大業を託すべきではあるまいか」と絶賛したが、統治者アメリカも日本大衆も国士を望んではいなかった。
- 関東軍は満州を支配する奉天軍閥の張作霖を傀儡に満州支配の機を窺っていた。張作霖は元来馬賊の一頭目で、日露戦争時にロシアの対日スパイ工作に従事(遼河右岸新民屯営長)、日本軍に逮捕され死刑宣告を受けたが、井戸川辰三軍政署長と田中義一参謀が生かして利用した方が得策と児玉源太郎参謀総長を説得した。日本軍の援助を得た張作霖は一躍満州の支配者となり、大元帥を僭称して華北を襲い安徽派・直隷派の北洋軍閥から北京政府を奪取したが、増長し自立の色を立てたため日本軍に見放され、蒋介石の北伐軍が北京に迫ると忽ち奉天へ逃避した。陸軍中央では再び張作霖を援助し国民政府軍と対決すべしとの意見もあったが、傀儡の張を捨て満州の直接支配を期す方針に決定、我が意を得た関東軍の河本大作高級参謀らは奉天へ向かう列車を爆破し張を殺害した(張作霖爆殺事件)。永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚および一部陸軍首脳の組織的犯行であったと考えられる。関東軍は中国人アヘン中毒者の仕業と偽る隠蔽工作を施したが内地ではすぐに真相発覚、西園寺公望元老も知るところとなり、昭和天皇は事件の究明を強く求めたが、西園寺は陸軍の脅迫で脱落し、張作霖の黒幕にして陸軍長州閥首領の田中義一首相は軍法会議を図るも配下にも裏切られ内閣総辞職でお茶を濁した。昭和天皇に叱責された田中義一は間もなくショック死し(自殺説あり)、政友会は74歳の犬養毅を後継総裁に担出した。以後、昭和天皇は政府への口出しを控え、統帥権の監視を担わされた西園寺公望ら天皇側近は「君側の奸」と敵視されることとなる。陸軍首脳の自制で張作霖爆殺事件は不拡大に終わり一夕会系幕僚の野望は挫折したが、続く濱口雄幸内閣も事件究明を怠り、結果として統帥権違反の重罪を追認したことが満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争拡大へ続く軍部暴走の呼び水となった。なお軍法会議を免れた河本大作は、軍役から外されたものの陸軍の引きで満鉄理事・満州炭鉱理事長に納まっている。
- 「張作霖爆殺事件」当時、対中国政策を巡り3つの構想が対立していた。第一は田中義一政友会内閣の「蒋介石の国民政府による中国本土統治を容認するが、中華の枠外にある満蒙については張作霖の奉天軍閥を用いて権益を確保すべし」とする「満蒙特殊地域論」、第二は幣原喜重郎や濱口雄幸ら民政党の「協調外交」路線で「満蒙を含む中国全土の国民政府による統一を容認し、日中友好に基づく経済交流の拡大により利益を得べし」と唱えた。第三は関東軍首脳の「増長した張作霖を排除して満蒙に親日政権を樹立し、国民政府からの分離独立を強行すべし」という強硬路線で、実際に関東軍高級参謀の河本大作らが張作霖爆殺事件を引起したが、昭和天皇と西園寺公望ら重臣が不拡大方針を貫いたため打上花火で終わった。これに対し「木曜会」(永田鉄山らの一夕会に合流)の石原莞爾は「傀儡政権などの過渡的措置は不要で満蒙を領有(直接統治)すべし」と更に強硬な「満蒙領有方針」を主張した。陸軍一夕会幕僚らは張作霖爆殺事件の反省を踏まえ参謀本部など陸軍中央への根回しとマスコミの抱込みを図り、関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが「柳条湖事件」を決行、若槻禮次郞内閣が事後承認したため「満州事変」へ拡大し張学良(張作霖の嫡子)軍を掃討して満州全域を軍事制圧した。「満蒙領有」には至らなかったものの、石原莞爾・板垣征四郎らは若槻禮次郞内閣から「満州独立方針」を引出し傀儡国家「満州国」を樹立した。
- 張作霖爆殺事件の処理を巡り昭和天皇に叱責されて内閣総辞職に追込まれ直後にショック死(自殺説あり)を遂げた田中義一に代わって、民政党の濱口雄幸が組閣した。濱口内閣の目玉は井上準之助蔵相の金解禁と幣原喜重郎外相の軍縮で、特に金解禁には濱口首相も執念を燃やした。
- 1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。
- 金融恐慌により一層の軍縮要請が高まった列強各国は、ロンドン海軍軍縮条約を締結した。ワシントン海軍軍縮条約で決定した主力艦(戦艦・空母)の保有制限に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)や潜水艦の縮小均衡が決議された。日本の軍縮外交をリードしたのは濱口雄幸内閣で国際協調(幣原外交)を推進する幣原喜重郎外相で、首席全権の若槻禮次郞と主席海軍代表の財部彪海相が表に立った。日本は、補助艦は対米英7割・潜水艦は現状7万8千トンの確保を方針に交渉に臨んだが、やや妥協して重巡洋艦は対米英6割・但し補助艦全体の総トン数は対米英69.75%で合意に漕ぎ着け調印した。なお、海軍きっての知米派で後に条約派(良識派)の中心となる山本五十六は次席随員を務めたが、このときは対米妥協に猛反対し若槻禮次郞をてこずらせた。このため山本五十六は海軍内で艦隊派と目され、この後に起る粛清人事を免れた。さて国内では、ロンドン海軍軍縮条約の批准に際し、東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ出した軍令部の加藤寛治総長・末次信正次長ら海軍強硬派(艦隊派)と、民政党内閣打倒を目指す政友会の犬養毅・鳩山一郎らが結託し、海軍軍令部の意に反する条約は天皇の統帥権を侵すとして、濱口雄幸首相・幣原喜重郎外相と海軍省の良識派幕僚(条約派)を攻撃した(統帥権干犯問題)。うやむやのうちに条約は批准され、喧嘩両成敗で財部彪・加藤寛治はじめ両派の首脳が辞任に追込まれたが、東郷平八郎・伏見宮博恭王を擁する艦隊派が主導権を握り、国際情勢に明るい良識派の多くが要職を追われ海軍が対米強硬へ傾く転換点となった。この後「統帥権」は軍部大臣現役武官制と並ぶ軍部専横の切札となったが、もともと右翼の北一輝(二・二六事件の黒幕)が唱えた理屈を鳩山一郎らが政争の具に持出したもので、政党が軍部に「魔法の杖」を与える皮肉な結果を招いた。米内光政・井上成美・山本五十六ら良識派は頑強に抵抗したが艦隊派の優勢は揺るがず、6年後に広田弘毅内閣はワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の廃棄を断行した。
- 濱口雄幸首相が、東京駅で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃された。愛国社の岩田愛之助の教唆で犯行に及んだ佐郷屋留雄は犯行理由を「統帥権干犯」としつつも警察官に「統帥権干犯とは何ぞや」と訊かれると答えられなかった。病院へ搬送中の濱口雄幸が潔い態度で「男子の本懐」と語ったことが新聞で話題となり、後に城山三郎は『男子の本懐』のタイトルで濱口雄幸の伝記を書いた。重傷を負った濱口雄幸は職務続行が困難となって翌年首相を辞任、その4ヵ月後に亡くなった。外相の幣原喜重郎が116日間も首相代理を勤めた後、若槻禮次郞が民政党内閣を引継ぎ第二次内閣を組閣した。
- 濱口雄幸首相銃撃事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの背景には、軍部における下克上の風潮に加え、世界恐慌後長引く不況と金解禁等政府の失策に対する民衆の憤りがあった。デフレ不況で農村の窮迫が深刻の度合いを深める中、政府は有効な手立てを講じることができず、濱口雄幸内閣に至っては時機を誤った金解禁で不況を悪化させたうえに財閥に巨富をもたらす結果を招いた。何時の時代でも不況の打開策で最も手っ取り早いのは戦争であり、ジャーナリズムの扇動もあって、世論は好戦ムード一色となり軍部への期待が高まった。兵卒の大多数は農村出身者であり、彼らの悩みに直に接する隊付青年将校達は最も敏感に反応し井上日召・北一輝・西田貢ら民間右翼の思想に共鳴、グループを結成して急進的な「国家改造」を企てた。方や陸軍上層部では、下克上で実権を掌握した中堅幕僚グループ・一夕会が、永田鉄山率いる統制派と真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎らの皇道派に別れて対立を深めていた。隊付青年将校グループは、思想信条が近い皇道派と結びつき、武力クーデターによって「君側の奸」を排除し真崎・荒木を首班とする軍部主導内閣を打ち立てて一気に「国家改造」を果たそうとした。こうした事情のもとに行われた隊付青年将校グループと民間右翼によるテロは、金解禁を実施した濱口雄幸と井上準之助、金解禁で儲けた三井の団琢磨を殺害した後、犬養毅を斃して政党政治を葬り、二・二六事件でピークに達した。二・二六事件は、統制派の林銑十郎陸相・永田鉄山軍務局長により陸軍中枢から追われつつあった皇道派の起死回生の反撃という意味合いもあり、1500人もの反乱軍による一大内乱事件に発展した。結局、二・二六事件は昭和天皇の英断により断固鎮圧され、陸軍中央では皇道派幕僚が完全に閉め出され、一夕会・非皇道派の石原莞爾、続いて武藤章・東條英機ら統制派の天下となった。
- 満州問題武力解決を強行する陸軍の謀略を知った昭和天皇と元老西園寺公望は南次郎陸相を呼びつけ停止を厳命、腰砕けとなった南は金谷範三参謀総長に相談のうえ止め役として建川美次作戦部長を満州へ派遣した。これを知った関東軍の石原莞爾作戦参謀・板垣征四郎高級参謀らは決行か中止かで大いに迷ったが、三谷清憲兵分隊長・今田新太郎駐在分隊長ら若手の強硬派に押され遂に実行を決意した。奉天に到着した建川美次を料亭菊文に招いて酒豪の板垣征四郎らが酔潰している間に、今田新太郎ら実行部隊は奉天郊外の柳条湖付近で鉄道を爆破した(柳条湖事件)。満鉄の鉄道爆破は、関東軍条例第三条に基づく合法的軍事出動の理由を得るためであった。菊文を飛出した板垣征四郎は張学良軍の先制攻撃と断じて奉天守備隊長らに奉天城・北大営の攻撃を命令、旅順の関東軍司令部では石原莞爾が本庄繁司令官を説伏せ関東軍を奉天へ進発させた。奉天作戦に続くハルビン侵攻を期す石原莞爾は、張学良軍が奉天周辺だけで2万・満州全土で25万もいるのに対し関東軍は1万余という戦力不足を補うため、朝鮮駐留軍の越境増援を画策し朝鮮軍作戦参謀の神田正種の内諾を得ていた。が、奉天で待っていたのは金谷参謀総長からの不拡大方針決定を伝える電報であり、本庄繁司令官は翻意して即時停戦を命じ「ハルビン侵攻などもってのほか」とした。が、諦めない石原莞爾らは「ハルビンが駄目なら吉林省」と侵攻作戦を書き直し本庄司令官に談判した。「沢庵石」の異名をとる本庄繁は撥ね付けたが板垣征四郎の強談判に屈し、石原莞爾参謀は戦線を満州全域へ拡大、林銑十郎司令官の独断で朝鮮駐留軍も越境来援し日本軍は瞬く間に張学良軍を掃討し満州全域を制圧した(満州事変)。このとき本庄繁が頑として拒否を貫いていれば、張作霖爆殺事件と同様に満州事変は忽ち沈静化し石原莞爾・一夕会の大陸浸出の野望も挫折した可能性が高い。
- 石原莞爾関東軍作戦参謀と示し合わせていた神田正種朝鮮軍作戦参謀は、満州事変が起ると、朝鮮軍を率いて国境線の鴨緑江まで進んで待機した。金谷範三参謀総長は昭和天皇に朝鮮軍の越境出動を奏上したが、頑なに拒絶された。ところが、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で出動命令を下し、1万人以上の兵員を満州に進発させた。大元帥である天皇の命令なくして軍隊を動かすことは大犯罪であり、軍法会議で死刑になる決まりであった。慌てた陸軍首脳はこれを閣議に持ち込み、武力解決反対の若槻禮次郞首相や幣原喜重郎外相らは南次郎陸相を吊るし上げたが、林銑十郎司令官の越境朝鮮軍が既に満州に入ったとの報を聞くと若槻首相は「それならば仕方ないじゃないか」と一転、林司令官の行動の追認を閣議決定したばかりか、軍事費の特別予算拠出を決定、軍事予算急拡大の端緒を開いた。天皇の意思は無視されたわけだが、閣議決定には異を唱えない慣例のため、やむなく天皇も認可した。なお、新聞各紙は、林司令官を「越境将軍」などと持ち上げて犯罪行為を擁護した。
- 対外硬派の松岡洋右外相(元満鉄副総裁)の演説を契機に「満蒙は日本の生命線である」とする論調が活発化し、マスコミが煽ったため世論は「満蒙生命線論」に染まった。「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は日本の生命線である」という分り易いキャッチは瞬く間に国民を捕え、後に親米派に転じる吉田茂(奉天総領事)なども「満蒙の支配なくして経済的な繁栄も政治的な解決もない」と歓迎する有様だった。当時の弱肉強食の国際情勢からすると、戦線を満州に留める限り、合理的且つ現実的な方向性ではあったが、過剰な世論の後押しは永田鉄山・石原莞爾ら陸軍幕僚に決起を促す重要な支援材料となり、新聞記者は陸軍の接待攻勢に進んで抱込まれた。そして関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎が柳条湖事件を起し満州事変が勃発すると、当時ダントツの部数を誇った朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞)など新聞各紙は陸軍礼賛一色となり、新聞に煽られた世論は好戦ムードに染まった。新聞各紙は号外連発で民衆を煽り、巨費を投じた戦争報道で大きく部数を伸ばし、味をしめて完全に陸軍の宣伝機関に堕した。また、満州事変への関心の高まりはラジオの普及も促進し、約65万人だった契約者数は半年後に105万人を突破した。この後、勇ましい戦争記事を載せないと他紙に部数を奪われるという自縄自縛に陥った新聞業界は終戦まで軍部礼賛を継続、「社会の木鐸」の使命を放棄したマスコミは日本国民を破滅へ誘う笛吹童子となった。
- 若槻禮次郞内閣の満州事変不拡大方針を不服とする橋本欣五郎(陸士23期)陸軍中佐ら「桜会」が、北一輝・西田悦・大川周明ら民間右翼と結託し東京で武装クーデター未遂事件を起した(十月事件)。桜会は同年3月にも「国家改造」を企てたが、非合法手段を認めない「一夕会」の永田鉄山・岡村寧次(16期)らの反対で首相に担ぐべき宇垣一成陸相に逃げられ失敗していた(三月事件)。捲土重来を期す橋本欣五郎は、親友の石原莞爾(21期)が起した満州事変に呼応し、若槻禮次郞首相・幣原喜重郎外相以下の政府要人を暗殺し荒木貞夫陸軍中将の組閣大命を得て軍事政権を樹立する、という陸軍史上最大級のクーデターを企てた。が、「宴会派」といわれた桜会の計画は永田鉄山が「たとえこころざしは諒とされても、こんな案で大事を決行しようと考えた頭脳の幼稚さは、驚き入る」ほど杜撰なもので、忽ち陸軍中央に発覚し首謀者は憲兵隊に一斉検挙された。永田鉄山は橋本欣五郎の極刑を主張したが、荒木貞夫・石原莞爾らの擁護論が通り内々に重謹慎二十日の軽処分で済まされ、陸軍は又も悪しき前例を積重ねた。処分を免れた大川周明は血盟団事件で團琢磨と井上準之助を暗殺し、北一輝・西田悦は陸軍青年将校を扇動し二・二六事件を引起すことになる。橋本欣五郎は反乱将校を擁護し予備役へ回されたが、日中戦争で軍務に復帰し、近衛文麿首相の新体制運動に加盟し翼賛選挙で衆議院議員となった。
- 第二次若槻禮次郞内閣は8ヶ月の短命に終わったが、在任の1931年は極めて重大な年であり、切所に政権を担った若槻首相は重大な失策を犯した。組閣後すぐに柳条湖事件が起り満州事変へ拡大、若槻禮次郞内閣は「不拡大方針」を決定し南次郎陸相を突上げたが、林銑十郎司令官の朝鮮軍が越境満州に入ったと聞くと「それならば仕方ないじゃないか」とあっさり追従、満州事変と「越境将軍」の追認を閣議決定したばかりか、戦費の特別予算編成を示唆し軍事予算急拡大を規定路線化した。柳条湖事件ではオッカナビックリだった石原莞爾らは勇気百倍し「満蒙問題解決案」を策定、帰国した板垣征四郎が優柔不断な陸軍首脳を説伏せ若槻禮次郞内閣は「満州国建国方針」を承認、軍部暴走を運命付けた決定的瞬間であった。天皇の「統帥権」を侵した石原莞爾・板垣征四郎・林銑十郎らは軍法会議で極刑に相当する重罪犯だったが、若槻禮次郞内閣の事後承諾で逆に評価される立場となり処罰どころか陸軍中枢への道を歩んだ。金解禁が不況に拍車をかけるなか井上準之助蔵相は金輸出再禁止を拒み続け、満州事変処理で機能停止に陥った民政党内閣は閣内不一致となり若槻禮次郞は首相を投出した。加藤高明内閣より憲政会・民政党政権の外相として対英米協調・対中国不干渉を主導してきた幣原喜重郎(加藤と同じく岩崎弥太郎の娘婿)は政界を去り「幣原外交」は終焉、日本外交の主導権は軍部および松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫ら強硬派へ移った。政友会が政権を奪回したが、五・一五事件で犬養毅首相が斃され政党内閣は命脈を絶たれた。右翼やマスコミの軍部礼賛が盛上るなか、石原莞爾らは清朝の溥儀を担出し傀儡満州国を建国、松岡洋右全権が国連脱退のパフォーマンスを演じ日本の孤立化が始まった。民政党総裁を町田忠治に譲った若槻禮次郞は重臣会議に列し、米内光政・岡田啓介らの平和穏健路線を支持した。第二次大戦後、東京裁判検事のジョセフ・キーナンは岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞・宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と持上げたが、実際の若槻は身を挺して国難にあたったわけでなく東條英機内閣打倒に一票を投じたに過ぎない。
- ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。
- 満州事変を成功させた関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、満州から欧米列強の関心を逸らすべく各国の租界が集中する上海で武力衝突事件を発生させた(第一次上海事変)。上海日本公使館付き陸軍武官の田中隆吉中佐が現地で謀略工作を担当、田中は石原莞爾から約2万円の工作費を受取り、「東洋のマタ・ハリ」といわれた愛人の川島芳子などを使い「反日分子」に偽装させた不逞中国人に上海市街を托鉢中の日本人僧侶一行5人を襲撃させ、うち2人が死亡する事件を引起した。上海駐在の日本軍は満州に続けとばかりに国民政府の十九路軍に迫り、両軍が発砲して大規模武力衝突に発展した。陸軍中央は犬養毅内閣を強迫して白川義則司令官の二個師団・約3万人の日本軍を上海に送込み、瞬く間に十九路軍を撃退した。「華北分離」を期す武藤章・東條英機ら統制派幕僚は蒋介石の拠る南京まで攻込むべしと主張したが、昭和天皇から不拡大の厳命を受けた白川義則司令官は決然と停戦命令を下し上海事変を終息させた。なお曲者の田中隆吉は、終戦後の東京裁判に際し虚実取り混ぜた陸軍の非道をGHQに暴露し「陸軍の裏切り者」と憎まれ、「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と憤激した武藤章は現実に無念の極刑へ追込まれた。さて、米英の干渉で上海事変の停戦講和がまとまり、吉日(昭和天皇誕生日・天長節)を選んで上海北部の公園で調印式が執り行われたが、祝宴の最中、朝鮮人尹奉吉が手榴弾を投込むテロを起し、白川義則司令官ほか1名が死亡、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将(ハル・ノートで有名)・植田謙吉中将・村井倉松総領事らが重傷を負う大惨事となった(上海天長節爆弾事件)。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であり、伊藤博文暗殺と同様に反日原理主義者のテロが逆効果を招く皮肉が繰返された。なお韓国併合後、日本による朝鮮国家建設と民生向上に伴い反日運動は終息、金九ら少数の反日原理主義者は上海に逃避するも相変わらず内ゲバに明け暮れ、後に韓国初代大統領となる李承晩は政争に敗れ欧米へ逃避中だった。
- 満州事変当時の中国では、南京に拠る蒋介石の国民政府(国民党)が最有力ではあったが、分派した汪兆銘が広東政府を建てて国民政府に反抗、共産党勢力も勃興しつつあり、内戦乱麻は関東軍の石原莞爾らに付込む隙を与えた。そもそも漢民族にとって万里の長城外の満州は「化外の地」で自国意識は低く、蒋介石は共産党・赤軍征伐を最優先し満州事変を黙殺するスタンスをとっていた。また、欧米列強も満州に重要な権益を持たないため、満州に留まる限り日本との決定的対立は生じない状況であった。さらに事変以前に満州を支配した奉天軍閥の張学良も決戦を回避したため、若槻禮次郞内閣のお墨付を得た日本軍は寡兵をもって快進撃を続け、半年経たないうちに満州全域の制圧に成功した。満州事変首謀者の石原莞爾は「陸軍一の天才」と称されたが、ここまでの情勢推移を読んでいたとしたら凄い。
- 「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次郞内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次郞内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。
- 国際連盟が満州情勢調査のために派遣したリットン調査団は、3ヶ月間の調査を経て報告書を提出した。リットン報告書は、満州の特殊事情に配慮した中立的な内容であり、満州国承認を求める日本の主張は否認したものの、蒋介石政府の原状回復要求も現実的でないと退け、通商条約締結による和解を日中両国に勧告する公正なものであった。が、国際連盟事務局は満州国の分離独立を否認し日本軍は従来の満鉄守備区域まで撤退せよという「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」をジュネーブ特別総会に提出、採択の結果反対は日本のみ、賛成42票の圧倒的多数で日本軍の満州撤退勧告が決議された。リットン報告書から大幅に中国寄りへ傾いた背景には、中国権益保全のため国民政府を援助する英米の策動があったものと考えられる。国際連盟総会に出席した松岡洋右全権(元外交官・満鉄総裁の衆議院議員)は「さよなら」の捨て台詞を残し日本外交は議場を退場し、斎藤実内閣は国際連盟に脱会を通告した。松岡洋右の対外硬パフォーマンスは日本の孤立と不協調を印象付ける暴挙であったが、国際連盟は今日の国際連合以上に無力で発起人のアメリカは議会の否決で参加せず、ソ連も不参加、ブラジルは7年も前に脱退し、ドイツとイタリアも日本に続いた。また直後に日中間で「塘沽停戦協定」が成立しており(日本側代表は永田鉄山の盟友で関東軍参謀副長の岡村寧次)、満州事変・国際連盟脱退から一直線に日中戦争へ突き進んだわけではない(「十五年戦争」は正確ではない)。とはいえ、さすがの松岡洋右もスタンドプレーの失敗を認めアメリカに身をかわし帰国を逡巡していたが、ジャーナリズムも世論も歓迎一色と知り勇躍凱旋、「栄光ある孤立」「ジュネーブの英雄」と持て囃され一層ファシスト化した。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。
- 大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。
- 二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。
- 広田弘毅の人脈は地元福岡の右翼結社「玄洋社」に連なる。広田弘毅は修猷館で勉学に励みつつ明道館で柔道に打込み初段を取得、「嘉納治五郎の四天王」で師範の横山作次郎は「広田は柔道で食っていける」と期待した。広田弘毅は明道館を経営する玄洋社に加盟し、幹部らは文武両道の少年に目を掛けた。平岡浩太郎は東京進学を希望する広田弘毅のために篤志家から金を募り提供、学資を得た広田は第一高等学校・東大法学部へ進み、内田良平の世話で講道館道場に入門、頭山満から副島種臣・山座円次郎・杉山茂丸らを紹介された。外務官僚の山座円次郎に兄事した広田弘毅は、学生ながら外務省嘱託手当を給され、官費で朝鮮・満州・シベリアへの軍事偵察旅行を経験、通訳や韓国統監府属官の職を与えられた。山座円次郎は、東大法学部を主席で卒業した対外硬派外務官僚の急先鋒で、小村寿太郎外相の腹心(政務局長)として日露開戦に奔命し宣戦布告文書を起草、ポーツマス講和会議にも出席した。山座円次郎は陸海軍将校と料亭で会合を重ね、日露戦争回避に奔走する伊藤博文を「あのような軟弱論者は斬ってしまえ」と放言したが、それを耳にした伊藤は小村と山座を料亭に呼出し床の間の日本刀を指差して「あれでわたしを斬ってみよ」と一喝し沈黙させた。伊藤博文は暗殺を企てた玄洋社の杉山茂丸も追返している。さて、東大を卒業した広田弘毅は二度目の外交官試験に受かり大蔵省に入省、山座円次郎は中国公使在任中に客死したが(袁世凱に毒殺されたとも)桂太郎ラインに属して累進し、英米勤務から欧州局長、オランダ公使、駐ソ連特命全権大使を経て斎藤実・岡田啓介内閣で外相に栄達した。同じ「大陸派」の吉田茂(同期)や松岡洋右(2年下)は外務省の傍流だが、広田弘毅は出世コースを邁進した(重光葵と白鳥敏夫は10年下)。外交官には財閥富豪の婿となり優雅な生活を楽しむ者が多く、加藤高明・幣原喜重郎(岩崎弥太郎の女婿)や吉田茂(牧野伸顕の女婿)は典型だが、広田弘毅に貴族趣味は無く加藤高明からの三菱令嬢の縁談を断って玄洋社幹部月成功太郎の娘静子を妻に選び、上司に阿らない飄々とした人柄は部下に慕われた。
- 4ヶ月で自滅した林銑十郎内閣の退陣を受け第一次近衛文麿内閣が発足、広田弘毅が外相に復帰した。五摂家筆頭でスマートな近衛文麿は昭和天皇・西園寺公望らに軍部抑制の切り札と期待され、反米英・現状打破の論客で陸軍と大衆にも受けが良く、早くから首相候補に擬せられていた。組閣後間もなく盧溝橋事件が発生、陸軍統制派の「中国一激論」に感化され中国の抵抗力を侮る近衛文麿首相・広田弘毅外相・米内光政海相は直ちに強硬姿勢を鮮明にし、武藤章・田中新一ら陸軍の「華北分離工作」に応じて朝鮮および満州から二個師団・日本から三個師団を華北戦線へ投入、日中戦争が始まった。日本軍は北京・天津・上海を攻略し(第二次上海事変)国民政府の首都南京を落とし武漢三鎮まで占領したが、補給線は限界に達し中国軍の逃避戦術で決定的勝利を収められず戦線は膠着した。国民に厭戦ムードが広がると近衛文麿内閣は「八紘一宇」「王道楽土」などと戦意高揚に腐心し、陸軍すら停戦へ傾くなかトラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」という第一次近衛声明で自ら講和の道を塞ぎ日中戦争を泥沼へ引きずりこんだ。さらに、陸軍統制派念願の国家総動員法で軍国主義化を決定付け、無謀な「東亜新秩序声明」で欧米を激しく挑発し日米通商航海条約破棄および蒋介石支援強化(援蒋ルート)を招来した。
- 強固な対米英協調主義者で三国同盟反対の姿勢を崩さない米内光政首相は、畑俊六陸相が辞任し陸軍が後任陸相選出を拒否したため軍部大臣現役武官制により倒閣に追込まれ、陸軍に受けの良い「亡国の貴公子」近衛文麿が第二次内閣を組閣した。近衛文麿自身は中国蔑視・反英米主義者ではあるものの確たる政治信念はなかったが、大島浩(後の駐独大使)・白鳥敏夫(後の駐伊大使)・徳富蘇峰・中野正剛・末次信正(海軍艦隊派)・久原房之助(後の大政翼賛会総務)ら親独・反英米の大物連を取巻きとしたため近衛内閣の使命は自ずから三国軍事同盟と国家総動員の新体制運動(大政翼賛会に結実)となった。近衛文麿首相は、外相に反英米派急先鋒の松岡洋右を復活させ、陸相には統制派最年長の東條英機を採用した。海相には対英米協調派の吉田善吾が留任したが、松岡洋右外相・陸軍のみならず海軍の艦隊派からも突上げられノイローゼとなって辞任、後任海相には及川古志郎が就任した。なお、財界から阪急・東宝グループを築いた小林一三が商工相で入閣したが、統制経済を牽引する商工次官の岸信介と衝突、企画院事件で共倒れとなった。小林一三は政治から手を引いたが、「革新官僚」岸信介は続く東條英機内閣で商工相に昇進した。
- 第二次近衛文麿内閣で外相に任じられ20年ぶりに外務省へ凱旋復帰した松岡洋右は、かつて傍流に甘んじた恨みを晴らすかのように公の場で外交官を罵倒し、爆弾テロで右脚切断の重傷を負った重光葵駐英大使を除く主要在外外交官40数名を更迭するなどエリートの一斉粛清を強行した。一方で松岡洋右外相は、「新外交」の旗手白鳥敏夫を外務省顧問に任じ大島浩や吉田茂を優遇するなど気脈を通じる強硬派を引上げて外務省中枢を固め、短慮な「積極外交」と独りよがりの「大東亜共栄圏」構想に邁進する体制を整えた。
- 第二次内閣を組閣した近衛文麿は、反米英の松岡洋右を外相・東條英機を陸相に据え、使命に掲げるナチス・ドイツとの同盟を強力に推し進めた。米内光政・山本五十六・井上成美ら海軍良識派に近い吉田善吾海相は反対したが海軍内でも岡敬純・石川信吾に突上げられノイローゼとなり辞任、後任海相の及川古志郎には陸軍が米内光政内閣を倒したように海相拒否で対抗する手もあったが、石川信吾・豊田貞次郎らの強迫でナアナアとなり、陸軍が出した海軍予算確保の餌に釣られた。直後の海軍首脳会議で連合艦隊司令長官の山本五十六は最後の抵抗を試みたが伏見宮博恭王元帥の「ここまできたら仕方がないね」の一声で勝負あり、皮肉にもバトル・オブ・ブリテンでドイツ軍が敗れた当日それを知らない日本海軍は同盟承認を最終決定した。かくして、陸軍は明治以来の仮想敵国ソ連の牽制、海軍は米英との建艦競争予算の確保、松岡洋右外相は首相就任に向けた大衆・軍部へのアピールと、三者三様の思惑を近衛文麿首相がまとめあげ日独伊三国同盟が成立したが、最強国アメリカを正面敵に回す痛恨事であった。最後の元老で近衛文麿を後継者にした西園寺公望は「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上では死ねないことになったよ。その覚悟を今からしておけよ」と側近に語り2ヵ月後に世を去った。アメリカは即座に報復し軍事物資などの経済封鎖を強化(ABCD包囲網)、石油が無ければ一日も軍艦を動かせない海軍は強硬派の岡敬純・石川信吾および海軍国防政策委員会の独壇場となり、田中新一ら陸軍反米派と提携し産油地獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐を強行した。陸海軍も近衛文麿内閣もアメリカは強攻策に出ないと信じたが甘い期待は裏切られ、対日開戦を決意したアメリカは石油輸出全面禁止を敢行、自分の首を絞めた日本は勝ち目の無い対米開戦へ追込まれた。万策尽きた近衛文麿が政権を投出すと、木戸公一内大臣は東條英機を後継首相に推挙し重臣会議(若槻禮次郞・岡田啓介・広田弘毅・林銑十郎・阿部信行・米内光政・原嘉道)は「天皇に忠実」という理由で最悪の人選を受入れた。
- 1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。
- アメリカ進駐軍の第一陣が日本上陸した当日、皇族の東久邇宮稔彦王首相は記者会見に応じ有名な「一億総懺悔」発言を行った。曰く「事ここに至ったのは、もちろん政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、国内団結の第一歩と信ずる。今日においてなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自らを慰めんとする如き、また激情にかられし事端をおおくするが如きことは、とうてい国運の恢弘を期する所以ではありません。一言一句ことごとく、天皇に絶対帰一し奉り、いやしくも過またざることこそ臣氏の本分であります」。「臣民全員が天皇に敗戦を詫びる」という東久邇宮稔彦王の思考こそが大日本帝国を狂わせた元凶であろうが、吉田茂内閣の従米路線のもと懺悔対象が「天皇」から「国際社会(民主的なアメリカ→マルクス主義の国際正義→迷惑をかけたアジア諸国)」にすり替って日本は自虐史観の国となり、また一億総懺悔で「戦争責任」は吹飛び日本人自身による開戦敗戦の原因究明も戦犯追及もないままに「戦後」が始まってしまった。なお東久邇宮稔彦王は、皇族の陸軍大将ゆえに戦後最初の暫定首相に担がれ2ヶ月足らずで退陣、1947年に皇籍離脱したが公職追放に遭難した。一般人となった「東久邇稔彦」は、新宿西口の闇市「青空マーケット」で食料品店・喫茶店・骨董品店などを開いたが事業は悉く失敗し、怪しい人脈に担がれ「ひがしくに教」を興すも世間を騒がせただけに終わった。岸信介への首相退陣要求や「東久邇紫香」との婚姻騒動など時たま世間を賑わせた東久邇稔彦は、なんと102歳の長寿を保ち1990年に大往生を遂げた。
- 東條英機逮捕でGHQの戦犯狩りが始まると、軍部・政財界・新聞各社はもとより日本国中が動揺の渦に包まれ、東久邇宮稔彦王首相・近衛文麿国務大臣を先頭に卑屈なGHQ詣でと浅ましい阿諛追従が横行した。対するアメリカは公然と「アメリカをよく理解し、進んでアメリカの対日政策に従っていこうという熱意ある人」以外を排除する方針を示し、従米派筆頭の吉田茂がGHQ参謀第2部長ウィロビーの手先となって戦犯指定や政府の人選に躍動した。一方、GHQに公平な統治を求める硬骨漢は極めて希で、その筆頭の重光葵外相は「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」といった無茶な要求の撤回には成功したものの、早くも9月17日に吉田茂への外相交代を強いられ、翌年A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄され東京裁判で禁固7年の有罪判決を受ける羽目となった。
- 戦犯狩りが始まり要人が挙って保身に奔るなか、重光葵外相は「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」と決死の覚悟でGHQに乗込み「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」という無茶な布告を撤回させたが、数日後に外相を罷免された。重光葵の後任外相に納まりGHQの占領政策を担った吉田茂は「外務大臣に任命されたとき、総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は『負けっぷりも、よくないといけない。鯉はまな板の上に乗せられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子で、負けっぷりをよくやってもらいたい』といわれた。この言葉はその後、私が占領軍と交渉するにあたっての、私を導く考え方であったかもしれない」と述懐している。重光葵の腹心で共に布告撤回に尽力した岡崎勝男は、勝ち馬の吉田茂へ乗換えて従米外交の担い手となり日米行政協定に暗躍、「第五福竜丸被爆事件」直後の日米協会のスピーチでは「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」などと暴言を吐いた。一方、GHQに危険視された重光葵は外相更迭の翌年東京裁判の獄に繋がれ禁固7年の有罪判決を受けた。『続 重光葵日記』に曰く「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか・・・節操もなく、自主性もない日本民族は、過去において中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ・・・はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。いかに気もちが変化しても、先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う」。
- GHQは民間検閲支隊を設置して徹底的な検閲を開始、1952年の占領終結まで継続された。検閲スタッフには「高度な教育のある日本人五千名」が高給で採用され、経費は日本政府から吸上げる「戦後処理費」でまかなわれた。吉田茂政権のもと日本人には秘匿されたため現在でもあまり知られていないが、GHQの言論統制は新聞・雑誌・書籍の事前検閲および発禁に止まらず、戦時中の憲兵隊さえ行わなかった個人の信書開封・翻訳を年間何千万通もの規模で行い、日本人全体の思考把握とコントロールを図るものであった。史上希にみる徹底的な言論統制の結果、発行停止を恐れる新聞各紙は「自主規制」に奔り、言論界・学会の隅々までアメリカ批判をタブー視する風潮が確立されていった。
- 米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。
- 当初アメリカは直接軍政を予定していたが、準備のための十分な時間がなく、また最小限の兵力とコストで日本の占領統治を行うべく間接統治へ切替えた。GHQ指令を日本政府が法令化する流れを基本としたが、緊急の場合は法令化を省略しGHQ指令を「ポツダム勅令」の名で直接公布する方式が採られた。中央政府廃止で国土を4分割され英米仏ソの各国軍司令官に直接統治されたドイツよりマシかも知れないが、間接統治とはいえ事実上の主権者はアメリカであり、日本を「保護国」とする認識は講和独立後も続き今日の米国政府でも公然と語られている。ヘソ(朕より上)と呼ばれたダグラス・マッカーサーは「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった・・・軍事占領というものは、どうしても一方はドレイ(奴隷)になり、他方はその主人の役を演じ始めるものだ」などと吹聴し、トルーマン米大統領は「日本は軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であり、一般人にすれば主人が占領軍に切替わっただけで新政権のもとに生計が保たれれば別にたいしたことではない」と痛いところを衝いている。GHQ内部では、反共主義者のチャールズ・ウィロビー部長率いる諜報・保安・検閲担当の参謀第2部(G2)と、社会主義にかぶれ極端な民主化政策を推進するホイットニー局長・ケーディス次長の民政局(GS)の対立が次第に深刻化した。G2は反共の吉田茂を支持し、GSは財閥解体・日本国憲法策定・労働組合育成など実験的政策を進めつつ社会党など革新陣営を支持し片山哲・芦田均内閣を成立させた。が、米ソ冷戦の激化に伴い日本統治でも反共路線が優勢となり、1948年以降GSは急速に力を失いGHQの主導権争いはG2の完勝で終結、吉田茂の長期政権が重光葵・鳩山一郎らの自主路線を封殺した。1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴いGHQは廃止され、日本を去ったマッカーサーはトルーマン大統領との政争に敗れ失脚、長すぎた吉田茂政権も漸く終焉を迎えたが、高度経済成長により従米路線が戦後日本の「保守本流」に定着した。
- 敗戦の混乱を鎮めるため公家の東久邇宮稔彦王が暫定組閣したが、親米政権を望むGHQの意を受けた吉田茂外相は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に擁立、GHQに楯突き外相交代を強いられた重光葵は「幣原喜重郎内閣は昭和二〇年一〇月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行った。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行った。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」と嘆いた。幣原喜重郎内閣は僅か半年の短命に終わったが、日本軍解体・五大改革指令・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQが命じる重要施策を次々と実行へ移した。国民国家はさておき天皇制存続を使命と考える幣原喜重郎は、昭和天皇に「人間宣言」を促し、自ら英訳してマッカーサーに国体護持を訴えた。憲法改定を迫られた幣原喜重郎は、天皇制に関わるだけにGHQ任せにはせず、憲法改定に延命を賭ける近衛文麿のスタンドプレーを排し、松本蒸治国務相を中心に「憲法問題調査会」を立上げ起草作業に着手した。GHQは「自主憲法」を容認する方針だったが、瑣末な修辞をいじくるばかりの「松本委員会」は抜本的改革案を出せず、業を煮やしたマッカーサーはケーディス民政局(GS)次長に草案策定を命じた。少人数のケーディス・チームが短時日で作成した「押付け憲法」であったが、幣原喜重郎首相は天皇の訴追免除と引換えに受諾を決断、「斯る憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。この案を発表すれば一部の者は喝采するであらうが、又一部の者は沈黙を守るであらうけれども心中深く吾々の態度に対して憤激するに違ひない。然し今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途はない。」と語り退陣した。後継の第一次吉田茂内閣が「日本国憲法」を成立させ、幣原喜重郎は衆議院議員となり芦田均の民主党で幹部に納まったが、田中角栄ら陣笠を引連れて吉田の自由党に合流し民主自由党が発足、吉田内閣のもと78歳で没するまで衆議院議長を占めた
- GHQは幣原喜重郎内閣に対し、秘密警察の廃止・労働組合の結成奨励・婦人の解放・教育の自由化・経済の民主化からなる日本統治の基本方針「五大改革指令」を下した。
- 1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。
- GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。
- 東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。
- 終戦後、近衛文麿は新憲法準備に生残りを賭けた。幣原喜重郎内閣の副総理格の地位にあった近衛文麿は、GHQに赴いてマッカーサーと会談した際、「憲法改正を要する」との示唆を受けて自らこれにあたることを決意し、木戸幸一から昭和天皇に働きかけて宮内省御用掛に任じてもらい、京大の佐々木惣一元教授に頼んで憲法改正案の作成に着手した。こうした近衛文麿のスタンドプレーに幣原喜重郎首相と松本烝治国務大臣は反発し、近衛に中止を求めると共に、松本烝治を委員長として「憲法問題調査会(通称松本委員会)」を立上げた。近衛文麿は尚も独自の新憲法準備工作を継続しようとしたが、中国・オランダ・ソ連などから近衛を戦犯指定するよう迫られたGHQに梯子を外されてお払い箱となった。これで新憲法準備は松本委員会に一本化されたが、東大系法学権威を集めた老人組織は瑣末な文言修正に終始する有様で抜本的な改革案を出せず、結局GHQからの「押付け憲法」を受入れざるを得ない事態に追込まれた。さて、マッカーサーにすがるも見捨てられ東京裁判の審理に際しGHQから巣鴨刑務所への出頭命令を受けた近衛文麿は、出頭予定日の前日に荻窪の別荘「荻外荘」で青酸カリによる服毒自殺を遂げた。山下奉文らの死刑判決をみて極刑を免れないと覚悟した近衛文麿は、「勝者の裁判」で裁かれる屈辱に耐えられず自決に及んだとされる。自作の『戦陣訓』で「生きて虜囚の辱めを受けず」と国民に強要した東條英機は軍人のくせにピストル自殺に失敗、近衛文麿との対象もあり完全に面目を失った。なお、近衛文麿の死後しばらくの間、友人の吉田茂が「荻外荘」を借用し自邸として使った。
- 日本国憲法は、GHQ民政局(GS)次長ケーディスのチームが作成した原案を幣原喜重郎・吉田茂内閣が丸呑みして公布した代物であり、内容はともかく「押付け憲法」の評価は全く正しい。敗戦直後より改憲要求が予期されるなか、国務大臣の近衛文麿が自らの生存を賭けて憲法改定案作成に乗出したが、幣原喜重郎内閣は近衛を抑え「松本委員会」の専権事項として憲法起草に取組んだ。しかし、根本的改革を求めるGHQは日本政府案を完全否定し、民政局のケーディスのチームが短期間で作成した憲法草案を突きつけ、もし受入れなければ、天皇が戦犯として処刑されるかもしれず、吉田茂外相以下の現政府メンバーも芦田均厚生相は「これがもとで内閣が総辞職でもすれば、当然GHQ案を喜んでのむ連中が出てくるに違いない。従って内閣はどうしてもここで踏ん張って、きたるべき総選挙に備えなければいけない」と踏ん張ったが、GHQの圧力には抗すべくもなく、2月13日、遂に幣原喜重郎内閣は受諾の決断を下し、「極めて重大の責任」を痛感しつつ退陣した。そして3ヵ月後の5月22日に第一次吉田茂内閣が発足、国会審議を「国体はいささかも変更されない」との詭弁一点張りで押し切り、11月3日の日本国憲法公布、翌1947年4月25日の新憲法下での総選挙、5月3日の憲法施行を見届けた3週間後に吉田茂内閣は退陣した。自作の「日本国憲法」を押し通したいGHQは、戦後初の総選挙で圧勝し次期組閣が確実であった自由党総裁の鳩山一郎を強引な公職追放で追い払い、配下の吉田茂に組閣させて野望を果した。こうした一連の経緯は、占領中の検閲によって日本国内で完全に秘匿されたため、現在でも多くの日本人が知らないが、アメリカの公文書公開によっても明らかな事実である。ライシャワー駐日大使は著書のなかで「マッカーサーは自分で日本国憲法を書いてしまった」とはっきりと批判している。
- 吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。
- 吉田茂がGHQの代理執行人に過ぎないことは歴史が示すとおりだが、「バカヤロー解散」など日本人に対しては非常に偉そうな態度をとり、アメリカとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。戦前に遡れば、少壮期の吉田茂は外交官傍流の中国領事を長く務めたが、戦後日本人に対したのと同様に中国人を愚民視し「イギリスがエジプトを支配したように満州支配に強圧的手段で臨むべき」と武力行使を主張した「大陸派」、英国紳士気取りで中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品すら口にしなかった。さて1946年、公職追放された鳩山一郎の代役として組閣を引受けた吉田茂は、自由党幹部に対し「金作りは一切やらない、閣僚の選考に一切の口出しは無用、辞めたくなったらいつでも辞める」との条件を付け、鳩山には「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と大物ぶりを示した。1951年アメリカの方針転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂首相の極端な従米政策に反発し与党自由党を二分する勢力となった。吉田茂はサンフランシスコ講和条約を花道に引退すると思われたが、改めて鳩山一郎への「首相禅譲密約」をしてまで第四次内閣を組閣、密約を破って第五次内閣まで引延ばし講和条約発効後2年間も政権にしがみついた。しかしGHQは廃止され親分のマッカーサーも失脚するなか、吉田茂首相は冷戦激化に伴うアメリカの安全保障戦略の転換に付いて行けず再軍備反対に固執、合理的なアメリカ政府はあっさりと忠臣吉田を見捨てた。長期政権に飽きた世論でも轟々たる非難が巻起るなか、1954年吉田茂は解散総選挙で第六次組閣を図るが側近にも諫言され断念、漸く政権を鳩山一郎に返上した。とはいえ吉田茂は隠然たる勢力を維持しつつ1967年まで89歳の長寿を保ち、戦後唯一の国葬で送られ官庁や学校は半休となった。吉田茂が敷いた経済優先・外交従米路線は、高度経済成長に恵まれた愛弟子の池田勇人政権で磐石となり「保守本流」は「吉田学校」の佐藤栄作・大平正芳・宮澤喜一らへ受継がれ「55年体制」をリードし続けた。
- 選良意識と欧米流「貴族趣味」は外務官僚の宿痾だが、吉田茂は俗物外交官の最たる例であった。吉田茂は、民権土佐派の竹内綱の妾腹の子で横浜貿易商の吉田健三に入嗣、11歳のとき養父が没し50万円(現在価値で20億円)もの遺産を受継いだ。東大進学が遅れ28歳で漸く外交官となった吉田茂は(同期の主席は広田弘毅)長らく傍流の中国領事を転々したが、中国人と中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品にも箸を付けなかった。牧野伸顕伯爵(大久保利通の実子で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で傍流から抜出した吉田茂は、岳父を後ろ盾に猟官運動を行い田中義一首相の引きで外務次官に栄進、駐伊大使で欧州へ赴任した。近衛文麿の命を受け広田弘毅内閣成立に働いた吉田茂は、第一志望の外相は逃したが念願の駐英大使に任じられ、葉巻に紅茶など英国紳士の生活様式とロールス・ロイスなど貴族趣味にどっぷり浸り、3年後に帰国すると「大陸派」の強面は影を潜め親英米の反戦派へ様変りしていた。第二次大戦終結の直後、帝国議会も貴族院議員も有名無実となったが、吉田茂は廃止直前に貴族院議員の勅撰を獲得し「貴族」に列している。余談ながら、第92代内閣総理大臣の麻生太郎は吉田茂の孫だが(三女和子と福岡麻生財閥当主の長男)、庶民生活を圧迫する物価高について新聞記者の取材を受けたときカップラーメンの値段を聞かれ「千円くらい?」と口を滑らせ貴族の馬脚を現している。
幣原喜重郎と同じ時代の人物
-
戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照