内務省の医系技官から児玉源太郎の抜擢で長州閥に連なり、台湾総督民政局長・初代満鉄総裁として植民地経営を成功させ関東大震災後の帝都復興を描いた「大風呂敷」の奇才
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照戦前
後藤 新平
1857年 〜 1929年
70点※
後藤新平と関連人物のエピソード
- 斎藤実は仙台藩水沢の出身、元藩士の父は没落し「賊軍」故に前途は暗かったが、胆沢県大参事の安場保和の書生に選ばれ運を掴んだ。旧東北諸藩では、中央から派遣された役人が優秀な師弟を選別し中央へ進学させる救済ルートがあった。一歳年長で近所のガキ大将だった後藤新平も一緒に書生となり、後に安場保和の女婿となっている。官費で勉強できる軍人を志した斎藤実は水沢県東京出張所に給仕の職を得て上京、陸軍幼年学校に21番で合格するも官費生20人枠に入れず、半年後に海軍兵学寮予科を受験し官費生合格を果したが、直後に陸幼から官費生欠員に伴う繰上げ合格の通知が到来、後の山本権兵衛の改革まで海軍は陸軍の一部であり陸軍が断然有望だったが斎藤少年は海軍を選択した。斎藤実は海軍兵学校を3番で卒業するも出世コースに乗れず、7年間の艦隊勤務を経て公使館付武官兼務でアメリカ留学へ出された。が、通訳兼ガイドの精勤ぶりが西郷従道・山本権兵衛らの目に留まり参謀に栄転、「高千穂」勤務で山本艦長の子分となり、仁礼景範海相の娘婿の座を射止めて薩摩海軍閥に連なり異例の昇進が始まった、山本権兵衛の海相就任に伴い斎藤実は海軍次官に抜擢され7年在勤、山本から海相を譲られ8年以上も座を占めた。「山本権兵衛の副官」に徹した斎藤実には軍政面でも日清・日露戦争でも目立つ業績が無く、何度もポストを後任に譲ろうとしたが山本は忠実で野心の無い斎藤を使い続けた。海軍の大疑獄「シーメンス事件」で斎藤実海相は山本権兵衛首相と共に予備役編入へ追込まれたが、5年後に海軍大将に返咲き朝鮮総督に就任、12年後に辞任し隠居生活に入った。が翌年、海軍青年将校が五・一五事件を起し事態収拾のため74歳の斎藤実が犬養毅の後継首相に選ばれた。満州事変以後の中国問題解決を期待されたが、海軍良識派ながら政治経験に乏しい斎藤実首相は為す術無く陸軍の満州国建国と松岡洋右の国際連盟脱退を承認、陸軍と右翼の僚平沼騏一郎が仕掛けた「帝人事件」スキャンダルで退陣に追込まれた。斎藤実は自派の岡田啓介に首相を譲り内大臣に就任したが、間もなく二・二六事件が起り自邸で虐殺された。
- 北里柴三郎は「血清療法」を発明した東洋人初の世界的医学者にして北里研究所・慶應義塾大学医学部・日本医師会の創立者である。熊本阿蘇の庄屋に生れた北里柴三郎は、熊本医学校から東大医学部へ進み、内務省衛生局に出仕しドイツ留学を許された(同僚の後藤新平は生涯の親友となった)。独ベルリン大学に入った北里柴三郎は「近代細菌学の開祖」コッホに師事し研究に没頭、「破傷風菌純粋培養法」「破傷風菌抗毒素」を発見し1890年「血清療法」を発表し世界の医学会を驚かせた。ただし、1901年北里柴三郎は第1回ノーベル医学生理学賞の候補となったが人種的偏見から共同研究者ベーリングの単独受賞となり、また1894年には香港で「ペスト菌」を発見したが第一発見者は同時期に香港に居たイェルサンとなった。さて北里柴三郎は、欧米研究機関の招聘を断り国費留学の責務を果すべく帰国したが、緒方正規教授の「脚気病原菌説」を否定したことで東大医学部閥が牛耳る日本医学会から締出された。偉材の窮状を見兼ねた福澤諭吉が森村財閥の援助で1892年「伝染病研究所」を開設し北里柴三郎を所長に迎えたが、骨抜きを図る東大閥は「国立伝染病研究所」へ改組させ東大医学部への吸収を強行、北里所長以下全職員が一斉辞任する「伝研騒動」を引起した。1914年北里柴三郎は私立「北里研究所」を設立、北島多一・志賀潔(赤痢菌発見者)・秦佐八郎(梅毒特効薬発明者)ら研究員も挙って移籍し狂犬病・インフルエンザ・赤痢・発疹チフスなどの血清開発と伝染病研究を継続した。学閥に屈さず実力通り日本医学界の重鎮となった北里柴三郎は、結核療養施設・日本結核予防協会・貧民救済病院などの創設に努め、1916年府県医師会の統合により「大日本医師会」を発足させ初代会長に就任した(1923年法定化され「日本医師会」となる)。また北里柴三郎は、慶應義塾大学医学部の創設に尽力し初代学部長兼付属病院長を引受け、北里研究所から教授陣を派遣するなど無償で福澤諭吉の旧恩に報いている。北里柴三郎は男爵に叙され、慶大医学部長および日本医師会会長を北島多一に引継ぎ、78歳で永眠した。
- 自由党総理の板垣退助は、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く喧伝された(台詞そのものは新聞記者の脚色とされる)。なお、負傷した板垣退助の診察にあたったのは、当時医師をしていた後藤新平だった。板垣は後藤の政治的才能を見抜き「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったというが、後に後藤は内務官僚(医系技官)として政府に出仕すると、児玉源太郎にスカウトされ台湾総督府の実務を差配し植民地経営に成功、満鉄総裁に就任するなど大物官僚政治家となった。
- 相馬事件に連座して内務省衛生局長の職を失った後藤新平は、軍医総監に昇進していた石黒忠悳に再び救われた。石黒の推薦により臨時陸軍検疫部事務官長に登用され、広島宇品港似島で日清戦争帰還兵の検疫業務に従事したが、陸軍次官兼軍務局長の要職にあって臨時陸軍検疫部長として下向して来た児玉源太郎の目に留まり、大いなる出世の糸口を掴んだ。
- 児玉源太郎(長州藩支藩の徳山藩士)は、16歳の函館戦争で初陣を飾り25歳の西南戦争で熊本鎮台を死守した歴戦の勇、政治能力も抜群の陸軍長州閥期待の星であった。家督の姉婿が「俗論党」に殺され家名断絶・家禄没収の憂き目をみたが高杉晋作の長州維新で復権、児玉源太郎は「献功隊」下士官として戊辰戦争に参陣し、大村益次郎の京都河東操練所を経て新政府軍の将校となった。熊本鎮台の参謀に配された児玉源太郎は、佐賀の乱で瀕死の重傷を負いつつ神風連の乱の指揮を執り、西南戦争では参謀副長として谷干城司令長官を補佐し過酷な籠城戦を耐え抜いた。山縣有朋ら長州閥首脳は一佐官の児玉源太郎に期待を寄せ神風連の戦況より「児玉少佐ハ無事ナリヤ」と打電するほどであった。不平士族反乱の終息に伴い陸軍中央へ呼ばれた児玉源太郎は忽ち軍政の才を発揮、4歳上の桂太郎・川上操六と共に臨時陸軍制度審査委員会を主導し「陸軍の三羽烏」と称され、日清戦争では陸軍省枢要で川上操六の作戦遂行を補佐し、戦後処理・三国干渉対応・台湾総督府設立を主導した。台湾統治が難渋すると児玉源太郎は第4代総督に就任、後藤新平を民政局長に抜擢し民生向上と警察力強化のアメムチ政策により初めて植民地経営を成功させ、死の直前まで8余年も台湾総督を兼務した。児玉源太郎は第四次伊藤博文内閣に陸相で初入閣し続く第一次桂太郎内閣で内相へ転じたが、日露戦争が起ると自ら参謀本部次官への降格人事を行い満州軍総参謀長に就き出征、大山巌総司令官に軍令一切を託され勝利の立役者となった。が、奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ帰還、戦勝に浮かれる大本営に戦力払底を訴えて進撃論を封じ、伊藤博文・山本権兵衛海相と連携し渋る桂太郎首相をポーツマス講和へ導いた。日露戦争の英雄となった児玉源太郎は大山巌から陸軍参謀総長を引継ぎ、伊藤博文・井上馨ら穏健派元老の受けも良く日本の舵取り役を期待されたが、惜しくも翌年50歳の若さで世を去った。陸軍長州閥の児玉源太郎と薩摩海軍閥の山本権兵衛、同年生れの逸材二人が日本を率いていれば、歴史は変わったに違いない。
- 日露戦争開戦を前にして、参謀本部の大黒柱であった田村怡与造次長が急死した。陸軍内に適当な後任がおらず人選は難航したが、内相兼文相の児玉源太郎が自ら降格人事を行い参謀本部に入った。明治維新から第二次大戦に至るまで降格人事を承諾した軍人は児玉源太郎の他に無く、己の能力を頼み国難に際し面子を捨てる大英断だった。満州軍総参謀長として戦地に入った児玉源太郎は「大将人形」に徹する大山巌総司令官のもと思う存分辣腕を振るい、戦力倍するロシア軍を相手に遂に辛勝を掴んだ。児玉源太郎の人物像は『坂の上の雲』の司馬遼太郎史観で乃木希典と対極の大名将に脚色され逆に胡散臭くなってしまったが、第三軍の203高地争奪戦を除外しても児玉の偉業が萎むことはないだろう。陸軍大学校教官・臨時陸軍制度審査委員会顧問として日本の近代陸軍建設を指導したドイツ軍人のメッケルは児玉源太郎の軍才を高く評価し「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と太鼓判を押したという。奉天会戦で勝利を決めた児玉源太郎は直ちに内地へ舞戻り、戦勝に浮かれてウラジオストク進軍・沿海州占領を主張する大本営内の強硬論を封殺し、桂太郎内閣に即時講和を説いた。継戦余力が尽きた現地日本軍の実情を知らない桂太郎首相は講和を渋ったが、陸海軍トップの児玉源太郎と山本権兵衛海相が継戦不可能と断じるのを覆すだけのパワーはなく、伊藤博文・金子堅太郎が準備したルーズベルト米大統領の講和斡旋に乗る道を選択した。児玉源太郎はポーツマス条約妥結まで講和誘導に奔走したが、賠償金要求に拘る桂太郎首相に手を焼き「桂のバカが金もとれる気でいる」と側近にこぼしたという。児玉源太郎は台湾・朝鮮・満州の植民地経営では軍政を主張するタカ派であったが、引くべきは引く現実的な判断力に優れ、台湾統治や日露講和の難局で抜群の器量を発揮した。死力を尽くした児玉源太郎は日露戦争の翌年に病没したが、「軍神」を祀る児玉神社が故郷の山口県周南市と神奈川県江ノ島に建てられた。東京赤坂に乃木希典を祀る乃木神社があるが、どちらかを拝むなら間違いなく児玉神社だろう。
- 陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。
- 桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
- 長州藩の下級藩士に生れた寺内正毅は、少年期から長州藩軍に駆出され16歳で戊辰戦争を転戦した。寺内正毅と児玉源太郎は同じ長州出身で同年生、共に京都河東操練所で大村益次郎の薫陶を受け、後年寺内は娘を児玉の嫡子(児玉秀雄)に嫁がせ縁戚を結んだ。寺内正毅は、山田顕義(長州人で大村益次郎の愛弟子)に属し、兵制論争で山田が失脚すると山縣有朋に鞍替えして順調に出世を続け、西南戦争で右手に後遺症を負ってからは軍政や教育畑を歩み、初代教育総監から日露戦争時の陸相となり初代朝鮮総督を6年務めた後、山縣の傀儡首相に担がれた。日露戦争の英雄で陸軍長州閥を担うべき児玉源太郎の早世により凡庸な寺内正毅にお鉢が回ってきた次第だが、時代遅れの「超然主義」を振りかざす寺内首相は、顔貌が酷似するビリケン人形と非立憲(ひりっけん)に引掛けて「ビリケン内閣」と揶揄された。寺内正毅内閣は、ロシア革命に乗じて「シベリア出兵」を断行するも赤軍の猛反撃に遭い失敗、日本は第一次世界大戦の特需景気に沸いたが野放図な輸出は国内の物資不足を招き「米騒動」が全国へ波及、鎮圧軍を発動した寺内内閣は国民の非難を浴び総辞職に追込まれた。翌年寺内正毅は急逝し、三宅坂に北村西望作「寺内正毅元帥馬上像」が建てられたが(功山寺の高杉晋作一鞭回天像のマネか)、東京市民の轟々たる非難に晒され警視庁が厳戒態勢を敷く事態となった。辛くも生延びた寺内正毅像は、太平洋戦争中の金属没収に供され溶解への末路を辿った。
- 田中義一は長州藩出身だが、12歳のとき萩の乱で反乱軍に加わったことで前途を塞がれた。長崎・対馬・松山を転々し独学を続けたが、陸軍教導団で受験資格を獲得し2・3年遅れで陸軍士官学校に進学、校長は萩の乱で鎮圧軍を指揮した三浦梧楼だった。田中義一は晴れて陸軍長州閥に連なり、日清戦争では第一師団副官として動員計画を担い第一師団参謀に昇進、参謀本部勤務を経てロシア留学に出された。明朗な田中義一は部下に慕われ、30歳前の結婚まで兵卒と営内居住を共にした。陸軍主流(ドイツ留学→作戦担当)から外れた田中義一は陸士同期の山梨半造や大庭二郎に水を空けられたが、ロシアで情報収集任務と語学習得に励みつつ外遊生活を謳歌、海軍駐在武官の広瀬武夫と共に女優出身のロシア帝室付ダンサーからダンスを習び、ギリシア正教に入信、ロシア将校の妹と浮名を流した。日露開戦が迫ると、帝政ロシアの弱体化を確信する田中義一は開戦を主張、不戦(日露協商)派の伊藤博文に嫌われロシア革命に身を投じようと思い詰めたが、ロシア通ゆえに大本営参謀本部に召喚されロシアの動員能力を過小に偽り開戦を促した。日露戦争の軍令は児玉源太郎参謀総長の独壇場で参謀に活躍の場は無かったが、田中義一は山縣有朋・井上馨ら長州閥首脳に認められ陸軍省軍務局長を経て原敬内閣で陸相に栄達した。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋の死で田中義一は陸軍長州閥首領へ躍り出たが、在郷軍人会で独自の勢力基盤を築き政友会とも協調関係を構築、普通選挙法で政友会が資金難に陥ると田中は陸軍機密費300万円の持参金を手土産に高橋是清から総裁を継ぎ首相に上り詰めた。高橋是清蔵相が積極財政で金融恐慌を収拾し「おらが首相」田中義一は大衆人気を博したが、足元の陸軍では長州閥打倒を掲げる永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が台頭し張作霖爆殺事件が発生、昭和天皇の意を受けた田中首相は事件究明を図るも配下の白川義則陸相・阿部信行次官・杉山元軍務局長まで敵対する上原勇作元帥に靡き、天皇から叱責された田中は陸軍との対決を避け総辞職を選択、間もなく急死した(自殺説あり)。
- 戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。
- 井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。
- 甲午農民戦争で朝鮮派兵を敢行した伊藤博文政府は、立憲制への移行が完了し軍備増強も進んだことから対清開戦を決意、大本営を広島に設置し、帝国議会は巨額の軍事予算を承認するなど挙国一致体制の構築に成功した。伊藤首相の腹心陸奥宗光外相と、参謀本部を仕切る川上操六が開戦路線を牽引した。朝鮮政府に対して清との宗属関係を断つよう求めたが、これが拒否されると日本軍は朝鮮王宮を占領、親日政権を樹立したうえで、朝鮮半島から清の勢力を一掃するため清政府に宣戦布告した。近代的軍備と兵士の練度に優る日本軍は緒戦から清軍を圧倒、山縣有朋の陸軍第1軍が平壌を陥落させ、伊東祐亨率いる連合艦隊が黄海海戦に勝利して制海権を握ると、陸相大山巌の陸軍第2軍が旅順攻略に成功、陸軍第2軍と連合艦隊が陸海から山東半島の威海衛を攻撃して清の北洋艦隊を壊滅させた。前線の将兵の活躍により日清戦争は日本軍の完勝で終結したが、作戦を担い必勝の布陣を準備した陸軍の川上操六と海軍の山本権兵衛の手腕は一層鮮やかであった。日清戦争における両国の戦力は、日本の陸軍総兵力約24万人・艦隊総排水量約5.9万トンに対して、清は陸軍総兵力約63万人・艦隊総排水量約8.5万トンであった。
- 日清戦争で日本軍の勝利が確定すると、北洋軍閥の総帥にして清政府の最高実力者である李鴻章が全権として来日、下関春帆楼にて伊藤博文首相・陸奥宗光外相と講和交渉を行い下関条約を締結した。①清は朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、③賠償金2億両の支払い(当時の日本の国家予算の3倍以上)、④沙市・重慶・蘇州・杭州の開港、⑤日清通商航海条約の締結(日本側に有利な不平等条約)・・・下関条約は大いに満足すべき内容であったが、立憲改進党の大隈重信・加藤高明ら「対外硬派」は伊藤博文政府を軟弱外交と非難し山東省・江蘇省・福建省・広東省の割譲要求など国際常識からかけ離れた主張を展開した。巨額の賠償金の8割以上は軍事関係にあてられ日本軍の増強に大きく寄与、残りは金本位制(貨幣法)の財源となった。
- 中国東北部を狙うロシアは、同盟国フランスおよびロシアの関心をアジアに向けさせたいドイツと結び、日本が下関条約で得た遼東半島を清に返還するよう強要した(三国干渉)。伊藤博文政府では列国会議で反論すべしとの案が優勢だったが、列強の更なる干渉を恐れる陸奥宗光外相の主張により受諾に決した。この間も陸奥宗光は、ロシアの南進政策を警戒し局外中立の立場をとる英米に働きかけ局面打開を狙ったが、イギリスが傍観で望みを絶たれ「要するに兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終極に至りて失敗を免れない」と現実的妥協を受入れた。日本では、大隈重信の立憲改進党など「対外硬派」の扇動で反露世論が沸騰、「臥薪嘗胆」で軍備拡張に邁進した。日清戦争を主導した陸奥宗光の『蹇々録』は第一級史料だが、国民が勝利に酔うなか冷静に警鐘を鳴らしている。いわく「日本人は、かつて欧米人が過小評価したよりは、文明を採用する能力あることを示したが、はたして、今戦勝の結果、過大評価されているほど進歩できるのだろうか。これは将来の問題に属する。・・・日本人は戦勝に酔って、進め進めという以外、耳に入らない。妥当中庸の説を唱うる人は、卑怯未練といわれるので黙っているほかはない。愛国心は別に悪いものではないが、愛国心の使い方をよく考えないと、国家の大計と相反することもある。・・・今や、わが国は、列国からの尊敬の的となると共に、嫉妬の対象ともなった。わが国の名誉が高くなると同時に、わが国の責任は重くなった。この両者の間をとって、歩み寄りさせるのは容易ではない。なぜならば、当時、わが国民の情熱は、しばしばすべての主観的判断に出て、少しも客観的判断を容れず、ただ国内事情を主として、外部の情勢を考えず、進むことを知って、止まることを知らない状況だった。・・・政府は、国民の敵愾心の旺盛なのに乗じて、一日も早く、一歩も遠く、戦局を進行させて、少しでもよけいに国民の気持ちを満足させた上で、国際情勢を考えて、日本に危険が迫れば、外交の上で、進路を一転する策を講ずるほかはないと考えた」。伊藤博文の国際協調路線を継ぐべき陸奥宗光は、惜しくも2年後に病没した。
- 伊藤博文政府は下関条約で獲得した台湾の植民地経営にあたり、軍隊を派遣して独立運動を制圧し台北に台湾総督府を設置した。台湾総督には樺山資紀(海軍大将)・桂太郎(陸軍中将)・乃木希典(陸軍中将)と軍人が相次いで就任し強硬な軍政が敷かれたが、ゲリラ的な抵抗運動は鎮まらず、日清戦争を上回る1万余の戦病死者を出し台湾統治は難航、特にマラリア感染による人的損耗が深刻で台湾人への権限委譲が急務となった。難局打開を図る日本政府は1896年台湾総督府条例で軍政から民政への方針転換を決定し、台湾総督府の開設業務を担当した児玉源太郎(陸軍中将)が自ら第4代総督に就任し内務省医系技官の後藤新平を民政局長に抜擢、民生向上と警察力強化のアメムチ政策を駆使し植民地経営を軌道に乗せることに成功した。ただ、1902年頃から都市部の抗日運動は沈静化したものの、山岳部を拠点とする高砂族は根強くゲリラ活動を続けた。後藤新平が政界へ転じ台湾を去った後も、児玉源太郎は死の直前まで8年以上も台湾総督を兼任し民政重視路線を承継し、土地調査事業による土地制度の近代化、電気・水道・交通インフラの整備、アヘンや樟脳の専売制実施、台湾銀行の設立、台湾製糖会社の設立、台北から高雄までの台湾縦貫鉄道の敷設などに膨大の資本を投入、清朝から「化外の民」と野蛮視された台湾は瞬く間に日本経済圏の一翼を担う近代国家へ大変貌を遂げた。なお、台湾統治の実績を買われた後藤新平は、日露戦争後に児玉源太郎・桂太郎の推挙で南満州鉄道会社(満鉄)の初代総裁に就任し、再び壮大な国家建設を推進し満州経営の礎を築いた。
- 日本の懐柔を企図するロシアは、朝鮮を永世中立化して日露両国の緩衝地帯にしようと提案してきた。しかし日本は、ロシアが陸続きの満州に巨大な兵力を駐留させた状況のまま承諾できるはずはなく、ロシア軍の満州からの撤兵が先であるとして提案を拒否した。日本国内では、満州をロシアに渡す代わりに日本による朝鮮支配を認めさせ武力対決を回避すべしと主張する伊藤博文・井上馨ら日露協商派と(満韓交換論)、世界最強のイギリスと同盟してロシアに断固抵抗すべしとする桂太郎・小村寿太郎ら対露強硬派が鋭く対立、両派それぞれが策動して二面外交を展開した。イギリスは清に有する多くの権益がロシアに侵されることを恐れ、日本からの日英同盟提案を受入れた。最大の後ろ盾を得た日本では、伊藤博文・井上馨らがロシアとの和平交渉を続けつつ、桂太郎首相・小村寿太郎・軍部が対露開戦準備に動き始めた。日英同盟成立に脅威を感じたロシアは清と条約して満州撤兵を約束したがすぐに撤回、伊藤博文・井上馨は改めてロシアに満韓交換論を提案するも拒否され交渉は決裂した。狭小な国土を海に囲まれた日本にとって南下政策を推進するロシアに朝鮮を抑えられることは国土防衛上の死活問題であり(朝鮮生命線論)、やむなく対露開戦を決意して国交を断絶、日露協商派・対露強硬派・軍部が一丸となって戦争準備に邁進した。
- 桂太郎政府は伊藤博文・井上馨の慎重論を退けロシアに宣戦布告、遂に日露戦争が始まった。陸軍は、総司令官大山巌・参謀総長児玉源太郎のもと第1軍(司令官黒木為楨)・第2軍(司令官奥保鞏)・第3軍(司令官乃木希典)・第4軍(司令官野津道貫)・鴨緑江軍(司令官川村景明)を編成した。やる気満々の山縣有朋は総司令官として出征するつもりだったが、用兵下手のうえ口うるさい山縣ではやりにくかろうという明治天皇の英断で日本に留め置かれた(戦争が始まると山縣は督励電報を送り続け現地将官を辟易させた)。一方の海軍は、海相として軍政を握る山本権兵衛が軍令も統率し、山本の作戦計画により編成された連合艦隊は第1艦隊司令長官東郷平八郎・参謀長島村速雄の指揮下に第2艦隊(上村彦之丞)・第3艦隊(片岡七郎)が連なった。なお連合艦隊司令長官の人選は、常備艦隊司令長官の日高壮之丞の横滑りが常道であったが、山本権兵衛は暴走の懸念がある日高を退け命令遵守型の東郷平八郎を指名、明治天皇に理由を尋ねられた山本は「東郷は運の良い男ですから」と回答した。「T字戦法(東郷ターン)」で日本海海戦を勝利に導く秋山真之参謀は東郷司令官の旗艦三笠で作戦を差配、また後に首相となる加藤友三郎は第2艦隊参謀長として出征した。日露両軍の戦力は、日本軍の陸軍総兵力約108万人・艦隊総排水量約26万トンに対して、ロシア軍は陸軍総兵力約200万人・艦隊総排水量約51万トンであった。戦力に加え資金力も乏しい日本政府は日露戦争の戦費調達に腐心したが、日銀副総裁の高橋是清がイギリスに渡りユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの協力を得て外債および戦時国債の発行に成功、最終的に戦費の過半は外債で賄われ高橋は陰の立役者となった。
- 日露戦争で国力に劣る日本のとるべき道は短期決戦・早期講和しかないと看破した伊藤博文は、そのカギを握るのはアメリカであると考え、側近の金子堅太郎を派遣して親日世論の喚起と講和仲介の準備工作にあたらせた。金子堅太郎は、少年期に岩倉使節団の随員として渡米し小学校からハーバード大学まで学んだ日本屈指の知米派官僚で、セオドア・ルーズベルト大統領とも面識があった。日本軍は極東ロシア軍を撃破し日露戦争に勝利したが、兵力・弾薬・戦費いずれも払底し戦争継続は不可能となった。ここで伊藤博文・金子堅太郎の準備工作が奏功し桂太郎首相はアメリカ政府に講和斡旋を依頼、ルーズベルト大統領はアメリカのフィリピン支配を日本が認める条件で受諾し米国ポーツマスに日露両国の公使を招いて講和会議を開催した。大国ロシアは強硬姿勢で皇帝ニコライ二世は首席全権ヴィッテに賠償金支払いと領土割譲を厳禁、日本側主席全権小村寿太郎の奮闘も及ばず交渉決裂寸前まで追詰められたが、伊藤博文や山本権兵衛に背中を押された桂太郎首相が賠償金要求放棄と領土割譲を南樺太に留める妥協案を承認し、ポーツマス条約の調印に至った。①朝鮮における日本の優越権の承認、②旅順・大連の租借権譲渡、③東清鉄道の南満州支線(旅順-長春間)・安奉鉄道(安東-奉天間)の経営権および付属地炭鉱の租借権譲渡、鉄道守備に係る軍隊駐屯権の承認、④北緯50度以南樺太の領土割譲、⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権承認、⑥日露両軍の満州撤退(鉄道守備隊を除く)・・・賠償金と領土を断念した日本だが「生命線」朝鮮の奪還で開戦の主目的を達成したのに加え、旅順・大連および南満州鉄道の経営権を獲得、軍事進出を正当化する守備軍隊の駐屯権も確保し「利益線」にして「無主の地」満州への足場を築くことが出来た。
- 日露開戦に際し、軍事物資の過半を欧米からの輸入に依存する日本は決済用ポンドの獲得を急務とし、林薫駐英公使はロンドン・シティで外債発行すべく日英同盟に基づきランズダウン英外相に債務保証を求めた。日本はインド原綿・イギリス軍艦の最大購入者で帝国経営に欠かせない存在であったが「金持ち喧嘩せず」のイギリスは中立を理由に債務保証を拒否、桂太郎政府は苦境に立たされた。無官ながら「戦時財政の総監督役」の井上馨は、日銀副総裁で英語堪能な高橋是清を抜擢し戦費調達の大役を託した。高橋是清は腹心の深井英五を伴い横浜を出帆、米国行き便船には伊藤博文の命を受けた金子堅太郎も乗っていた。シティに乗込んだ高橋是清は林薫(ヘボン塾同窓)や末松謙澄・長男高橋是賢の協力を得て戦費調達に奔走、日露戦争の下馬評はロシアの圧倒的有利で難航したが、戦局が日本に傾き始めたこともあり、ニューヨークの金融業クーン・レープ商会のロンドン支配人ジェイコブ・シフを自陣に引込んだ。シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアを日本が苦しめれば、そのうち革命が起るだろうと考えた。なお、ロスチャイルドはユダヤ資本が日本を支援するとユダヤ人虐待が激化すると考え、高橋是清の活動を暗に妨害した。大物シフの全面的支援を得た高橋是清は関税収入を担保に巨額の外債発行に成功、日露戦争終結までに戦費約20億円のうち10億7千万円を調達し、1907年戦後処理用として2億3千万円を追加調達、累計額は13億円に上った。なお、ロシアもシティに乗込み日本と資金調達合戦を繰広げたが、ユダヤ人迫害と社会主義暴動(第一次ロシア革命)を敬遠され失敗している。一方、日本国内では桂太郎首相や井上馨が戦費調達に奔走したが、財界は公債引受を断った。開戦前「安田の一語、日露戦争を止ましむ」と顰蹙を買った「銀行王」安田善次郎は、日露戦争勝利が決ると低利新発国債による高利外債の期限前償還を提案、第二回起債分1億円を安田銀行で引受けて汚名を雪ぎ勲二等瑞宝章を贈られた。「時代の寵児」高橋是清は男爵に叙され、日銀総裁・蔵相を経て原敬暗殺後の政友会総裁に担がれ首相に上り詰めた。
- 日露戦争は結果的に勝ったから良かったものの、当時世界最強を謳われた陸軍とバルチック艦隊を擁すロシア帝国への挑戦は後進国日本にとって国運を賭けた大博打であった。ロシアが日本の国土防衛の要である朝鮮に固執したため妥協の余地は無くなったが、伊藤博文は井上馨と共に「日露協商」を主張し「満韓交換論」まで持出して開戦阻止に努めた。桂太郎内閣が日英同盟を後ろ盾に日露戦争に踏切ると、伊藤博文は腹心の金子堅太郎をアメリカに送込みセオドア・ルーズベルト大統領を引張り出して早期講和を実現(ポーツマス条約)、井上馨は日銀副総裁の高橋是清を米欧に派遣し外債発行で膨大な戦費調達を成功させた。また台湾・朝鮮の植民地経営においても、伊藤博文と井上馨は国際協調・民政路線を貫き、伊藤は老骨に鞭打って初代韓国統監に就任、山縣有朋・桂太郎・児玉源太郎ら陸軍長州閥や大隈重信・加藤高明・小村寿太郎ら対外硬派に対する抑え役であり続けた。が、皮肉なことに朝鮮独立運動家を称する安重根がハルビン駅頭で伊藤博文を射殺、伊藤が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり、格好の口実を得た陸軍長州閥と対外硬派は翌年韓国併合を断行、初代朝鮮総督に寺内正毅を据え第二次大戦終結まで軍政を敷いた。ただし伊藤博文を腐心させた抗日「義兵運動」は、日本が道路・橋・ダムなどの社会インフラ整備と工場建設(主に北朝鮮)・農地開拓(南朝鮮)を推進し破綻状態の朝鮮経済・民生を大幅に改善させたことで沈静化へ向かった。伊藤博文の国際協調・平和主義路線は政友会の西園寺公望らへ引継がれたが抑止力の低下は如何ともしがたく、後に政党政治も軍部に取込まれ軍国主義はエスカレートしていった。
- 戦勝に沸く国民に温かくポーツマスへと送り出された首席全権小村寿太郎であったが、帰国時に待っていたのは対露強硬派が扇動する民衆の罵声で、泣き崩れる小村を伊藤博文と山縣有朋が抱えて首相官邸に連れて行ったという。桂太郎政府は日露戦争で日清戦争の8倍近い18億円以上もの戦費を費やし、1904年の財政支出は前年の約2.5倍に増大、国民は増税を強いられて不満が溜まっていたところに、期待していた賠償金を得られず怒りが爆発した。対露強硬派により講和条約破棄を訴える集会が日比谷公園で開催されると、3万人の怒れる民衆が参集し、遂に暴徒化して各地の警察署や派出所を次々と襲撃、日比谷公園近くの芳川顕正内相官邸や、政府の御用新聞といわれた国民新聞の社屋に放火して全焼させるという大騒擾に発展した。警察だけでは混乱を収拾できないと判断した政府は、戒厳令を施行し、近衛師団を出動させて鎮圧した。この日比谷焼打事件では、約2000人が逮捕(うち起訴308人)され、死者17人、負傷者約2000人、警察署2ヶ所・派出所203ヶ所などの焼失被害が生じ、講和反対・戦争継続を訴えた新聞約30紙が発禁処分となった。さらに、混乱は東京にとどまらず全国へと波及した。
- 南満州鉄道会社(満鉄)は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)等の鉄道と付属地の炭坑の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1077倍もの応募を集め、大倉喜八郎(長州閥系武器商人)のように1人で全額を申込む者もあった。満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。満鉄周辺には野心的な官僚や事業家が参集して関連事業を拡げ鉄道・鉱山のほか都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなど多種多様な分野に拡大、満州事変の勃発で軍政へ移行する1931年まで満鉄は満州計略の中核を担った。なお、アメリカは、日露戦争講和で日本を援けたが、中国進出への遅れを挽回するため日本の満州権益に関心を示し、早くも満鉄設立に際してアメリカ人実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営を持ち掛けた。日本政府は、桂・ハリマン協定によりこの提案を受入れようとしたが、小村寿太郎外相の反対により拒否した。アメリカでは反日機運が高まって日本人移民排斥運動が始まり、対外硬派の加藤高明外相が辞任する事態となった。
- 松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。
- 鮎川義介は大叔父の井上馨と陸軍長州閥の支援のもと日産・日立グループを創始した「企業再生ファンド」の先駆者である。鮎川義介は山口で井上馨に扶育され東大工学部へ進んだが、三井財閥への勧誘を断り、出自と学歴を隠して芝浦製作所(東芝)の一職工となった。が、「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」と悟った鮎川義介は単身渡米し見習工として鋳物技術を学び、帰国すると井上馨の援助で北九州市に戸畑鋳物を設立し可鍛鋳鉄工場を開業、当初は資金繰りにも苦労したが、第一次大戦や関東大震災の特需で軌道に乗り技術分野拡大と工場買収で業容を拡大させた。戸畑鋳物で経営手腕を現した鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥に懇請され破綻に瀕した妹婿久原房之助の事業(久原財閥)を引受けると忽ち経営再建に成功、持株会社の日本産業(日産)に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命などを連ね「日産コンツェルン」を形成した。銀行融資がままならないなか鮎川義介は日産の株式上場で一般大衆から資金を集め(公衆持株)、積極投資が事業拡大・株価上昇と更なる資金を呼込む好循環を確立、日産は経営不振企業の買収と再建を繰返し軍需・重化学工業主導で雪ダルマ式に膨張した。日中戦争が始まると、鮎川義介は石原莞爾ら陸軍首脳の要請に応じ日産の重工業部門を満州へ全面移転、受皿の満州重工業開発(満業)の総裁に就任し「弐キ参スケ」に数えられたが、石原失脚で日中戦争は泥沼へ嵌り日本は無謀な対米戦争へ突入、ドイツの敗北を予見した鮎川義介は1942年間一髪のタイミングで満州撤退を断行した。東條英機内閣の顧問も務めた鮎川義介はA級戦犯容疑で投獄され経営復帰は叶わなかったが、資本と経営基盤を国内に温存した日産は第二次大戦後も生残り、日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で躍進し、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。
- 1877年の西南戦争で政府は財政難に陥り、政府主導による鉄道建設は捗らなくなった。そこで、民間資本を導入して建設を進めることを決め、華族の金禄公債を主な資本とする日本鉄道会社を設立、現在の東北本線や高崎線などが敷設された。以後、日本鉄道に追随して山陽鉄道や九州鉄道などの私鉄が各地に誕生し、民営優位で官民一体となった鉄道網の整備が全国で進められた。華族に出資を呼掛けた岩倉具視が没後10年に上野の鉄道学校は「岩倉鉄道学校」へ改称された。鉄道網の整備は資金難の政府に代わって民間優位で進められ、1902年には鉄道総延長の約7割を民営鉄道が占めるに至った。これに対し、軍事輸送における鉄道の重要性を認識した軍部と、鉄道官営化を目論む井上勝・桂太郎ら長州閥政治家の策動により、鉄道国有化法が成立、日本鉄道や山陽鉄道など主要私鉄17社が買収され、国内の幹線鉄道はすべて国有化されることとなった。桂太郎は、第二次桂太郎内閣発足に際して鉄道院を設置し、満鉄を含む鉄道行政を内閣の管理下に集約し、国家による鉄道管理体制の整備を推進した。長州閥に連なる後藤新平が、逓信大臣兼任で初代鉄道院総裁に就いた。この後も鉄道院の権限は順次強化され、1920年に原敬内閣で鉄道省に昇格した。
- 日清戦争で初めて中国からの独立を果した李氏朝鮮(大韓帝国)だったが、日露戦争もどこ吹く風で親日・親露・親中に分れ不毛な派閥抗争に終始、日露戦争でロシアの脅威を退けた日本政府は、有名無実の李朝から外交権を奪って保護国化し、首都の漢城(ソウル)に韓国統監府を置き監視体制を強化、初代韓国統監には文治派の伊藤博文が就任し山県有朋ら軍閥を抑え朝鮮守備軍の指揮権も掌握した。なお、李朝には大勢の世襲「武班」はいたが「軍隊」は1万人足らずで国防どころか国内の治安維持も覚束ない有様で、儒生を核とする朝鮮全土の農村組織も「家」あって「国家」無き朱子学に侵され著しく統率を欠いていた。親露派の高宗はオランダ・ハーグの万国和平会議に密使を送り日本の非道を訴えたが同類の帝国主義諸国は黙殺、日本は高宗を退位させて純宗を擁立し(大韓帝国最後の皇帝)内政権を取上げ名ばかりの李朝軍も解体した。「小中華の弟の反逆」に抗日運動(義兵運動)が沸起り1908年には1万人もの死者が発生、穏健統治の限界を悟った伊藤博文は韓国統監を辞任し、民政派の曽禰荒助が後継するも機能せず、伊藤はハルビン駅頭で安重根のテロに斃れた。死に臨む伊藤博文が「ばかなやつじゃ」と言ったとおり穏健派重鎮の暗殺死は軍部と桂太郎首相・小村寿太郎外相ら武断派に格好の口実を与え、翌年には陸軍の寺内正毅が乗込んで韓国併合を断行し初代朝鮮総督に就任した。以後、朝鮮総督は陸海軍大将が歴任したが穏健な文化統治への転換が図られ、日本による国家建設で民生の劇的改善が進むなか小規模暴動も「三・一独立運動」で終息した。韓国併合後、日本は赤字経営を続けながら産業インフラ整備と農地開拓を推進し、内地徴用を含む雇用創出で総失業状態を解消、生活向上で韓国人口は倍増し、スラム街は近代都市へ生れ変り、100しか無かった小学校は6千近くへ増え朝鮮人の識字率は6%から一般国並へ躍進、西洋列強の収奪モデルとは異なる対等な植民地経営で同化政策を推進した。が、第二次大戦に敗れた日本軍は米軍に執政権を明渡し退去、ソ連軍が殺到して朝鮮国土は南北に分断され、米対中ソの朝鮮戦争で未曾有の戦禍を蒙った。
- 桂太郎は、高まる護憲運動に対抗するため、政党嫌いの山縣有朋の反対を押し切って自派の官僚と議員を糾合し桂新党「同志会」を立上げた。桂太郎総理のもと後藤新平・河野広中・大浦兼武・加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸らが幹部会を形成し党運営にあたった。伊藤博文・陸奥宗光・西園寺公望に属し桂太郎内閣攻撃の急先鋒だった加藤高明は「外相のポスト欲しさ」に寝返りを打ち、桂の急死を受けて同志会総理に納まった。同志会は政友会に匹敵する二大政党へ発展、第二次大隈重信内閣の与党となり加藤高明外相・大浦兼武内相・若槻禮次郎蔵相が主要ポストを占めた。その後も内閣交代の度に加藤高明内閣が取り沙汰されたが、唯一の元老となり首相指名権を握った西園寺公望に組閣を引延ばされ「苦節十年」寝返りのツケを払わされた。
- 東大法学部を3番で卒業した濱口雄幸は、大蔵省へ進み次官候補と目されたが上司に楯突き左遷、4年のドサ回りを経て大蔵本省に戻されたが次官コースからは脱落した。が、後藤新平(初代満鉄総裁)との邂逅で開運、10倍の高給で誘われた満鉄入りは謝辞したが、第三次桂太郎内閣で同期の勝田主計が大蔵次官となり未練を断って後藤逓信相の勧めで逓信次官に転出した。桂内閣退陣後、後藤新平に殉じ退官した濱口雄幸は衆議院議員となり桂太郎の同志会に加盟、後藤は寄合世帯の内輪揉めを嫌気し脱退したが、濱口は残って地味な党務を粛々とこなし加藤高明総理の信任を得て第二次大隈重信内閣(与党同志会)で念願の大蔵次官ポストを与えられた。大隈内閣退陣後、加藤高明と西園寺公望元老の確執により憲政会は二大政党ながら閣僚を出せず雌伏したが、「苦節10年」を経て加藤が組閣を果たすと腹心の濱口雄幸は蔵相に就き東大同期で親友の幣原喜重郎外相と共に緊縮財政と軍縮を牽引、続く第一次若槻禮次郞内閣で次席の内相に上った。政友会の田中義一に政権を奪われた憲政会は政友本党と合同し民政党が発足、民政党は2年余で政権奪還を果し総裁の濱口雄幸が組閣し井上準之助蔵相の金解禁と幣原喜重郎外相の幣原外交(国際協調・軍縮)を目玉に掲げた。濱口雄幸首相は世界恐慌の渦中に金解禁を断行したがデフレ不況が深刻化し財閥が大儲けしただけ、決然とロンドン海軍軍縮条約を成立させ「ライオン宰相」(容貌も似ていた)と呼ばれたが根回し不足が「統帥権干犯問題」を招来、張作霖爆殺事件の究明と陸軍の弾劾を怠った。海軍・政友会の猛攻のなか銃撃事件で重傷を負った濱口雄幸は無念の首相降板、間もなく落命した。政党内閣の例に漏れず濱口雄幸内閣も散々だったが、「対華21カ条要求」の大隈重信と加藤高明、満州事変を不問にした若槻禮次郞、政友会では利権追求と軍閥妥協の原敬、元来財政家で政治に疎い高橋是清、老政治屋に過ぎない犬養毅と比べてみると、政治理想を貫いただけ上等といえるだろう(濱口雄幸と小泉純一郎を重ねる人もあるが)。
- ロシア革命に乗じて日本の勢力拡大を目論む山縣有朋・寺内正毅首相ら軍部は、ソ連軍の捕虜となったチェコスロバキア軍兵士の救出を口実にアメリカ・イギリス・イタリア・カナダと共同でシベリアに派兵した。寺内正毅首相は、陸軍長州閥に連なる対外硬派の後藤新平を内務大臣から外務大臣に転任させシベリア出兵を強力に推し進めた。連合軍の総勢8万5千人のうち7万余を占める日本主導の軍事作戦であったが、民衆ゲリラ部隊の激しい抵抗に遭い最終的に5千人もの死者を出して敗退、シベリア出兵は失敗に終わった。各国はいずれも1920年半ばまでに撤兵を完了したが、日本軍のみは1922年までシベリアに駐留を続けた。
- 加藤友三郎の急死に伴い海軍の大ボスである山本権兵衛が第二次内閣を組閣した。関東大震災の復興を使命とする山本権兵衛首相は、台湾・満州の植民地都市開発で辣腕を振い東京市長の職にあった後藤新平を内務大臣兼務で特設の帝都復興院総裁に任命し震災復興の大任を託した。後藤新平は、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴う「震災復興計画」を立案、政財界の反発で予算案は大幅削減されたが、今日の東京都心部の原型となる近代都市建設を敢行し、短期間で首都機能を回復させる手柄を挙げた。しかし一方で、帝都再建のために乱発した震災手形が膨大な不良債権と化し、片岡直温蔵相の失言を機に金融恐慌が起り第一次若槻禮次郞内閣が退陣に追込まれる事態となった。続く田中義一内閣で蔵相に就いた高橋是清の豪腕により金融恐慌は終息したが政府財政は回復せず、日本が活路を求め満州へ乗出す要因となった。
- 山本権兵衛は最高の軍人だが、国際感覚に長けた優秀な政治家でもあった。日清戦争の最中、連戦連勝の勢いで広島の大本営を旅順へ進める案が有力となった。欧米列強の干渉を危惧する伊藤博文首相は反対だったが正面切って軍令に口出しできず、海軍を仕切る山本権兵衛に助勢を求めると、真意を汲んだ山本は天皇の名代として小松宮参謀総長を旅順へ送る妥協案を示し丸く収めた。伊藤博文は山本権兵衛の政治センスを評価し第三次伊藤内閣の海相に推薦、山本が辞退したため西郷従道が留任したが、同年の第二次山縣有朋内閣で山本海相が実現した。山本権兵衛海相は日露戦争前後8年の重要任務を完遂し、子飼の斎藤実・加藤友三郎に海軍を託した。政界へ転じた山本権兵衛は、伊藤博文から西園寺公望・原敬へ受継がれた政友会の支持を得て2度組閣したが、長期政権を期待されながらシーメンス事件・虎の門事件の不運に遭い通算1年半足らずの短命政権に終わり、軍部大臣現役武官制の緩和と関東大震災後の帝都復興(後藤新平の抜擢)くらいしか業績を残せなかった。シーメンス事件のせいで元老になれなかった山本権兵衛は、首相辞任後は政治・軍事に口出しせず潔い引際を示した。隠退後の山本権兵衛は愛妻家・子煩悩の好々爺で、囲碁・将棋・ゴルフなどの道楽はせず散歩を唯一の趣味とした。統帥権干犯問題で「艦隊派」に担がれた東郷平八郎元帥と対照的だが、海軍が対英米強硬へ傾くのを座視したことは不作為の失策だろう。また、山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで海軍軍令部総長(後に元帥)に担がれた伏見宮博恭王は第二次大戦終結まで海軍に君臨、国際協調派(良識派)の粛清から軍拡・日独伊三国同盟・対米開戦へ至る海軍暴走の旗頭となり、特攻作戦の封印を解く役割も演じた。
- 安田善次郎は大富豪には珍しく花柳界嫌いで艶聞も無く(三菱2代目の岩崎弥之助も同様)、豪遊家で多くの妾を囲った親友の大倉喜八郎や渋沢栄一とは対照的だった。あるとき大倉喜八郎は飲み友達の政府高官らと相謀り、多額の褒美を餌に柳橋一の美技に因果を含め安田善次郎を誘惑するよう差向けた。が、宴席の安田善次郎は美技の色仕掛けに全く乗らず「貴女も一流になろうと思っているのなら、ここで艶聞でも広まっては大変でしょう」と説教を始める始末で、一同呆れ果て引下がったという。一方で安田善次郎は、終生愛した旅行のほか水泳・乗馬・剣道・茶道・生花・謡曲・俳句・和歌・漢詩・囲碁・絵画などあらゆる芸事に手を広げ、真面目な趣味を通じて大いに交際範囲を広げた。ただ、質素倹約に徹した安田善次郎は納得のいかない無駄金を一切使わなかった。若い頃から財界では有名なケチだったが、貧困者救済の医療団体済生会(済生会病院の前身)への寄付を渋ったことが大きく報じられ「安田善次郎=ケチ」の世評が固まってしまい、このため熱望した男爵位も得られず仕舞だった。とはいえ「陰徳を積む」を旨とする安田善次郎は世間が知らない社会奉仕活動を数々行ったと擁護する向きもあり、浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら事業仲間は安田の死を大いに悼み、東京湾沿岸部埋立事業で多大な支援を受けた浅野総一郎は鶴見臨海鉄道線に「安善町駅」を設けている。事業外でも安田善次郎は書画骨董の蒐集や文化芸術活動の支援に金を惜しまず、福地源一郎など困窮した知人の扶助にも努めたというが、一般大衆から見れば金持ちの道楽に過ぎず、やはり「金の亡者」とはいわないまでも「筋金入りの吝嗇家」の評価は妥当であろう。安田善次郎は厭世家気取りのチンピラに刺殺され、冷淡な世間は同情どころか犯人を英雄視するに及び、世間の嫉妬視を恐れる安田一族と保善社は「陽徳を積む」方向へ転じ東大安田講堂・東京市政調査会館(現市政会館・日比谷公会堂)の寄進など目立つ社会奉仕活動に勤しんだ。
- 安田善次郎は、富山の農民から一代で安田財閥を築いた天才商人である。安田善次郎は渋沢栄一と並ぶ「金融界の大立者」だが官僚経験も留学経験も無い叩き上げで、死ぬまで個人商店スタイルを貫き、三井・三菱のような政商ではないが奇跡的に四大財閥の一角に成上がった。矢野龍渓は『安田善次郎伝』で「御一新後の新日本に於て、一度も洋行せずして、大事業を成遂げた人物が唯二人ある」として大隈重信と安田善次郎の名を挙げている。家業を捨て上京した安田善次郎は丁稚奉公を経て28歳で両替商「安田商店」を創業、幕府の古金銀取扱方・新政府の太政官札引受・東京都心部の不動産買収など、維新の混乱を追風に着々と業績を伸ばし、公金取扱いの為替方指定で有力両替商に台頭した。担保に供する公債保有高と公金預り額がスパイラル的に増大するシステムを編出した安田善次郎は、官公庁や自治体の為替方指名を次々と獲得し「公金の富士」の礎を築いた。政府の動きを読んだ安田善次郎は条例改正を待って国立銀行業務に参入し第三国立銀行を設立、多くの国立銀行や政策銀行の設立に携わり、創立事務御用掛・監事として草創期の日本銀行の実務も差配した。銀行の勃興期が終わると、安田善次郎は百三銀行など経営不振行の経営再建に乗出し、金融界の救世主と感謝されつつ事業吸収を重ね「銀行王」となった。安田善次郎は浅野総一郎・大倉喜八郎・後藤新平ら新興企業家の金主となって銀行業を拡大し生命保険業にも進出、安田財閥は鉱工業主導の三井・三菱・住友と異なり純粋な金融財閥として独自の発展を遂げ、1923年から1971年まで最大資金量を誇った安田銀行(富士→みずほ)を中核に安田生命・東京建物などが連なる芙蓉グループを形成した。安田善次郎は国家予算の8分の1に相当する膨大な個人資産を築いたが、経営の近代化や多角化を嫌い「大卒者不要」と断じて「安田十家族」の同族経営に固執、「相場操縦」で第一次大戦後のバブル崩壊を仕組み巨富を積み増したが、世間に憎まれチンピラの襲撃で落命した。安田善次郎の死で安田財閥は大混乱に陥ったが、大番頭が招聘した結城豊太郎が経営近代化を断行し窮地を救った。
- [戦前史の概観]西南戦争で西郷隆盛が戦死し渦中に木戸孝允が病死、富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通の暗殺で「維新の三傑」が全滅すると、明治十四年政変で大隈重信一派が追放され薩長藩閥政府が出現した。首班の伊藤博文は板垣退助ら非薩長・民権派との融和を図り内閣制度・大日本帝国憲法・帝国議会を創設、外交では日清戦争に勝利しつつ国際協調を貫いたが、国防上不可避の日清・日露戦争を通じて軍部が強勢となり山縣有朋の陸軍長州閥が台頭、桂太郎・寺内正毅・田中義一政権は軍拡を推進し台湾・朝鮮に軍政を敷いた。とはいえ、伊藤博文・山縣有朋・井上馨・桂太郎(長州閥)・西郷従道・大山巌・黒田清隆・松方正義(薩摩閥)・西園寺公望(公家)の元老会議が調整機能を果し、伊藤の政友会や大隈重信系政党も有力だった。が、山縣有朋の死を境に陸軍中堅幕僚が蠢動、長州閥打倒で結束した永田鉄山・小畑敏四郎・東條英機ら「一夕会」が田中義一・宇垣一成から陸軍を乗取り「中国一激論」と「国家総動員体制」を推進、石原莞爾の満州事変で傀儡国家を樹立し、石原の不拡大論を退けた武藤章が日中戦争を主導、最後は対米強硬の田中新一が米中二正面作戦の愚を犯した。一方の海軍は、海軍創始者の山本権兵衛がシーメンス事件で退いた後、「統帥権干犯」を機に東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の二大長老を担いだ加藤寛治・末次信正ら反米軍拡派(艦隊派)が主流となり、国際協調を説く知米派の加藤友三郎・米内光政・山本五十六・井上成美らを退けた。「最後の元老」西園寺公望ら天皇側近は右傾化の抑止に努めたが、五・一五事件、二・二六事件と続く軍部のテロで(鈴木貫太郎を除き)腰砕けとなり、木戸孝一に至っては主戦派の東條英機を首相に指名した。党派対立に明け暮れ軍部とも結託した政党政治は、原敬暗殺、濱口雄幸襲撃を経て五・一五事件で命脈を絶たれ、大政翼賛会に吸収された。そして「亡国の宰相」近衛文麿が登場、軍部さえ逡巡するなかマスコミと世論に迎合して日中戦争を引起し、泥沼に嵌って国家総動員法・大政翼賛会で軍国主義化を完成、日独伊三国同盟・南部仏印進駐を断行し亡国の対米開戦へ引きずり込まれた。
後藤新平と同じ時代の人物
-
戦前
伊藤 博文
1841年 〜 1909年
100点※
高杉晋作の功山寺挙兵を支えた長州維新の功労者、大久保利通没後の明治政界を主導し内閣制度発足・大日本帝国憲法制定・帝国議会開設・不平等条約改正・日清戦争勝利を成遂げ国際協調と民権運動との融和を進めた大政治家
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
渋沢 栄一
1840年 〜 1931年
100点※
徳川慶喜の家臣から欧州遊学を経て大蔵省で井上馨の腹心となり、第一国立銀行を拠点に500以上の会社設立に関わり「日本資本主義の父」と称された官僚出身財界人の最高峰
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照 -
戦前
豊田 喜一郎
1894年 〜 1952年
100点※
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
※サイト運営者の寸評に基づく点数。算出方法は詳細ページ参照