右翼結社・玄洋社員として外務官僚となり、日中戦争拡大の最重要局面で首相・外相の座にあって軍部と右翼に迎合して亡国へのお膳立てをしたキーパーソン
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
広田 弘毅
1878年 〜 1948年
20点※
家系・子孫
- 林徳平は、福岡市箱崎の農家の次男で、13歳で石屋「広田」の奉公人となり、素麺屋の娘タケと結婚し長男の弘毅をもうけた後、親方の広田家の夫婦養子となった。広田家の家計は楽ではなかったが、成績優秀な広田弘毅は惜しみない援助を与えられ福岡市立大名小学校・高等小学校から福岡県立修猷館へ進学、右翼結社「玄洋社」の援助で東大法学部へ進んで外務官僚となり、首相に上り詰めた。昭和天皇は広田弘毅の組閣に難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と身分の壁を嘆いたという。広田弘毅は、加藤高明が持込んだ三菱令嬢との縁談を断り、玄洋社幹部の月成功太郎の娘で美貌の静子を妻に選び三男三女をもうけた。第二次大戦後の東京裁判で広田弘毅は文官唯一の死刑に処されたが、静子夫人は東京裁判開廷前に湘南鵠沼の別邸で自殺した。玄洋社幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に悪影響を及ぼすことを懸念していたとされる。
広田弘毅と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
板垣 退助
1837年 〜 1919年
100点※
中岡慎太郎の遺志「薩土密約」を受継ぎ戊辰戦争への独断参戦で土佐藩を「薩長土肥」へ食込ませ、自由党を創始して薩長藩閥に対抗し自由民権運動のカリスマとなった清貧の国士
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照