検察のドンの立場で軍部に加担し左翼と政党を排撃、念願の首相に上り詰めたが独ソ不可侵条約に遭遇し「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した観念右翼の総帥
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照平沼 騏一郎
1867年 〜 1952年
30点※
平沼騏一郎の寸評
平沼騏一郎の史実
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1867年
美作津山藩士平沼晋の次男平沼騏一郎が津山城下南新座にて出生
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1872年
平沼騏一郎が上京し箕作秋坪の三叉学舎に学ぶ
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1878年
平沼騏一郎が東京大学予備門に入学
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1888年
平沼騏一郎が帝国大学法科大学を首席で卒業し司法省出仕
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
民法典論争が起る
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1890年
第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得
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1890年
教育勅語発令
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1890年
第一回帝国議会開催
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
台湾総督府設置
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
明治民法施行
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1899年
平沼騏一郎が東京控訴院検事任官
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1899年
平沼騏一郎が慶應義塾大学法学部政治科教授となる(~1907)
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1903年
平沼騏一郎が司法省参事官兼検事任官
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1903年
幸徳秋水らが平民社を結成、『平民新聞』創刊
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1904年
日露戦争開戦
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
日比谷焼打事件
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1905年
平沼騏一郎が大審院検事・司法省民刑局長兼検事を歴任
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1907年
平沼騏一郎が英・独・仏へ出張
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1909年
平沼騏一郎が大審院検事局次席検事兼民刑局長任官
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1910年
大逆事件
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1911年
警視庁に特別高等課設置
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1911年
平沼騏一郎が司法次官就任
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足
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1912年
平沼騏一郎が検事総長就任
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、西園寺公望から寝返った加藤高明が加盟し外相就任
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1914年
シーメンス事件、第一次山本権兵衛内閣が退陣し山本および斎藤実海相が予備役編入
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1916年
吉野作造が民本主義を提唱~大正デモクラシーの萌芽
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
平沼騏一郎が大審院長就任
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
平沼騏一郎が日本大学総長就任
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、平沼騏一郎が司法大臣就任
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1924年
平沼騏一郎が法曹界から貴族院議員・枢密顧問官へ転じる
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1924年
平沼騏一郎が右翼団体「国本社」設立
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足、鈴木喜三郎が司法大臣就任
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1924年
護憲三派による第二次護憲運動
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足
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1925年
治安維持法制定
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1925年
高橋是清に代わって田中義一が政友会総裁就任
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足
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1926年
平沼騏一郎が枢密院副議長に昇進し男爵を受爵
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1927年
憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が発足
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
濱口雄幸内閣(民政党)発足
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1929年
軍部や松岡洋右満鉄副総裁の扇動で「満蒙生命線論」が興隆
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1929年
世界恐慌始まる、軍需主導で日本経済は1934年に回復
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1929年
農産物価格が暴落し農家が大打撃を受ける
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1930年
濱口雄幸首相銃撃事件
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1931年
第二次若槻禮次郞内閣(民政党)発足
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1931年
関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎らが柳条湖事件を起し満州事変勃発
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1931年
朝鮮駐留軍の林銑十郎司令官が独断で越境増援、若槻禮次郞内閣が追認
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1931年
軍事費の急増が始まる
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1931年
新聞各紙の満州事変礼賛報道で好戦ムードが蔓延
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1931年
若槻禮次郞内閣が満州国建国方針を決定
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1931年
犬養毅内閣(政友会)発足、一夕会系の荒木貞夫が陸相就任
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1932年
軍拡反米英派(艦隊派)首領の伏見宮博恭王が海軍軍令部長(総長へ改称)就任(~1941)
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1932年
血盟団事件
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1932年
満州国建国
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1932年
五・一五事件~海軍将校が武装蜂起し犬養毅首相を殺害(享年77)政党内閣が終焉
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1932年
斎藤実内閣(海軍)発足
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1932年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1933年
松岡洋右首席全権が国際連盟総会で脱退劇を演じ斎藤実政府は満州撤退勧告を拒否
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1933年
永田鉄山・統制派と小畑敏四郎・皇道派の対立が始まる
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1934年
林銑十郎が陸相に就任し永田鉄山ら統制派が陸軍中央を掌握
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1934年
帝人事件
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1934年
岡田啓介内閣(海軍)発足
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1934年
統制派が『陸軍パンフレット』刊行
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1934年
日本経済が世界恐慌前の水準に回復、軍需主導で更なる高度成長が続く
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1935年
天皇機関説問題、国体明徴運動
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1935年
陸軍統制派の首領永田鉄山が殺害される(相沢事件)
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1936年
二・二六事件
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1936年
広田弘毅内閣(外務官僚)発足~軍国主義化が一気に加速
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1936年
平沼騏一郎が枢密院議長に栄達
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1936年
日独防共協定調印
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1936年
広田弘毅内閣が「北守南進政策」を決定
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1936年
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約廃棄
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1937年
林銑十郎内閣(陸軍)発足
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1937年
第一次近衛文麿内閣(公家・外相広田弘毅)発足~亡国の貴公子登場
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1937年
盧溝橋事件で日中戦争が始まる
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1937年
日中戦争不拡大を説く石原莞爾が失脚し華北分離を主張する武藤章・田中新一ら統制派が陸軍中央を掌握
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1937年
近衛文麿内閣の増派決定で日中戦争拡大
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1937年
石原莞爾の停戦案を近衛文麿首相と陸軍統制派が拒否
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1937年
大本営設置
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1937年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938年
日本軍が武漢三鎮を占領するが蒋介石の国民政府は重慶へ退避
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1938年
近衛文麿首相がトラウトマンの日中戦争和解案を拒絶
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1938年
近衛文麿首相が「国民政府を対手とせず」と発表(第一次近衛声明)
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1938年
国家総動員法公布~軍国主義化の決定打
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1938年
近衛文麿首相が「東亜新秩序声明」~欧米を激しく挑発
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1939年
平沼騏一郎内閣(右翼・司法官僚)発足
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1939年
ナチス・ドイツから日独伊三国同盟の提案を受ける
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1939年
国民精神総動員委員会が発足
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1939年
米穀配給統制法公布、生活物資の配給制が始まる
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1939年
ノモンハン事件勃発
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1939年
天津事件、アメリカが日米通商航海条約破棄を通告
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1939年
独ソ不可侵条約調印
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1939年
阿部信行内閣(陸軍)発足
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1939年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939年
企画院事件
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1940年
米内光政内閣(海軍)発足
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1940年
第二次近衛文麿内閣(公家・外相松岡洋右・陸相東條英機)発足、平沼騏一郎が国務大臣就任(のち内務大臣へ転任)
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1940年
近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を決定し英米が正面敵となる
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1940年
日本軍が北部仏領インドシナへ進駐し南進政策始動
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1940年
近衛文麿首相が大政翼賛会を結成し総裁就任
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1940年
最後の元老西園寺公望死去
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1940年
岡敬純・石川信吾ら対米強硬派が海軍を完全掌握し海軍国防政策委員会を設置
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1941年
松岡洋右外相がスターリンを訪問し電撃的に日ソ中立条約調印
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1941年
野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉が松岡洋右外相の妨害により停止
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1941年
独ソ戦開戦
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1941年
第三次近衛文麿内閣(公家)発足、平沼騏一郎が国務大臣就任
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1941年
関東軍特種演習~対ソ連開戦に備えた関東軍増強
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1941年
南部仏領インドシナ進駐開始
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1941年
アメリカが対日石油輸出全面禁止
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1941年
御前会議で「帝国国策遂行要領」を定め対米開戦決意
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1941年
東條英機内閣(陸軍)発足
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1941年
アメリカの最後通牒(ハル・ノート)で日米交渉が決裂し御前会議で対米開戦決定
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1941年
ナチス・ドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し後退が始まる
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1941年
日本海軍の真珠湾攻撃・陸軍のマレー侵攻で太平洋戦争勃発
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1942年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942年
日本軍がインドネシア全域を占領し石油供給源を獲得(シーレーン断絶で宝の持ち腐れとなる)
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1942年
ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
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1943年
スターリングラード攻防戦でソ連軍がドイツ軍を撃退
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1943年
日本軍がソロモン沖海戦で敗北しガダルカナル島撤退
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1943年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943年
東條英機首相・重光葵外相が東京で大東亜会議を開催
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1943年
米英中が「カイロ宣言」発表
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1944年
東條英機の意を受けた牟田口廉也が無用無謀のインパール作戦を強行
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1944年
マリアナ沖海戦敗北・サイパン島陥落で日本の敗戦が決定的となる
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1944年
伏見宮博恭王の示唆により軍令部で特攻作戦の計画が具体化
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1944年
小磯國昭内閣(陸軍)発足
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1944年
小磯國昭内閣が徴兵年齢を拡大し「根こそぎ動員」
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1944年
レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅し南方補給路が断絶(伏見宮博恭王元帥の示唆で「特攻作戦」始動)
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1945年
米英ソがヤルタ会談(ソ連の対日参戦を秘密合意)
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1945年
陸海軍統帥部が「本土決戦完遂基本要綱」を決定
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1945年
東京大空襲はじめ米軍の空爆で全国主要都市が焼け野原と化す
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1945年
硫黄島陥落で日本軍は本土制空権も完全喪失
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1945年
沖縄戦が始まる
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1945年
ソ連が日ソ中立条約廃棄を通告
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1945年
鈴木貫太郎内閣(海軍)発足
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1945年
平沼騏一郎が首相に就いた鈴木貫太郎に代わり枢密院議長に復職
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1945年
ドイツが連合国に降伏
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1945年
鈴木貫太郎政府がソ連を仲介とする日米和解工作に動く
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1945年
連合国がポツダム宣言発表
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1945年
トルーマン米大統領が広島に原子爆弾投下
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1945年
ソ連が日ソ中立条約を破り満州・樺太・朝鮮へ侵攻
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1945年
トルーマン米大統領が長崎に原子爆弾投下
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1945年
日本がポツダム宣言に基づく降伏を通告
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1945年
玉音放送
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1945年
マッカーサー連合軍最高司令官が着任し連合軍進駐開始
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1945年
日本代表の重光葵外相が降伏文書に調印し第二次世界大戦終結、ソ連は満州侵略を止めず北朝鮮まで制圧
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1945年
連合軍総司令部(GHQ)による間接統治開始(~1952)
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1946年
平沼騏一郎がA級戦犯指定を受け巣鴨拘置所に入獄
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1946年
極東国際軍事裁判(東京裁判)開始(~1948)
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1948年
東京裁判が平沼騏一郎に終身禁固刑判決
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1852年
平沼騏一郎が病気を理由に仮釈放され間もなく死去(享年84)
平沼騏一郎の交遊録
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西園寺公望
宿敵
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清浦奎吾
貴族院のドン
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近衛文麿
重臣仲間
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岡田啓介
重臣仲間
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米内光政
重臣仲間
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若槻禮次郞
攻撃目標転じて重臣仲間
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濱口雄幸
攻撃目標
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東條英機
打倒目標
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箕作秋坪
先生
平沼騏一郎と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 30点
東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は、司法官僚から検察のドンとなり、司法相・枢密院議長を経て陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は、政治的中立たるべき法曹界の重鎮ながら国粋主義・観念右翼の総帥、右翼団体「国本社」で大衆教化を図り、軍部に加担して左翼・政党勢力の排撃に奔走、大逆事件・企画院事件・帝人事件を引起し、天皇機関説問題と国体明徴運動でも大いに働き西園寺公望ら重臣を攻撃、軍部の政権掌握に貢献し念願の首相の座を射止めた。退陣後の平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の内相・国務相に就任し憎きナチス・ドイツとの同盟に反対し陸軍統制派や近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右ら日独同盟派と対立、ドイツに範をとった国家総動員体制にも異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞ら和平派陣営に属し東條英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。第二次大戦後、平沼騏一郎は東京裁判で終身禁固刑判決を受け巣鴨プリズンで精神を病み1952年に病没したが、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と、戦争主導の主体を軍部・右翼から財閥・政党にすり替え穏健派の西園寺公望に戦争責任を押付けるという独善的な歴史認識を開陳している。平沼騏一郎は「頭の良い馬鹿ほど始末に困る」の典型というべき複雑怪奇な観念論者だが、文官の身で終身刑に処されるほどの大物では無かった。