加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸内閣の外相として対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を展開するが満州事変で失脚、戦後首相に担がれるとGHQ命令を粛々実行し「押付け憲法」を受諾したエリート外交官
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦後
幣原 喜重郎
1872年 〜 1951年
60点※
家系・子孫
- 幣原家は大阪門真一番村の豪農で幣原喜重郎は幣原新治郎の次男、地元大坂の第三高等中学校から東大法学部へ進み外交官となった。兄の幣原坦は、東大文学部を出て教育行政官となり台北帝国大学初代総長を務めている。幣原喜重郎は、岩崎弥太郎の妾腹の四女雅子を妻に迎え三児をもうけた。三菱財閥3代目の岩崎久弥は義兄で、加藤高明(岩崎弥太郎の長女春路の婿)・木内重四郎(次女磯路の婿)は相婿、幣原喜重郎は加藤内閣で外相となり「協調外交」を展開した。木内重四郎・磯路の次女登喜子を妻とした渋沢敬三は、渋沢栄一の嫡孫で第16代日本総裁、第二次大戦後に組閣した幣原喜重郎に請われ蔵相を引受けたが、渋沢家は財閥解体の対象とされ本人は公職追放に遭った。幣原喜重郎内閣は天皇制護持と引換えにGHQの「押付け憲法」を受諾したが、長男で獨協大学教授となった幣原道太郎は「幣原喜重郎を憲法9条発案者とする説」を猛然と否定している。
- 岩崎氏の遠祖は甲斐武田氏の縁者とする説があるが、明確なのは戦国時代以降、安芸郡井ノ口村の「一両領足」として長曽我部元親に仕えてからである。山内一豊の土佐入封により岩崎氏は地下浪人に落とされ、やがて郷士株を買い武士身分を取戻すも、岩崎弥次郎右衛門が酒と博打で家産を潰し郷士株を手放した。地下浪人は、「元武士」として苗字帯刀は認められたが、村政では庄屋の下位に置かれ実態は一般農民と同然であった。数代後の岩崎弥次郎は、農業経営が下手なうえに大酒飲みで田畑を失い一家は困窮、しかも攻撃的で偏屈な性格のため庄屋の島田家や岩崎分家との諍いが絶えず集団リンチに遭難した。「三菱海上王国」を築いた岩崎弥太郎は、喜勢との間に嫡子の久弥と娘の春路・磯路を生し、妾腹の子も多くもうけた。福澤諭吉の門人で三菱幹部の荘田平五郎は弥太郎の姉佐喜の娘婿である。弥太郎から三菱2代目を継いだ弟の岩崎弥之助は、薩摩閥の猛攻をかわすため本業の海運業から撤退したが、鉱山・造船を軸に多角的経営を成功させ今日に続く三菱財閥の礎を築き、去り際も鮮やかに岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲、久弥と弥之助の両家が共に男爵に叙された。岩崎弥之助は大富豪には珍しく艶聞が無く、妻の早苗(後藤象二郎の長女)一筋で三男一女をもうけた。長男の岩崎小弥太は三菱4代目として第二次大戦後の財閥解体を受難、次男の岩崎俊弥は旭硝子の創業者、娘の繁子は外交官の松方正作(正義の次男)の妻である。また、官僚政治家の自家養成を図る岩崎弥之助は、岩崎弥太郎の長女春路を加藤高明に・妾腹の末娘雅子を幣原喜重郎に娶わせ、強大な三菱ファミリーに連なった加藤と幣原は総理大臣に栄達した。弥太郎次女の磯路は木内重四郎に嫁がせ、その長女の美艸子は山内豊中(最期の土佐藩主山内豊範の四男)・次女の登喜子は日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三(栄一の嫡孫)の妻となった。兄弟で三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎・弥之助の生家は高知県安芸市に保存され、弥太郎少年が日本列島を模った石群も見ることができる。
幣原喜重郎と同じ時代の人物
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戦後
重光 葵
1887年 〜 1957年
100点※
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
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戦後
孫 正義
1957年 〜 年
100点※
在日商魂と米国式経営を融合し日本一の大富豪へ上り詰めた「ソフトバンク」創業者、M&Aと再投資を繰返す「時価総額経営」の天才はヤフー・アリババで巨利を博し日本テレコム・ボーダフォン・米国スプリントを次々買収し携帯キャリア世界3位に躍進
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戦後
岸 信介
1896年 〜 1987年
100点※
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
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