内務省の医系技官から児玉源太郎の抜擢で長州閥に連なり、台湾総督民政局長・初代満鉄総裁として植民地経営を成功させ関東大震災後の帝都復興を描いた「大風呂敷」の奇才
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照後藤 新平
1857年 〜 1929年
70点※
後藤新平の寸評
後藤新平の史実
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1857年
仙台藩士後藤実崇の嫡子後藤新平が水沢城下にて出生
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1867年
王政復古の大号令
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1868年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868年
奥羽越列藩同盟が成立
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1868年
明治天皇が江戸城に入城~実質的な東京遷都
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1868年
太政官設置
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1868年
板垣退助の官軍に会津若松城を攻囲され会津藩が降伏、松平容保は江戸へ移され蟄居
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1868年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869年
土方歳三が弁天台場の戦いで戦死(享年35)、榎本武揚の五稜郭が降伏し函館戦争・戊辰戦争終結
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1869年
版籍奉還
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1869年
四民平等~華族・士族・平民の三身分制の実施
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1869年
後藤新平・斎藤実が胆沢県大参事の安場保和に認められ書生となる
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1871年
廃藩置県
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1871年
岩倉使節団派遣
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1872年
井上馨・渋沢栄一の主導で銀座煉瓦街の建設が始まる
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1872年
岩倉使節団から帰国した安場保和が福島県令就任、後藤新平は安場を頼り福島洋学校に就学
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1873年
徴兵令布告
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1873年
地租改正法・地租改正条例布告
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1873年
明治六年政変
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1873年
内務省設立、大久保利通が初代内務卿兼参議として独裁政権確立(大久保政府)
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1873年
最初の世界恐慌、帝国主義列強による世界分割競争が始まる
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1874年
西郷隆盛の征韓論を退けた大久保利通が台湾出兵を強行、木戸孝允は参議を辞任し下野
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1874年
後藤新平が福島県の須賀川医学校に入学
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1876年
秩禄処分
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1877年
西南戦争、西郷隆盛が鹿児島城山にて自害(享年51)
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1877年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1881年
大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が現出(明治十四年の政変)、首班の伊藤博文は国会開設の詔で民権派と妥協
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1881年
日本鉄道会社設立
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1881年
後藤新平が24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長となる
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1882年
板垣退助遭難事件、後藤新平が診察にあたる
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1882年
後藤新平が安場保和の次女和子と結婚
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1882年
後藤新平が軍医本部次長石黒忠悳の引きで内務省衛生局出仕
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1883年
北里柴三郎が東京大学医学部を卒業し内務省衛生局出仕、同僚の後藤新平と親友になる
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1885年
第一次伊藤博文内閣発足(太政官制の廃止と内閣制度の開始)
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1885年
北里柴三郎が緒方正規の計いでドイツ留学
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1885年
北里柴三郎が緒方正規の脚気病原菌説を否定、東大医学部との対立が始まる
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1888年
黒田清隆内閣発足
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1889年
大日本帝国憲法発布
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1889年
東海道本線が全通(新橋-神戸間)
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1889年
北里柴三郎・ベーリングが破傷風菌純粋培養法に成功
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1890年
第一次山縣有朋内閣発足
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1890年
岩村通俊に代わって陸奥宗光が農商務大臣就任、陸奥は原敬を重用
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1890年
後藤新平がドイツ留学、帰国後医学博士号を取得
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1890年
北里柴三郎が破傷風の血清療法を発明、ベーリングと共同でジフテリアに応用
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1891年
第一次松方正義内閣発足
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1891年
帝政ロシアがシベリア鉄道起工
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1892年
第二次伊藤博文内閣発足
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1892年
後藤新平が長與專齋の推薦で後任の内務省衛生局長に就任
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1892年
北里柴三郎がドイツ留学から帰国、福澤諭吉・森村市左衛門の援助により伝染病研究所(北里研究所の前身)設立
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1893年
後藤新平が「相馬事件」への連座で5ヶ月間収監され内務省衛生局長失職
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1893年
北里柴三郎が日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(北里研究所病院の前身)設立
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1894年
北里柴三郎が香港でペスト菌を発見(第一発見者の栄誉は同時期に香港に居たイェルサンが獲得)
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1894年
朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発
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1894年
日清戦争勃発
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1895年
下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立
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1895年
後藤新平が石黒忠悳軍医総監の推薦で臨時陸軍検疫部事務官長となり児玉源太郎と邂逅
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1895年
三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求
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1895年
児玉源太郎が台湾総督府開設業務に奔走
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1895年
台湾総督府設置
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1895年
朝鮮で親ロシア政権誕生、閔妃殺害事件
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1896年
露清密約、ロシアが清から東清鉄道敷設権を獲得
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1896年
第二次松方正義内閣発足
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1896年
北里柴三郎が緒方正規にペスト学説の誤りを指摘され自説を撤回
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1897年
朝鮮が大韓帝国と改称
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1897年
北里柴三郎の伝染病研究所で志賀潔が赤痢菌発見
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1898年
列強による清の植民地争奪競争が激化
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1898年
第三次伊藤博文内閣発足
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1898年
児玉源太郎が第4代台湾総督就任(~1906)、後藤新平を民政局長に抜擢し植民地経営に成功
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1898年
第一次大隈重信内閣(隈板内閣)発足~初の政党内閣
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1898年
第二次山縣有朋内閣発足
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1898年
清で康有為の戊戌の変法が挫折
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1899年
台湾銀行設立
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1900年
北清事変
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1900年
第四次伊藤博文内閣(政友会)発足、桂太郎が陸軍大臣就任(児玉源太郎に途中交代)
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1900年
台湾製糖会社設立
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1901年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1901年
第一次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、児玉源太郎が陸軍大臣就任(寺内正毅に途中交代)
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1901年
北京議定書調印
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1901年
ロシアが日本に韓国中立化構想を提案、日露協商派と対露強硬派が対立
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1901年
北里柴三郎が第1回ノーベル医学生理学賞の候補となるが共同研究者のベーリングが単独受賞
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1902年
第一次日英同盟協約締結
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1902年
児玉源太郎に代わって寺内正毅が陸軍大臣就任
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1903年
児玉源太郎が内務大臣就任(文部大臣兼任)
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1903年
児玉源太郎が内相・文相を辞し参謀本部次長に就任
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1903年
ロシアが満州撤兵不履行、日露協商(満韓交換論)交渉決裂
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1903年
後藤新平が貴族院勅撰議員となる(~1929)
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1904年
仁川沖海戦
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1904年
日露戦争開戦
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1904年
伊藤博文が金子堅太郎を対米工作に派遣
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1904年
第一次日韓協約締結
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1904年
遼陽会戦
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1905年
旅順攻略
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1905年
血の日曜日事件~ロシア革命が始まる
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1905年
奉天会戦
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1905年
孫文が東京で中国同盟会を結成
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1905年
日本海海戦
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1905年
第二次日英同盟協約締結
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1905年
ポーツマス条約調印
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1905年
桂太郎政府がアメリカと桂・タフト協定
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1905年
日比谷焼打事件
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1906年
第一次西園寺公望内閣(政友会)発足、寺内正毅が陸軍大臣就任
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1906年
大山巌に代わり児玉源太郎が参謀総長就任(児玉は8年2ヶ月在任した台湾総督を免職)
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1906年
児玉源太郎が南満洲鉄道創立委員長を兼任
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1906年
第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任
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1906年
井上勝・桂太郎ら長州閥主導で鉄道国有法が成立し幹線鉄道国有化
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1906年
南満州に関東都督府設置
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1906年
児玉源太郎死去
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1906年
南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる
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1907年
韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結
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1907年
第一次日露協約締結
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1908年
第二次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、後藤新平が逓信大臣兼初代鉄道院総裁就任
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1908年
東洋拓殖会社設立
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1909年
アメリカが満鉄の中立化を提唱
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1909年
伊藤博文がハルビン駅頭で朝鮮人に射殺される(享年68)
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1910年
伊藤博文暗殺を機に軍部・対外硬派が韓国併合を断行、韓国統監府を朝鮮総督府に改組し軍政を敷くが民生向上により義兵運動は沈静化
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1910年
北里柴三郎の伝染病研究所で秦佐八郎が梅毒特効薬「サルバルサン」発見
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1911年
第二次西園寺公望内閣(政友会)発足
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1912年
孫文ら辛亥革命が南京に中華民国を樹立し北洋軍閥・袁世凱の反旗で清朝滅亡
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1912年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912年
第三次桂太郎内閣(長州・陸軍)発足、後藤新平が逓信大臣就任
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1913年
桂太郎の立憲同志会発足、西園寺公望から寝返った加藤高明が加盟し外相就任
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1913年
第一次護憲運動、大正政変
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1913年
第一次山本権兵衛内閣(薩摩・海軍)発足
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1913年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914年
第二次大隈重信内閣(同志会)発足
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1914年
第一次世界大戦勃発、世界的物資不足のなか日本は特需景気を満喫
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1914年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1914年
国立伝染病研究所が文部省移管で東大医学部に吸収され北里柴三郎所長以下全職員が辞任
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1914年
伝染病研究所を追われた北里柴三郎が私立北里研究所設立
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1915年
大隈重信首相・加藤高明外相が袁世凱の中華民国に「対華21カ条要求」を宣告
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1916年
寺内正毅内閣(長州・陸軍)発足、後藤新平が内務大臣就任(水野錬太郎に途中交代)
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1916年
府県医師会統合により大日本医師会が発足し北里柴三郎が初代会長就任
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1917年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1917年
レーニンらボルシェヴィキがロマノフ朝ロシアを滅ぼし世界初の社会主義政権を樹立(ロシア革命)
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1917年
石井・ランシング協定
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1917年
慶應義塾大学医学科(医学部)創立、尽力した北里柴三郎が初代学部長兼付属病院長に就任
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1918年
インフレ進行で小作争議が蔓延し「米騒動」で寺内正毅内閣退陣
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1918年
後藤新平がシベリア出兵推進のため内務大臣から外務大臣へ転任(後任内相は水野錬太郎)
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1918年
シベリア出兵
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1918年
原敬内閣(政友会)発足
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1918年
第一次世界大戦終結
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1919年
パリ講和会議・ベルサイユ条約で第一次世界大戦の講和成立(日本全権は西園寺公望・牧野伸顕)
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1919年
後藤新平が拓殖大学(前身は桂太郎が創立した台湾協会学校)学長に就任(~1929)
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1920年
国際連盟が発足し日本は英仏伊と共に常任理事国に列す
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1920年
後藤新平が東京市長就任(~1923)、安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案
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1920年
鮎川義介が久原財閥を承継し日産コンツェルンを形成
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1921年
安田善次郎が大磯の別荘で右翼生年に刺殺される
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1921年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1921年
バーデン・バーデン密約~永田鉄山ら陸軍中堅幕僚の策動が始まる
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1921年
高橋是清内閣(政友会)発足
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1921年
アメリカの工作により日英同盟が廃棄となる
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1922年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1922年
加藤友三郎内閣(海軍)発足
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1922年
加藤友三郎首相が日本軍のシベリア撤兵を断行
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1922年
ソビエト社会主義共和国連邦樹立、スターリンが最高指導者となる
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1923年
関東大震災
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1923年
第二次山本権兵衛内閣(海軍)発足、後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁就任
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1923年
虎ノ門事件
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1923年
「大日本医師会」の法定化で「日本医師会」が発足し北里柴三郎が初代会長に就任
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1924年
清浦奎吾内閣(貴族院)発足
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1924年
北里柴三郎が男爵を受爵
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1924年
社団法人東京放送局設立、後藤新平が初代総裁就任
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1924年
加藤高明内閣(憲政会)発足
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1925年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925年
東京放送局がラジオ放送開始
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1925年
普通選挙法制定
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1926年
第一次若槻禮次郞内閣(憲政会)発足
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1926年
孫文の死に伴い蒋介石が広東の国民政府を掌握し北伐開始
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1926年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927年
片岡直温蔵相の失言により金融恐慌が発生
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1927年
田中義一内閣(長州・陸軍・政友会)発足
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1927年
高橋是清蔵相が金融恐慌を沈静化、高橋は蔵相を依願退職
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1928年
後藤新平がソ連訪問、スターリンと会見し国賓待遇を受ける
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1928年
陸軍中央で「満蒙領有」方針が現れる
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1928年
蒋介石の国民革命軍が張作霖(日本の傀儡)の北京政府を打倒し北伐完了
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1928年
張作霖爆殺事件(満州某重大事件)、陸軍中堅幕僚の暴走が始まる
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1928年
張学良が奉天軍閥を承継、関東軍と対立し「満州問題」が深刻化
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1928年
石原莞爾が関東軍作戦参謀に就任
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1928年
後藤新平が伯爵へ昇叙
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1929年
永田鉄山の二葉会に木曜会が合流し「一夕会」が発足
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1929年
後藤新平が「政界の惑星」のまま(首相になれず)死去(享年71)
後藤新平の交遊録
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児玉源太郎
ボス
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桂太郎
長州閥仲間
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寺内正毅
長州閥仲間
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田中義一
長州閥仲間
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井上勝
長州閥仲間
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山縣有朋
陸軍長州閥のドン
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伊藤博文
長州藩のドン
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井上馨
伊藤の盟友
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久原政之助
長州閥仲間
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鮎川義介
長州閥仲間
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松岡洋右
大陸派の弟子
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小村寿太郎
桂の手下
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加藤高明
桂の手下
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高野長英
親戚の有名人
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安場保和
出世の恩人にして岳父
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椎名悦三郎
甥の有名人
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斎藤実
旧知の友
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石黒忠悳
大恩人
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長與專齋
見捨てられたことが飛躍の転機に
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北里柴三郎
医学で大成した親友
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新渡戸稲造
官僚仲間
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金子直吉
台湾統治で組んだ政商鈴木商店の主
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早川徳次
鉄道仲間
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正力松太郎
内務省の下僚
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西園寺公望
首相にしてもらえず
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安田善次郎
大風呂敷の理解者
後藤新平と同じ時代の人物
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戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照
年
基礎点 70点
後藤新平は、胆沢県大参事で後に岳父となる安場保和に進学の機会を与えられ、親戚の高野長英の影響で医者となり、弱冠24歳で愛知県医学校(名古屋大学医学部)の校長兼病院長に就任、岐阜で遭難した板垣退助の診察にもあたった。が、欧米留学の経験が無いことに劣等感を募らせ、石黒忠悳を頼り内務省の医系技官へ転身、同僚の北里柴三郎とは生涯の親友となった。念願のドイツ留学を果した後藤新平は医学博士号を取得し、内務省衛生局長に昇進したが、相馬誠胤子爵の御家騒動(相馬事件)に巻込まれ突如官職を失った。しかし人間万事塞翁が馬、石黒忠悳軍医総監の推薦で後藤新平は官途に復帰し、日清戦争帰還兵の検疫業務を通じて陸軍長州閥のエース児玉源太郎に認められ飛躍の転機を掴んだ。日本政府は日清戦争で獲得した台湾に軍政を敷いたがマラリアとゲリラ暴動で難渋、台湾総督府の開設に奔走した児玉源太郎が自ら第4代総督に就任し、民政局長に抜擢された後藤新平は民政充実策と警察力強化のアメムチ政策で初めて植民地経営を成功させた。鈴木商店との癒着やアヘン専売の悪行も取沙汰されたが、土地制度改革、インフラ整備、台湾銀行・台湾製糖会社の設立、台湾縦貫鉄道の敷設など後藤新平が敷いた民政政策により、清朝が野蛮視した台湾は日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。政界へ転じた後藤新平は、児玉源太郎の死後も桂太郎・寺内正毅・田中義一ら長州閥に属し、初代満鉄総裁を経て第二次桂太郎内閣に逓信大臣兼初代鉄道院総裁で初入閣、寺内正毅内閣では内相から外相へ転任してシベリア出兵を断行し、拓殖大学学長を経て東京市長に就くと安田善次郎の支援を得て大規模都市開発「八億円計画」を立案した。関東大震災の復興を使命とする第二次山本権兵衛内閣は後藤新平を内相兼帝都復興院総裁に任命、後藤は短期間で首都機能を回復させ「大風呂敷」と揶揄されつつ今日の東京都心部の原型となる気宇壮大な近代都市建設を敢行した。植民地経営と関東大震災復興に確たる業績を残した後藤新平は、資格も野心も満々ながら何故か首相になれず、「政界の惑星」(恒星になれない)のまま71歳で永眠した。